アザーズ / The Others
IMDb "The Others"
女性の魅力にはついては無頓着──あるいは無関心──な僕ではあるが、この映画でのニコール・キッドマンは美しく非常に魅力的だった。スリムな姿態、すらりと伸びた手足、そして透き通るような白い肌。時代もののドレスをエレガントに着こなし、「この世のものと思われない」独特のオーラを放っている。名演だ。

映画も見事な「ひねり」の効いた名作であった。流血や残忍にシーンはまったくなく、しかも白昼を舞台にした大胆な設定のホラー。通常の心理的/超心理的な葛藤を逆手に取り、「闇の恐怖」ではなく「光の恐怖」から逃れるべく進行する強烈なサスペンス。そしてその帰結として判明する本当の真実。

この映画で素晴らしいのは、「真実」を知ろうとした「意志」によって、その「意志」ゆえに、根ざしていた「世界」が崩壊し、拠っていた「真実」が倒立してしまうこと。「この世界」と「その真実」を支えていたものが、これほどまでに危ういシロモノ──あえて言えばただの「勘違い」──でしかなかったという事実を突き付けられるところだ。この崩壊感、この倒立感、これが実にたまらない。この感覚こそがカタルシスであり、本格推理小説を読んだときの醍醐味にも通じる。

また『アザーズ』がヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』(THE TURN OF THE SCREW)に影響を受けていることは言うまでもないだろう。登場人物の設定、そのゴシック的な雰囲気、幽霊が「見える/見えない」という状況、限定された「主観的な視点」により展開されるドラマが最後にその「閉じられた世界」を「客観的な視点」に明け渡されたときに浮びあがる「真実」──ヒロイン(たち)はいったい子供たちに何をしたのか?
ジェイムズの小説では、存在しない幽霊が存在するように見せかけ信じ込ませることが「ひねり」(ターン)であった。では『アザーズ』の「ひねり」(ターン)はなんだろう。

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ペダル・ドゥース / PEDALE DOUCE
IMDb "PEDALE DOUCE"
こんな賑やかで楽しい映画は、是非、ジェンダー/セクシュアリティなんていう「色眼鏡」を外して観ていただきたい。とにかくストーリー良し、音楽良し、コメディ・センス良し、そして男のセンス良し、と言うことなし!

ビジネスエリートのアドリアンはゲイ。しかし彼はゲイ・クラブを経営する女性オーナー、エヴァに友情以上のものを感じている。ある日、商談のため、有力銀行頭取の夕食会にアドリアンとエヴァは「夫婦として」参加。ここでエヴァは、持ち前の気風の良さと気の強さで一悶着起す。しかし頭取のアレクサンドルはそんなエヴァに惚れてしまう。
やがてアレクサンドルは、アドリアンがゲイであること、エヴァがアドリアンの妻ではなくゲイ・クラブのオーナーであること、そしてそこの常連に堅物だと思っていた彼の部下が出入りして「本当の自分」を曝け出していることを知る。もちろんガチガチの異性愛者で保守的なアレクサンドルである。彼にとってゲイの世界は戦々恐々としたものであることは否めない。しかしエヴァへの愛が彼を変える。

そんな中、アレクサンドルの妻マリーが偶然エヴァが経営するゲイ・クラブを訪れ、そこで夫が男性と親しそうにしているのを目撃してしまったので、さあ大変。夫はゲイ? とまた一悶着起きる……。

この映画はフランスで大人気を博したというとで、たしかに単なる「同性愛映画」の範疇を超えている。というより、もしかしてこれは「異性愛映画」と呼んだ方が相応しいのかもしれない。つまり、周りが「異性愛者」ばかりであるときに、「同性愛者」の存在が際立つように、「同性愛者」が「普通に、そして大勢を占める」夜のとあるパリでは、「異性愛者」の恋愛が独特のアクセントになって独特の印象を残す。
さらにこの映画を良く観ると、メインキャストはみんな「中年」で、ゲイ/ストレートを問わず、フランス産の洗練された「大人のラヴ・コメ」を観ているような気になってくる。「人間喜劇」の伝統が窺える作品だ。

個人的にはアンドレ役ジャック・ガンブランの演技に魅了された──共感した。なんといっても彼は、件のゲイ・クラブで、スーツを脱ぎ捨てるストリップをやってしまうのだから。これは仕事終了→ハッテン場直行→スーツから全裸へという「経験」を持つ人にはたまらないシチュエーションだろう。
「豹変」する自分/「自分」の豹変を「意識」することは、この上もなくエロティックなシチュエーションなのだ。

