大蔵一門と原田氏

 大蔵一門とは、大蔵春実を祖とする九州北部の一族で、主な家を上げると原田・高橋・秋月・田尻・三原・原・江上・鞍手・岩戸・美気・山崎・古賀・枝吉・米倉・小金丸・波多江・海頭・別府・安永・天草・山鹿・坂井・粥田・砥上などである。


 大蔵氏の起源は高祖劉邦の漢帝国を西暦二十五年に再興した劉秀(光武帝)から九代目の後漢霊帝と言われる。戦乱で朝鮮半島(帯方郡)へ逃れた漢王二十九代阿知王は、その子都賀使王及び七姓氏・十七県人を率いて289年9月5日に備中国窪屋郡大倉谷に渡来する。大和朝廷は彼らを優遇し、東漢の姓と臣(おみ)の位を賜り斉蔵(大蔵)の長官に任じられ、奈良県高市郡飛鳥村桧隈に住まう。呉国に使いを出し、4人の織目を連れ帰り養蚕・染色・機織・裁縫の技術を教える。諸国からの貢物を管理する大蔵大臣に任命すると共に「大蔵」と「坂上」の姓を賜る。大蔵忌寸の後に宿彌を賜り、一族 坂上田村麿の功により朝臣の位を賜る。940年に伊予の豪族 藤原純友が大宰府で反乱を起こすと朝廷は大蔵春実に討伐を命じ、箱崎浜や肥前鏡山で見事打ち破る。その功により太宰少弐の官位を与えられ筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬を管理することになる。当初は肥前基山城を拠点にしていたが便利の良い原田庄へ移り、以後「原田氏」を名乗る。後に岩戸城(那珂川町城山)を築く。原田種村は刀伊賊を、原田種光は南蛮の賊を撃退し、鎮西の守りを固める。

 平安時代末期、源氏と平氏が戦った保元の乱・平治の乱では原田種雄と嫡子種直が六波羅に入り平氏勢として戦い、平氏との関係が深くなる。1160年2月に平重盛の養女を種直の室として迎え、自身も従五位下となり大宰少弐の職を継いだ。種直の次男種国は後白河法王が幽閉された時の警護を命じられている。元暦二年(1185)二月一日芦屋浦にて種直と種国(吾妻鏡では賀摩兵衛尉・嘉摩田種国)が源範頼と戦い、種直の弟の美気三郎敦種が討ち取られている。壇ノ浦で平氏が惨敗すると原田氏は岩門郷三千七百町の領地を没収され、種直も十三年近く鎌倉に幽閉される。開放された種直は源氏に味方させていた子 種成(早良種成)を頼り早良郡へ行き、後に頼朝より怡土庄の地を与えられる。

 建仁三年(1203年)に筑紫郡岩門より怡土郡五郎丸(三雲)に移り住み、伊勢(怡土)ノ山(現在の高祖山)に館を構える。建長元年(1249年)原田種直から4代目の種継・種頼親子が怡土城(朝鮮式山城。吉備真備などが大宰府の守りに築いた。)の一部を利用して高祖城を築き、麓に館や武家屋敷を構える。文永十一年(1274年)10月の「文永の役」では原田種照・種之兄弟が六千五百騎を引き連れて防戦するも、八幡宮(箱崎宮?)裏手の深田で討ち取られる。種照は42歳であった。弘安三年(1281年)の「弘安の役」では原田種照弟 種之・種房が今津で防戦している。弘安の役の功により原田種房は大宰大監に任じられる。

 その後、北条氏が足利尊氏により滅ぼされると日本が南北朝に分かれる。延元元年(1336年)に足利尊氏・直義兄弟が九州へ下ると原田種時はこれに味方する。しかし、嫡子の種宗は足利氏討伐の軍を起こした菊池陣営に入る。多々良川合戦で足利勢三百騎に対し菊地勢五千騎という状況ながら足利勢が勝利する。この一戦での勝利により九州を治めた足利軍は京都に攻め上り、湊川合戦では原田種時も奮戦する。原田種宗は帰参することが出来ず筑後で原氏の養子となる。足利尊氏が京都に上った後の九州北部は再び菊地・大友・少弐の支配となったので、応永三年(1396年)に足利義満は大内義弘を九州へ下向させると原田氏はこれに組みする。その後大内義弘は足利義満と不和となり、応永七年(1400年)に京へ軍勢を進めるが幕府軍に破れる。原田氏は大内義弘の嫡子である大内新介や弟の大内盛見と供に義弘の遺志を継ぎ筑前を統一していく。

