「あ、お師様。お帰りっ」
どたどたと言う足音を立てながら現れた少女は嬉しそうにそう言い、どう考えても土産を期待した眼差しを輝かせた。
女性の事を師と呼んでいるにも関わらず、敬意を払っている様子など皆無だが、少女なりに気遣って居るのだ。そして女性もその点に関しては何も言おうとしない。
女性自身、彼女に生活面や口調で教える気は何も無いのである。
その頭の上には相変わらずの表情で乗っている、鼬(いたち)が一匹。少女に言わせればフェレットだと言うのだが、
一週間ぶりに家へと帰ってきた女性にとってはどちらでも良いのだろう。だが、それを言葉に出せば不満声を上げるのはなかなか面白い反応と言える。
「ねね、香港どうだった?」
「久方ぶりだったからな。ま、色々とあったさ」
嬉々として、色々とあった事、見聞きした事を少女は聞きたいのだろう。
わざわざ自分で当てた福引きの一等賞を自分の師にあげたのだからそれくらいの権利はあると主張している様にも見える。
そして三年経った今でさえ、見た目はあの時と殆ど顔も体型も変わってない姿で女性の袂から取り出されたイヤリングを喜びながら耳に付け、
くるりと一回りして見せる。
「どう、かなぁ・・・」
しかし、少女自身、16と言う年齢を感じさせる魅力が欠けているのも分かっているのか。未だに伸ばしてはいるのだが、後ろで
括っているだけの髪は何の飾りも付けていないのが女性の取って少し残念ではある。
「うーむ。食い物の方が良かったか?」
「お師様のイジワル」
だが、いつもの表情の中に、少しだけ照れを現し笑ってみせる少女はいつもの物。そして女性の優しげな笑みもいつもの物だった。

FILE type 3rd 001 [ 風と言う:AGE SEED ]
ここ、大河家(たいがけ)は山中、と言う程でもないが、山側に面した場所にある、結構古いお屋敷に見えない事もない。
それもその筈。長くこの街に住んでる物ならここが江戸末期、いや、それ以前からある事に気付くだろう。ただ、外観だけで言えば
そこまで古い屋敷に見えないのは手入れが行き届いているのと、幾つかの一般人には、いや、人類には理解しがたい方法なのである。
そしてそこの住人は一人の妙齢の女性と、一匹の色違いの目をした鼬。
その鼬もどちらかと言えばペットではなく同居人と言っても差し障りがないのは中に住んでる物しか分からない事ではあるが。
ただし、その二人だけで住んでいたのは三年前までの事。今はちょくちょく、と言うより四六時中一人の少女が出入りしているのは珍しくもない光景。
だがブレザーの制服を着た格好の少女が一人で山の上の方にある屋敷に出入りしているのを見れば、何をしているのか分からないだろう。
しかしそれも幾つかの事で説明が付くのである。
まず、一つは屋敷の敷地内にあるこれまた古ぼけた道場。看板には「大河流」とだけ書かれた物が門の所にあり、締め切れば威圧感漂う
扉がいつも開きっぱなしになっている建物であり、少女はいつもそちら側から入るのである。
それ故、ここをたまに通りかかる登山客や何をする訳でもなく、散歩道に立ち寄った人々は疑問に思う訳でもなく、心に留めておく訳でもない場所であった。
そしてそれは少女が入るのを見ても、その看板を見るだけで大体の想像が付くと言う物だ。
何せここは山の上に位置し、若い連中が好きこのんで来る様な面白い物など何一つないのだから。
そしてその少女はここに来るたびに、道場に行って当主である大河雅(たいがみやび)に武道のイロハを教えて貰っている訳だが、
少女自身、初めは疑問に思った事だろう。何せ門下生の一人も居ない道場である。他に仕事をする訳でもなし、どうやって生活費が出てくるのかは謎のままである。
そして昨日までは、一週間留守にするここを彼女が留守番していたのだ。と言っても、電話も無い上、
今まで一度として訪ねてきた人物など居ないこの家に取ってそれが必要かどうかは定かではないが、
少女から見ればペットのフェレット、ルイと名付けられた小さな同居人の世話を頼まれたのだと思っている事だろう。
いつも肝心な事を言わないここの当主はたおやかな笑みで返すか、もしくは何喰わぬ顔でずけずけと物を聞くかと言う人物なのだから。
そして当主が帰って来た家の中はいつもと同じく、そして時間が来ればいつもにも増して騒々しくなる。
家事一切は少女ではなく当主の雅がやっているのだが、少女が来てから設置したTVの前ではしゃぐ姿の少女が居るのだ。
しかし雅はあまり興味もなく、その時間になるとお茶菓子と緑茶と、そしてお気に入りの煙管(キセル)を加え縁側でそれをぱくつくだけである。
彼女から言わせれば、非現実世界の登場人物よりもその少女を見ている方がよっぽど面白いと言った所か。多分それは三年前のあの日から変わっては居ないだろう。
そしてその珍妙な光景の中で一番変わっているのは少女でも雅でもなく、その鼬である。
何を考えているのか、雅には分かるらしいが少女には今一分からない。だが、いつもこの家に来れば少女の後に着き、いつも行動を一緒にしているのだ。
そしてこの少女の楽しみにしているTVの時間とてそれは例外ではなく、少女の横にちょこんと座りTVを眺めているのであった。
「ああ、今日も格好良かった・・・」
そしてうっとり、とした顔。まさにそう言う表現が適切であるかの様に、少女、黛楓(まゆずみかえで)は番組のエンディングを熱唱し終えた所だった。
番組名は「装機神伝ガルブレイズ」と言う題名で、大まかなあらましはヒロイックファンタジーとでも言えば良いのか。
ロボット物と呼ばれる、多少昔の物とは違うが、その色、正義の味方が悪を倒す、と言う内容な所は同じである。
