ストレンジャー・ザン・パラダイス / Stranger Than Paradise
IMDb "Stranger Than Paradise "
「物語」を語るところから離れてWords are very unnecessary)、場面と場面の繋がりが切断されて(Come crashing in)、沈黙が支配する(Enjoy the silence by Depechemode)
映画はワンシーン=ワンショットで「その世界」を構築する。
人生の問題の解決は、その問題の消滅という仕方で見出される。
by ウィトゲンシュタイン
場所はニューヨーク→クリーヴランド──そして?。主人公ウィリーはハンガリー移民でありながら、「母国語」を使わない。「英語」を使用し、アメリカ人の「ルール」に従い、彼が理解しているアメリカ人の「生活形式」と一致させようとしている──TVディナーを食べ、アメフトを観戦する。
それを一つの夢と呼べ。
by ウィトゲンシュタイン
そこへいとこのハンガリー人女性エヴァが登場する。エヴァは数日の滞在後、クリーヴランドのおばのところへ行く。一年後ギャンブルで大金を手にいれたウィリーは、友人のエディと共にエヴァを尋ねるべく、クリーヴランドへと向かう……三人でフロリダへ行くために。しかしそれは、彼の中でどの部分が彼に従い、どの部分が彼に従わないかを確認することだった──論理がその適用と衝突してしまったことを、彼は理解する。

モノクロームの映像が美しく、まるで写真のように各々のショットがキマっている。音楽もクール。ただ最初見たときは、そういった印象だけしかなかったのだが、今回見直してみたら「クリーヴランドはブダペストに似ている」というセリフから、この映画の「パラドックス」がわかったような気がする。だからウィリー=ベラにはこう言いたい、
幸福に生きよ!
by ウィトゲンシュタイン

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誘う女 / To Die For
IMDb "To Die For"
ま、ゲイのガス・ヴァン・サントが「女の色気」を売りにした映画をつくるわきゃないな。なんといってもカメラがエロティックに舐めまわすのは、ホアキン・フェニックスのスキニーな裸体の方だし。

女の自意識過剰とそれに振り回される男の間抜けぶり。それがこの映画の悲喜劇の地雷であり、それが爆発するのは最初からわかっている。問題は、いつ、誰が、どういう風にその地雷を「踏む」のかだ。まるでルース・レンデルの『ロウフィールド館の惨劇』(A Judgement in Stone)をドタバタ笑劇として換骨奪胎したような、徹底的に意地悪く、馬鹿馬鹿しく、ブラックで、しかも楽しい作風。
……『ロウフィールド館の惨劇』のヒロインは文盲が原因で一家を皆殺しにした、では『誘う女』のヒロイン、スザーン・ストーンは何のために旦那を殺したんだろう(To Die For)……って言う感じに。

さらにこの映画を観て思いついたのが、戸梶圭太の小説。つまり男も女も「激安人間」ぶりを発揮していることだ。ニコール・キッドマンもマット・ディロンもホアキン・フェニックスもそういった意味で演技がとても上手い。(インチキ)ドキュメンタリー・タッチの構成も彼らの「安さ」が引き立つ。こういう手の込んだコメディは好きだな。

それにしてもニコール・キッドマンって演技の幅が広いと感心した。翌年にはヘンリー・ジェイムズ原作/ジェーン・カンピオン監督の『ある貴婦人の肖像』のヒロインも演じているし。こちらは「動」の「誘うミセス」に対し「静」の「奥方」役であるが、しかし「女性の自立&不幸な結婚」というテーマでは同じなのかもしれない。

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クッキー・フォーチュン / Cookie's Fortune
IMDb "Cookie's Fortune"
ミシシッピーという南部の町を舞台にしたせいか、名物の宗教(狂信)と保安官をきちんとプロモートすることを忘れていない。宗教のプレゼンテイターはイヤなおばさんタイプのグレン・クローズ、保安官はハンサムで優男タイプのクリス・オドネル。

もちろん僕はキュートな保安官に目が行く。なんといっても保安官の制服はなかなか魅力的だ──腰の部分に下げた銃=男根(あ、また「フロイト」やっちまった。でも警官のコスチュームは軍服と並んで「ユニフォームもののゲイ・ポルノ」の定番だ)。
ジム・トンプスンの小説に出てくる自称ハンサムな保安官ルー・フォードやニック・コーリーも──彼らのイカれぐあいはさておき──さぞかしこんな風に凛々しくセクシーなんだろうと思う。

