「ん・・・・」

 エンジン音の様な物をBGMに、彼はそこで目を覚ました。だが、まだ意識が朦朧としているせいか。 まるで水面の上に居る様な揺れを感じていた。

「漸くお目覚めの様ね」

「・・・ファンか?」

「ええ」

 そしてその声を聞き、一安心したのだが、それが彼の目をまた微睡みへと誘い、彼は再び眠りに入った。




































FILE TYPE 2nd 005 [ 会 : 心 ]



































 一番最初に目を覚まし、感じたのは強い潮の匂いと身体の揺れ。それは大地に立って、いや、地震か欠陥住宅にでも済まない限り感じないモノだろう。 もしくは誰かに起こされ身体を揺らされるかしないと体験出来ない物だ。そしてどうやら今回は後者の方であった様である。

「いい加減起きてくれない? 着いたわよ」

「・・・・ああ」

 大きく腕を伸ばし、胸一杯に空気を吸い込むが、やはりいつも吸っているそれとは違う大気がそこにはあり、目を開けて一番最初に飛び込んできたのは 晴れ渡った青い空とカモメだった。

 無論浩志はそれを不思議に思う訳だが、起きあがり空から下へと少し視線を移した所で痒い訳でもないが頭を少し掻き、隣りに居るファンに言う。

「何処だ? ここは」

 しかし返ってきた答えは素っ気ない物。

「香港よ」

「そう、か・・・」

 そして浩志自身、まだ頭が寝ぼけて上手く働かないのだろう。首をコキコキと鳴らし、もう一度深呼吸してからそれに気付く。

「香港だと!?」

 目を見開き、これ以上ない程大きな声で言った為、ファンは迷惑そうな顔をして頷くだけだった。

 そして浩志はそれからの事をあまり思い出したくは無い。何せ乗っていた船は盗品らしく、途中で海のど真ん中、と言う訳でもなかったが 乗り捨てて泳いで岸までたどり着いたのだ。どうやっれファンがそれを手に入れたのか。朝食などは積んでいなかった物の、 結構な装備を調えていたクルーザー。それを港を離れる時に見れば海上警察だか何かに包囲されているのももはや思い出す事も無いだろう。

 そして二人は早足に港を離れ、街の中心部へと向かっている。少なくとも浩志はそう思っていたのだが、着いた先は 彌敦道(ネイザン・ロード)と呼ばれる、昼間だと言うのに日本の何処よりもネオンが輝いている様に見える街だ。そして新宿や渋谷を思わせる、場所で、 この近辺にも何件もある一軒の古ぼけたビルに入った所でファンは漸く口を開いた。

「中で待っててくれる? 朝食買って来るから」

「ここで良いのか?」

「冷蔵庫の中の物食べちゃ駄目よ。多分賞味期限切ればっかりだし」

 答えになっていない応えを返しファンは、浩志をビルの一室に案内し、玄関先にあった壺の蓋を開け 多分紙幣でも入っていたのだろう。それを握りしめビルを出ていった。

「ったく・・・」

 それから浩志は別段やる事も無く、部屋の窓辺にある椅子に場所に座りしばらく何をする訳でもなくそこに座っていた。

 部屋の中は何かの事務所だった面影が残り、申し訳程度の散らかったデスクや古ぼけた椅子が置いてある。 他にも幾つか調度品や家具があるのだろうが、そのどれもが埃を被り、まるで何年も開けていた様にそこはかび臭く、 窓の外にある雑踏とネオンの街はこの部屋と対照的で居て、何処か似ているのかもしれないと浩志は思いを胸に抱き、 何よりも人の住んでいたと言う痕跡が何処か哀しげに写った。

「ここも・・・あいつの知り合いの店って事か・・・」

 ファンが何故、日本に来たのかを考えればここが何を意味しているかは大体分かる。そうでなくとも彼女が昔働いていたか住んでいた場所なのだ。 吹っ切って居なければ来れる様な場所でない故に、少し安心できると言えばそうだったが、やはり気遣ってやらなければならないのだと、心の何処かで呟く。 そしてそれから一時間後、彼女は走り汗ばんだ髪を靡かせながら帰ってきた。

