ホーム・ドラマ / Sitcom
IMDb "Sitcom"
最後の葬式の場面で、マーラーの交響曲第一番の3楽章が流れる。この暗鬱さを装ったキッチュな音楽は、マーラーがジャック・カロ風の諷刺画からインスピレーションを得たもので、その絵は森の動物たちが死んだ狩人の柩をかついでいるという皮肉な葬送の場面を描いたものだ。しかも<フレール・ジャック>というヨーロッパ人なら誰でも知っている旋律が「短調に変換されて」──すなわちパロディ化されている。そんな諧謔的な音楽が、さらにこの映画では、チープな携帯電話の音に中断される。

とことん手の込んだ──あるいは屈折した──悪戯をしているってもんだな、フランソワ・オゾンは。

フランソワ・オゾンの長編第一作がこれ。家族みんなで楽しむはずのシチュエーション・コメディ(Sitcom)を、悪意に満ちたユーモアとエロティックさで18禁スラップスティック・コメディに引きづり降ろしている。
ストーリーは、あるブルジョワのお上品な家族が、ちょっとした切っ掛けによって、猥雑の限りを尽くすというもの。同性愛、近親相姦、身障者のSM、インターレイシャル──どれもコンサバ家庭にあるまじきガジェットだ。

あれ、そういえば、そんな話あったな、ってご存じパゾリーニの『テオレマ』。共産主義者のパゾリーニが、ブルジョワ憎しで上品ぶった家庭をぶっつぶしたのなら、オゾンはメロドラマにうってつけのアメリカ的コンサバ家庭のプロトタイプ(ガジェット)を、哄笑を響かせながら粉砕する。そして『テオレマ』では、家庭崩壊の原因を作ったのが一人の美青年だったが、『ホーム・ドラマ』の方では、一匹のネズミ。フランス的?カフカ的?不条理の最たるものだ。

そしてオゾンと言えば、お約束のゲイ・テイスト。息子のニコラがゲイに目覚め、お食事会の場でいきなりカミングアウト。それまでビル・ゲイツみたいな根暗でナードなやつだったのが、外交的でスポーツに熱中し、バーゲンでゴルチエの服を購入、挙句の果てに家で乱交パーティを主催。

もちろん裸体を惜しげもなく晒すのは、男ばかり。とくに娘のボーイフレンドのダヴィッドが最高にいい。画面に登場したときから、ウホォ!いい男(C 山川純一)、と思っていたが、さすがオゾン、やってくれた。彼に縞のブリーフ一枚&ボディーハーネスを着せ、車椅子の女王サマに奉仕するM役に仕立ててくれた(この身障者のSMシーンは絵的にとてもシュールで名場面と言ってもよいだろう。印象的なのはダヴィッドのブリーフと同様、背景の壁紙も縞模様になっているところだ)。さらにスペイン人の女中に誘惑されて、画面にはボカシが入る(なんだよー)。これらのシーンは、全男性の約5%の人たちを確実に勃起させてくれるはずだ。もちろん僕も勃起した。

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クリミナル・ラヴァーズ / Les Amants Criminels
IMDb "Les Amants Criminels"
「もうひとつ言ってやろう」おれは言った。「今までに読んだ糞みたいな聖書の文句より、ずっとためになることだぞ。目なんか見えない方がましなんだ、アンクル・ジョン。便所だと言って窓のところに連れてこられて、目が見えないからそれを信じて、そこからションベンしてしまうやつの方が、そういう悪ふざけする側のやつでいるより、ましなんだよ。そういう悪ふざけをするやつって、誰だか知ってるか、アンクル・ジョン? 誰もかれもそうなんだよ。

ジム・トンプスン『ポップ1280』(三上基好訳、扶桑社)
トンプスンを引いたのは、単なる気まぐれではない。フランソワ・オゾンの映画には、キャンプなゲイ感覚だけに遊んでいられない凄味がある。この『クリミナル・ラヴァーズ』は『俺たちに明日はない』や『ゲッタウェイ』(原作はトンプスンだ)のパスティーシュとも言える、犯罪者カップルの逃避行を描いているが、そのノワールな後味は、トンプスン作品に通じる残酷で捻くれた反世界を映し出す。

SMに興じる高校生の男女カップル。この「最初の世界」では、主従関係は主が女、従が男。すなわちアリスは、恋人リュックを使って、真に愛しているアラブ人の同級生サイードを殺させる。
サイード:俺ってハンサムだろう? いつかお前を犯してやるからな。
アリス :犯すのはわたしよ、バカ。
その殺意のトリガーとなるのが、アルチュール・ランボーのテクスト。彼女は普段からサイードについて妄想的なテクストをしたためていた(この美少年を称えるテクストは、後で男たちの愛の場面で朗読される。サイードはフィルム・ノワールに登場する「運命の女」のパロディなのかもしれない)。サイード殺害も妄想が生み出したフィクションのはずであった、無邪気な刺激を求めて……。
二人は、この世界を脱出し、「次の世界」へと逃避する──そこは『ヘンデルとグレーテル』を思わす森の中だった(ちなみにここまでで二人の両親は一切登場しない。もうすでに現実の世界とは一線を引いている。すでに「童話」の世界が始まっている)