そのクリス・オドネルの恋人役がリヴ・タイラー。なんだけど、最初に彼女が登場するシーンを見たとき、この役ってブッチのレズビアンなのかと思ってしまった。だってリヴは短髪で野郎っぽいファッション&クルマでキメる。そして仕種態度まで野郎っぽい。だからそのリヴと「ほとんど同じ身長」「ちょっと優柔不断」のキュートなクリス・オドネル──そもそも二人はルックスも似てないか──のラヴ・シーンは「男同士」に見えないこともない(ここってジェンダー撹乱を狙ってるだろ、監督さん)。

こういったハンサム・ガイ、ハンサム・ウーマンの(ラヴ)コメディを幕間に、クッキーという老女の自殺をめぐるメインのコメディーが展開されていくのだが、最後まで観て、ああ、な・る・ほ・ど、と思った。この映画の中では、劇中劇とも言える『サロメ』の舞台が展開されるのだが、これがメインのドラマのキーにもなっている感じがしたからだ。
で、実際にオスカー・ワイルドの戯曲に当たってみたところ、こんなセリフがあった。
黙れ。お前こそ生まず女なのだ。おれの子を産めなかった、それをあの預言者は言ふのだ。おれたちの結婚は本當の結婚ではないと。近親相姦の結婚、やがては禍をもたらす結婚だと……。

オスカー・ワイルド『サロメ』(福田恆存訳、岩波文庫)

だから、「血液型」についてあれほど注意を向けさせたんだな。そして劇外でもサロメの衣裳を身に着けた「サロメ役」は、劇外でも「首」を所望するんだな、と思った。

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出発 / Le Départ
IMDb "Le Depart"
まさしく詩。その語調は繊細、動的、抒情的、そしてときに冗談めいたアイロニーが飛び交う。「語調」とは映像のニュアンスであり、音楽の語り。ポーランド出身のイェジー・スコリモフスキ監督は、この映画で、青春という儚くも輝かしい「イルミネーション」の瞬間を特異なタッチで捉える。素晴らしい。傑作だ!

ストーリーはあってないようなもの。とにかく映像と音楽だけで参ってしまう。 街をクルマが疾走し、その映像にジャズが被さるだけで、どうしてこれほど胸を熱くさせるのだろう。どうしてジャン=ピエール・レオーがバイクに乗りながら後ろを振りかえるだけで──風の揺れる髪、つつましく顔を覆うジャンパーのフード!──、感動してしまうのだろう。あの陽気に鏡を運ぶシーン、あの道路のど真中で体を横たえるショット、そしてクリスチアーヌ・ルグランの歌声が流れるシークエンス……。

この映画を観て、そして「出発(Le Départ)」という題名から思い浮べたのはアルチュール・ランボーの詩集『イリュミナシオン』だ。なによりレオーの繊細でありながらどこか倣岸、どこかコミカルな役柄/演技は、見習美容師というよりもアビシニアへ旅立ったフランスの詩人に結びついてしまう。
もう充分に、知ったとも。生きることの数ある故障。──おお、喧騒と幻よ!
出発だ、新しい情感と、新しい雑音のなかへ!

アルチュール・ランボー「出発」(清岡卓行訳、河出書房新社)

映画は「新しい情感」と「新しい雑音」の中へと観者を導く。独特のアゴーギクで、フモールを持って、テンポ・ルバートで。これこそ感性に訴える「詩」そして「音楽」に他ならない。イエジー・スコリモフスキの作品をすべて観たくなった。

それとどうでもよいことだが、この映画を観ながら「僕のセンサー」がそこかしこで反応した。 イエジー・スコリモフスキってナボコフ原作の『キング、クイーン、そしてジャック』を映画化していたり『夜になるまえに』に出演したりしているんだよね。

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ミッドナイト・エクスプレス / Midnight Express
IMDb "Midnight Express "
アラン・パーカーによるシリアスな社会派ドラマ。脚本のオリバー・ストーンによるグロテスクな誇張があるとしても(ジョルジオ・モローダーの煽るような音楽も)、この映画は実話に基づいている。
そしてこの映画が封切られて後、トルコとアメリカでは容疑者引渡しの条約が交わされ、相手国で犯罪を犯した場合、自国での裁判が受けられるようになったという。

アメリカ人青年ビル・ヘイズは、ハシシの不法所持によって、トルコのイスタンブール空港で逮捕される。懲役5年の実刑判決。収監されたトルコの刑務所では、想像を絶する暴力が渦巻き、瞬く間に人間性を剥奪される。
それでも同じ外国人の囚人と知り合い、黙々と刑に服していたヘイズだが、しかし後53日で刑期が終了しようとしていた矢先、彼の刑期は30年に延長される。それはトルコとアメリカ政府との政治的な理由に他ならない。彼は両国政府の政治的取引の犠牲(スケープゴート)にされたのだ。

