O[オー] / O
IMDb "O"
現代アメリカのハイスクールを舞台に展開されるシェイスクピアの悲劇『オセロー』。現代風俗──ドラッグやセックス──にどっぷりつかりながらも、シェイスクピアの翻案に相応しい陰惨な雰囲気と悲劇的な色彩を帯びている。もちろん原作の存在をある程度斟酌しないと、展開に不自然さを感じるかもしれないし、もしジョ シュ・ハートネット演じるヒューゴがもう少し狂気を帯びていたら、原案はシェイクスピアではなくてルース・レンデルだと思う人もいるかもしれない。

そう、本当にルース・レンデル作品のようなのだ。破局への歯車が、徐々に、しかし確実に噛み合わさってゆき、最後で大爆発を起す。そのメカニズムは容赦なく冷徹に駆動する(だから取って付けたような、まるで無責任な精神分析医がもっともらしく説明するような「父親と息子の葛藤」はなくてもよかったのではないかと思う)。
ハイスクールが舞台の「アメリカ映画」なのでオセロー(オーディン)によるデズデモーナ(デジー)殺しは、避けられるのではないか、悪人イアーゴ(ヒューゴ)だけが裁かれ、もう少し「救い」のあるロマンティックなラストを向かえるのではないか、と思っていたが、見事はずれた。待ってましたとばかりに大破局が訪れ、人がバタバタと死ぬ。悲劇のカタルシスには申し分ない。

それどどうでも良いことだが、主役のジョッシュ・ハートネットより個人的に断然気になったのは、マイク役のアンドリュー・キーガンの方だな。あとマーティン・シーンがコーチ&父親役で出ていたが、本当の息子エミリオ・エステベスとチャーリー・シーンは最近どうしているんだろう?

他にちょっと興味を引いたのが IMDb のプロット・キーワーズ。ここには"racial-slur"及び"gay-slur "という項目がある。いうまでもなく黒人侮蔑、同性愛侮蔑のことで、具体的には「ニガー」という言葉と「ファグ」という言葉が使われたからだろう。
多分それだけのことなのであるが、しかしそれだけのことであっても「自覚的」なのとそうでないのとは全然意味合いが違う。この作品でも「ニガー」という言葉は「黒人同士の間において使われる」と「説明」されていたし、「ファグ」も『スリーサム』でまったく同様に「説明」されていた。そんなこともわからないで──あるいは「実践」してなくて、文章上のいやがらせ=テクスチュアル・ハラスメントを唱えたって、それは矛盾につながらないのだろうか。どういうつもりで「そういう言葉」を使っているのだろう。

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ユージュアル・サスペクツ / The Usual Suspects
IMDb "The Usual Suspects"
『ユージュアル・サスペクツ』は、「犯罪者」の精神的葛藤を見事に描き切ったネオ・ノワール映画の傑作である。だからある意味この映画を紹介するのは、容易い。例えば中条省平が「フィルム・ノワール」の定義として述べたことを引用すれば事足りる。すなわち
フラッシュ・バックや主人公のモノローグを多用することで語法や構成を複雑化しようという形式上の意志が顕著なこと

安原顕編『ジャンル別映画ベスト1000』(学研M文庫)
ということだ。

しかしこの映画の見所は、単にジャンルの「定義」に則り、小手先の器用さを示しただけではない。「犯罪者」という「マイノリティ」の「目線」が重要なのだ。

2003年6月26日、アメリカの最高裁判所(Supreme Court)はテキサス州のソドミー法、つまり同性愛行為を犯罪と見なす州法に対し違憲判決を下した。これにより、アメリカ国内において、同性愛者は「Usual Suspects」としての地位を返上した。

同性愛者であることを公言しているブライアン・シンガーはまさに「Usual Suspects」の一員であった。不条理な運命に弄ばれる「犯罪者たち/男たち」の姿はアイロニカルな自虐を孕んでいる。彼らは仕事中だろうが睡眠中だろうが食事中だろうが、いきなり警察に踏みこまれ、逮捕拘留され、「コック・サッカー」──言うまでもなく gay-slur としても使われる言葉だ──と言わされる。
もっとも「彼ら」も負けてはいない。案外したたかでずる賢い。彼らはすぐに心を通い合わせる「仲間」となり大仕事に打って出る。個々の「犯罪者」が集団としての「犯罪者たち」になり、集団としての「強さ」と「弱さ」を露呈しつつ、各メンバーはそれぞれ破滅への道を歩んでゆく。