そして楓はガルブレイズの主人公、坂崎司(さかざきつかさ)と言う二次元に描き出され動く少年に憧れている訳ではなく、単にその主人公の駆る「ガルブレイズ」
が好きな様で、そのロボットが出てくる度に嬉しそうな悲鳴を上げるのだった。
「漸く終わったか?」
「うん。じゃ、着替えて来るよ」
縁側から顔だけを出し紫煙を吐きだす雅にそう言われ、楓はTVの電源を切りそそくさと奥の部屋に消えて行く。
最初の頃は、それを見る楓の声を五月蠅げに感じていた雅だったが、今となっては心地よい物にしか聞こえない。その上、こう熱唱されては
番組のオープニングとエンディングを三番まで完璧に記憶するのも、そう遠い未来ではないと言う所がなかなか面白くもあった。
だが、これからする事に比べればそれは日常であり、楓はまだ、自分が本来ならば非現実の世界に脚を踏み込んでいる事などあまり気にしては居ないのだろう。
スパッツとスポーツブラにTシャツを羽織っただけの姿で楓は道場へと向かい、ドアを開ける。相変わらず鼻につく少しかび臭い匂いももう慣れたのか。
ここが一つの自分の居場所である事を満足する様に笑顔を見せ、一瞬だけ真剣な眼差しをしてから一礼し扉を潜る。
中は約30畳ほどの、道場としては大きいのか小さいのか楓に取っては分からない。だが、いつもぴかぴかに磨き上げる程綺麗にする雑巾がけでさえ、
彼女に取っては嬉しい事なのか。道場の奥にある掛け軸の下に置いてある、対の手甲を填めてから後ろを振り向き言い放った。
「お師様!」
「なんじゃい」
「今日こそ勝って見せるよっ!」
そして夕方の、既に半分以上陽が傾いているこの時間にたった二人だけの鍛錬は始まる。
だが、今まで楓は一度として勝った事は無く、相手の雅はいつもの一枚の白い着物を着ているだけであり、それが風に靡くこともなくうち倒されるのは
お世辞にも良い気分ではない。だが、昔見た、あの雅に自分がどれだけ近づけるか。ただそれだけの為に、道場内に響く足音は幾度と無く軋む音とそして
拳が風を切る鳴る音だった。
ただし、ここに楓が来てからの事だが、楓はまだ一度として雅に一撃すら当てた事もないだけではなく、雅から見える一撃を貰った事すらない。
幾度か拳と蹴りの猛襲を掛け、それが当たると思った瞬間に楓は道場の床に叩き付けられ天井を見上げるのだ。
そして今日も同じく、一端の終わりを告げる音が道場内に響き渡った。
「イタタっ・・・」
「相変わらず、お前は攻撃の後の隙が多すぎる。詰めるなら詰めるで・・・」
「気を抜くな、でしょ? 言われなくても分かってるって」
「いいや、身体で学ぶまで何度でも言ってやる」
「もう、また分からない事言って・・・。身体で覚えるんじゃなくて学ぶってどういう意味なの?」
「そのままの意味だ。その位自分で考えねば免許皆伝はいつまで経ってもやれんぞ」
「ふんだ。いいもん・・・免許皆伝の前にお師様倒してみせるから」
「無駄口叩く暇があるならさっさと立ってかかって来ぬか。もう夜になるぞ?」
「あともういっぺんだけぇ〜」
そしてまた、道場内には楓の拳の風を切る音と踏み込む際の「ドンッ」と言う足音だけが響き、やがて夜を迎える。
「んじゃ、明日もまた来るね」
「朝早いのだけは勘弁しろよ。最近お前が来てからロクに昼まで寝れんではないか」
「それもあさってまでだって。明後日になれば学校始まるし」
道場での稽古も終わり、楓は今から家に帰る所である。ブレザーへと着替え終えた後、それといつもの物を入れた
デイバックを背負った格好。玄関先に雅とルイがこじんまりと座り彼女の見送りに来ていた。
会話の中でも雅はどことなく棘のある言い方をするのだが、それは慣れた物。楓は別段気にする風もなく、皮肉をやんわりと返せるだけの素質があるのだ。
それ故、雅も師としてではなく年の離れた友人として何でも言えると言う訳だ。だが、一週間見なかった同じ顔が、そこにある事に気付けばそれも言えなくなると
言う物。
「まだ、治らんのか?」
「うん・・・」
帰る際に見せる、楓の表情は何処か寂しげな物。いや、確実に感じて心を苛んでいるのだ。
楓がこの家に始めてきた次の日、雅は帰る時の楓の表情から何故か家に帰りたがっていない理由を尋ねたのだ。
そして出てきたのは楓の母親の存在。
彼女が10歳になったかならなかった頃だと言う。原因不明の病に冒された彼女の母親はそれから病院に入院したまま出て来れないのだ。
まだお世辞にも大人とは言えない心の楓に取って、何の病気かも分からずとうとう六年の月日が流れた事になる。
そして彼女自身、なんとか母親の病気を治してやりたいのだが、その反面自分がいかに無力な物か思い知らされ、結局何も出来ない自分が悔しいのである。
「けど大丈夫だよ。先生も頑張ってくれてるし、お母さんも心配するなって言ってるから」
そしていつも通り、彼女は明るい笑顔で「またね〜」と言って玄関を飛び出した。
病院の面会時間は過ぎているのだが、六年間も毎日通い詰めていれば病院の院長の特別な取り計らいで静かな時に一人で来られる様にして貰っているのだと言う。
そしてそれを見送る雅の表情はいつも何処か彼女の無力さを救ってやりたいのだが、それが出来ない自分が悔しいと言った所だろう。
皮肉な顔と可愛い鳴き声で送り出してやるのだが、本心は助けてやりたくて仕方がないのだ。
だが、今日はいつもとは違う理由があり、雅は久方ぶりに友人に声を掛けた。
「ルイ、少し話があるんだが」
と言っても、相手はただの獣。会話が出来る訳が無い。
しかし、それが本当にただの獣であればの話し。