「取りあえず適当に買って来たけど、嫌いな物ある?」

「あんまり甘すぎる物は勘弁して欲しい」

「じゃ、大丈夫ね」

 袋一杯に入っていたのは日本料理にも西洋料理でも無い物だったが、それぞれの文化とは違う味がし、浩志の腹を満たすに十分だった。 しかしファンが食べている、どう見ても蜥蜴や蛇にしか見えないそれは流石に口にする気は無かったが。

「こういうのもちゃんと食べられない?」

「勘弁してくれ・・・」

「エネルギー蓄えとかなきゃやられちゃうわよ」

 そして小一時間ほどので食事を済ませた二人は、何の会話もする事無く、ただ時を過ごして行く。何せ共通の会話と言えば敵の事か、 もしくは過去を語らう事だけなのだ。後ろ向きに考えたくはないと言う事は漸く一致した様である。 そして暇つぶしの為、浩志は懐に仕舞っている筈の、レオンに貰った手帳に手を伸ばした。

「あれ・・・?」

 しかし入っていたのはまだ湿っている封筒とその中身だけ。手帳だけが無くなっていた。

 だがその様子を見、ファンが何かに気付いた様に口を漸く開いた。

「これでしょ? ちょっと使わせて貰ったわよ」

「いや、別に良いよ。あるんなら」

 手渡された手帳は汚れも付かず、まさに新品同様の綺麗さだった。それがまた、この古ぼけた店の中では不似合いに思える程だ。 しかし、ファンは不思議そうにそれを見ながら言う。

「けど貴方がレアメタルの手帳なんて持ってるとは知らなかったわ」

「レアメタル?」

「知らないの? 希少金属の事をそう呼ぶんだけど、その手帳の材質、HUNTERでなきゃ知らない物質なのよ」

「へぇ・・・。マスターに感謝しなくちゃな」

「マスターって?」

「あのバーのマスターだよ。どうも日本のHUNTERだったらしくてね。・・・と、これ秘密な、口止めされてるんだった」

 苦笑しながら浩志はそう言い、ぱらぱらとそれを捲って中身を見るが、その言葉を聞いたファンの様子はがらりと変わる。

「よく本部が私たちの為に動いたわね・・・。最初はあれだけ言っても何もしなかった癖に」

「日本って本部だったのか?」

「ええ。けど、多分としか分からないけど、HUNTERを束ねるには多額の資金が必要なの。陰陽道やオカルトの知識も要るんだけど、 長い歴史の中で金銭と技術の両方を手に入れた国は日本しか無いわ。だから日本が本部だと思ってるんだけどね」

「自信無さ気の割に言い切るな」

「昔HUNTERを裏切った奴が居てね、それで色々と本部の場所とか統括する人物とかを調べたのよ」

「そこで上がったのが日本って訳か」

「ええ。けど何にしろ、本部が渡した物なら材質の説明も付くし、貴方も信用出来るわ。日本でHUNTERになる資格を持ってる人は HAZARD HUNTER、地方のって言うのも変かな? HUNTERの統括者に匹敵する程の力が無いとなれないし認められないの」

 朧気に見える様な、故郷のイメージは浩志の中で変わりつつあったが、その反面でどうでも良いと言う想いもあるのだろう。 技術大国やお金の国日本と言うイメージが浩志の中で強まるのも頷ける事だが半ばいい加減に聞いて頭には入っていない。 そしてそれよりは集中していた故に、手帳の中にあった僅かな記述に目を止められたのだろう。