秀逸なのは、唯一カタギの人物=女と交流のある男ディーン・キートンが元刑事──つまり「Usual Suspects」の天敵──であり、彼には黒幕として登場するカイザー・ソゼの影がチラつくことだ。この映画では「フィルム・ノワール」の必要条件を満たす「ファム・ファタル」は登場しない──登場するのでは、と思わせるだけだ。代わりにカイザー・ソゼという「オム」が「裏切り者」として、そしてこの映画のミステリー的な着地として、最後に華々しく登場する。あまりにも鮮やかな幕切れに、ため息が出る。

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アメリカの友人 / Der Amerikanische Freund
IMDb "The American Friend"
以前は少なからず反発を感じていた映画だった。一つはトム・リプリーがアラン・ドロン演じる美青年から中年のデニス・ホッパーに変わったこと。しかもカーボーイハットを被ったあの妙なスタイル。そして、ヴェンダースだ、ニコラス・レイだ、サミュエル・フラーだ、ニュー・ジャーマンシネマだとか言って、肝心のパトリシア・ハイスミスが全然出てこないシネフィルの空騒ぎ。やっと翻訳された原作”Ripley's games”の邦題も『アメリカの友人』になってしまう始末。

しかし久しぶりに観て、やっぱりこの映画は素晴らしかった。映像は極めて人工的な色彩で彩られるが、その「ムード」はパトリシア・ハイスミスに忠実だった。何よりもハイスミス映画足らしめるそのセリフにゾクゾクさせられる。 それはトム・リプリーが、自分に囁き掛ける──テープに録音する──言葉だ。
怖いものはない…… 恐怖以外は……。
分からなくなる……自分が誰か、他人が誰か……。
リプリーの「ゲーム」は他人を「リプリー」に仕立てること、すなわち自分の分身を作成することだ。贋作売買を手がけるリプリーは、そこで、 額縁職人ヨナタン──絵画の「贋作」を見破った──に白羽の矢を立てた。ヨナタンを余命幾ばくもない白血病患者と思わせ──限定された生存の枠(フレーム)を与え、殺人を決意させる。
ヨナタンは立派にその責務を果たした。彼にも、これまでの小市民的な「枠組み」(フレーム)を突き崩すのような暴力性が、リプリーと同様、内部から沸き起こったのだ──ヨナタンが額縁(フレーム)を破壊するシーンは象徴的だ。
しかしリプリーの意(ルール)に反して第二の殺人が計画されているのを知ると、リプリーは、自分の「複製/贋作」を救うべく、自ら行動を開始する……。

静かに、まるで生理現象のように湧き起きる男たちの葛藤は、列車や自動車といった「動き」のある空間で情熱的に昇華される。そして、自己否定と自己喪失の旅は、あまりにも静かな最終地点へと到達する。

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秘密 / Waterland
IMDb "Waterland"
グラハム・スウィフトの小説を映画化した文芸もの。外枠としては、ジェレミー・アイアンズ演じる高校の歴史教師が、反抗的な態度を取るイーサン・ホークを中心としたクラスの生徒たちに、個人的な体験に基づく「歴史=物語」を語り、歴史から「学ぶべきもの」を認識させる。
そして内枠は、ジェレミーが語る/回想する「物語」で、それが殺人や堕胎を絡めたミステリー仕立てになっている。そこから、現在のジェレミーの妻の神経症的な行動──他人の赤ん坊を誘拐してきて自分の子供だと言い張る──との因果関係が明らかになる。

原作は読んでいないのだが、どうもこのストーリーは、「語る/物語る」という「行為」にこそあるようで、映画として観るよりも小説として読んでほうが、より効果的に楽しめた──ショックを感じた──ような気がする。というより映画として許された時間内では、ストーリーに詰めこまれた、ある一族の盛衰(秘密)や戦争の記憶、性的なものへの抑圧とそれに絡む罪と罰などがあまりにもあっさりと進行/説明されてしまい、ちょっと勿体無い気がしないでもない。

ただ映像は美しく、「思春期」という誰でも持っているはずのノスタルジーをそれなりに掻き立てる。また戦争によって精神的にダメージを受けてしまった兵士たちを収容する病院のエピソードやまさに「ディック」という名のちょっと頭の弱い、主人公の兄の存在は、社会と個人のそれぞれの歴史の重さを語るにあまりある。
そしてこの「ミステリー仕立て」の設定こそは、登場人物たちの「因果関係」をめぐるストーリー展開に欠かせない。

