秘蜜 / BLACK ANGEL
IMDb "Senso '45 / BLACK ANGEL "
巨匠ティント・ブラスへの尊敬は足りない。絶対的に足りない。あの『カリギュラ』にしても『サロン・キティ』にしてもヴィスコンティに負けないくらい豪奢で気高い精神性を放っている。ただ、ヴィスコンティはキッチュすれすれの様式美で映画を「芸術」足らしめるのに対し、ティント・ブラスはキッチュそのもののどぎつさで「芸術」を嘲笑する。

この『秘密』は、ヴィスコンティ映画のポルノ(が悪ければエロス)ヴァージョン──そしてこのDVDは「ヘア解禁ヴァージョン」。第二次世界大戦末期ファシスト政権下のヴェニスを舞台に、イタリア人の人妻リヴィアとドイツ人将校ヘルムートの性愛が描かれる。
そう、まさにラブ&セックスの話なのだ。凝ったストーリー展開は必要ない。ハンサムな軍人にメロメロになり、股を広げる女がいるだけだ。そこに俗悪なセットと俗悪な衣装、そして俗悪な映画的意匠が、ラヴ・ホテル的ファンタジーを際立たせる。
「ファシズムとは演劇である」(ジャン・ジュネ)

もちろん僕もメロメロになった。ナチ親衛隊ヘルムート中尉を演じるガブリエル・ギャルコ(ガルコ)にだ。ナチの黒い制服にブロンドの髪が映える──短く刈り上がった後頭部からうなじへのライン。灰色の冷酷そうな眼、下品な笑いを発する薄い唇、髭剃り跡の青い肌。完璧に制服を着込み──艶やかに輝く黒いブーツ、黒いベルト、そしてそれらをすべて脱ぎ捨てる。

たしかに女の方が露出度が高い。クールベの絵を見ているかのような生々しいデルタと尻が何度も画面を横切る。しかしギャルコも全裸を披露してくれる──引き締まった水泳体型だ(『アメリカン・ジゴロ』のリチャード・ギアが最高だと思っている外専ゲイの諸君にもちょっと見て欲しいなっていう感じ)。海中でのセックス・シーンはなかなかそそる。また娼館における乱交シーンは、ヴィスコンティ『地獄に堕ちた勇者ども』における突撃隊の同シーンを思わせる豪奢さだ。

しかしこのポルノグラフィーが何よりも「豪奢」なのは、戦争という社会状況や歴史させも、二人の官能を燃えあがらせるための「セット」になっていることだ。結果、どんな「反戦映画」よりも「反戦」を主張している。

名場面は、リヴィアとヘルムートがセックスをした後、二人がトイレに入り用を足すところ。最初にリヴィア、次にヘルムート。ヘルムートが便器に向かい半ケツを晒しながら立ちションしているとき、リヴィアは後ろで「平和ね」と呟く。その後もう一度ヤルのだが、今度はヘルムートはリヴィアの尻に唾を付け、犯す。そのアナル・セックスの最中にヘルムートは「世の中全部くたばればいい、ヒトラーもムッソリーニもスターリンも」と叫ぶ。戦争なんかしているよりも「尻に酔って」いるほうがずっといい、と正直に──男らしい姿態のまま、男らしい運動を繰り返しながら──表明する。

ティント・ブラス流の「反戦」は説得力と重みがある。残念なのは、この映画はR-18指定なので教育用に使われないということだ。

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サテリコン / Satyricon
IMDb "Satyricon"
映像に淫し、音楽に淫する。フェリーニの映画を観て、僕たちが淫することができるのはこれくらいであるが、古代ローマ人は、全てに渡って生活が淫していた。素敵だ。歌に笑にセックスに。まるで毎日がゲイ・クラブ&ハッテンバのノリ。