 大内・大友両家の争いは永亨年間頃から始まり、永亨三年(1431年)4月大内盛見は立花城を攻める。城を追われた大友持直は二丈岳に立て篭もったので原田種泰に援軍を要請し二丈岳で戦うが破れ、大内盛見は牟田孫右衛門に討たれる。永亨五年(1433年)八月十六日に大内持世(盛見の弟)が二丈岳城を攻め、大友満貞(持直の弟)の嫡子は深江で、大友満貞は古処山城で討たれ、大友持直は豊後へ敗走する。この戦いでも原田氏は活躍し、先年の汚名を潅ぐ。応仁の乱が始まると原田種親は大内政弘の要請に応じ、波多江種盛などを率いて上洛し、山名宗全方として戦う。嘉吉元年(1441年)足利義教が赤松氏に討たれた為、播州白旗城攻めに原田弘種が参戦し同年九月十三日に攻め落とす。明応五年(1496年)十二月二十二日に対馬に逃れていた少弐政資が高祖城を包囲する。原田勢はよく防ぎ、翌年三月十六日に大内義興が援軍を送り難を逃れる。明応六年(1497年)四月に大内勢は少弐政資を自害させ、原田興種を筑前守護代とする。永正四年(1507年)頃から志摩勢が怡土庄に攻め込み、攻防戦を繰り返すようになる。永正五年(1508年)正月、原田興種は足利義尹に従い九州諸侯と共に上洛する。享禄二年(1529年)四月、大内義隆は家臣の杉興連と原田隆種に命じ大宰府から少弐資元を攻め、少弐勢は肥前に退く。享禄三年(1530年)に原田興種は俄かに発病し、この頃から書状にも原田隆種の名が見られる事からも事実上家督を継いだものと考えられる。享禄四年(1531年)から天文二年(1533年)まで水崎勢から攻め込まれるが、天文二年(1533年)に大内家臣の梅月頼致と反撃に転じ志摩へ攻め込み、柑子岳城を攻略する。同年正月より陶道麒の軍勢に属し、仁保加賀守と共に肥前国神崎郡少弐勢と戦う。天文十三年(1544年)四月六日原田隆種は大内家臣の陶道麒に属して肥前国神崎郡石動を経て侵攻し少弐勢と戦い大内義隆は感状を与える。

 天文二十年(1551年)九月一日に大内義隆が陶晴賢の謀反により討たれる。永年に渡り大内氏と友好関係であり、原田隆種自身も義隆から「隆」の字を貰い受けた間柄ゆえ、大内氏への恩義から原田隆種は陶氏の指図に服しなかった。天文二十二年(1553年)四月十六日に陶・大友連合軍により高祖城を攻略され、隆種は一時蟄居させられる。弘治元年(1555年)羈旅の陣中で頓死すると原田隆種が四十五代目を継ぐ。弘治元年(1555年)十月に毛利元就が陶氏と戦った厳島合戦に原田隆種は毛利軍に従い陶氏を打ち破る。高祖城に戻ってきた原田隆種は僧籍に入り了栄と号する。弘治三年(1557年)に老臣 本木道哲が隆種の四男 親種に家督を継がせようと考え、長男 原田種門と次男 原田繁種に謀反の罪を負わせて岐志で謀殺する(原田家御家騒動)。謀略を阻止しようとした大原長為・備前親子も討たれたが、当の本木道哲も原田隆種に真実が露見され上意討ちされる(豊後勢に高祖城を攻められ討死したとの説もあるが同年に行われた秋月征伐と混同している可能性が高い)。同年九月、山内の神代勝利が竜造寺隆信に破れ逃れてきたので長野に匿う。

 怡土庄に原田隆種が戻ってみると大内氏に組していた西一族が不遜の態度を示し、原田氏へ対抗するので永禄十年(1567年)九月一日に筒城の西重国を攻め、続いて宝珠岳城・旗振山城と落城させて西氏を滅ぼす。西氏は筒城を攻められた時に肥前の竜造寺氏に救援を求めていたが、長野峠を越えて竜造寺の軍勢が入ってきた時には西氏は滅びた後だった。竜造寺勢三千騎と原田勢二千騎は暫らく対峙していたが竜造寺勢の兵糧が乏しくなってきたので肥前に退く。しかし、時を移さず井原から軍勢を攻め込ませようとした竜造寺勢と再び対峙し、うなぎれが辻(水無〜井原山山頂付近)で戦う。後に和睦し、草野鎮永(原田種吉)の子 五郎を人質として竜造寺に差し出す。

