青い夢の女 / Mortel transfert
IMDb "Mortel transfert "/ MSN Entertainment
同じジャン=ジャック・ベネックスの話題作『ディーバ』や『ベティー・ブルー』よりも、この『青い夢の女』を僕が買うのは、やはりそのミステリー仕立ての凝った設定と強烈なブラック・コメディゆえにだ。オープニングのチェンバロとヴィオールを使用した印象的な擬・古楽的音楽から予想される、グルーウなサイコ・サスペンスに背筋を凍らせられるどころか、何度も何度も笑わせられた。そうだな、ヒッチコックの『めまい』を観るつもりが、実際観たのは『ハリーの災難』だったような感じ。

ストーリーは、精神分析を受けていた患者が、治療が終わると死んでいた、というもの。じゃあ、殺したのは治療をしていた医者なのか……実はその精神分析医にもわからない。なので、彼は、別の精神分析医に彼の分析を依頼し、その事件を再構成していく。まあフィルム・ノワールのパロディというもので、マゾヒストのミョーな女と関わりを持ったために、これまたミョーな事件に巻き込まれていく男の「災難」を意地悪く描いている。「もしかして自分が殺したのかもしれない」女の死体をいかに処理するか、というのがご機嫌なサスペンスになっている。

だいたい鬱病気味の精神分析医が別の精神分析医に治療を受けながら、事の真相を分析していく、という構成がブラックで捻くれている。さらにこれにスラヴォイ・ジジェクの場外乱闘を期待したいところだ。

──そういえばジジェクは「ノワール」を三つの型に分類していて、一つがハードボイルド探偵ノワール(ハメット-チャンドラー形式)。二つ目が「迫害される無実の傍観者」ノワール(コーネル・ウールリッチ形式)、三つ目が「おめでたいカモが犯罪に巻きこまれる」ノワール(ジェームズ・ケイン形式)。この『青い夢の女』はさしずめ3番目の「ノワール」だろうか──。

もちろんスタンリイ・エリンの『鏡よ、鏡』のように様々な性的なモチーフが伏線となって、猥雑でありながらも、しっかりと謎解きがされているところにも好感が持てる。さらにジョークは抜群に決まっているし、主人公の愛すべき患者たちもそれぞれ魅力的な症例持ちであるし(同僚から盗んだ金をねけねけと治療代として払う女教師!)。

そしてこの上もなく優美な映像。青を基調にした玲瓏さ、不穏に明滅する赤や黄色や緑。主人公の記憶の溶解/再生がそのまま映像の色彩を侵食/構成していき、絶妙な緊張感を催させる。ため息が出るほど美しい。

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メディカル・レッスン / Gross Anatomy
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マシュー・モディンが出演している映画はハズレがない。まあこれは僕がマシュー・モディンが好きなので、タイプの男優が出演している映画はいいに決まっている、もっと言えば、グッド・ムーヴィーの条件は男優で決まる、という私的な必要条件を満たしているからだ。

しかしこの映画は、それだけでなく、ストーリーがとても良い。と言っても「独創的」に良い、のではなく、「典型的」に良い、のだ。青春映画のひとつの典型であり、恋人同士の愛情よりも仲間同士の友情を重視した「仲良しサークル」型青春ドラマになっている。どことなく『ビバリーフィルズ青春白書』を思わせる。

田舎のブルーカラー出身の青年ジョー・スロヴァク(モディン)が大学の医学部に入学する。解剖のグループがそのまま「仲良しサークル」になり、彼らは医者になるという夢を目指してハードな勉学に励む。もちろん全員が順風万般というわけにはいかず、成績の落ち込みからドラッグに逃避し遂に夢から脱落する者もいる。妊娠している女性もいる──当然、医者の卵たちの手によって子供は産まれる。そして生もあれば死もある。そういった経験を通して、主人公ジョー・スロヴァクは医師としてあるべき姿を獲得していく。