絶望が彼を打ちのめし、精神に異常をきたす。生き延びるためには脱獄(ミッドナイト・エクスプレスに乗る)しかない……。

……たしかにこういった「社会派ドラマ」であり、「正義、人間性、慈悲とは何か」ということを強く訴える映画であるが、この映画がある種の「カルト」であるのは、そのゲイ・タッチなシーンによるものだろう。のっけからブラッド・デイビスは下着姿で登場し、警察の取り調べでは全裸にされ、刑務所の中では……言うまでもない。シャワー室でのキス・シーンは、かなり抑制されているとはいえ、なかなか美しく描かれている。

また、他の囚人は長髪なのに、デイビスは短髪、実際のビル・ヘイズ(DVDの特典に出演していた)とは似ても似つかぬハンサムなルックス、筋肉質の肉体と何よりセクシーな胸毛で、観者を挑発する。実際主演のブラッド・デイビスはこの『ミッドナイト・エクスプレス』とファスビンダーの『ケレル』によってゲイのアイコンとなる。

さらに深読みすれば、「異国の地(同性愛者にとっては異国ですらない此地)」で「犯罪者」とされ、孤立無援の状態におかれ、理不尽な暴虐に晒される/スケープゴートにされる「青年」の姿は、そのまま「同性愛者」の「メタファー」としても十分に通用するはずだ。空港で麻薬を持っていることが「バレないか」と心臓が高鳴るシーンは、同性愛者が自分の「素性」が「バレないか」と恐怖する心理とオーバーラップする。時代はまだ70年代だ。
裁判のシーンでもデイビスは「昨日の罪が今日は罪ではなくなる」「法律は時と場所によって違った適用を受ける」と主張する。

(このことは日本においても十分通用する。それは舞城王太郎という差別作家が、同性愛者にペドフィルの犯罪を擦り付け、焼き殺そうとするような文章を「面白がって」書いている事実があるからだ──これこそ「スケープゴート」であり、これこそヘイトクライムの助長に他ならない。しかもアメリカと決定的に違うのは──決定的に問題なのは──こういった「理不尽さ」を公に指摘する「勇気ある態度」を示す批評家なり書評家なりが全くいないことだ。「正義」の問題はこういうところに横たわっているのではないだろうか。だからこういったことがあるかぎり、プラトン『パルメニデス』『ピレボス』のレビューでも書いたが、僕は「セキュリティ(安全)」の問題により重点を置かざるを得ない)

そしてブラッド・デイビスがバイセクシュアルであったことは有名であり、1991年、彼はエイズによって亡くなっている。

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ホーンティング / The Haunting
IMDb "The Haunting"
優美このうえないシャーリイ・ジャクスンの小説を、『スピード』『ツイスター』の監督が撮ると、こうなる。つまり、「幽霊」を「実体化」させ、派手に暴れさせる。

これは映画として「見せる」場合、仕方ないのだろう。ジャクスンの小説もヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』と同様、妄想と現実の「曖昧さ」を読者に想像させ、繊細な心理描写の積み重ねにより、不安を誘う類の小説だからだ。多分、ヤン・デ・ボンは『ねじの回転』を映画化したとしても、幽霊を実体化させただろう(『ねじの回転』をオペラ化したベンジャミン・ブリテンも「幽霊」を「実体化」させている)。

とすると、小説が持っていた「恐怖の何か」や「不安感」は稀薄になり、別な「見所」を探さなくてはならなくなる。この映画の見所はその幽霊屋敷が見事に「実体化」されたことだろう。これだけゴージャスなセットとCGを使った凝った映像はさすがだと思う。またジャクスン小説にどことなく──曖昧に──匂っているレズビアニズムも、ゴージャスなキャサリン・ゼタ・ジョーンズ起用と彼女のあからさまな「モーション」によってなんとも明快にカミングアウトされる。

そして何より、精神的な病理現象は、逐一、形象を与えられ、理由が与えられ、孤独で病んだ主人公は「邪悪」に立ち向かう「正義のヒーロー/ヒロイン」となる。
この映画はある種の「アクション映画」なのかもしれない。