 永禄十一年(1568年)に立花鑑載が大友氏に反旗を翻す。原田隆種は柑子岳城の臼杵新介鎮続が立花城攻めに参加した隙を突いて志摩庄を攻め柑子岳城を攻略するが、引き返してきた臼杵勢に追い払われる。勢いに乗じた臼杵勢は高祖城付近(小金坂)まで迫ったが原田勢の防戦により志摩へ敗走する(臼杵鎮続が豊後へ帰ったのは、この敗北が原因とも泊家の御家騒動の責任を問われてとも言われている。その後城代として臼杵鎮氏が入る)。立花氏救援に駆けつけた毛利勢に原田親種・秀種親子も居たが、大友氏との決戦に敗北すると高祖城に向かい敗走する。大友勢四千騎が迫撃してきたので原田親秀以下三千騎が迎え撃つ(第一次生の松原合戦)。この戦で大友氏に打ち勝つが原田秀種が討死する。

 元亀二年(1571年)一月十四日肥前の草野鎮永が吉井隆光との境界争いから吉井領内へ侵攻する。これに対して原田隆種は両家の和睦を勧める。吉井勢は原田旗下の武将に援軍を要請すると草野勢は引き下がる。しかし、十六日未明に奇襲を受け原田勢は多くの武将を失う。草野勢は深江氏の軍勢により撃退され、吉井・草野の和睦を原田隆種自身が行ったので草野鎮永もこれに従う。

 元亀三年(1572年)一月十六日毘沙門詣に向かった原田隆種が周船寺の山崎で臼杵勢に襲われるが必死に防戦し難を逃れる(山崎合戦)。同年一月二十八日に平等寺を詣でた臼杵進士兵衛鎮氏が原田勢に攻められ、両軍二千騎が激突する(池田川原合戦)。破れた臼杵鎮氏は平等寺で自刃する(臼杵鎮氏の死により再び臼杵鎮続が城代になるが、後に木付鑑実に交代する。臼杵鎮続は天正六年(1578年)に臼杵統景の後見として日向遠征に参戦し、十一月十二日い高城付近で討死。)天正二年(1574年)四月一日に大友宗麟から池田川原合戦の責任を抗議され、原田隆種の首を要求される。原田親種は身代わりになり櫓の上で腹を一文字に切り裂き、「我が首を大友に渡せ」と叫ぶと自ら首を撥ねて下で騒ぐ郎党に投げつけ、即座に数名の郎党も追い腹を斬る。(親種自害の原因が池田川原合戦の責任とするのは遺恨があったにしても多少無理があり、直接の原因として竜造寺隆信との関係が深くなっている事を抗議され、立花鑑連との協議により仕方なく自害したと考えられる)原田家は世継ぎを失ったので草野鎮永(隆種二男種吉)が竜造寺家に人質として出していた五郎を迎え入れる。佐賀で元服した五郎は名を信種とし、原田家四十七代目を継ぐ。

 天正六年(1578年)十一月日向国耳川で大友勢が島津勢に大敗すると九州各地の豪族が大友氏に反旗を翻す。同年に竜造寺隆信が早良郡内野へ進軍すると原田・秋月・筑紫等も呼応し大友氏に叛く。志摩庄の豪族も原田家の傘下に入りだし、天正七年(1579年)七月十二日 木付鑑実の要請で柑子岳城に兵糧を運び込もうとした立花鑑連(道雪)の軍勢二千騎と原田藤種率いる三千騎が激突し大友氏に大勝する。同年八月十二日 月明かりに乗じて柑子岳城を攻め、小坂付近で激戦を展開する。柑子岳城は落城し木付鑑実は立花城へ逃れる。以降、志摩は原田の勢力下に入る。同年に竜造寺隆信と供に早良安楽平城を攻める。天正八年(1580年)七月に生の松原において原田了栄・信種・草野鎮永親子と竜造寺隆信が親交を結ぶ。岩戸合戦(1582年)では立花家に破れている

 原田信種は政事をよく草野鎮永に相談していたので原田家の重臣から不満の声が上がる。これに乗じて原田信種を廃し草野鎮永を原田家に攻めさせようと肥前岸岳城城主 波多親は目論むが重臣笠兄弟に露見し事破れる。天正十二年(1584年)三月十二日原田領内に波多勢が攻め込むと原田信種は自ら大将を務め鹿家で迎え撃つ。十三日両軍が大雨の中で激突し鹿家合戦が始まる。一進一退の攻防を繰り返したが、原田信種率いる精鋭千五百騎が吉井岳中腹から逆落とし(一ノ谷で源義経が行った戦法)をかけ波多勢の横腹を突くと陣形は崩れて大混乱に陥る。浜崎付近まで逃れた波多勢は陣形を建て直し踏み止まろうとするが原田勢の攻撃は鋭く、さらに海上に深江良治が水軍を率いて参戦したので波多勢は肥前に逃げ帰る。