小さな獣だった筈のルイは、丁度大型犬ほどの大きさになり、背中には二本の触手の様な物が飛び出た姿になる。
それが少し昔の妖怪や妖仙のたぐいに詳しければ鎌鼬(かまいたち)だと直ぐに分かる者なら分かるだろう。
ただし、その瞳は本来黒曜石の様に黒い筈なのだが、そこにある瞳は色違いの、銀色と金色の輝きを先ほどよりも強く放っていた。
「香港で誰かと逢ったんでしょ?」
そして言葉を返すのは12、3歳ほどの少女の声。だが、予想していた声と違っていたためか。雅は不満顔を露わにしながら言葉に出す。
「確かにそうだが・・・その声は私の姿に対する皮肉か?」
「べっつに〜。だって、私は楓の妹分見たいなもんでしょ? 後々面倒にならない様に最近慣らしてたのよっ」
にひひと言う顔を、もし人間の少女の顔をしていれば浮かべているのだろう。容易に想像出来るのは雅がルイと長年付き合ってきただけの事はある。
それ故、あまりその言葉には関心を示さず本題に入る。
「青龍と玄武に逢った。これで役者は多分揃ったと私は思うが、お前はどう見る?」
そう言った時の雅の表情はいつもと何ら変化の無い様に見える。多分三年付き合っている楓でさえ見分けが着かないだろう。
だが、確かな変化があるのにルイは気付いた様だ。
「ま、感じてたからね。朱雀、玄武、青龍、と三人までは覚醒したって事だねぇ・・・。
けど後私たち二人含めた九龍神(クーロンシェン)の六人の内、四人も足りない見たいだし。時期尚早と私は判断するね」
そしてそれが地なのだろう。ルイはとても少女の声とは似つかない雰囲気の言葉遣いでそれに応えた。
しかし雅はにやりとした笑みを浮かべながら言う。
「その後三人が見付かりそうだと言ったら?」
「何だと?」
完全に調子を狂わされ、ルイは自分の口調が完全に変わった事など気付いないだろう。そしてもう一度ルイは雅の顔を、いや、自分の飼い主ではなく
戦友を見る目で見つめ直した彼女は嘆息するように言葉を吐き出した。
「なら、漸くだな。一人は手元に居たとは言え、長い事待たされて錆び付きそうだったよ」
「なんじゃ? 毛繕いもしとらんのか」
「もう・・・そう言う気の抜ける言い方ないでしょ〜?」
しかし、二度目の調子を崩されルイの言葉遣いは元に戻ったと言うべきか。多分屈託のない皮肉の籠もった笑顔を雅に向け、そして玄関の戸を器用に触手で開け
言った。
「じゃ、楓のお母さんにヨロシクね〜」
そしてルイはその姿を闇に溶け込ませ風よりも迅く夜に消え、それを確認した雅は肩口を手で撫でながら呟いた。
「さて、風を動かしに行くか」
夜の病院と言う物が怖いと言うのが楓には今一理解出来なかった。昔からそうであったが、何故か暗闇が好きと言う訳でもないが
落ち着けるのである。知り合いの看護婦もそうであるが、何年やって居ても一人では怖いらしい。何度か少し遅めの時間に
来た時、見回りが出来ない新人の看護婦と一緒に病院を回った事すらある程だ。そして夜8時頃、彼女はいつもの様に光の漏れる個室の扉を開く。
「今日は、早かったのね」
戸口に立っていた時から、いや、その前の廊下に響く足音で自分の娘だと、楓の母は分かっているのだろう。
相変わらず血色の悪い、雪の様な肌色がスタンドの光に照らされていたが、楓はその表情がいつもより良い事に気付く。
「うん、お師様帰ってきたし。あんまり婦長さん困らせちゃダメだろうし」
母の寝るベッドの側に寄り、いつもの様に傍らに座る楓。そしていつものように、母親に髪を撫でられるのが日課でもある。
「また青痣作って。私の楓はいつも元気ね」
しかし、時々首筋や腕にある、鍛錬したと言う証を見ると楓の母はたおやかに微笑むだけ。一番最初から今の今まで、一度として彼女が
俗に女の子らしくないとされる、格闘技をする事に反対する事もなく誉めてくれるのだ。だから楓は「お母さん」が大好きだった。
だから例え、どんな事があったとしても母親に泣き顔を見せた事は無い。
六年前、自分の目の前で母親が倒れた時から。
「もちろんっ。元気と勇気と根気が私のトレードマークだもん」
そしてくるっと周り、母親に微笑み掛けて見せる。
何ら変わらない毎日。
例え母の病状が良くならないとしても、死なないだけマシと彼女は最近思う様になってきたのだ。雅やルイに見せるあの表情とて、彼女自身あまり気付いて居ない
のだろう。そして何より、そんな顔を母親の前では意識的に絶対しない様にしていた。
「あ、また院長先生から貰ったの?」
「そうよ。私はお礼言いに行けないから、今度言って置いてね」
「うん、分かった・・・・」
「食べたい?」
「うんっ!」
貰い物のリンゴをが美味しそうに見えたのは彼女の大好物であり、昼から何も食べて無い事があるのだろう。
いつも夕食はここで済ます為に、夕飯を雅の家の台所で作りここまで持って来るのである。
例え一緒に食べられなくても、目の前に母親が居てくれると言うのが彼女には嬉しいのだ。
「今日はねぇ、卵焼きとジャガイモの煮っ転がしとそぼろご飯と、あとこれはお師様が手伝ってくれた杏仁豆腐だよ」
背負っていたデイバックの中からタッパーが取り出され、きちんと作られた食事がベッドに備え付けの机に所狭しと並べられる。
「杏仁豆腐なら食べられるよね」
「ええ。それに杏仁豆腐は私の大好物よ。ダメって言われても食べちゃうわ。だって楓が作ったんでしょ? 美味しそうよ」
「えへへ・・・ありがと」
正面から誉められれば照れてしまうのは癖なのだ。楓は頬を真っ赤に染めながらにひひと言う笑顔を零してしまう。
そしてそれを見ながら満足そうに笑う彼女の母親もまた、嬉しそうだった。
