パブリック・アクセス / Public Access
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パトリシア・ハイスミス的静かな狂気を湛えた作品。ブライアン・シンガーの長編第一作であるが、さすがに面白かった。

ストーリーはわりあいシンプルで、 ワイリー・プリッチャー(ロン・マークエット)という謎めいた男がアメリカの田舎町を訪れ、ケーブルテレビで個人番組を放映(パブリック・アクセス)。「町の問題点」を提起する。すると住民は電話等で「他者」の「問題点」を告発し始める。番組は住民の心を掴み、ワイリーは「(トリック)スター」になる。しかしその放送のため典型的なサバービアの町は悪意と疑心暗鬼が渦巻き、不穏な空気に包まれる。
「健全な」田舎者が一番病んでいる。それこそリンチの『ブルー・ベルベット』にも通じるサバービアの恐ろしさだ(もしかすると『ブルー・ベルベッド』へのオマージュなのかもしれない。挿入される50年代風の明るいポップスがこの上もなく「奇怪に」響く)。

この映画を観ながら思い出したのがウルトラセブンの『狙われた街』。登場人物の一人がちょっと頭のおかしな元町長で、すぐエイリアンの話をするから思いついたわけではあるが、まさしく「エイリアン」(よそ者)としてのワイリーが町を乗っ取り、町を不安と混乱に落とし入れる。
セブンではメトロン星人が「人間同士の信頼感を失わせる薬」を煙草に混入させるのだが、『パブリック・アクセス』では、住民同士に敵意を植え付けるのがケーブルテレビというメディア。メディアがまさにドラッグとして機能しているのだ(今ならネットの掲示板に匿名記事を書き込む心理がそれに相当するであろう。「他者」を攻撃しあげつらうのは一種の快感なのだ)。

「ストレンジャー」(よそ者)であるワイリーの意図がなかなか掴めないのがいっそう不安感を誘う。しかも彼は殺人者であり、クールに人を殺す。
そう、確かに彼はクールなのだ。そして監督ブライアン・シンガーは、彼のクールな裸体も披露させてくれる──浅黒く、引き締まった美しい肉体。何よりワイリーの殺人シーンはとてもセクシーで、その殺人方法はとてもエグイ。つまりSMの事故死に見せ掛けるのだが、そのときのワイリーの表情は何だかゲームを楽しんでいるような不穏な昂揚を見せる。しかも普段クールにスーツを着ているワイリーが、このときばかりはタートルネックのセーターを着ている──まるで彼自身が勢きり勃った男根のよう。そしてこのときバックに流れる音楽がグリークの『ペールギュント』。ワイリーの不敵な哄笑は音楽と響き合う。

そんなわけで僕はワイリーを演じるクールな男、ロン・マークエットに魅了されたのであるが、IMDbを見ると、彼は1995年に自殺した。

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グリフターズ 詐欺師たち / The Grifters
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詐欺師たち(グリフターズ)という「陽気なマイノリティ」のコミカルでトラジックなコン・ゲーム。原作はノワール作家のジム・トンプスン、脚本はドナルド・E・ウェストレイク、ということで面白くないわけはない。チープでドライであっけらかんとした暴力が清々しいまでに小気味良く、それがショスタコーヴィチ風の諧謔的なリズム持つ音楽と相俟って、有無を言わさず引きこまれてしまう。トンプスン作品に見られる、ブロンド・ビッチに翻弄されるハンサム・ガイ、という設定はいつものことだ。

そう、二人のアバズレ(マイラ役アネット・ベニングとリリー役アンジェリカ・ヒューストン)に迫られるロイ・ディロン役ジョン・キューザックがなんとも魅力的だ。あの訴えかけるような大きな目がたまらない。愛情も母性もへったくれもない欲得だらけのブロンド女たちに囲まれて、ジョン・キューザックの「黒く清潔な髪」がひときわ美しく見える(そういえば監督のスティーブン・フリアーズは他に『プリック・アップ』や『マイ・ビューティフル・ランドレット』というゲイテイストな映画も手がけていたな)。

またロス・マクドナルド的なエディプス/エレクトラ関係も、「健全な」中流階級以外では学説通りにはいかないようだ。というより、典型的なフロイディズムを嘲笑っているんじゃないのか、これ。