映画は、ブロンドの美青年エンコルピオと友人アシルトによる、美貌の少年奴隷ジトーネをめぐるいざこざから幕を明け、古代ローマの絢爛たる「淫」の世界が数珠繋ぎに紹介されるスペクタル。酒池肉林のごときトルマルキオの饗宴、SMまがいの鞭打ち、(美)少年/青年狩り、同性結婚、政変/奴隷と自由の転覆、ヘルマフロディテ誘拐、ミノタウロスとの決闘、エンコルピオのインポテンツ/妖術師によるポテンツ、カニバニズム……。

エンコルビオとジトーネはさすがに似合いのカップルで、褌のような腰巻一つで戯れる彼らには親近感を覚える──いまなら Jockstraps だろうな。
それにしても全編を覆う猥雑さには凄味さえ感じられる。クラクラさせられる。もちろん、ここまでやらなくてはフェリーニではないだろう。そしてここまでやるからフェリーニなのだろう。
「憂鬱と理想」について、ギース論の次の考察。「現代性とは、一時的なもの、移ろいやすいもの、偶発的なもので、これが芸術の半分であり、他の半分が永遠なもの、不易なものである。……およそ現代的なものが古代的なものとなる資格を得るためには。人間の生活が意図せずにそこに込める不思議な美しさがそこから抽出されなくてはならない。G氏が特に打ち込んでいるのがこの仕事なのだ。」ボードレール『ロマン派芸術』パリ、七〇ページ。──ほかの個所では「外的な生活のそうした伝説的な翻訳」と彼は言っている。

ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』第二巻p.97-98(今村仁司他訳、岩波現代文庫)

原作はペトロニウスの小説。岩波文庫『サテュリコン』の解説を見ると、サテリコンの意味は「サテュロスのごとき好色の無頼漢どもの物語」だという。また主人公エンコルビオス(エンコルピオ)は、「抱かれる人」という意味のギリシア語で、つまりどんな男女にも身をまかす無節操な男ということだ。一方ギトン(ジトーネ)は、ギリシア語で「隣人」。彼は誰とでも隣人になる。

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サロン・キティ / Salon Kitty
IMDb "Salon Kitty"
貞操帯をしろと? 赤十字に参加しろと?
ローマ帝国は笑いと歌で世界を征服したのよ。


ヒモと娼婦のカップルが帝国を支配する、ハイル・ヒトラー

久しぶりに観たのだが、やはりティント・ブラスはすごい。豊饒で放恣で過剰な映像によってナチスのポルノ性を暴き、その俗悪さに裁定を下す。氾濫する裸体は、ナチス好みの「卑猥さ」を遺憾なく発揮している。それはヒトラーが好んだ「恥毛の巨匠」アドルフ・ツィーグラーや赤抜けない田舎娘を多く描いたゼップ・ヒルツらの絵画の「卑猥さ」に通じるものだ。

ストーリーはヘルムート・バーガー演じるナチ将校が、ワイマール時代の名残を残す自由で放埓な楽園カバレット(キティーのサロン)を、ナチ要人のための「娼館」として接収する。もちろんただの娼館ではない。そこはヘルムートが他のナチ幹部の弱みを握るためのスパイ施設であり、「特別な訓練」を受けたナチ党員女性が送りこまれていた。

……という内容なので、『ナチ女秘密警察SEX親衛隊』という邦題もストーリーと甚だしく乖離しているわけではない。実にセックスをすることが祖国に貢献することだと教えこまれ、女たちは反ナチ思想分子をスパイするための道具となる。彼女たちはプロの売春婦ではなく、素人の公務員なのだ。

もちろん、その素人っぽさ、祖国愛に燃えた女性たちの素人っぽさが、いっそう「卑猥さ」(あるいはバカバカしさ)を引き出すのは計算済みであろう。もともとサロン・キティはスラヴ系の女性など、自由意志を持った享楽的なプロのホステスが職業的なエレガンスを放っていた(女主人キティが、ナチスの人種差別によってサロン・キティを離れざるを得なくなったホステスらと一緒に記念写真を撮るところは非常に感動的だ)。
そこにアーリア系の素人女性で構成されたまさに「SEX親衛隊」によって、女性は絶対的な劣者に転落してしまう。制服を着た男性ナチ幹部──例えばヘルムート──と裸体の女性。これほど見事な支配ー被支配の関係はないだろう。人種的、性的、思想的……様々に優劣の差をつけるヒエラルキーこそがナチスの核心なのだから。