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太陽はひとりぼっち / L'Eclipse
IMDb "L'ECLIPSE"
モノクロームってこともあるだろうけど、あまり「イタリア」って感じがしない。映し出される景色は殺風景な場所ばかり選ばれ、街並みも冷たく人工的なモダーン建築で構成された無国籍風──まるでウルトラセブンの<第四惑星>を彷彿とさせる。そして、ドラマのプロポーションが崩れるくらいやたらと長く執拗に映し出される証券取引所の様子も、資本主義社会における欲望のゲームの空疎さを確認することに手を貸すだけだ(だってイタリアと言えば、かつて西欧において最も威勢が良くラディカルな共産党が人気だったはずだ)。

だからそこで繰り広げられる人間ドラマも、情熱の欠如した稀薄な人間関係、欲望を喪失した孤独な人間存在の空疎さを際立たせる。良く言えばアンニュイ、悪く言えばだらだらとした映画。人間でさえ、まるでオプジェのように冷ややかな存在に成り下がり、その孤立した物自体を監督ミケランジェロ・アントニオーニは独特のショットで捉える。なんだか映画を観ているというよりも、写真集を──例えばハーブリッツの美しいモノクローム写真集を──めくっているようだ。

まあ、はっきり言えば、モニカ・ヴィッティの「愛の不毛」ごときに付き合っていられない。彼女は冷ややかな表情を見せ、スフィンクスのように謎めいた行動を取り続ける──唐突にアフリカ人みたいな格好をするシーンは何なんだ? 
それよりハンサムなアラン・ドロンの方でしょう。フォトジェニックなドロンは、どのショットでも非常に魅力的に写る。素晴らしい被写体だ。例えば部屋で電話を取るアラン・ドロン──胸がはだけてセクシーだ──は完全に「モデル」になっている。
分かってしまえば何でもないことだが、真正面から写真を見ると、目はちょうどカメラのレンズと同じ位置にくる。

フリオ・コルタサル『悪魔の涎』(木村榮一訳、岩波文庫)

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海をみる / Regarde la mer
IMDb "Regarde la mer"
英語のタイトルは "See the Sea" 。海のイメージを美しく捉えたこの作品に相応しい。もちろんフランス語の原題 "Regarde la mer" も、美しい響きを持っている。しかもどこか幻想的で神秘的なニュアンスを感じる。それはこの "Regarde" という言葉を聞くと、僕は、オリヴィエ・メシアンのピアノ曲『幼子イエスへの20のまなざし』(Vingt Regarde sur l'Enfant - Jesus)を思い浮べるからだ。
もっとも、この映画における幼児への「まなざし」は、異様で狂気を帯びたものであるが。

ストーリーは、父親が不在のある家庭──母親と幼児の二人だけ──に、バックパッカーの女(タチアナ)が庭にテントを張らせて欲しいと訪れる。母親は了承する。しかしタチアナの振舞いは奇妙で常軌を逸したものだった。やがて……。

……という、緊張感漲るサスペンスフルな映画。このテイストはまさしくノワールだ。オゾンは、他の作品でもそうだが、ミステリーの要素を自家薬籠のものとしている。多分セリ・ノワール叢書あたりの熱心なファンなのだろう。もっとも、だからこそ、ミステリーやサスペンス小説のファンならこの結末はおよそ予想がつくかもしれない。
が、しかし「ここまでやるか!」というショッキングな、思いっきり神経を逆撫でするような映像の連続が待っていることを忘れてはならない。なんといってもフランソワ・オゾンである。その映像に唖然とさせられ、思わず”Shit!”と叫びたくなる──それこそがオゾン映画の真骨頂であり、とびきりの猛毒にしてやられる。

まずは女のオナニー・シーン。ま、これは、(僕はもちろん観ないが)ストレート男性用ポルノでは当たり前のようであるし、一般の映画でもときたまある(リンチの『マルホランド・ドライヴ』にもあった)。次に、女の覗き。ゲイのオゾンならではで、林にあるゲイのハッテン場に女が入り、男同士のセックスを覗くというもの(フェラチオの「音」がリアルに聞える、さすがだ)。これもまあ笑って済ませるところではある。
しかし、しかし女の排泄シーンとその後の「歯ブラシ」のシーンは、さすがの僕もぶっとんだ。まさしく”Shit!”と声が漏れた。パゾリーニも凄かったがオゾンも素晴らしくエグイ。