「因果関係/秘密」を暴くことは、人間を無理やり裸に剥くこと、すなわち暴力的な、もっと言えばレイプ的な行為に他ならない。ミステリーの形式は、そのための特権的な、せめてものヒューマニスティックな演出装置だ。

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スパニッシュ・プリズナー / The Spanish Prisoner
IMDb "The Spanish Prisoner"
観終った後、冷静に考えれば、ちょっと荒唐無稽だったり、ラストが唐突だったりとケチを付けたくなるが、観ている最中は、逆転、また逆転のコンゲームに有無を言わさず引き込まれていた。さすがは『郵便配達夫は二度ベルを鳴らす』や『アンタッチャブル』の脚本を手がけたデビッド・マメット。ヒッチコックの『知りすぎた男』ばりの展開──主人公が四方八方塞がり状態に陥る──にスリラー映画の真髄を見た。

いちおう粗筋、データなんかはここで。

http://event.yahoo.co.jp/docs/event/gw99/movie/mv16.html

まあ、こういう映画なので、あまり深く考えずにジェットコースターに乗るような気分で観れば十分楽しめる。ミステリーやスパイ小説のファンは是非。また「日本人」の不思議な活躍も唖然とするくらい印象的。もしかしてこの映画のスタッフは日本のマンガ(特に劇画)のファンなのかもしれない。

……だけれども、やっぱり個人的なフィルター(またはフレーム)で観てしまう。だって主演が『ロングタイム・コンパニオン』他のキャンベル・スコットなんだもん。まあ要するにタイプってことで……それで彼は技術屋の役ということで知的に眼鏡を掛けているのが良し。しかも技術屋なのに、スーツを着こなし、全然ナードじゃない。そして何より嬉しいのは、恋人役のレベッカ・ピジョンとヤラないってことだ……レベッカの方が迫ってくるのにね。やっぱり不用意な女の裸でサスペンスが削がれないのがいい。

それとこの結末。もちろんまるっきり同じではないが、こういう着地のドラマってどこかで見たことがあるなあ……って記憶を手繰っていたら、思い出した。小泉今日子主演のTVドラマ『少女に何が起こったか』だ。


[The Spanish Prisoner 公式サイト ]
http://www.sonypictures.com/classics/spanishprisoner/

[キャンベル・スコットのファンページ]
http://cscompanion.tripod.com/

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ディナーラッシュ / Dinner Rush
IMDb "Dinner Rush "
傑作。今年のベスト級。レンタルで観たのだがDVDを買いたくなった。そして友人知人に薦めたい。僕はこういう素晴らしい映画が製作されるアメリカを嫌いになることは決してないだろう。

舞台はニューヨークのイタリアン・レストラン『ジジーノ』。物語はそのレストランの「ある夜」の出来事を群像劇風に描いている。まさに舞台劇のような趣向で、つまりプロローグ以外は、映画で流れる時間と、この映画を観ている観客の時間は一致している──共有している。

『ジジーノ』は、オーナーの息子のウードが野心的な新機軸のメニューを打ち出し大繁盛していた。しかしウードの父親ルイは、必ずしも息子のヌーヴェル・キュイジーン路線に満足していない。むしろアシスタントのシェフ、ダンカンの料理の腕前を買っていた。しかしダンカンは大のギャンブル好きで、多額の借金を負っている。
そして「その夜」、ダンカンの借金返済を迫り、かつ、レストランを乗っ取ろうと二人組みのギャングが店に乗り込んできた。ギャングはルイの親友を殺していた……。

監督はMTVやCMを数多く製作している人で、テンポの良い時間の流れはさすがだと思う。さらにその躍動的なリズムを崩さず、なおかつ様々な音色のドラマが響き渡る脚本──個性的なシェフやスタッフ、そして個性的な客、停電のアクシデント、2分間のセックス、そして衝撃のラストまで緻密に──音楽的に──計算され尽くしている。

また、厨房はまさしく戦場で、そこで腕を競う男たちは凛々しく美しい。料理もとても美味そう。超インテリのバーテンダーと客とのやり取りも見事。停電でキャンドルを灯すところもあざといくらいロマンティック。ギャラントな音楽も良い。いちおうサスペンスドラマで人も殺されるが、ハートウォーミングというか、観ていて幸福な気分にさせてくれる映画だ。