森の中では、主従関係は逆転する。というより、アリスの「女としての魅力」は「現実の世界」と違って最早、何の効力ももたない──トンプスンの世界で良識や常識が通用しないように。森に君臨している男は同性愛者で、アリスを監禁する一方、リュックに対しては、体を洗い、食事を与え、首輪をつけ、連れまわす。しかし重要なのは、ここでリュックがはっきりと自分の同性愛に目覚めることだ(これまでアリスとはイクことが出来なかったし、何よりサイードの殺害シーンは、まるで美しいサイードを犯しているようなエロティックさを感じさせた)。
だから、森の男とリュックのセックスをいやらしく惨めに窃覗するのは、女であるアリスの役割だ。

幻想性は一層高まり(グロテスクなカニバリズムは、まあオゾンだな)、フラッシュバック/回想シーンがこれまで隠されていた事実を明るみにし、まさしく童話的な映像シーンの後、ラストの破局へと突入する。

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サマードレス / Une robe d'été
IMDb "Une robe d'ete "
15分足らずの短編だけれども、オゾンの才能が十二分に発揮された見事な作品。グルノーブル映画祭グランプリをはじめ多くの賞を獲得した。「短編の王者」に相応しいポエティックで小気味良いコメディだ。

とくに印象的なのは、『8人の女たち』で「振付師」としてクレジットされているセバスチャン・シャルル。もう最高! 『バン・バン』(シェールの曲をシェイラがカヴァーしたナンバー)を腰をくねらせオーヴァーアクトで歌う「女優」っぷり──でもセックスではトップで主人公のフレデリック・マンジュノを犯す。演技とは思えない自然なノリと、他人とは思えない親近感に、涙が出るくらい感激した。

ストーリーは単純で、恋人のリュック(セバスチャン)とバカンスにやってきたミック(フレデリック)。海岸で全裸になって甲羅干しをしていたら、ある女(ルシア・サンチェス)に誘惑され、林の中でやる。女から「ゲイなのにうまいのね」なんてお世辞を言われてまんざらでもなさそうだったが、お楽しみの最中にミックの服が盗まれてしまっていた。しょうがないので、ルシアのドレスを着て家に戻るミック……。

あとどうでもよいことだが、この全裸で日焼けしている男のところに女がやってくるシチュエーションって、なんかの小説で読んだ気がするんだけど。思い出せないけど、ドーデーかラディケかパヴェーゼあたりの短編で。

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X 2000
IMDb "X 2000"
8分のアートフィルム。2000年1月1日、ミレニアムの朝。だから何? とオゾンは「何も起きない、平凡な」記念すべき朝を描く。

いつものようにベッドで目を覚ました男女のカップル。男は全裸でアパルトマンを歩き、隣のビルでセックスをしている男女を覗き、フロアーで抱き合って寝ている美青年二人(双子か)に魅入り、蟻の大発生に驚く。女はバスタブにつかり何とはなしに瞑想する。
それだけ……なのだか、映像がまさしく現代アートのように美しい。すなわち、いかなる「主観性」からも解き放たれ、ゆらめき自由に戯れる映像のニュアンスそれ自体が逆説的な「主題」なのではないのか。とくに主人公の男が寝袋に包まれて寝ている二人の男に遭遇する場面は筆舌に尽くしがたい。静寂が騒々しく官能美学に訴える。
キャンプ趣味は、芸術の中でも特にある種のものに縁がある。たとえば、衣服、家具、視覚的装飾のあらゆる要素といったものは、キャンプの中でも大きな役割を占めている。なぜならば、キャンプ芸術とはしばしば装飾的芸術のことであって、内容を犠牲にして、見た目の肌合いや感覚に訴える表面やスタイルなどを強調するものだからである。

スーザン・ソンタグ「《キャンプ》についてのノート」『反解釈』(高橋康也他訳、竹内書店新社)

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アクション、ヴェリテ / Action, Vérité
IMDb "Action, Vérité"
長さ4分という超短編。タブーを知らないアンファン・テリブル(少年少女たち)の性的なゲームを扱ったもので、オゾンならではの独特の感覚にギョッとさせられる。性体験の告白(=ヴェリテ)、少年同士のキス(実行=アクション)、足を舐めたり(アクション)、性器に触れたり(アクション)、そしてラスト……。

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小さな死 / La petite mort
IMDb "La petite mort"
主人公の青年は、男性(たぶん彼の恋人たちであろう)の射精の瞬間の顔をカメラに収めコレクションしている。写真は確かに男性のエクスタシーを「狩猟」したものであるが、しかしそれらは苦しみに顔を歪め死んでいった男たちのコレクションにも見える。写真家は対象を殺害する「権力」を有しているのかもしれない。
── エクスタシーと死……。