しかもそういったグロテスクな映像に、この上もなく美しい海の映像と幼児に対する不可思議な「まなざし」──まるでマリアとイエスのパロディのような──がかぶさる。いまさらアモラルと言うのも遅きに失する感じの強烈な作品だ。

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X-MEN 2 / X2
IMDb "X2"
コロッサス、カッコイイ! サイクロップスは──大好きなキャラだけど──今回は、ウルトラセブン『史上最大の侵略』のアマギ隊員みたいな役で、ミュータント側に犠牲が出てしまった(さよなら、そしてありがとう、ジーン)。ミスティークは相変わらずだし、今回加わったナイトクロウラーの能力も凄い(敬虔なキリスト教徒っていうのも凄い)。
ストーリーは良いし、何よりアクションが最高。スケールアップしたX−Menは、今年最もエキサイティングな映画だったと断定したい。2003年度のベストはこのX−メン2だ。

それにしても、人間側「軍隊」のハンサム揃いは、ゲイ・ビデオと見紛うほど。もちろんアイスマンの「カミングアウト」シーンは、ブライアン・シンガーならではだ。よってこの映画の趣旨は言うまでもないだろう。

だから言いたい放題書くが、今回僕が特に注目したキャラクターは、パイロとストライカーだ。

火を自在に扱う少年パイロは、仲間が差別され殺されそうになるのを目の当りにする。だから彼が最後マグニート側につくのは痛いほどわかる。ストライカーは(あるいは人間たちは)、教授の共生という「ルール」を蔑ろにしているからだ。暴力には暴力を。不正義には不正義を。無垢な少年は、その怒りの炎を「力への意志」へと転化させる。

そしてストライカーの「キャラクター」。僕には、そのルックスも含めストライカーは、フロイトを思わせる。「科学者」を自認するストライカーはミュータントを絶滅しようと画策する。それはミュータントを「異常者」と「診断」したからだ。まさにフロイトが精神分析という「似非科学」で、正常と異常に線を引き、異常を矯正/撲滅すべく、ヒトラーの実行動を準備/予告した。
病気、狂気の定義、狂人の分類は、私たちの社会から、ある一定数の人たちを排除するようにしてなされてきました。

ミシェル・フーコー「人間的本性について──正義対権力」(筑摩書房『ミシェル・フーコー思考集成X』)
なんと言っても、自分の子供でさえ「実験動物」(ストライカーはミュータントを「アニマル」と呼ぶ)にしてしまう似非科学者の非人道性は、明快すぎるほど明快だ。ミュータントの子供たちが閉じ込められる牢獄(監獄)は、かつての精神病院を彷彿させる。彼らは監視され、「矯正した」ミュータントだけが生かされる。
そして権力者ストライカーは、死の間際においても、「私の意思は他の誰かが継ぐ」と不気味なセリフを吐く。そう、ネオナチがヒトラーの差別主義を引き継いだように、フロイトの「差別知」を大勢の「知識人」が継いだ。
かれ(注:ユング)は自己の無意識と対決することを通して精神病者が経験するような内的な危機に直面します。(小川捷之「正統から異端へ(2)──ユングの離反と精神分析」──『フロイト精神分析物語』)
俺ねェ、最初これ読んだ時、うっかり、”精神病者”を”精神分析研究者”って読んじゃったのね。アァ、そうだろうなァ、”精神分析研究者”って自己分析やんなきゃ意味ないもんなァ、だから最近じゃァ、ちゃんとやるようになったんだなァって、俺ワリと感心したのね。でも違ったのね。”精神分析研究者”じゃなくて、ヌケヌケと”精神病者”だったのね。
俺サァ、これに気がついた時あきれたね。お前サァ、よくもマァそうやって”精神病者”を差別出来るなァ、ってね。だってサ、そうでしょ? この文章、ユングの”偉大さ”を称える為に、”こんな危険なこともしました、あやわ、キチガイとスレスレのところまで行きました”って、そう言っているだけなんだもんねェ。批判というものを放棄しているのねェ。(中略)これじゃもう、精神分析のことを知ろうとする入門者に、無批判に、キチガイ差別、学者崇拝の念を植えつけるだけじゃないよ。

橋本治『蓮と刀』p.203(河出文庫)

ミシェル・フーコーを特集した現代思想12月臨時増刊号には、精神分析医によるフーコーの「精神分析批判」に応える文章があった。しかし小難しい「批判」「反批判」はどうでもよい。問題は、国際精神分析協会が、同性愛者を抑圧してきた過去と、未だ同性愛者の志願者を「受け入れていない」という差別をヌケヌケと、まるで他人事のように書いていることだ。この書き手は、自分が、差別集団の「内側」に所属しているという「意識」がないのだろうか。