そして今日あった事。雅の内の、彼女に取ってはペット兼友達のルイの事やTV番組の「ガルブレイズ」の事。
どんな些細な事であろうが楓は母親に聞かせる。それは外に出られない、閉鎖的空間に居る母親を気遣っての事。
そして彼女の母親は、自分が教えられなかった優しさと言う一つの愛の形を彼女が自分から学んでいる事を嬉しく思っているのだろう。
例えそこが闇の中であったとしても、スタンドの光以外に彼女たちは光を放っている様だった。
やがて食事は終わり、母親を寝かせた彼女はデイバックに持ってきたタッパーを片付け始める。
だが珍しく、そして久方ぶりに見た母への一通の封筒が見えそれを母に尋ねる。
「誰から?」
「ああ、今日の昼間香織(かおり)さんが持って来てくれた手紙ね。開けていいから、読んでくれる?」
「うん」
香織、と言うのは一年前この病院に新任してきた看護婦であり、数多い楓が夜の見回りを手伝った女性で、
色々と楓と楓の母の事を気遣い、時々楓の勉強などを見てくれる彼女に取っては、姉代わりの人だ。
だが未だに夜の見回りが慣れないのか。時々ではある物の、彼女を見つけると一緒に「散歩」しようと、少し困った顔で言う面白い人でもあった。
「あ、設楽さんからだよ」
封を切っって逆さにすれば出てきたのは一枚の真っ白い羽と手紙。こんな事をする人物を楓は他に知らない故に嬉しそうに言った。
「あのおじいちゃんも最近忙しかったんだけど、一段落着いたんだね」
「そう見たいね」
「あ、寝てなきゃダメだよ。ほら」
「じゃ、読んで頂戴」
「はいはい」
そして起きだし手紙を覗き込む母をベッドに再度寝かせてから、彼女は手紙を手に取り読み上げようと声を出す。
だが、正確に言えば出そうとしただけで表情が硬直して行くのが楓自身よく分かった。
「どうしたの?」
「な、なんでも無いよ」
不思議そうな顔をする母に、驚く表情を見せない為に楓は必死だった。
癖とは言え、この時ばかりは彼女の才能の一端である「速読」と言う技術をこれ程まで嫌な物に感じた事は無い。
もしそれが無ければ、母親に哀しい顔をさせる事になるのだったが、今は母親に嘘を付くと言う行為が良いのか悪いのか判断しかねたのだ。
昔から楓は、嘘を付いた事は一度も無かった。
例えどんな些細な嘘であろうと、何一つ隠さず話したのだ。
それがテストで0点を取った時でも、口の周りにチョコをべっとりと付けていた幼かった時でさえだ。
いや、本当は付いた事があるのだが、母親だけには絶対に付きたくないと思ったのだ。
絶対に母親を悲しませてはいけない。だから私は本当の事を話す。
それをずっと実行出来ると思っていたが、ここに来て、それが本当に良いのか悪いのか分からなくなってしまう。
手紙の内容が、設楽鉄也と言う、彼女の母親の入院費を昔から出してくれていた人物の死を告げる物だったから。
「どうしたの?」
そしてもう一度、母に尋ねられた時、彼女は決心する。
一生でたった一度だけ、嘘を付こうと。
だが、それが出来る程、彼女は強く無いのだろう。
六年間、ただの一度として見せた事のない涙があふれ出し、止まらなくなる。
「楓?」
「な、何でも無いよ。ちょっと待ってね・・・」
どうしても気付かれたくない。
強いままの自分で居なければ、心配を掛けてしまうから。
病床に寝ている母親に、決してその姿だけは見られたくなかった。
そうしなければ、母親が自分の事を気にして治るのが遅くなるかもしれないから。
かもしれないと言う、ごく僅かな事であろうと、母親が良くなるのならどんな事でも我慢出来たから。
それが崩れ落ちてしまうのが悔しくて悔しくて、彼女は自分が弱いと言う事実を認められないのではなく、嘘を付くと言う行為だけで、
母親の前で嘘を付くと言う事実だけで弱くなってしまう自分が嫌だったのだ。
だが、それが強さだと言う事に気付いていないのは、この母にしてこの娘ありと言った所か。
彼女の母親は一度だけ嘆息してから、彼女の頭を撫でた。
「全くこの娘(こ)は・・・。誰に似たのかしらね」
愛おしくて愛おしくて堪らない。
母親の言葉が胸に染みて、自分が罪を犯した、まだ犯していなくともそれをしそうになった自分が悔しくて仕方がない。
だから彼女は流すのだろう。
六年間、ただの一度も、強くなる為と思い流さなかった涙を。
そして彼女の母親は、自分の娘を胸に抱き言った。
「設楽さん。死んだのね」
「・・・・・」
読んだ訳でもないのに、分かるのは何故なのか。
そう頭の中で疑問を思い浮かべた途端、それの答えは母親の口から漏れ出す。
「何となく、分かるのよ・・・。風が教えてくれるから」
「か・・・ぜ・・・?」
涙を拭う事もせず、今はただ、母親の胸で涙を流して居たい。
「そう。風よ・・・。この星の上で静かに、誇らしく流れて止まらない風」
多分、母は眼を閉じているのだろうと、楓には何故か分かった。胸の内と言う、暖かい暗闇の中で彼女はそれを感じ取り、母親の声に耳を傾ける。
「貴方のお父さんの話。まだしてなかったわね」
「うん・・・」
「聞きたい?」
「・・・・・うん」
何となく聞けなかった、生まれた時から居ない父親の話を母はしてくれる。それが嬉しくもあり、何故か寂しくもあった。
だが、それが何故寂しいのか。今の彼女には分からない。
「父さんはね、貴方と同じ様な事をしてたの」
「同じ様な事?」
「そうよ。貴方のお父さんは強くて逞しくて、カッコイイ人だったわ。だから今でも私はお父さんの事が大好きよ」
「うん・・・」
「でもね、お父さんは貴方の顔を見る前に死んでしまったの。私との約束を破ってね」
「・・・・・」