だからこそ、ティント・ブラスの素晴らしさは、それを転倒するところにある。完全な支配者、完璧な──ナチス的──美を体現していたヘルムート・バーガーが最後、裏切られ処刑されるとき、彼は全裸なのだ。ヘルムートはサウナで制服を着たSSに「犬のように」殺される。「審判」は下された。

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パズル / Nadie conoce a nadie
IMDb "Nadie conoce a nadie "
舞台はスペイン、セビリア。作家志望でクロスワードパズル作成者の青年シモン(エドゥアルド・ノリエガ)に、警告めいた挑戦メッセージが届く。クロスワードパズルに「敵対者」という言葉を含ませろ、と。するとこの「言葉」に触発されたかのように、奇妙で猟奇的な殺人が次々と発生する。
事実関係を探るシモンだが、しかし行動を起せば起すほど、彼は邪悪な罠に絡め取られていく。しかもシモンは一連の殺人の容疑者として当局にまで追われることになる。絶体絶命。おりしもセビリアではキリスト教の祭り、聖週間で街は異様な熱気に包まれていた……。

監督は、多分、日本のサブ・カルチャーに関心を持っている人なのかもしれない。なにしろいきなりオウムの麻原彰晃の顔が画面に映る。さらにコンピュータゲーム、オタク、ヴァーチャルリアリティ、新本格推理小説みたいな「装飾された死体、予告殺人、衆人監視の殺人」、偽創世記、劇中小説、ロールプレイングゲームそのままのビーム銃による銃撃戦等など。連続殺人の動機も「なんじゃ、それ!」っていう気宇壮大にしてバカバカしさ限りなし。

しかし観客を驚かしてやろう、という熱意、荒唐無稽ながらも独特の映像センスを見せ付けるその才気を買いたい。
そして、オウム真理教的「感性」を思わせる結社の登場や、ストーリーがロールプレイングゲームそのものに収束していくところは、この映画を海外における「オタク・ムーヴィー」の一例として議論の俎上に挙げられるだろう(もちろん「ゲーム脳の恐怖」を「追認」するような展開である)。とりわけ「動物」=カエルの「欲望」はあまりにもスノビズムだ。もっとも主演はハンサムで「イケている」エドゥアルド・ノリエガなのだが。

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アッシャー家の惨劇 / House of Usher
IMDb "House of Usher"
低予算、B級ホラーの帝王ことロジャー・コーマン。『アッシャー家の惨劇』は言うまでもなくエドガー・アラン・ポウ原作であるが、どことなくB級の香りが……と言いたいところだが、ヴィンセント・プライスの熱演を始め、なかなか趣のある映像に仕上がっている。脚本はリチャード・マシスン。

原作と違うのは、アッシャー家歴代の悪人たちが紹介され、彼らがフィリップ・ウインスロップ(マーク・デイモン)の夢の中で、まるでゾンビのように登場するところだ──やはりB級ノリか。さらにマデリーンも最後はかなり攻撃的になり、すごい形相で男たちに襲いかかる──うーん、B級。

やはり見所はヴィンセント・プライスの圧倒的な演技、滲み出る雰囲気──あえて言えばオーラだろう。その特異な風貌が画面に映るだけで、映画は風格を増す。それに比べれば、マーク・デイモンは一昔前の男前という感じで、内省的な演技は求めるべくもない。が、その直情的な振る舞いは微笑ましく、また、驚いたときに目を大きく見開くのも可笑しい。

