簡略に言うと エジプトのカイロより南下し スーダン、ケニア、ウガンダ、ザイール(今はコンゴ) タンザニア、ザンビア、ジンバブウェを廻る。 期間は約1年。すべて陸路。 今は スーダン南部とコンゴ西部が紛争地域で通行するには危険。 本当は南アフリカまで行き大陸縦断を完行したかったが 行けば他のアフリカ諸国へ入れなくなり (当時南アはアパルトヘイト続行中で非難を浴びていた。) パスポートを その項だけ破る事になるので 止めた。
約1年で20万円ぐらい。 移動中はホテルに泊まらず 駅やトラックの下で寝る。大きな町に着くと体力補給の為に安宿に泊まる。 1日の食費は平均300円。 移動は基本的にヒッチハイクで 例外はナイル川の船及びザイールの鉄道等。(別に 貧乏旅行を主義としているわけではないが。)
アフリカを放浪すれば 一度か二度はかかると思ってよい。 少年の場合 地図には載っていない小さな集落で 歩行中 高熱の為 急にフラフラになり 倒れた。 意識はもうろうとしていたが 通りがかりのまともな服を着た人が 助けてくれ ホテルに運んでくれたのを憶えている。 ホテルと言っていたが普通のわらぶき小屋だった。 マラリアは蚊が媒介して 感染するのに 寝かされた部屋は蚊がブンブン飛んでいた。 贅沢は言えないので そこのベッドに倒れこんだ。
それから3日3晩 水や薬を飲んでも吐いてしまい、高熱で脱水症状が起こり 頭の中がぐるぐる廻り 幻覚を見るようにまでなった。 たまに意識が正常に戻るので その時は生きている実感があった。 幻覚を見たのは 生まれて初めてだった。(その後 色々な事をやったので 何回かは見た) 薬を飲んでも吐いてしまうので 諦め、 野生動物のように3日間 ベッドの上でじっとうずくまり 自然治癒に賭けた。
若い頃の回復力はさすがに凄い。 3日間何も口に入らなかったので 干からびる一歩手前までいったが 4日目より無性に喉が渇きだし まず 水が飲めるようになり 5日目より 空腹を感じるようになった。 また 少し歩けるようになり 近くの畑で果物を食べれるぐらいに回復した。 一時期は 死んだ方が楽だと思う苦しさだった。 医者がいれば少しは楽に治ったと思うが、 倒れた地域は 祈とう師 しか居ない所だった。 少年は祈とう師を信じていない。 信じるものは救われるのに。
ナイル川を船で上っていく途中で下痢が始まってしまった。 (その時は のんびりした一週間程の船旅だった) そのあたりは広大な湿地帯で世界的にも病原菌の巣窟で有名な所である。 (余談だが 昔 ナイルの源流を発見しようとした何人もの探検家たちがこの地域で病原菌に阻まれ絶命した。 だからスピークはナイルをさかのぼるのをあきらめ ビクトリア湖からナイルの源流を推測した)
大便がだんだん柔らかくなり 完全に液体になってしまった。 液体としてすべて排出されても それでも体は体内の病原菌を排出しようとして 便意をもよおす。 しかしもう 最後は泡しか出てこない。そうなったら 大変で 真下に泡は落ちない。 180度 おならといっしょに霧状に噴霧され 足にまで飛び散ってしまう。(この船には便器と言う上等なものは無く 床に穴が開いているだけ。 下はナイル川がゆうゆうと流れている。)
足を開いて したり 中腰で やったり 泡をちょっとずつ出そうとコントロールを試みたがうまくいかなかった。 最後の手段で トイレに入る前にすべて下半身 丸出しにして トイレから出た後に足を 洗うという方法を取った。 そういう状況が何回か続いた。
下痢の原因はわかっていた。 その船に乗り込んだ一週間は 食費を節約しようとして 小麦粉とみかんしか食べていなかった。 小麦粉の粉を口に放りこみ みかんの汁で流し込んでいた。 だから体力がおちたので調子をくずしてしまった。 どうにも我慢が出来ず途中で下船した。 体力補給のため集落の食堂に行き 豆のカレー(メニューはこれしかなかった)を 食べたが すぐにはおさまらない。