 豊臣秀吉が島津征伐の軍を九州に進めると原田信種は島津との同盟から徹底抗戦を主張する。笠・波多江両重臣は豊臣勢を見定める為に門司へ向かい、毛利軍を主力とする第一陣の陣形を見て驚き、浅野長政に降伏を申し入れる。豊臣秀吉は快く受け入れ、忠臣として褒め称えるが、事情を聞いた原田信種は怒り武門の意地を貫き潔く戦う決意を固める。天正十五年四月十七日 小早川勢一万騎の布陣を見て戦意を失った原田信種は黒田家家臣 久野四兵衛の勧告に応じ高祖城を明渡す。小早川隆景は原田家とは旧知の仲であったので秀吉に助命を嘆願する。豊臣秀吉は反旗を翻した事に怒りを覚えたが、負けると知りながら抵抗した事は誉めるに値すると考え、原田信種と直に会い裁断を決める事にする。秀吉が原田の所領を尋ねたところ、広すぎると没収されるとの考えから少なく報告するが、全てを知っていた秀吉の神経を逆撫でする事となる。その結果、「小身にて一家を立てる事は無い」との裁断が下され佐々成政の与力として筑後に三百町歩を与えられ肥後へ国替えとなる。その後秀吉の兵により高祖城は破壊され、ここに高祖城の歴史も終わる。家臣達は帰農したり他家へ仕官していく。

 佐々成政が肥後で起こった梅北国兼の乱の責任を取らされて自害すると、原田信種は加藤清正の与力として組するようになる。朝鮮出兵が始まると肥前名護屋城に出向いた信種の元に旧臣達六百名近くが集まり供に戦う事を申し入れ、加藤清正もこれを快諾する。文禄元年(1592年)三月二十一日に名護屋を出港するもシケにあい壱岐勝本に滞在した後四月十八日に南鮮の熊川に上陸する。小西行長勢と忠州で落ち合い、小西勢は平坦地を加藤勢は山岳地帯を経て文禄二年(1593年)一月二十四日に京城へ入る。小西氏・宗氏の停戦交渉が始まると一時終戦となり、文禄の役は終決する。交渉は長引き、加藤勢は釜山近くの蔚山(ウルサン)に留まっていたが、交渉が決裂すると「慶長の役」が始まる。慶長二年(1597年)十一月二十九日より明の軍勢数十万に蔚山城を包囲される。翌年慶長三年(1598年)九月二十四日に鍋島・黒田勢などが援軍に駆けつけ城方の士気も上がり、明軍に対して応戦する戦闘の中で原田信種は戦死(一説には戦病死)する。この戦の少し前に豊臣秀吉も死去している。

 原田信種の死後、原田嘉種が四七代目を継ぎ清正に仕える。ある年、清正の息女が毛利に輿入れする事となり、原田嘉種の母は竜造寺氏の養女なので古事に明るいと考えたので息女に付き添って欲しいと言われる。しかし、原田嘉種はこれを拒否し、それ以来清正との関係が不和となり領地没収され追放される。原田嘉種・種房は寺沢広高を頼り食客として遇される。寛永十四年(1637年)島原の乱が起こると原田嘉種・種房兄弟は寺沢興高(広高の弟)に従いこれを出陣し翌寛永十五年二月に唐津へ戻る。寺沢広高が島原の乱の責任と財政悪化を理由に改易されると原田嘉種は江戸に向かい、天海僧正と出会う。徳川の世となり「豊臣に抗いし原田は徳川に忠義を果たしたと同じである」との事から慶安四年(1651年)二月一日 会津若松城主 保科正之に二千石で仕えるようになる。原田嘉種は六十七歳と高齢であったが、保科正之公に手厚く遇された。弟の原田種房は現世を愁いて僧籍に入り長崎に居たが、原田嘉種は会津に呼び戻し五百石を与える。原田嘉種が万治三年(1660年)八月二十九日に七十七歳で大往生すると嫡子 原田種長が四十八代目を継ぐ。


 ※上記で紹介したのは筑前の原田本家で、この他にも徳川家に仕えた一族で遠江国佐野郡原田庄の藤原南家工藤氏族が旗本衆に名を連ねている。