「? なぁファン、これって今回の仕事に何か関係あるのか?」

 そう言い、浩志が開き指さした頁には二つの単語が並んでいるだけで、他に何も記述されていない、意味の書かれていない辞書の一端に見える物。

「こっちのARC(アーク)って言うのは古代人。人間以前に栄えたとされる、まぁ、今現在居る人間よりも早く進化した種族って所かしら。 そっちDRC(ダーク)って言うのは龍人族って言って、色々な説があるけどこの現代で人間に唯一抗体となる 事が出来る種族って言うのが私の意見ね。HUNTER一般的には絶対に手を出しちゃいけない神見たいに崇められる事もあるわ。 そして幸運にも、今回の仕事にこんな化け物見たいな奴は関係してないから安心して。何より戦って勝てる相手じゃないわよ、一人でアメリカの 全軍隊にも匹敵する程のまさに化け物だから」

「ふぅん・・・」

 言葉の意味は分かったが、やはり興味が持てないのか。浩志はそのまま頁を捲った。

 しかしその逆で、ファンは自分の言った台詞を思い返し、空回りしていた情報が合致した様な気がしてならなかった。

 DRCと言う種族の事は冗談交じりに死んだ養父が教えてくれた事なのだが、その力の規模を聞いた時、そして浩志のあの変貌を見た後であれば それが一緒ではないのかと思える様になってしまったのだ。そしてそれに気付かなかった自分がどれだけ愚かな事かと責め立てもする。

 中空から突如として彼の腕に現れる槍、変貌した姿のイメージはここ香港でも有名な四聖獣の一匹。強さは闇の中でもそれに支配されない 強靱さを持ち、象徴として使う力は水の属性を持つ者。そしてそれを頭の中に画いた途端、彼女は自分の事をも分かってしまった様な気がした。

 自分の扱う、普通のHUNTERでも出来ない様な媒体無しでの障壁を張る能力。変貌した後は髪は灰色へと変わり、 身体の奥から溢れ出る物は一色に染まりもする力。だが決して一色に染まらず、自分の思い描いた色へと染め直す力はまるで 母なる大地を想像させるのだ。

「・・・玄武」

「何だ?」

「い、いや、何でもないわ。気にしないで」

「?」

 しかし、言ってしまった事が原因なのか。結局ばかばかしいと言う考えが浮かびいったんはその考えを棄てる。 所詮伝承は伝承、現実は現実でしかないのだから。

「さてと・・・」

 そして彼女は立ち上がり、散らかったままのゴミと食器を片付けようと、それを両手で持った所でそれに気付いた。

 この八日間、ここに帰ってくる事が無かった故にそれに気付かなかったのだろう。留守番電話、この部屋の中で一番近代的なそれは 着信ありの赤いランプを灯していた。

 そして再生のボタンを押した時、流れてきた中国語を聞きながら彼女の顔は白い艶やかな物から青ざめた緊張の色を放つそれになっていた。

「何て言ってるんだ?」

 それを直感的に悟ったのか。言葉は全く分からなかったが、流れ聞こえてくる男の声と取れるそれを聞き浩志はそれが 何か不吉な物を現している事を悟る。そしてそれはファンの口から漏れる言葉で十分な確信に変わった。

「裏切り者・・・」

 わざわざ中国語ではなく、日本語で彼女が言ったのはまだ他人の浩志を気遣う冷静で居られる心があると言う証拠だろう。 だが、そう言った言葉に含まれる物は一昨日の夜、裸身を晒した時のそれと酷似していた。

「ファン・・・」

「分かってるわ・・・分かってる・・・・」

 心の中で二つの感情が戦っているのだろう。例え細かな理由が分からなくとも、表情だけでそれは分かる。 だが現実を直視した時にそれを押さえられなくなると言う事はまだ人間性があると言う事だろう。 そして冷徹で居られず、叫びそうになった彼女を見て浩志は微笑を浮かべ言葉でそれを遮った。

「俺は何をすれば良い?」

「あ・・・・え・・・・?」

 半ば呆けて浩志の方を見るファン。しかし、浩志のその表情を見れば彼が言わんとしている事は自ずと見えてくる。 そしてそれが半ば悔しいのか、それとも面白いのか。裏のある笑みを浮かべ彼女は言った。