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リプリー / The Talented Mr. Ripley
IMDb "The Talented Mr. Ripley" / Yahoo Movies / MSN Entertainment
IMDb のプロットキーワードを追っていくだけで、映画『リプリー』の内容はほとんど言い尽くされるだろう。例えば homoeroticism 、homosexual 、closeted-homosexual 、gay-interest と同性愛に関連したキーワードが四つもあることから、この映画において「同性愛」は重要なテーマになっていることがわかる。同様に「ジャズ」「ピアノ」「オペラ」「サクスフォーン」がある「音楽」もそう。さらにパトリシア・ハイスミス原作なのでミステリー/サスペンス/サイコパス映画であり、舞台になっている風光明媚なイタリアの映像も楽しめる。他に「nudity」や「bath」もあるが、さほど……邪な期待を煽るほどエロティックではない。やはり「同性愛」「音楽」「サスペンス」「風景」といった「テーマ」が注目され、それが見事に成功していると思う。実際、とても面白かった。

どうしても同じ原作により映画『太陽がいっぱい』との比較をしてしまうが──何しろ僕の一番好きな映画は『太陽がいっぱい』なのだ──両者は別物として、どちらも素晴らしい出来だと思う。もちろんアラン・ドロンの美貌には同じリプリー役のマット・デイモンは言うまでもなく(ヴェンダース『アメリカの友人』のデニス・ホッパーはさらに言うまでもなく)、ジョード・ロウでさえも敵わないと個人的に思っている。僕はパトリシア・ハイスミスの大ファンではあるが、アラン・ドロンの美貌によって──あのセクシーな立居振る舞いによって、「原作を超えた」と表明することに躊躇しない。

まあそんなふうに『太陽がいっぱい』は「俳優至上主義」的に見てしまうのだが、『リプリー』の方はその「テーマ」において素晴らしい魅力を放っている。

まずは「同性愛」について。原作でも『太陽がいっぱい』でもそれらしく描いているが、どちらも50/60年代の作品なので、それほどあからさまではない。しかし『リプリー』では堂々とゲイテーマが謳われ、原作にはない登場人物ピーターとリプリーの関係が決定的になっている。

「音楽」は『太陽がいっぱい』のニーノ・ロータの甘美さはないものの、主人公リプリーが健気に弾くバッハの『イタリア協奏曲』、ディッキーのサクスフォーン、ジャズ、オペラ、ピーターの古楽と、音楽がそのままひとつの「モチーフ」と言っても良いほどだ。

『リプリー』は『太陽がいっぱい』よりも原作により忠実であって、ハイスミスお得意「アイデンティティ・クライシス」が前面に出て「サスペンス」を盛り上げる。このことは野崎六助が『異常心理小説大全』(早川書房)においてマーガレット・ミラーの『狙った獣』、ビル・S・バリンジャー『歯と爪』といった作品と一緒に「替え玉」と「贋作」という言葉を用いて見事に分析している。それによるとハイスミス原作で注目されるのは「一人二役の必死のゲーム」であり「本体を消した分身なればこそ、存在していれば当然かかってくる逮捕を免れている」そのため「鏡の国まで追いかけないとリプリーを捕まえることはできないだろう」ということだ。

映画『リプリー』ではまさしくこの「一人二役の必死のゲーム」が痛々しいほど伝わってくる。アラン・ドロンではなく、マット・デイモンならではの演技が冴えるのはこの「痛々しさ」においてだ。それだけをとってもデイモンの演技は素晴らしいと言えるだろう。

そして「風景」。色彩豊かな映像がとても美しい。これこそ映画を観る一つの楽しみだと思う。リプリーによるディッキー殺害シーンも息を飲むほど美麗であり官能的でさえあった。そういった魅力的なシーンの連続にまさしく酩酊させられた。



関連リンク

浅田彰 「太陽がいっぱい」から「リプリー」へ

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メメント / Memento
IMDb "Memento" / Yahoo Movies / MSN Entertainment
真っ青なシャツにハニーブロンドのヘアが映える。高級スーツに身を纏ったガイ・ピアーズは実にクールだ。一方、白いボクサーショーツ一枚で、引き締まったタトゥーだらけの肉体を晒しているガイ・ピアーズもたまらない。
この映画では、そんなハンサム・ガイの着衣/裸体を、まるでゴヤの二つの有名絵画を「並び見る」かのように楽しませてくれる。

主人公レナード(ピアーズ)は前向性健忘症という特殊な記憶障害のため、10分前の記憶さえ保てない。要は10分後にほとんど別人格と化し、10分前の「私を見る」ことも叶わない。そんな記憶障害者の「失われた時を求めて」、複雑に再構築されるドラマに、観者は「向き合わ」なければならない。

ビル・S・バリンジャーの小説を映画化したらこんなふうになるだろう、という趣向。もちろん「小説」に比べ情報量が格段に多い「映像」で「これ」をやるのが凄い。時制をバラした独特の構成がかなりの集中力を課すが、サスペンスはラスト(あるいは冒頭の)のカタストロフを目指し加速してゆくのでまったく目が離せない。しかも「鏡」のダブル(複数性)と前向性健忘症という症例の「複数・回・性」が見事にリンクされている! 
似たような感覚の映画として『エンゼル・ハート』や『予告された殺人の記録』を思い出す。