「でもやっぱり私は貴方のお父さん、私の夫、一真(かずま)さんが大好きよ。だから一真さんの口癖、貴方に教えてあげるわ」
終わってしまった事、なのだろう。
所詮過ぎ去ってしまった、過去、なのだろう。
母の口から漏れる言葉は、躊躇いも迷いも不安も、何もかもが無かった。
もう少し強ければ、楓にもそれが理解出来たのだろうが、今はそれが何故なのか分からない。
そして彼女の母親は、紡ぐように言う。
「決して妥協するな。自分のやりたい事をやり遂げる為に、決して妥協はするな」
強い口調だった。今まで聞いた事のない、母のその声はどの人の声よりも強く感じられた。
だが、やはりまだ早いのか。彼女には分からない。
そして母は彼女の顔を自分の目の前に動かし、彼女の目を見据え言う。
だがその時、楓は悟った。
「だから楓も、決して妥協はしないで。自分のやりたい事をやれば良いの。自分を曲げたらそこで終わりだから。二度と戻れる事なんて出来ないから」
虚ろな、光を宿し揺らめき見開かれた母親の瞳は、あまりにも不自然に光を宿していた。
そしてそれが分かると同時に、手紙が読まなかったのではなく、読めなかった事が分かる。
「お母さん・・・目が・・」
「分かっているわ。でも、今は良いの。だから私の話を聞いて頂戴」
「でも!」
「良いから聞きなさい!!」
「!!」
そして初めて、母親の怒る声を聞いた彼女は身を竦ませた。
一度として、怒った事が無い訳ではない。だが、今の今までただの一度として彼女の母は怒った声を出した事は無かった。
子供の頃、悪戯して昔のここの婦長を怒らせた事があったが、その時でさえ諭すように、優しい声で怒ってくれた。
だから怖かったのかもしれない。
だから胸が苦しかったのかもしれない。
だから、心が痛かったのかもしれない。
「ごめんね。怒鳴ったりして。でも、聞いて頂戴」
しかし彼女の母親は、直ぐに優しげな、例え見えていなくてもその瞳で真っ直ぐに自分の娘を見据え、言った。
「私はもうすぐ死ぬわ」
「お母さん!」
「良いから聞きなさい」
「・・・・・」
「でもね、だからと言って、私は貴方の邪魔をしたくないの。邪魔になりたくないの。楓も同じだろうし、分かるわね」
「・・・・・」
納得したくない。
そして分かりたくもない。
絶対に、諦めると言う事が嫌いだから。
だから自分の母親の口から「死」と言う言葉が漏れるのが嫌で堪らなかった。
いや、もしかしたら怖かったのかもしれない。
独りになってしまう様で。
だから彼女に母親の言葉は耳に入っても、心には届いていない。
だが、それでも彼女の母親はその閉ざしてしまいそうな心を包み込み、言葉を吐く。ただ、今度は少しおどけた物だった。
「正義の味方だったっけ?」
「・・・・・?」
「進路希望欄の一つ目に、そう書いたでしょ?」
「・・・・・・・・・・・うん」
正直、恥ずかしさの方がこみ上げ、彼女は顔を赤く染めてしまった。
先日、高校の進路希望の進路希望欄にそう書いた事はまだ記憶に新しい。その時でさえ、笑っていた物の、彼女の母親は「頑張って」と励ましてくれた。
そして本気でそれになりたいと思ったから、がんばれると思った。
「本当になりたい?」
何故、ここでそんな事を言うのか。彼女にはやはり分からない。
ただ、迷いもなく頷く事だけは忘れていなかった。
それに対し、母はやんわりと微笑み掛け、彼女をもう一度胸に抱いてから言う。
「私のお願い聞いてくれる?」
「・・・・何?」
聞きたくなかった言葉。
苛立っていたのだろう自分。
そして恐怖で彩られていた心。
それが何故かばかばかしくて、彼女は母の胸に抱かれ考える。
だが、やはりまだ、足りない。
だが、それでも母は言った。
「正義の味方、じゃなくて、正義を目指してくれないかしら?」
「・・・・味方じゃなくて?」
「そうよ、味方じゃなくて、正義」
「・・・・分からないよ・・・。お師様見たい」
そしてまた、分からない言葉が彼女の心を掻き乱し、それが不安を呼び彼女の心に冷たい風を巻き起こす。
だがその途端、彼女は感じ取った。
有り得ない者の、存在を。
『何で・・・何で居るのよ!!』
それは過去、一度だけ出逢った事のある、異形の者の気配。
彼女の師は、まだ早いと言い彼女を決してそれと出逢わない様、そして出逢っても戦わない様にと言い聞かせていた存在。
だが、それは刻々と、確実に彼女と彼女の母親の居るここへと向かい、気配を強大にして来る。
『行かなきゃ・・・私がやらなきゃ・・・』
もしかしたら、その時、彼女は独りだったのかもしれない。
戦場に赴く時、誰しもが抱く感情。
そして本当は独りじゃないのに、気付かないと言うのが若さ、早い、そして足りないと言う事。
だが、それに気付ける程、彼女は強くは無い。
「お母さん・・・」
母の顔を見上げ、見えない筈の瞳に、自分の意志を伝える。
母親も、見たことは無いのだろう。彼女はそれを聞いていた。
彼女の師は言った。
それは決して、平凡に暮らしている場所には現れないのだと。だから誰もそれに気付かないのだと。
それが昔であればまだ存在は誰かに見えていたのだろうが、この現代と言う世界では、誰も「見ない」様になったのだと。
だから私が屠るのだと、彼女の師は言っていた。
そして今、自分がそれをやらなければならない時だと、彼女は思う。
それ故、足りないのだと言う事実を分からないまま。
「ちょっと・・・待ってて」
「どうしたの?」
「・・・・トイレ」
たった、一言、三文字の嘘。
それを付いた時、彼女は母をそこに置き去りにして、飛び出す。
母がどんな表情をしていたのかも分からない。
ただ、心の中にあったのは、どうにかしなければならないと言う意志ではなく、欲望だけだったのかもしれない。