とにかく「感動」に導くエピソードと伏線は素晴らしく、何度観ても良い気分にさせてくれる。マシュー・モディンの過剰に溌剌とした微笑もとても魅力的だ。いちおうローリーというガールフレンド役がいるのだが、彼女がモディンを独占しないところが良い、そして脱がないところも良い。というより、彼女、どうもモディンのガールフレンド役にそれほど適役には思えない。何よりモディンの小さめの顔に対し、ローリーは顔が大きく、溌剌としたスポーツマンタイプのモディンに対し、ローリーはいかにも勉強家の医学生に見える──つまり服装にしろ仕種にしろセクシーではなく、どうも垢抜けない。しかもモディンはスーザン・ソンタグ似のウッドルフ教授の方との関係も抜き差しならなくなってくる。また、モディンが最も情熱的に振舞うのは、ガール・フレンドに対してではなく、ルーム・メイトが退学処分になったときだ。これは監督がわざと仕組んでいるのだろうか、モディンの魅力を最大限に発揮するために。
だから、こういうところも含めて僕はこの映画がとても好きなのだ。

それと黒人の解剖学の教授役のゼイクス・モカエの魁偉な演技がやけに気になった。それというのも、このゼイクス・モカエがB級ホラー映画『ゾンビ伝説』(The Serpent and the Rainbow)に出演していて、そのことを思い出したからだ。
『ゾンビ伝説』にはとんでもなく忘れ難いシーンがあって、ハイチのヴードー教魔術師であるゼイクス・モカエが、調査にきた学者(もちろん男性)を全裸にして椅子に縛りつけ、股間にスポークみたいな棒を突き刺すという拷問をするのだ。そして最後には反撃され、逆に、金属の棒を股間に突き刺される。俗流の精神分析的解釈の真似事をしてみると、金属の棒をペニスに見立てられるのではないだろうか……とすれば。

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キャンディマン / Candyman
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上空から見下ろす都市の形態は無表情な図形の集積。まるで何かの配置図、あるいは色彩を失ったモンドリアンの絵画のよう。そんな幾何学的な、あるいは記号でしかない都市風景を映しながら、フィリップ・グラスの音楽が響き渡る。シンプルかつノスタルジックなミニマル・ミュージック。この音楽を背景に、ファンタジックなドラマが展開されるため、僕にとってこの映画の主役はどうしたって「音楽」になってしまう。ミニマル特有のフラットな音響の繰り返しは、奇妙なモワレ効果をいつまでも頭の中に残響させ、視覚さえも揺らめかすから。

原作はクライヴ・バーカー。血の本シリーズ『マドンナ』に入っている「禁じられた場所」。ある都市伝説に魅せられた女性が、その伝説の殺人鬼キャンディマンと遭遇し不思議な交感を体験するというもの。映画では単に怪物が登場するだけでなく、マーガレット・ミラー流のサイコロジカルな解釈も可能にする余地を残している。つまり、ヒロインの抑圧された、信じたくない認めたくない事実が怪物を生んだ──文字通り産んだ──のではないか、ということ。
そのため、飛び散る血の量に比し、全体としてはなかなか繊細に処理されている。何よりヒロインのヘレンもキャンディマンも、この世の居場所を喪失してしまった者の悲しみを帯びている。「禁じられた場所」はすなわち「これよりさき怪物領域」ということ、ヘレンはそこに足を踏み入れてしまった。彼女の本当の「恐怖」はなんだったのだろう。

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リビング・エンド / THE LIVING END
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夥しく氾濫するゲイ・アイテム。主人公の一人であるジョンの部屋に貼ってあるアンディ・ウォーホル『ブロウジョブ』のポスターからゲイ・クラブ風音楽、Tシャツの図柄、ケツワレサポーターまで様々なシグナルがこの映画の中で明滅している。そのシグナルをキャッチできるということはある種の特権を帯びる。しかしこれは例えば「ゴダールの映画」を見て夥しく放たれた「情報と戯れる」こととは違う(ジョンは映画評論家なので部屋にゴダールの『メイド・イン・USA』のポスターが貼ってあるが)。

『リビング・エンド』で放たれた「明快な」シグナルは主人公たちの状況を切実に代弁している。そしてゲイを取り巻く切実な状況をも。

HIVを宣告された二人の青年が運命的に出会う。ジョンとルーク。二人は、いみじくもレズビアンの殺人者がルークに向かって発した「ジャック・ケルアック」という「スタイル」を実践する。すなわちメイド・イン・USAの夢と絶望を背負って走り出したオン・ザ・ロード、クレイジーな逃走劇だ。もはや失うものは何もなく、何より時間がない二人は、