そしてこの映画の中で重要なファクターとなるのがポラロイド写真とメモというテクスト──身体に彫られたタトゥー。ダイナミックに時間を構成する映画の中で、写真と文字というスタティックなメディアが巧に使用される。主人公は写真とテクストによって現実を確認し経験を保持する。それらは「偽りの現在でもあり、不在の徴しでもある」(スーザン・ソンタグ)にもかかわらずだ。

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8mm / 8MM
IMDb "8MM" / Yahoo Movies / MSN Entertainment
主人公は私立探偵。富豪の老婦人からの依頼。失踪した若い娘。グロテスクなまでに腐り切った人間の欲望。都市の暗部。そして意外な犯人像……。これはもうロス・マクドナルド的「アメリカの悲劇」のパターン/パロディに他ならない。

しかしここで扱われているテーマは最高度のタブーを孕んだ極めてショッキングなもので、生垣真太郎の『フレームアウト』にも登場した「フナッフ・フィルム」。ただならぬ不穏な雰囲気が画面から滲み出てくる。
死んだ夫の金庫に入っていた奇妙なフィルム──映っていたのは少女の惨殺シーンだ──に疑問を持った老未亡人が、ニコラス・ケイジ演じる私立探偵に調査を依頼。そのフィルムをめぐって、探偵は、アメリカのダークサイドに足を踏み入れる。

監督は『セント・エルモス・ファイヤー』や『バットマン』シリーズのジョエル・シュマッカー。と言ってもこのグルーミーな感覚に貢献しているのは『セブン』でも脚本を務めたアンドリュー・ケビン・ウォーカーのほうだろう。扱っているテーマがテーマなので、ニコラス・ケイジには嘘臭いまでの「良心/良識」がキャラクタライズされており、とりあえず「エンターテイメント映画」としての体裁を保っているが、それでも、戦慄の美学とでも言いたい徹底した細部へのこだわりが見え隠れしている。

その一つがホアキン・フェニックス演じるポルノ・ショップの店員。彼はポルノ・ショップの店員らしく客の手前、アナルなんとかという「ポルノ作品のカヴァー」をつけた本を読んでいるのだが、カヴァーの下はトルーマン・カポーティの『冷血』になっている。ポルノ・ショップで働かざるを得ない屈折したインテリジェントな青年像がさりげなく了解される(しかし滝本誠の『きれいな猟奇』によると、脚本家が選んだ本は『冷血』ではなく『カメレオンのための音楽』だという。この脚本家のこだわりは考慮されるべきであろう)。

この挫折したミュージシャンでもあるポルノ・ショップの青年、女優を目指しその結果薄汚い欲望の犠牲になった少女、そして彼女の母親。この映画には──多分に図式的ではあるものの──金と権力に対する異議申立てが、弱者の悲哀を漂わせながら、それでもある種健全に、窺える。


……この文章を書きながら、やはり感情がこみ上げてきたので書いておく。スナッフ・フィルムという最悪の欲望の犠牲になった少女と彼女を心の底から愛していた母親。通常の感覚を持ち合わせている人ならば、この残酷な運命にやりきれない思いを募らせるはずだ。

だったらもう一つの最悪の欲望の犠牲、すなわち「ヘイト・クライム」による犠牲はどうだろうか。数年前、マシュー・シェッパードというアメリカの大学生が殺された。頭蓋骨がぐちゃぐちゃになるほど殴られ、しかも火で焼かれて。

なぜマシューは殺されたのか/暴虐の犠牲になったのか。それは彼が同性愛者だったからだ。これは映画でもフィクションでもなんでもない、実際に起こった事件だ。現在、マシューの母親は各地で公演を行い、殺された息子のような悲劇が二度と繰り返されないよう訴えている。
しかし日本では舞城王太郎という作家が「ヘイトクライム」を助長し、ペドフィルの犯罪を擦りつけ、同性愛者を焼き殺そうとするような小説を「面白がって」書いている。どうして「スナッフ・フィルム」や「レイプ」あるいは「幼児ポルノ」といった薄汚い欲望に対しては、目を顰めるのに、舞城王太郎が書く差別小説に対しては同様の反応が起きないのだろうか。そんな差別小説を何の衒いもなくどうして「宣伝」しまくっているのだろうか──こういった人たちはマシューのご両親を正視できるのだろうか。僕は絶対に看過できない。今、このマシュー・シェッパードに対する「ヘイトクライム」と舞城王太郎の「差別性」についての文章を思案中だ。

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