便所に行く回数が減るまで2、3日その集落に滞在。 マラリアも苦しいが泡の下痢も苦しい。この後 約半年 慢性下痢。 移動中は現地の人と同じく川の水や井戸の水を飲んでたので当然だが。 たまに 固形のでかい便が出る時があったが その時は 全開を忘れてしまっている肛門は無理をするので非常に痛かった。 ちょっと切れて血が出た。
放浪中 色々な所を 泊まり歩いたが その一つに学生寮もあった。 少年も学生であったので ある国の首都で一番の大学に行き 泊めてくれと交渉した。 最初は 部外者は泊めないと断られたが、晩飯をおごってあげると言ったら あっさり認めた。 そこの学生数人と食事しながら話していると 政府に対し すごく不満を持っている事分かり 明日 デモをするという。 一緒に参加してくれと依頼されてしまった。
政治には介入しない主義であったが 好奇心もあり 一宿の恩義もあり OKした。 どうせ 機動隊と小競り合い程度に思っていたから。 しかし 予想は全く外れた。
翌日 皆と大学から町に進み 町で群集と合流し(町中の店がすべて閉まっている。) 官邸まで行く途中で発砲音と喚声が聞こえた。 既に戦いは始まっていた。 群集は逃げながら投石をし 相手は軍隊で 自動小銃で民衆に発砲しており こん棒を持っているものは捕まえたものを殴りつけている。学生もこん棒を奪い取り負けていない。 圧倒的に学生側の人数が多いのだが やはり銃には負ける。 町中逃げ惑う者や追いかける者 倒れている者 助ける者 ぐちゃぐちゃになっている。
いまでは中国の天安門事件などは国際社会で取り上げているが 当時のまたアフリカの国でそれ以上の事が起こっていてもニュースにはならなかった。 日常茶飯事に起こっていることだから。
みんな興奮状態に陥ってる中 少年はなぜか一人冷静だった。 その場を動かなかった。 少年にこん棒を持った兵士が走って近寄り (その時は 歩いている者も立っている者もおらず 皆走廻っていた。)外国人であると判ると異様な形相からポカンとした顔に変わった。 宇宙人でも見るような顔つきだった。 戦闘中の真っ只中に 長髪の東洋人がボーっと立っているのだから 当然かもしれないが。
少年には自分には危害が及ばないというへんな自信があった。' I AM A JAPANESE' と 言って相手の行動を 待った。 兵士が少年の腕をつかみ連行しようとした。 それを振り払い 少年は 兵士の顔をにらみつけた。 暫し にらみ合っていたが 兵士は去っていった。 今から考えると ばかな事をしたと思った。 過激な兵士だと どうなっていたか わからない。 それ以後 アフリカ滞在中 学生寮には泊まらなかった。
当時のアフリカ大陸での陸路の国境越は非常にややこしく神経を使った。 やましい事が無ければ時間がかかっても堂々としていれば小額の金銭で済むが、少年の場合 やましい事だらけで その一つはヤミ両替。 正規で替えるほど裕福な旅でもないし だいいち 国境の辺ぴな町に銀行も両替屋などもなく ヤミに頼らざるを得ない所 いっぱいある。
ある国境で自分で書き換えた両替証明書がばれた。 国境の役人は獲物を見つけたとばかり金品を要求する。 (役人の方も給料が殆ど無いに等しいのでこの要求が生きる糧であるから必死である)少年も残り少ないドルを守ろうと要求に屈しない。
通常この手の旅人はヤミ両替用にドルを別に隠し持っているのである。 そうでないと 正規の両替申告と計算が合わなくなるので。 通のフランス人などはおしりの穴に丸めてほうり込み国境を越えている。少年の場合は慢性下痢で痛いのでそんなことは出来ない。
案の定 役人は隠し金を探し出そうと少年のバッグをひっくり返し始めた。 懐中電灯などすべて分解して探したがバッグの中からは見つける事が出来なかった。 次は身体検査である。 別室と言っても倉庫 に連れて行かれ全裸にさせられた。 逆らうと裁判なしに無期徴役になり隣の牢屋にほうり込まれるので逆らえない。 お尻を見せろと言われたら 下痢だ と叫ぶつもりであったが 言われれなかった。