「じゃ、ルーキーの貴方にBLACK SKILLって言うのを教えてあげるわ」

「何だそれ」

「暗殺のやり方よ」

 多分、半分は吹っ切れ半分はまだ引きずっているのだろうと言う事を、浩志は表情から読みとった。 が、その反面で何処か楽しげに言っている彼女を怒らせる事は止めようと、堅く誓いもした。







 街の雑踏を縫うようにして歩いている間、鼻に残った様々な匂いはお世辞にも気持ちいい物とは浩志には言えなかった。 何せ日本の首都圏よりも、下手をすれば人手が多く、その上で道幅が狭いのだ。道路の方も狭くは無いのだが、その分日本で見かける車よりも 遙かに排気ガスを吐き出す車が往来し、この辺りでは既に空も影って見える程。そして大通りから離れた途端、道に溢れかえるのは 生活感漂う街の裏なのだろう。ここもやはり気分のいい場所ではなかった。

「どうしたの?」

「いや、言っちゃ悪いが匂いが酷いな。ここは」

「そう?」

 しかしファンの方は慣れているのだろう。流石は地元と言った所か。入り組んだ道と言う程でもないが、人の視線に当てられ一人で来れば 迷うような道もすいすい歩いて行く。

 その途中、何かに気付いたのだろう。浩志の前を歩いているファンは顔も見ずに小声で言って見せた。

「匂いがキツイのは多分、貴方がまだ自分の五感を完璧に把握して扱ってないからでしょうね。私も最初の頃は酷かった物」

「こんな・・・なんつーか人の感情の匂い感じて育ったのか?」

「ええ。昔は男に買われて遊ばれる玩具だったもの。あの時は酷かったわよ、これ以上無いって程臭いから」

 顔は見えなかったが、その時のファンの顔は笑っていたのだろう。 話の内容は驚くべき過去だったが、笑って居る雰囲気に揶揄も自嘲も無かった故に浩志は安心出来る。

 やがてそんな裏道を抜けた所で見えたのは来た時とは違う港。どちらかと言えば観光客の来る様な場所なのだろう。 写真をばしばし撮りまくる日本人、と言うイメージもあながち間違いではないと、浩志は辺りの様子を見ながら密かに思った。

「あー、やだやだ。あんな日本人にゃなりたかねぇな」

「へぇ・・・。日本人でもやっぱりそう思うんだ」

「当たり前だろうが。誰があんな観光馬鹿になりたいかよ」

 そんな会話を交わしながら、浩志は意外と普通の会話も出来るんだなと、半ば感心していた。 だが、それはただ単にそう言った機会が無かっただけの事であり、別段不自然でもなければ不思議でもない事。 そしてファンが乗船口を通った様に、浩志もそれを真似た所で、後ろに気配を感じた。

「?」

「どうかした?」

「いや・・・・」

 それはどう説明すれば良いのか。浩志自身よく分からなかった。

 敵と言うにはあまりにも柔らかい気配であり、それで居て誰も寄せ付けない何かを放っているのだ。先ほどから感じている、この街独特の雰囲気、 混沌とも呼べるそれに居ながらそれに染まらない唯一とも言える雰囲気。 そしてそちらの方を見れば何かが見えたのだろうが、それを視覚で捉える事は出来ず、五感の中でそれが白い何かだと言う事だけしか分からなかった。

「敵?」

 だがそれをファンは相手だと違え、人混みの中だと言うのに殺気を放ちそれを探る。浩志の五感をまだ信用仕切れて居ないと言う事だろう。 そして髪と瞳の色が変貌する寸前に浩志はファンを抱きしめそれを止める。

「やばいもんじゃないって。なんつーか・・・・お前見たいだった」

「私見たい?」

「ああそうさ」

「・・・・・」

 それに対し、疑問符を頭の上に思い浮かべるだけで何の反応も示さないファンに悔しくもあり、苦笑する気分でもある浩志。 顔でも赤らめてくれるかと思い行動したのだから、そう思うのも当たり前なのかもしれない。