最高に激しい動きをもって── Auß bewegt
急速に戯れるように── Shnell und spielend

愛し合うしかない。

これほど劇的に人と人とが出会い、孤独の閉塞を打ち破り、生きている意味を問いかけ、息苦しいまでに深く愛し合うことができるのは、ゲイでありHIVポジティブの「特権」でなくてなんであろう。彼らをおいて、(ゲイを排除している)教会の結婚式で牧師により言い渡される「死が二人を別つまで」寄り添うことを確約し、「祝福」されるべきカップルはいない。二人の「出来事/出会い」はあらゆるものに──存在論的に──先行する。だから、二人の身に遠からず訪れる悲劇が横たわっていたとしても、それほど哀しみを帯びたラストにはなっていない。それどころかラストの恐ろしいまでの静謐さは、まるで「誰も見ていない世界」を見せられているような不思議な感覚に陥らせる……。


……これだけで終わりにしたかったのだが、やはりどうしても書いておきたい。それはこの映画を観て、やはりゲイである僕はいろいろと感じ入ってしまったからだ。一つはジョンが自分の感じたことをいちいちカセットテープに録音していること。このことはWebの時代であれば、今僕がこうしているように、「書いていた」かもしれない。
そしてもう一つは、短気なルークの行動に感動的なまでに共感したからだ。ルークはゲイである自分を侮蔑した人間に対し容赦しない。滅多打ちにし、襲いかかってきた差別主義者どもを撃ち殺す。そして何よりも印象的だったのは、トイレに書いてあったゲイを侮蔑している落書きを「打ち消し」「書き直した」ことだ。そのとき、ルークの表情には憂いと微かな勝利への微笑みが綯い交ぜになっている、カメラはそのルークの複雑な表情をクローズ・アップさせる。
同じ効果を、映画ではクローズ・アップが果たしている。クローズ・アップが面白いのは、ただそれによって細部が見えるようになるからではない。行動は個別的なものがそれだけで存在するようにさせ、個別的なものは特異で不条理な本性を発現させる。

エマニュエル・レヴィナス『実存から実存者へ』(西谷修訳、講談社学術文庫)
このルークの行動に対し僕はとても胸が熱くなった。それは舞城王太郎という差別作家が同性愛者を差別する文章を書き、ヘイトクライムを助長させているからだ。このことは絶対に看過できない。舞城王太郎にとって同性愛者を侮蔑し差別することが、そんなに「書きたいこと」なんだろうか。人を差別し、傷つけ、暴力の犠牲者に仕向けることが、そんなに「楽しいこと」なんだろうか。そんな差別小説を書いて、儲けて、家でも買って親に住ませるつもりなんだろうか。何より舞城の「身内」は、そんな差別を何とも思わないのだろうか。

中上健次は「差別の発信地」という言葉でもって、自分が見たり経験した部落差別について言及した。舞城王太郎のように同性愛者を焼き殺そうとするようなヘイトクライムを「面白がって」書く──しかもペドフィルの犯罪を捺しつけて──ような人間こそ、「差別の発信地」なのではないだろうか。
僕はルークが行ったように、差別的な言説を「打ち消し」「書き直す」ことをせめてこのサイト上で遂行したい。たとえそれが度し難く不条理な徒労に終わろうとも。

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ゴールデンボーイ / Apt Pupil
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原作はパトリシア・ハイスミス? いや、スティーヴン・キング。だけれども、この男 VS 男の心理ドラマはほとんどハイスミスでしょう。原作は読んでないが、弱みを持つ男同士の葛藤に惹かれたんじゃないかと思う、ゲイの監督ブライアン・シンガーは。主役二人の男の主従関係が頻繁に交代するなんてのはいかにもゲイ的であるし、シャワーを浴び裸体を披露するのは男、そして何より(ガールフレンドとセックスが出来ない)美少年ブラッド・レンフロと老イアン・マッケランの関係はそれこそ「クラシックな──あるいは文学的な──カップル」そのものだ。

舞台はデヴィッド・リンチの『ブルー・ベルベット』を思わすアメリカ郊外──何が起こってもおかしくないサバービアだ。優等生トッド・ボウデン(レンフロ)は元ナチの戦犯であることを隠しながらアメリカ人として暮らすクルト・ドゥサンダー(マッケラン)を介しナチスに惹かれていき、その「負の遺産」を引き受ける。 つまり彼は自分の持っている「邪悪さ」に目覚め、動物を惨殺することからやがて人を殺す快感を覚える……。