体中と脱いだ服をすべて調べていたが 役人はあきらめた。 少年は証明書がばれた分だけ小額分 役人の探す努力にも免じて 進呈した。 見つかっていればこの額の100倍は取られたところである。 少年は安堵して 出入国管理事務所の前に ピーナッツとか たばこをばら売りしているおばあさんのところで たばこ一本を買い 先ほど預けた包みと一緒に貰い受けた。
今までの事件はその国の名誉のため国名を伏せたが この事件は伏せる事は無理。 ユーラシア大陸を廻った後 フランスよりエジプト・カイロに飛行機で到着。 翌日スーダンのヴィザを申請しにスーダン大使館へ行く。 案の定ややこしく日本大使館で推薦状を貰ってこいといわれ 日本大使館でそれを貰い 再度申請すれば 今度は1ヶ月後に取りに来いとのこと。
ヨーロッパの旅人はこの1ヶ月の間に 南下してアスワンまで行き 又スーダンのヴィザが出来る頃カイロに戻ってきたが 少年の場合は時間がいくらでもあったので この1ヶ月北部エジプトをブラブラした。 ルクソールやアスワンはスーダンにいく途中にあるのだ。
とにかく東へ東へ進み スエズ運河を渡りシナイ半島まで行った。 いまより約3000年前 モーゼがユダヤ人を連れて歩いたルートである。 シナイ半島に入ってからは やたら軍の検問が多くなり その為停車しているトラックも多く ヒッチハイクしやすくなった。 トラックの運ちゃんはあまり英語がしゃべれないので 身振り手振りで 少年は会話している。
シナイ半島に入り3日目ぐらい 軍のトラックで気分よく東へ進んでる時 英語がしゃべれる軍人が乗ってきたので 今はどの辺を走っているのかと聞いて仰天した。 もうすぐ ガザ地区だという。 知らないうちにエジプトからイスラエルに入り込んでしまったいた。
中東戦争に巻き込まれる心の準備はしていなっかたので 慌てて トラックから飛び降り 別の逆送をしているトラックで引き返した。 エジプトから イスラエルの国境をいつ越えたのかは定かでない。 シナイ半島に戻り 色々聞いてわかったが この半島は78年のキャンプデービット合意で イスラエルよりエジプトに返還を申し渡され 丁度この年にイスラエル軍の撤退が完了するとの事であった。 どうりで 国境の検問もなっかたし その辺から軍人だらけであった。 ましてや 旅行者なんか 少年以外ひとりもいない。 翌日 少年は イスラエル軍とは反対方向に撤退した。
ある時期 少年は安宿の一室を一人のフランス人男とシェアーして過ごしていた。 もちろん宿泊費をうかす為であり それ以外の理由はない。 このフランス人は世界放浪歴 数十年であり また 彫刻家でもあった。 ゲージツ家というのは どこの国でも ハッパ(別名をガンジャ・バンギ・マリファナとも言う)を 吸うものが多く かれは それにハッシシを混ぜたり 半端じゃなかった。 もちろん この国でもそれは犯罪だが、国がおおらかなので この宿など宿泊者どころか従業員も 掃除をしながら吸っている。
通常この手の宿には 売人が来るのだが 彼は 品質にうるさく また大量に必要とするので売人をとばし 元締めまで 直接 買いに行っていた。 ある日少年は 一緒に買いに行こうと誘われたのでついていった。 少年は映画のシーンのように 薄暗いビルの一室かなにかを想像していたが 全然違っていた。 そこに着くまで 建物と民家と商店街の中の細い道をくねくねと曲がりながら進んでいった。 少年は独りでも帰れるようにその道を憶えようとして ついていったが ややこしくて憶えられなかった。 こうなったら彼のみが頼り。
着いた所は 2階建ての雑居ビルや 商店に囲まれた 空き地だった。 空からは太陽がガンガンに照りつけている。 そこで現地の人たちが 所々にかたまり 大声でわめいており 喧騒の世界だった。 皆んな 目が血走っており 精神異常者のように思われたが 良くみると どこの人のかたまりの中にも一人だけ 冷静なやつがおり そいつが ぶつを売っていた。 そいつを取り囲むように買っているのが 街に出ていく売人だ。 その売人と元締めの 交渉がまるで喧嘩腰でやっているので うるさい。 (実際 きちがいもいる)