そしてそれを知っているからこそ、彼女の母は、言ったのだろう。
「・・・・もう、良いですよ。出てきても」
誰も居ない筈の、闇に閉ざされ少しだけ光の漏れる扉の向こう側。そこに気配を感じたのは何時からだろうか。
いや、相手は気配を消している筈なのだから、彼女の娘は気付かなかったのだろう。そしてそれは闇から姿を現す。
「失礼とは思ったが、聞かせて貰った。すまぬ」
「謝る事は無いですよ。あの娘(こ)には・・・必要な事です。そして貴方にも」
そこから姿を現した人物を見れば、楓は間違いなく驚いただろう。白い、いつもの絣に淡い藍色の羽織を羽織った、雅の姿があったのだから。
しかし、楓の母親は、別段驚く表情も見せずに続けた。
「一介の虎族(こぞく)が、貴方の様な龍人族に頼める事ではないと、分かって居ます。でも、それでも私は貴方に託すしかない」
その表情も顔も、決して娘に見せた事のない物だった。
打ち消し、捨て去った筈の表情。
そしてそこに居たのは、病床に伏せる、病人の顔ではなく、戦いし者の顔。
それが彼女の、楓の母の、薫と言う一匹の獣の側面。
「分かっている。だからこうして、会いに来た。貴殿の意志を継ぐため、そして、終止符を穿つ為に」
そしてまた、雅の表情も同じ物。
その顔もやはり、楓の見たことの無い物なのだろう。
あまりにも強く、いや、強すぎる力を持った、龍人ではなく龍神としての顔なのだ。そして雅は袂の中から一対の小手を取りだし、口を開いた。
「貴女(あなた)の故郷に行った時、奴らと出逢いこれを託された。本当は貴女の手から、彼女に・・・楓に渡した方が良い物だ」
その小手はただの薄汚れた防具にしか見えない。雅の着る、スタンドの光に照らされ淡い乳白色の光を放つ絣の様に。
だが、それが何なのか知っている楓の母親、薫はそれを受け取り、言った。
「風に・・・風になって。血風(けっぷう)も、旋風(つむじ)も、雪風(せっぱ)も、そして嵐でさえ統べる、全ての風になってください」
そしてその言葉が淡い、愛と言う名の風になり小手へと宿される。
光も、闇も、そこにはあるが、そのどれよりも強い意志の籠もった風(ことば)なのだ。
それ故、なのだろう。
その動かなくなった腕の中からその小手を取り出した雅は、振り向き、いや、振り返らずに言った。
「貴公の娘は、私が育てる。例え、我が身にどんな凶(ま)があろうとも、彼女に恨まれようと私が守り抜いて見せる」
だが、何時それを思っても、やはり耐えられない部分があるのだろう。
それが、初めから決して有り得ない、二つの器を持ったと言う証。
そして彼女は誇り高き、母親となり死んだ戦友の名を刻むため、片腕を晒しもう片方の指で掻き斬る。
「・・・・・」
血飛沫が出る程、深い筈の傷なのだが、彼女は痛む表情を一切見せない。
滴り落ちる血も気にせず、それは彼女の白い、真っ白い筈の着物を赤く、赤く染め上げる。
そして彼女は言った。
「貴公の名を永遠に刻もう。安らかに、そして誇りに思って眠れ。我が戦友」
ただの言葉。
多分、彼女以外にそれを理解出来る物など存在しない。
だが、彼女はそれで良いと思う。
ここで託されたのは自分であり、他ではないのだから。
そして歩き去る彼女の服には、一匹の赤い血の大蛇が画かれていた。
廊下を走り抜け、師に言われた言いつけを破り自分の中に眠る獣を解放する。
練習や鍛錬の時は出来なかった筈なのに、今は躊躇いも障害もなくそれが自分には出来た。
だから彼女は自分の気配で相手を誘き寄せ、そして病院の廊下を走り階段を駆け下りるのではなく駆け上がり屋上へと出る。
そして相手の姿を見た時、何故か初めて見た時には感じなかった、そして今の彼女には感じられる感情を胸に抱く。
「絶対に・・・誰も殺させない」
構えは自然と出来た。
身体で覚えた事は、一生忘れないと言う、学校か何処かで聞いた言葉が想い出される。だが、やはり師の覚えるのではなく学べと言う言葉は未だに分からないまま。
そしてそれは姿を徐々にだが、現し始めていた。
黒い、漆黒ではなく半透明のその姿を見る限り、一番最初に見た物と同じなのだろう。人の残留思念や怨念を具現化するだけの何かが在るときだけ、それは
姿を形とし人を喰らうのだと言う。それは彼女の中にある知識であり、聞いた人物はやはり彼女の師。
勝てるとは思わなかった。
ただ、負けるとも思わなかった。
そして何より、ここに自分の母が居るのならば、何にでも負けないと決意する。
だから彼女は妥協しない。
ただ、それが言葉を吐くとは思わなかった。
「お前の・・・」
「?」
「お前の母を喰ろうてやろう」
言った意味も、言葉も初めは理解出来なかった。
あまりにも染まりすぎて、冷静ではなかったのだろう。
それ故、二度目の時、彼女はそれを理解する。
「お前の母も喰ろうてやろう。上手そうだからなぁ・・・アノ女ハ」
気配を感じ、そちらに視線を向ける。そこは屋上から唯一降りられる階段があり、扉がある。
だが、そこから姿を現したのは自分の前に居る異形の存在と同じ物。
そしてそれすらも動き、まるで階段から下りさせない為に、言葉通り邪魔していた。
「・・け・・」
それ故、彼女は言葉を吐くのだが、それは周りに集まりだした、幾つもの異形の存在の下卑た笑い声にかき消され聞こえる事は無い。
だからこそ、彼女の身体は風を纏い変わるのだろう。
「邪魔だ退け!!!!!」
悲鳴と叫び、それを入り交じらせた怒号は静かな空間に響き渡り、大気を震わした。それだけで異形の者の、身体の一部が欠片となってが飛び散るが
ただそれだけ。