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ドラッグストア・カウボーイ / Drugstore Cowboy
IMDb "Drugstore Cowboy"
クールな映像にクールな音楽、そこにクールな男=マット・ディロンがいれば傑作の条件を楽々とクリアーできる。このトライアングルが崩れると、ガス・ヴァン・サントの映画はどうも面白くない。

『ドラッグストア・カウボーイ』は、そのトライアングルが見事にキマった作品で、シンプルな展開ながら、ガス・ヴァン・サントの最良の部分が出ていると思う。
最良の部分。それは「優しさ」あるいは「慈愛」と言っても良いかもしれない。『マイ・プライベート・アイダホ』でもそうであるが、登場人物たちの「視線」には、「過ち」を犯したことのある人間だけが本当に知る憂いと哀しみ、そしてそれゆえ、他人が「間違い」を犯すことへの「寛容さ」が滲み出ている。その「視線」の絡み合いの中から本当の人間関係の意味が理解される。
靴紐を結び続ける毎日から逃れるために、ヤク中は何かにすがる
既存の「道徳」に忠実なだけの人間は痛みを知らない。よって「他者」への配慮も知らない。せいぜい押し付けがましい同情──それは「優しさ」や「慈愛」とは違う──を表明するだけだ(だから舞城王太郎の差別小説を「面白がって」「偉そうに」宣伝できるのだ)。

ジャンキーを扱ったこの映画でも、不思議と重くならず、どこかメルヘンチック、どこかメランコリック。マット・ディロンがドラッグをキメたときの映像も、動物や飛行機のシルエットが愛らしく飛び交う独特のもの。何よりマットの眼が美しく、優しく、そして哀しげだ。ウィリアム・バロウズの「視線」も同様だ。
『ドラッグストア・カウボーイ』は僕の好きな映画の一つだ。

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ゴスフォード・パーク / Gosford Park
IMDb "Gosford Park"
うゎー、アガサ・クリスティが読みたくなった。あの「感じ」「様式」がたまらない。登場人物のほとんどに動機があるように「見せる」ところなんてまるで『ナイルに死す』みたいだし、懐古趣味は『バートラム・ホテルにて』、悲劇的な因縁は『鏡は横にひび割れて』。他にも『ねずみとり』や『パディントン発4時50分』、『ホロー荘の殺人』あたりのクリスティ作品を思い浮べながらこのアルトマンの映画を観た。

そういえば一時期、クリスティ原作映画がよく作られていたな。『オリエント急行殺人事件』を皮切りに、『ナイル殺人事件』、『地中海殺人事件』、『クリスタル殺人事件』なんか。オールキャストでそれら俳優たちの競演が見事だった。

『ゴスフォード・パーク』でも俳優たちの競演は見物だ。『モーリス』のジェイムズ・ウィルビー(まだまだ若い)、『ベント』のクライヴ・オーウェン(ランニング姿でセクシーな胸毛を見せつける)、『キャリントン』『理想の結婚』のジェレミー・ノーザム(甘い歌声を聴かせてくれる)、それに何と言ってもゲイに人気のライアン・フィリップ(股間にコーヒーを零され取り乱すところなんてとてもキュートだ。さらに暖かい──白い──ミルクを持ってシルヴィア夫人の寝室に入ったり、細長い酒瓶を持ちながら女中部屋の前で待っていたり)。

そう、もし、こういった俳優が出ていなかったら、途中で観るのをやめていたかもしれない。悠長に構えるのは良いが、どうしても殺人事件が起こるまで長く感じるし、あれだけの登場人物を整理し相関図を描いていくのは楽なことじゃない。同時進行で計画されていくチャーリー・チャンの映画内物語は、どれほど映画と共犯関係を結ぶことができたのだろう。