しかし『ユージュアル・サスペクツ』の監督がそんな単純な「ホラー」にするだろうか。ブライアン・シンガーはゲイであるがユダヤ人でもある。だからこそ元ナチ戦犯を「完全な悪」に「しない」こともできる(そして少年が指導教官にしたように「同性愛」を脅迫のネタにすることもできる)。それどころか、アメリカの郊外でひっそりとアメリカ人の振りをしながら「二重生活」をしているドゥサンダーは、自分の性的指向を隠しながら生活する同性愛者と同じような「弱者」として描かれている。そこにガールフレンドに「女が嫌いなんじゃない?」と揶揄される少年が加わり、一般的社会的に「邪悪」とされている「あること」(いちおうここではナチスへの関心が前面に出ているが、犯罪でも同性愛でも構わないだろう)を共有する──共犯になる。バックにワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』が流れるのは、殺人という甘美な「媚薬」によって二人は別ち難く結ばれることを暗示しているのだろうか。

だからこの映画の「素晴らしさ」(人によっては後味の悪さ)は、まさしくアメリカ的優等生として学校を主席で卒業する美少年が、実は残酷で人殺しでナチ・シンパで同性愛者であるということ、すなわちアンチ・ヒーローの誕生にある。トッドもトム・リプリーの仲間だ。

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愛の悪魔 / LOVE IS THE DEVIL
フランシス・ベイコンの歪んだ肖像 / Study for a portrait of Francis Bacon
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フランシス・ベイコンの偏奇人体が与える印象は、白人のくんにゃりと柔らかい男根の手触りと色彩だ。ベイコンは自らのゲイ・セクシュアリティを、ロートレアモン『マルドロールの歌』にはじまるゲイ文学の脅迫的な肉片詩の系譜、切断的性欲の系譜で露出した。

滝本誠『きれいな猟奇』p.210(平凡社)
イギリスの画家フランシス・ベイコンと彼のモデルであり愛人でもあったジョージ・ダイアーとの愛憎劇を中心に描いた、あまり歪んでいない多分とても忠実なベイコンの「ポートレイト」。ここでは、このイギリスを代表する偉大な画家は決して美化されていない。つまりエゴイスティックでサディスティック(「プレイ」では逆になるが)でオネエ。見事なまでに天才芸術家=変人という誰もが期待するステレオタイプなっている。

尤もこんなことはベイコン・ファン(僕もそうだ)ならある程度知っていることだし、この映画の「クライマックス」とも言えるジョージ・ダイアーが自殺したことも周知。だからこの映画を単に「ベイコンの」伝記的ストーリーを追うことに主眼に置くのは、個人的にものたりない。しかもこの映画には画家の作品がまったく登場しないし(あまりに忠実にベイコンを「いやなヤツ」として描いたために管理人にノーと言われたのだろうか)。

とするとこの映画の見所は、やっぱり、ジョージ・ダイアー役ダニエル・クレイグの憂いを帯びた男の色気だと言いたい。ちょっと古風なスーツを着たり脱いだり、やはり古風な下着をつけた姿はとてもそそられるし、芸術映画に対する映倫の働きかけなのか、彼の男根がチラっと見えたりもする。

もちろんこの翳のある「モデル」をこの映画の「俳優」として素晴らしく美的に映しているのが、この映画の功績の一つだと思う。奇怪なシュルレアリティックな映像、数々の凝ったショットは鮮やかに眼に焼き付き、まさに絵画的に素晴らしい。しかもベイコン作品のモチーフが映像にさりげなく組み込まれており、まったく目が離せない(挿入される坂本龍一の音楽もとても印象的だ)。

何と言ってもダイアーは画家に「殺されるため」に「モデル」になった男なのだ。有名な『鏡の中のジョージ・ダイアーの肖像』を見ればわかるように、「モデル」の顔は鏡の中で引裂かれている。『しゃがんでいるジョージ・ダイアーの肖像』では押し潰されている。『自転車に乗るジョージ・ダイアーの肖像』では死ぬほど身体が捻られている。「モデル」は画家の作品の中で何度も何度も殺されている。画家の「サディスティックな」振る舞いによって、徐々に高まってゆくダイアーの苦悩はまるでセクシュアルな痙攣のようだ。それはあっけなく爆発し、果てる。

男性ならば自分の「男根」をどう「サディスティックに扱えば」、射精という快感を得るのか、想像できるだろう。

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