だが、確実に変わった、独りの少女が纏うそれは、嵐と言う名の殺意。
それだけに塗りつぶされた彼女に、いや、一匹の獣には倒すべきではなく、殺すべき敵以外見えて居ないのだろう。
そして彼女は殺戮、そう、まさに一方的な戮をも殺す行為を繰り返した。
相手の笑う声も唸る声も、断末魔の叫びでさえ届いていない心で。
だが、屠る者が居なくなれば彼女もやがて戻るのか。母親の事を思い出した彼女は死骸である、黒い水を身体中に浴びながら階段を駆け下り母の居る病室へと急ぐ。
「お母さん!!」
思いの外静かだった病室。それに安堵の溜息を漏らすが、彼女は気付く。
「お母さ・・ん?」
言葉は決して返らなかった。
冷たくなり、ベッドに眠る自分の母親の姿は綺麗だったのかもしれない。
満足げな笑みを浮かべ、悔いの無い顔とはまさにその事だろう。
ただ、今の彼女に取ってそれを受け入れられるだけの器は無く、彼女は母親の屍となったそれに駆け寄り、そして縋り泣くしか無いのだろう。
そして看護婦が来るまで、彼女はそこで泣き続けた。
私は何をしているのだろうか。そんな疑問が過ぎり、彼女は自分の居る場所を見た。
そこは彼女の、生まれた時から住んでいる家だった。部屋は自分の母親と一緒に過ごした、居間だった。
だが、いつも通り、六年前と同じくそこには自分独りしか居ないのだ。
その事実と、そして頭に浮かんだ、母親の死と言う真実を思い浮かべた時、彼女は自分の居る、部屋の隅っこで膝を抱え泣いた。
何も出来なかった、そして最後の一言さえ聞けなかった、最後の時でさえ一緒に居なかった自分の憎み。
それが過ちであると言う事実を見ずに。
それだけが、今の自分に必要な物だと、誤解したまま。
そして朝が来たのだと、窓から漏れる木漏れ日で楓は気付いた。だが、寝てしまった訳ではなく、ずっとそこで目を見開きただ居ただけ。
何を考える訳でもなく、心を失いそこに居ただけ。
眠りたいと思わなかった。正確に言えば思いたくなかったと言った所か。
それ一色に染まれば何でも出来ると言う事実に半ば驚きながら、それをどうでも良いとするのはやはり駄目な事なのだろう。
それが分からずに、彼女は母親が死に、そこから帰る道での事を思い出す。
自分をここまで送ってくれたのは夜勤で、一番最初に彼女を発見した香織と言う看護婦だった。付き合いは短いがなじみ深い、彼女に取って姉代わりの人。
だから看護婦としては新人だが、人生の先輩として怒ることもなく、ただ「帰ろうっか」と言ってここまで送り届けてくれたのだろう。
もし、そこでそれ以外の言葉を聞いていれば彼女は香織と言う友達の言葉でさえ跳ね返し逆らっただろう。だが、それがまた、自分が子供なのだと
痛感させられ、結局悪循環の中に身を置くしかないのか。それが嫌で嫌で堪らない自分がそこには居た。
そして昼が来て、夜が来る。
やはり何をする訳でもなく、そこに居るだけの彼女。
だが何もする気にはなれないのだろう。何度か電話が鳴っていたのにも気付いたし、呼び鈴が鳴っているのも気付いたが、それでも彼女はそこを動かなかった。
『もう・・・いいや・・・どうでも』
何故か動けない自分に、逆にそれが自然だと、楓は思い始めていた。
母親も守れない、正義なんかに意味など持てないのだ。
例えどれだけ敵を倒せても、自分の守りたい物が何一つ守れないのならそれは価値の無いただの言葉。
だから彼女はここで死んでも良いとも思っていた。
多少、空腹は感じるだろうが、多分、自分が感じているそれよりも、死に際に逢えなかった娘を思う母親に比べれば何の事は無いだろうとも思っていた。
だからこれは罰なのだと思っていた。
時間と言う物が過ぎるのは長く感じるが、それすら彼女に取って罪滅ぼしの罰になる。
そう思うから空腹にも耐えられる。動けない身体と言う現実にも耐えられる。
だがやはり、心の何処かでそれが間違っているのを気付いたのかもしれない。
でも、それでも動きたくは無かったのだろう。
涙も枯れ、楓も正直疲れた所だった。
ぐぅ・・・
「嫌な音・・・・」
そして漸く彼女は言葉を発す。だが、それは何も籠もらない、ただの記号でしかない物。意味も何も含まない、自分の心を現すだけの記号だ。
ぐぅうぅ・・・
だがもう一度鳴った時、彼女は渇いた笑みを浮かべてしまった。
どんな時でもお腹が鳴るんだと言う事実が、何処か滑稽に思えたのだ。
「くちっ・・・」
そして嚔(くしゃみ)。気が付けば、まだあの異形の者の死骸である黒い水を被ったままだった。
だから風邪を引いたのだろうと思った時、また彼女の顔は笑っていた。
「初めてだよ・・・風邪引いたの。おかしいよね・・・元気と勇気と根気が私のトレードマークなのにね・・・」
今まで一度として風邪を引いた事がないのは、彼女の母親がそれとなく気遣い、彼女がそれに応えて居たから。
だから風邪も引かず、元気にしていられたのだと、頭に昔の想い出が過ぎる。
そして思い出したからこそ、それに縋る様に、彼女は立ち上がった。
居間を出て、六年間一度も使われていない母の寝室に入る。そこにあったのはタンスが一つと大きな鏡台が一つ、それ以外、何も無い六畳間。
「・・・・・」
タンスの一番上の引き出しを開け、そこに入っている筈のアルバムは直ぐに見付かった。何故本棚に置かないのか、分からないまま彼女の母親が去った後に
それを見れば、懐かしさと哀しさがこみ上げる。そして昔は背が届かない故に、そこの引き出しは開けられなかった。開けようとも思わなかった。
成長したと言う、実感など無かったが、その事実だけが胸に染みてきた。
そしてそのアルバムを開くことなく、胸に抱いた時、枯れていた筈の涙がまた溢れてくる。だが何故か胸は痛まなかった。