しかしやはり「巨匠」アルトマンは見せる。もちろんライアン・フィリップを「魅せる」のだ。貴族側と使用人側という二つの立場をライアンが演じることにより、まるで彼は他の役者の二倍は画面に映っているように見える(僕もライアンに注目していたので、貴族/使用人両方の「ドラマ」に自然と惹き込まれた)。しかもファッションも二通りの様相で(ライアンのわざとらしい立居振舞いで、二つの階級の差が戯画される)、「英語」もスコットランド訛りとアメリカンで。
もっとも「アメリカ人」のライアンは、最初からイギリスの階級社会からは自由であるので、二つの階級を行き来することぐらいお手のものだ──というか見事に相対化している。
さすが美男子の使いかたがうまいな、アルトマンは。

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鏡の中にある如く / Sasom i en spegel
IMDb "Through a Glass Darkly "
英語のタイトルは "Through a Glass Darkly" 。ヘレン・マクロイのドッペルゲンガーを扱った推理小説『暗い鏡の中へ』の原題と同じで、これは新約聖書から取られている(フィリップ・カーにも『鏡のおぼろに映ったもの』という同じ原題"Through a Glass Darkly"を持つ短編がある。興味深いのは、マクロイ、カーの両小説とも精神科医が登場することだ。ついでに言えばフロイトはドッペルゲンガーについて「超自我の検問をすり抜けた幼児願望の投影・拡散」であると述べている)
幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきりと知られているようにはっきりと知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

『コリントの信徒への手紙』(新共同訳「聖書」、日本聖書協会)
いちおう粗筋めいたことを書くと、登場人物は四人。小説家で父親のデヴィッド、彼の娘のカリン、息子のミヌス、カリンの夫のマルティン。白夜の時期、彼らはある島に滞在している。カリンは精神を病んでおり、精神科医の診断によると回復は難しいという──そのことをマルティンから聞いたデヴィッドは日記に記す、それをカリンが読んでしまう。カリンとミヌスは近親相姦の関係にある。カリンは次第に症状が重くなってゆく──妄想の世界に閉じこもっていく──ヒステリックになり「神」との遭遇を待つ、しかし開いたドアからは、神ではなく「蜘蛛」が現われ、彼女に襲いかかる……。

ベルイマンのこの作品は、他の作品同様難解である。難解というのは、推理小説的な解決も精神分析的解明もしづらいということで、言語を弄して説明すれば「解る」ようなものではない。もちろん「こじづけ」だったらいくらでもできる。例えば、ミヌスがカリンと一緒に運んでいたミルクを零し、その直後、女を敵視するような発言をする。ミルクを精液と隠喩と見做し、ここをとびきりエロティックなシークエンスと見ることもできる。さらに射精後、女を「いやらしいもの」として見てしまうことも。

しかしそういった分析をしていったところで、この映画を「分かったような気」にさせてくれるかどうかは疑問だ。僕はなんとなく、小康状態が続いていたカリンに「おぼろに映っていた」神が、はっきりと「蜘蛛」として見えた途端、彼女は再帰不能に陥った、というように「ケリをつけて」この映画を「分かったもの」として整理したいだけだ。
スーザン・ソンタグはそんなベルイマン作品を論じた文章で、映画こそが「言語を疑う者たちの自然の棲家であり、<言葉>に反逆する今日的感性が宿す莫大な疑惑の重さを支えることのできる媒体」だと述べている。
しかしこの主題についてのベルイマンの扱い方と(ヘンリー)ジェイムズの扱い方の主な相違は、言語に対する両者の対照的な立場から来るものであろう。ジェイムズの小説では言説(ディスコース)が続く限り、人物の組織構造(テクスチュア)も残る。言語の連続性は、人格の喪失、絶対的絶望における人格の崩壊の溝をうめる働きをする。それに対して『ペルソナ』では、問われるのはまさに言語──その連続性──なのだ。

ベルイマンの『ペルソナ』(「ラディカルな意志のスタイル」所収、川口喬一訳、晶文社)
モノクローム映像は、白夜の白々しさを際立たせる。同時に深い闇も。そこにバッハの無伴奏チェロが重く圧し掛かる。

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