その喧騒の世界と少し離れたところに 人々が寝転がったり 座ったりしている 静寂の世界があった。 清の時代の阿片窟の再来で みんな 目がうつろだった。 そこまでやるなと言いたかったが 人は人。
そのフランス人も品定めのため 一服したり匂いをかいだりして 交渉を始めており だんだん彼も興奮してきて大声で値切りはじめた。 元締めは外国人にはやはり かなりふっかけているようだ。 最後にはフランス人は札束を元締めに投げつけるようにして 物を奪い 足早に逃げてきた。 その彼を元締めは追いかけはじめた。
その時少年は 傍で売っているマシンガンやピストルなどの武器の品定めをしていたが 彼が少年の傍を駆け抜ける時 それを持って逃げろと忠告した。 その時 少年の手には手榴弾が握られていた。 そんな 馬鹿な と一瞬 思いながら それはちゃんと店の親父に返えして 少年もフランス人を追いかけ 逃げた。 追いかけて来る奴等も ラリっているのか すぐ見えなくなった。
歩き出してから 彼に奴等ににらまれて大丈夫かと聞いたが 彼は今晩この町を出る予定だったと。 少年も巻き添えを食うわけに いかないので 同じく町をでた。 彼とは 一緒にいるとなんでも教えてくれて おもしろかったが 少々ついていけないところもあったので その町で別れた。 この彼とは実は 帰国後 数回 手紙のやり取りが有ったが ここ20年ぐらいは 交信が途絶えている。 もう会うこともないであろう。
また 国境での話。 アフリカの陸路での国境越えは話題が多い。その時はトラックの荷台に載っていたが 国境警備軍に止められ そういう義務も無いくせにどこから来たとか 何を持ってるとか質問され バッグの中身を調べられた。 例の如く色々 呉れ と言い出した。 少年も甘い顔をせずきっぱり 駄目だ と言ってやったが すると 兵士は持っていた 自動小銃を少年に向け あごで ある方向を 示した。
その方向を見ると 死体が転がっていた。 渡さないと ああなるぞ と言いたげ。 その死体は明らかに反乱軍兵士であり 旅行者ではない。 まさか 自分に発砲しないと自信があったが あまりいい気はしなかったので 使い古しの靴下を一足 あげた。 兵士は 信じれないぐらい喜んで 顔中に笑みがいっぱいに広がった。 その時にやっと まだ小学生ぐらいの兵士はあどけない顔に戻ったので 安心した。
ピグミー族の集落を通りすぎた後 ジャングルの中の細い道をとぼとぼ歩いていたら ラッキーにも 軍の車が通りかかったので 乗せてもらった。 パジェロタイプの車で 座席は兵士で満席であったので 後ろの荷物と同じく押し込まれた。 乗せて貰うのだから 贅沢は言えん。 暫くすると 別の部族の集落があり そこを通りかかった時 一人の坊やが 道に飛び出してきて 車にぶつかりそうになった。 坊やの方も 数日に一台通るかどうかの道に 注意を払っていないので当然と言えば当然。
運転していた兵士は急ブレーキをかけさせられたので怒って そのまま車を停め 坊や引きずってきて強引に少年の横に荷物のように押し込めた。 少年は何がなんだか理解でなかったが 車は走り出した。 すると 後方から坊やの母親らしき人が泣き喚きながら車を追ってきた。 その時はじめて 兵士は人さらいをしでかしたと理解した。 車はいったん停止して 母親を迎え 何事か話していたが 母親は急に来た道を戻り 今度はやぎを連れて戻ってきた。 坊やと引き換えにやぎを兵士に渡した。
兵士はまんまと やぎ一匹を手に入れた。 その小さな部落ではやぎはすごく貴重な存在であることは間違いない。 それで終わったかに思えたが 今度は傍の木から枝を折り その母親の背中を 鞭打ちだした。 母親は前にもまして 泣き喚き 両手を前に握り 兵士に許しを懇願していた。 少年は吐き気をもようしながら その光景をみていた。 十数回の鞭打ちのあと 母親は許され 坊やと一緒に帰っていた。