「へ、へへっ・・・」
涙を拭う事も忘れ、力無くそこに座り込んでしまう。タンスに背を向け、もたれ掛かった所で目に映ったのは彼女の母親の宝物の一つである鏡台。
そしてたった一度だけ、彼女が覗き込んだ事のある写し見。それはただそこにあるだけで、そして色あせた花柄の布で覆われたそれは彼女に嫌な物を思い出させる。
「・・・もう、やだよ」
思い浮かんだのは母親の顔だった。
だが、今の彼女に取ってそれは何よりも辛い、想い出となってしまう事、そして忘れてしまうのではないかと言う不安が一番ダイキライで、
そして大好きだったお母さんの顔。
だから彼女はまた顔を伏せ、涙を流す。
闇の中に星の光を受け輝く雫ではなく、闇と同質でありながら唯一を輝かせる、赤い血涙を。
それは止め処なく流れ、彼女の心と身体を蝕み死肉と化してしまうプロセスなのだろうか。
心を決して癒す事の出来ない、ただの血でしか無いのだろうか。
何もかも、今の彼女に取って初めてであり、これ以上も辛い事は無いだろう。
全てを捨て去って、否定してしまった時、彼女は漸く自分が独りだと言う事を理解せざるを得ないのだから。
だがそれでも、彼女の中にある「それ」はそれを否定しながらも自分を見いだそうとするのだろう。
ふと、顔を見上げたそこには鏡台のカバーが風で揺れ落ちていた。
「・・・・・?」
窓など、開いている筈も無かった。少々かび臭いが、ここは滅多に入らない部屋なのだ。
六年前と四年前、そして一年前の三度だけ、この部屋の窓の鍵は開けられ、空気の入れ換えをした事があった。だが、それ以外は
決して開かれる事のない、時の止まってしまった部屋。
だが、時は止める事の出来ない、絶対なる存在。そして風もまた、そうなのかもしれない。
「汚い・・・」
そして鏡に映った自分の顔を見て、彼女は呟く。
有り得ない筈の血を流し、涙の代用品を滴らせる自分の瞳。その顔が映った鏡の中の自分も、やはり同じく血涙を流している。
いつも元気だった筈なのに、その中の自分は泣いていた。
涙を流し、痛みもしない心で。
だから、血の涙が流れているのだろう。
そして白く色あせたアルバムはそれを含み、赤く、赤く染まって行く。
「ごめんなさい・・・」
だから、居もしない、もう逢えない筈の母親に、彼女は謝る。
この鏡台に嫌な自分を映してしまった事、想い出を残す為のアルバムを汚してしまった事、そして、愛してくれた、何よりも掛け替えのない血の絆で繋がった
肉親を否定してしまった事に対し。
「・・・・・ごめんなさい」
それは部屋の、止まっていた筈の時を動かす言葉。
動かす為の、彼女の風を甦らせる、終止符を穿つ音。
だから、彼女は血涙を拭い、立ち上がる。
「・・・・・」
鏡台の前に立ち、アルバムを側に置いて、決意する様に言う。
「絶対に・・・・」
それを「終り」にしない為に。
「絶対になるよ」
ありもしない「終」に縋る事が嫌だから。
「強くなってみせる」
だから何時の間にか涙は止まっていた。
渇いた、夜の冷たい空気がそれを乾かし、染めて行く。
そして彼女は言った。
「絶対に強くなって見せるよ。だから安心してね、お母さん」
終止符を穿つのは序章を終わらせる為。
「私は、私だけで強くなる」
そして今は、序章を終わらせられる、最後の時。
「でもね、やっぱり・・・みんなと一緒が良いの」
だがそれは、死と言う名の、終わりと始まりの狭間を現す時でもある。
「だからね・・・・」
そして彼女は泣いていた自分を殺し、前に進むだけの自分を生み出す。
「独りは止めて、みんなと一緒に強くなるよ」
それは彼女自身、まだ気付いていないのだろうが、それでも尚、彼女の中に湧き起こらせる事の出来る言葉(ちから)。
「だから見ててね。私が・・・」
そして、彼女は後一滴だけ、それだけで全てを洗う、涙を流す。
それだけが、彼女のたった一粒の、勇気と言う名の風だから。
そしてそれは彼女の中に眠る、獣も人も、神でさえ目覚めさせる事が出来るから。
だから言うのだ。
「最強に・・・なる所を」
そこに居たのはたった独りの少女だった。
16年と言う、短い月日しか流れていないだけの、まだ何にも染まらない風。
だがそれでも、唯一、時を越えられる物を持てたならば。
それはもう一つの器を持てる、切っ掛けとなる。
そしてたった二文字の目標。
それは彼女に取っては「根気」とも「勇気」とも「元気」とも、そして「正義」読め、それらを全て含むたった二文字の力のある言葉なのだろう。
それ故、彼女は何者にも染まらない、たった一つの風になる。
しかし所詮、それは例えでしかない。
一面を見ただけの、全ての側面でしかない。
だがそれもやはり、彼女の一面である事は変わりないのだ。
だから彼女は風を感じ、巻き起こせたのだろう。
一番最初の、流れを創り出す者となれたのだろう。
だから彼女は笑って言うのだ。
「またね・・・」
いつの間にか、いや、最初からそれの前に立った時から持っていた花柄のカバーで鏡台を覆い、
血涙で汚れてしまったアルバムを持ち上げ、少しだけ服の裾で拭ってから消えない傷としてそこに刻まれた物を見、微笑み元あった場所にそれを仕舞う。
そして振り返らずに前へと進み出し、部屋のドアを閉めた時、彼女の母親は微笑んだのだろう。
それは決して、彼女には届かない、終わりを告げた風。
だが、彼女にはもう、それがあるのなら、それは不要な物。
乗り越えられたならば、彼女は何者にでも成れる、種子なのだから。
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