[大場正明氏のプレス評 ]
http://c-cross.cside2.com/html/a10te002.htm

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完全犯罪クラブ / Murder by Numbers
IMDb "Murder by Numbers"
『運命の逆転』のバーベット・シュローダーで、レオポルド&ローブ事件を題材にしたものなので、もっとデカダンなヤツを期待したんだけどな……。

レオポルド&ローブ事件は、1920年代にアメリカで実際に起きた殺人事件。ニーチェ思想の影響を受けた二人の青年が、自分たちの優秀さを示すため、そのためだけに──とされている──殺人を犯した。二人は同性愛の関係にあり、事態はかなりのスキャンダラスなものになった。
このレオポルド&ローブ事件を扱った映画には、有名なヒッチコックの『ロープ』やトム・ケイリンの同性愛的耽美性を前面に押し出した『恍惚(SWOON)』(これは傑作!)がある。

『完全犯罪クラブ』でも同じようにニーチェ思想に被れた二人の男子高校生が、理由なき殺人を引き起こすものなのだが、しかし上記傑作2作品が既にある以上、少し趣向を変える必要があったのかもしれない。そこで登場するのが捜査側のドラマで、サンドラ・ブロック演じる女刑事の活躍に焦点があたる。ただ……

女刑事のトラウマ克服と自己憐憫はもういいよ。と思ってしまうくらい、サンドラ・ブロックの役柄がウザく感じてしまった。だってこれって、過去に何事かのトラウマを持った男が、美しくかつ「都合の良い女」と出会い、自己を再生するパターンと同じじゃないか。今時、男と女の役割をチャンジしたからって「ジェンダー的視点」なんてので称賛する気にもなれないし。

だいたい、ヒューマン・ドラマではなくて犯罪ドラマにDVというトラウマを持ち出すのなら、 いっそ、そのトラウマゆえに──「稚拙な犯罪」を見破るのではなくて──「完全犯罪」を成立させてしまうくらいの巧妙な「逆説」が欲しかった。つまり徹底して「従」の立場に「見える」者が、死体を見てゲロを吐く弱さやブロックの命を救うことも含め、実はそれが徹底して冷静で冷酷なプログラムの一部であったような。
これじゃ、せっかくの「世紀の大事件」も女刑事の自己再生ドラマに奉仕しているだけの、単なるエピソードに貶められてしまっている。まあ最初からそういった視点で観れば、それはそれで良く出来た娯楽作品にはなっているが。

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タブー / Taboo
IMDb "Taboo"
インデペント系の映画情報サイトindieWIREに、監督マックス・マコウスキー のインタビューが載っているように、この映画も、見るからに予算が掛っていないインデペンデント系。そういったことも考慮に入れると、出来の良い作品かどうかは一様に判断し難いが、ただストーリー展開に意表を付かれたので、ちょっとだけ書いておきたい。

ストーリーは6人の若者が、セックスにまつわる「6つのタブー」を今後「犯す」ことを YES か NO で応えるゲームを行う。金でセックスをするか、近親者とセックスをするか、同性とするか、3Pをするか、未成年とするか、恋人の親友とするか……。
一年後、彼らは再開する。しかし彼ら6人は、その「タブー」を犯したことを理由に一人、また一人と殺されていく。死体には、彼らが犯した「タブー」が明記されている。外は嵐。彼らは郊外にあるその惨劇の家に閉じ込められ逃げることができない。

……というアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』と映画『セブン』を合わせた感じの作品。なのだが、着地は「なんでこうなるの?」という破天荒というか、予想外というか、要するに納得の行かない「変な」終わり方なのだ。サスペンスは緩慢、むろん、ホラー映画的な怖さなんてのは全然感じられなかった(逆に笑わせられた)。けれどもこのテイストって、日本の新本格の推理小説に近いものがあって、僕個人としてはまんざらでもなかった。

それと「同性愛」が「タブー」として掲げられているのに最初はムカっときたが、そのゲイの青年役にハンサムなデレク・ハミルトンが起用され、役柄も共和党議員の息子でクローゼットせざるを得ない状況を自然に描いていたので許せる。そして重要なのは、他の連中が同性愛を言うとき「ゲイ」もしくは「ホモセクシュアル」という「言葉」を使い、デレク演じるベンジャミンだけが──自嘲気味に──「ホモ(homo)」という「蔑称」を使っていたこと。そこのところを強調しておきたい。

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