 そんな心境の中で、浩志は自分の言った台詞を頭で反芻する。

 彼女と同じ、と言うのは咄嗟に出てきた言い訳の様に思っていたが、無駄な情報、陳腐な表現の中にこそ、真実と言うのはあるのだ。 それを知っているからこそ、その気配と相手の姿を思い出せたのかも知れない。

『白い絣を来た女か・・・』

 そして記憶の断片の中で、酷くこの場所に不似合いな女性が脳裏に浮かぶ。それは日本人、と言う格好をしているのだが、あまりにも時代錯誤な格好 をし、煙草をくわえているのではなく煙管(きせる)等と言う、滅多にお目にかかれない骨董品を口にしている人物だった。

「いい加減離してくれないかしら」

「?」

「恥ずかしいんだけど・・・」

 しかし反応が鈍いと言うか、漸く気付いたと言うか。ファンは顔を赤らめていなかったが、至極申し訳程度の声で浩志にそう言った。 その反応が面白かったのだろう。自分より多分、年上の女性として見れない理由がどことなく分かる様な気がしていた。

 そして船は運良く止まっていた所なので上手く乗り込め、二階デッキへと上がる。 だが何処に行くのか分からない不安など浩志は微塵も感じていないのだろう。 それが不思議で堪らないのか。わざわざ初めてであった時の様、周りに場を作り人気を遠ざけてから、ファンは切り出した。

「貴方は、恐怖なんて感じてないのね」

 潮の匂い。今度は心地よいそれが浩志の心まで洗い流してくれるのだが、ファンは慣れすぎている為か。それも出来ないのだろう。 あまりにも暗い、空とは対照的なその顔は浩志の目に、どのように映ったのかはファンには分からない。 しかしそれでも、浩志は当然の様に言って見せた。

「感じない事なんてあるわけ無いだろ? 俺は恐怖が嫌いなだけさ」

「・・・嫌い?」

 唐突に、浩志の口から出てきた返答はファンには理解出来ない物だったのだろう。浩志はそれを説明する様に、また当たり前の様に言った。

「ああ。ダイキライだぜ、あんな想いはな」

 何を頭に描き、そう言っているのか。それは今のファンに解る筈もない言葉なのだろう。ただし、その断片だけが自分の中にもあるそれと共通している事を、 心の何処かで悟っても居ると言う奇妙な感覚から、ファンの顔は暗い物から不快の意を表す物へと変わった。

「やっぱり解らないわ。貴方の頭の中は」

「単純も良いけどな、止めたんだよ」

 妙にすっきりした顔がやはり憎たらしいのか。ファンの表情は一向にそれから変わらない。

「じゃ、あんたは怖くないのか?」

 そして浩志は同じ質問を言ってみせる。それに対する答えは既に出ていたのだろう。ファンもやはり容易く一言だけ言った。

「恐怖なんてもう感じてないわ。いえ・・・感じられないのよ」

「難儀な心境だな」

「・・・・・」

 そして沈黙が流れ目的地が近づき十分少々の船の度も終わりと言う事。そして船を下りた二人は何を言う訳でもなく、歩き出す。

 だが、このままではいけないと思う所が、ファンの変わり始めた心境なのだろう。やはり観光客の多い、ケーブルカー乗り場に着き 前を歩いていた自分の歩みを止め、背中に浩志がぶつかり不満の声を上げた所ですまなそうに言った。

「ごめんなさい・・・」

 そしてその心境を理解した上で、彼は言ったのだろう。後ろ姿だけではどうしても儚げに見える彼女を抱きしめながら。

「そう言う時は、ありがとう、だ」

 その温もりが、もしかしたら自分に足りない物なのか。

 そして今まで自分は突き放し、得られなかった幸せなのかと言う思いを抱きながら、彼女と彼の影はしばしの間重なっていた。

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