このことについて、真っ先に思い浮べたのが、アメリカの軍隊におけるクリントン政権の「妥協策」──つまり「Don't Ask, Don't Tell」だ。これは軍隊において同性愛を公言することを禁じるが、同性愛者が自分のセクシュアリティを「語らなければ」OKだということ(だから「尋ねるべきではない」)。

「精神分析協会」というのは、どうやら「アメリカの」軍隊みたいなものらしい。それとも「新宗教」なんだろうか……と書こうとしたが、最近、米監督教会がゲイの高位聖職者就任を認めたため、この言い方は適当ではない。事実は「精神分析」とは「宗教」よりも頑迷な「天動説」を教義として守っていると言うことだ。

だから、不思議に思うのは、精神分析のような「差別知」を、人権問題やフェミニズム、反戦に使う人の存在だ。スウェーデンが、精神科医に唆されて行った同性愛者への去勢は、日本政府が行ったハンセン氏病患者への断種・強制堕胎や日本「軍」が行った従軍慰安婦と同様、「人間の尊厳」に対する「犯罪」である──まるでストライカーがミュータントを手懐けるべく「手術」を行ったように。自分たち「以外」を「異常」だと思うから──思い込むから、「分析」/「矯正」を恥知らずにも行うことができるのだろう。

「心ある知識人」なら、「去勢の失敗」などという「精神分析用語」を、妄りに、気取って、偉そうに、使うべきではない──いや、出来ないだろう、と思う。
精神分析的言説が孕んでいるのは、常に「浄化」だけだ──ストライカーがミュータントを絶滅させようとしたように、そしてヒトラーがユダヤ人を、ジプシーを、精神病患者を、同性愛者を絶滅しようと企てたように。
反ユダヤ主義はさまよう。バレス、スーリー、ドリュモンが、誰の書物、誰の講義、誰の学説の上で反ユダヤ主義を会得し、その武器庫からいかなる言説を取り出していったかを明らかにすることは、網状組織のごく一部を切り取り、サンプルとして陳列する作業にすぎない。局所的な格子模様がいかに理論として破綻していようとも、綿々たる網状組織は片時も揺らぐことがない。この網は、いかなる方向へ、何に向かって収斂しているのか。病という歴史を扱いながら、菌を含んだイデオロギーを飲み下しながら、歴史家がその病に感染せずにいることは可能か。症状のなかに病因学的兆候を読み取る手続きにおいて、みずから病原菌に感染してしまわないことなど可能なのか。

菅野賢治『ドレフュス事件のなかの科学』p.245(青土社)

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ザ・プレイヤー / The Player
IMDb "The Player"
これぞ「ハリウッド映画」。 強烈な皮肉と適度な内輪(映画)ネタが抜群に面白い。しかも、展開がスムーズなので、映画的「教養」やメタな構成がぜんぜん鼻につかず、心地よく映画「それ自体」を楽しめることができる(いや、ジュリア・ロバーツやブルース・ウィルスらが脇役──ゲストか──で出演しているところは鼻につくか?)。
何よりもスリルとサスペンス、セックス、そしてあれで──あのストーリーで──「ハッピーエンド」なんて!(というより、「ハッピーエンド」になるのか、この映画が<真正の>「ハリウッド映画」に<なる>のかどうかが、最高のサスペンスだった) 
さすがアルトマンだ。

なので、引用される過去の映画やその「テクニック」をいちいち示すなんて野暮の極み(というより、観客の動静も俎上に挙がっているのを忘れてはならない)。一人でほくそ笑んでいればそれで良い。なので、趣味の感想に徹する。

アルトマン作品では、必ずと言ってもいいほどハンサムな男が登場するが、 今回は主役でもあるティム・ロビンス。ダブルのスーツをエレガントに着こなし、様々なショットで彼の魅力が映し出される。しかも IMDb に「male-frontal-nudity」というキーワードがあるように、ボカシが入るのは彼の裸体に対してだ。
そして注目されるのは、彼がセクハラまがいのことを「される」ところ。彼は警察署で性的な質問をされ、憤るのだが、その質問をする警察官は黒人女性。多分ここには一種のジェンダー撹乱の狙いがあるのだろう。しかしそのときのティム・ロビンスの表情といったら……キュートとしか言い様がない。

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