そんなふうに、ジョルジュ・バタイユなんかを引いて、オゾンによる「聖なる陰謀」を他人事のように語りたかった。しかしそれは敵わない。この作品はほとんど試練=経験になってしまったからだ。主人公に共感し、ほとんど同化してしまったからだ。これほど感情移入をさせられる作品は──たとえゲイ映画であっても──それほど多くはない。だから僕はオゾンが好きなのだ。

決してハンサムとは言えないが、主人公の目がとにかく印象的だ。何かしら細工を施したのかもしれない、あまりにも青すぎる青い目(だからその目をサングラスで覆うシーンはとても意味深だ)。この青い目の青年が、姉に連れられ余命幾ばくもない父親が入院している病院へ行く。

いかにも病院らしい白い建物。父親とは何年も会っていない。そこには父と息子の確執が横たわっている──しかも青年はゲイである。最初の再開は物の見事に失敗する。

次に青年が取った行動は、父親の病室に黙って侵入し、父親の写真を撮る──あるいは父親を「奪取」する、もっと言えば全裸の父親をカメラ越しに、カメラを武器(象徴的な男根だろうか、それともその形状からヴァギナだろうか)に「犯して」いるふうにも見える──ことだった(そういえばこの映画には「母親」は一切登場しない。父親を象徴的に犯すのは、フロイトのパロディか、アンチ・オイデプスか、オゾンの悪意に満ちた企みか)。

赤い暗室でフィルムを現像し焼く。ネガからポジへと変わる写真──父親のポートレート。ほぼ実物大の父親の顔の写真の目の部分を繰り抜き、青年はそこに自分の目を通す……すると彼は父親そっくりであった。そのことに気付いたためなのか、彼は恋人と猛烈にセックスをする。やがて姉から父親が死んだことを聞かされる。青年は尋ねる、父親が死んだのはいつだったのかと。

彼は同性愛者であるが、一人のフランスの息子であることに変わりはない。
あれから二十年たった今、私はあの時したことで、しないで置くか、或は別な具合にした方がよかったと思うものは、まずない。

イーヴリン・ウォー『ブライヅヘッド ふたたび』(吉田健一訳、ちくま文庫)

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焼け石に水 / Gouttes d'eau sur pierres brûlantes
IMDb "Gouttes d'eau sur pierres brûlantes"
だしぬけに、サンバが始まる。こともあろうに、サンバがだ。あらゆる性関係が暴露され、エゴイスティックなゲームが予想される暗い破局へと、そして誰もが敗者へと導かれそうになるグルーミーな映像の後にだ。そのとき、こともあろうに、だしぬけに、サンバが、四人の登場人物によって踊られる(深淵なベートーヴェン後期弦楽四重奏曲を演奏中のストリング・カルテットが、だしぬけに、服を脱ぎ、サンバを踊るところを想像していただきたい)。

尻を振り、腰を振り、手を振り上げる登場人物たちの姿──しかしなんとも不器用な踊り手たちだ──を見ながら、フランソワ・オゾンの才気を改めて確信した。この型破りな「美学」に僕は当然のことながら狂喜乱舞した。

場所はドイツ。青年フランツは中年のビジネスマン、レオポルドに誘惑され、落ちる。レオポルドは魔力的ともいえる性的テクニックの持ち主だ。レオポルドの家で二人は一緒に暮らすが、しかし次第に、「レオポルドのフランツへの愛」は醒めてくる、というより、フランツを邪険に扱うようになる。そこへフランツの元ガールフレンドのアナと、レオポルドのかつての恋人で性転換して女性になったヴェラが転がり込んでくる。

原作はライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの戯曲。戯曲が原作なので、登場人物はたった四人、舞台はレオポルドの家に限定される「小世界」だ。そして、ゲイ by ゲイのこの映画は、無論単なる足し算ではなく、ファスビンダー × オゾンというハッピーな乗算になっている。同性愛と異性愛を対立させるのではなく、そんな区別さえ無効にし倒立させる「歓待の掟」を提示しながら、その一方、放埓な愛が、結局は、悪魔的とも言える残酷な──つまり冷静なエゴイズムに支配されるという究極のメルヘン。

そう、メールヒェンなのだ、この映画は。フランス語が使用されながらも、場所と登場人物の設定がドイツなのは、やはり意味があると思う。メフィストフェレスさながらの狡猾なレオポルドに魂を──あるいは貞操を──奪われたフランツ、アナ、ヴェラは、怪物的なエゴイズムの犠牲になるしかない。だからもしかして、あのサンバは、デュオニソス的錯乱というよりも、ワルプルギスの夜の夢=サバトの供宴なのかもしれない。
ところが、いろんな謎がこんがりもするんです。まあ、あの大きな世界は、ただ騒ぐまんまにしておいて、わたしたちは、ここで静かにじっとしていましょうや。
何しろ、長いあいだの習慣で、
われわれは、大世界のなかに、小世界をいくつも作る。

ゲーテ『ファウスト』(井上正蔵訳、集英社)

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