そのやぎは少年の横にほうり込まれた。 少年は怒りと 糞尿まみれのやぎの悪臭で貧血寸前になったので 車をとめてもらい 飛び出した。 もうこの国では二度と軍の車には乗らないと誓った。 しかし 飛び降りたものの 次の車が通るまでの三日間その小さな部落で坊やたちと川で泳いだり遊んだりして 退屈な時間を過ごすはめになった。
この時 牛を積んでいるトラックの運転席の屋根のうえで移動中だった。 ぎゅうぎゅう積めの牛の中に入るよりまだ 屋根の方がマシだと思ったから。 ジャングルのガタガタの道なき道を進んでいたので 振り落とされないように必死につかまっていた。 おりしも 雨季ですごい雨が降ってきて バッグは何とか寝袋で守ったが 本人はずぶぬれになった。 その雨上がりの後が絶景だった。
どこからとも無く 蝶がひらひら飛んできて それが 凄い数になり 無数に飛んできて 前が見えなくなり トラックを停めてしまった。 ガタゴト道に溜まった 水溜まりに蝶が群がり 道も蝶で見えなくなった。 その上空を水溜まりに入り込めない蝶の大軍が浮かんでいる。
少年の体に着いている水滴にも蝶は群がり トラックの水滴にも群がり 真っ白な蝶であったのであたり一面雪化粧になった。 凄かった。
列車の旅を4、5日続けた事があった。 距離的にはたいしたことなく 各駅停車でのんびり移動していた。 当然 駅と駅との間隔は長く日本の比ではない。 列車に乗った2日目に丁度4人がけの前の席に 真っ赤な目をした涙ぽろぽろの男が座った。 変なやつが乗りこんできた としか印象がなかった。
この列車はボロボロの上 超満員で通路も荷物と人でいっぱいで 乗り降りは殆ど窓からしている。 少年も食べる時は窓から飛び降り 駅の青空食堂で現地人と争そって 腹に食料をつめこんでいた。 乗り降りも食事も殆ど戦争で 食事を味わうというのは別世界である。 か弱きものは 列車に乗れないし 食べる事も出来ない。 一車両に百人以上乗っておりその車両が十幾つあり その客が停車したとたん 一個所か二個所の食堂に殺到し列車が出るまでに事を終わらせなければならないので当然。 他人を蹴落とす生活である。 (少年はたまに良心を心の隅に閉じ込めてしまう。 自分の生きることを最優先にして 廻りにそれを認させる あまり日本では経験できない状況である)
三日目に 前に座った真っ赤な目をしたやつが 目を押さえながら降りていっったのでせいせいした。 その晩 夜中に少年は目が痛くなり目がさめた。 が まぶたが開かない。 目やにがまつげいっぱいにこびり付いており それをとってやっと目を開けることが出来た。 しかし朝になり明かるくなると 今度は眩しくなり 涙が出てきて 目を開けれない。 空気感染するとは夢にも思わなかった。 その日は全く目が開けれず 動くことも出来ず じっとしていた。
廻りの連中は 目の病気を移されたとわかった瞬間 面白がっていたが 暫くすると気の毒がり食べ物を手に渡してくれた。 といっても 窓まで売りに来るピーナッツだが。 目薬などきの効いたものがある訳でなく また自然治癒にかけた。 次の日終点に着いてもまだ目が開けられない。 とにかく廻りの人達に引っ張り出され 手探りで駅の隅っこまで辿り着いた。
そこで荷物を盗まれないように抱え込むようにしてまた一晩すごし 次の日 片方の目だけ何とか開けれるようになり ふらふら薬局をもとめ その町をさまよいだした。 人に連れられやっと 薬局を見出し診察してもらった。 とにかく目薬を一つ貰い近くの安宿を教えてもらい なんとか落ち着いた。 この列車の旅でかなり体力を消耗したので それを取り戻すよう まず食べれるだけ胃に詰め込み 目薬もちゃんとつけ むさぼるように眠った。
それでも片方の目だけ全然 開けれず もう片一方の目で薄目を開けて町をふらふら買い物していると ひとりの日本人に出会い 彼の宿舎まで親切にも連れていってくれた。 そこには数十人の日本人が生活しており日本料理も日本の本もドクターまでいた。 そのドクターに目を見てもらい薬も頂いたが 怒られてしまった。 自分で薬局で買ったものは治療には全く違うもので そのまま放っておくと失明したかもしれなかったと。