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愛する者よ、列車に乗れ / Ceux Qui M'Aiment Prendront Le Train
IMDb "Those Who Love Me Can Take the Train "
ラスト、カメラが上空から幾何学的な形態の墓地をすうっと駆け抜け、そこにマーラーの交響曲10番が流れる──それだけで、もう、感無量だ。
死んだ画家が残した「私を愛する者はリモージュ行きの列車に乗れ」という、謎めいた遺言に従った人々のドラマは、それぞれが決して幸福な解決には至らないが、同性愛者、異性愛者の登場人物を冷ややかに見つめながら動き回るカメラの視線、そのあまりに冷淡でありながら、あまりに美しい映像には息を飲む。様々なムードを醸し出す音楽を背景に映し出される、(まさに!)流れるような映像美に、まったく陶然とさせられる。

実を言えば、ストーリーはあまりよくわからない──というより「ミステリー的」な解決を期待するのを途中で断念した。何よりこの群像劇風の映画はあまりに「音楽的」なのだ。
窮屈そうな列車で繰り広げられる男と男、男と女のドラマ──アンサンブルは、アンチ・ロマンであり、とても物静かに、冷ややかに進行する。フランス映画らしいといえばそうであるが、これほど冷淡なトーンでありながら、どこか優しい響きも感じられ、言葉に言い表せない不思議な感動を呼ぶ。まるで音楽を聴いたときのように。

そして不思議な既視感にも捉えられた。多分それは、美青年シルヴァン・ジャック演じるブリュノの姿に関係する。彼はHIV感染者という設定であるが、その物憂げなルックスに、かつて『傷ついた男』で監督パトリス・シェローと共同で脚本を書いた作家のエルヴェ・ギベール──91年にエイズで亡くなった──の姿が二重映しになってしまうからだ。

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ケレル / Querelle
IMDb "Querelle"
殺人の観念はしばしば海の観念、水兵の観念を呼び起こす。

ジャン・ジュネ『ブレストの乱暴者』(澁澤龍彦訳、河出書房新社)
まさしく正典、Gay Canon だ。ジャン・ジュネの小説をR・W・ファスビンダーが映画化したこの作品は、ゲイ・キャノンと呼ぶに相応しい。
ここでは殺人と男色がナルシスの鏡像のごとく向かいあい、互いに魅了しあい、熱狂を帯びる。瓜二つのロベールとケレルの兄弟は、いつも格闘している。
(狂気の)一方は肉体に発して精神に及ぶというもので、体内にある種の良からぬ液がまずある。そしてそれが、やはり体内を駆けめぐっている有害な蒸気と混じり合って生じる狂気。これは激しくて癒りにくい病気になる。

プルタルコス『愛をめぐる対話』(柳沼重剛訳、岩波文庫)
ブレストは異様な霧/熱気に包まれている。いつも熱い血潮のような夕陽に照らされている。その毒気に中った人物たちのアクションはひどく誇張され不自然で芝居掛っている。映画は独特の色彩感覚に彩られ、印象的なテクストが画面に映し出され、それが朗読される。
様式(スタイル)を強調することは、内容を軽視することである。あるいは、内容について判断を下さないような態度をとることである。

スーザン・ソンタグ『<キャンプ>についてのノート』(高橋康也他訳、竹内書店新社)
ブラッド・デイビス演じるケレルは、常に上半身を曝け出し、引き締まった肉体と野性的な体毛を誇示する。そして汗と油、石炭の汚れこそは雄々しさと精力を示すセックス・アピールに他ならない。そこに屈強な男ノノ、ハードゲイ/ポリスマンのマリオ、美青年ロジェ、ケレルへの愛をカセットに封じこめるセブロン、そしてロベールとケレルの兄弟に魅了されるリジアーヌの欲望が入り乱れる。
欲望というやつ、食べさせれば今日だけは満足するが、明日になればもとの鋭い力をとりもどす。

シェイクスピア『ソネット集』(高松雄一訳、岩波文庫)
ビリー・バッドが《人権号》の「花の水兵」ならば、ケレルは《復讐号》の「殺人の水兵」。麻薬の密売、それに絡む冷酷な殺人。そして愛する者を殺す美しい殺人者ケレル──同じ犯罪者として心を通い合わせ、初めて男とのキスを許し、「受身」から「能動」に転じその愛を捧げたはずのジルに、ケレルは、自分の罪を擦りつけ陥れる。野獣のようにエレガントで悪魔のようにスマートな水兵ケレル。
ジルはロベールと似ている──同じ俳優が演じている。
野獣は彼が予測できなかったときにとびかかった。

彼は自分の人生の<密林>を、さらに、そこに潜む野獣を見た。

ヘンリー・ジェイムズ『密林の獣』(北原妙子訳、平凡社ライブラリー)

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