卒業式を早々に終え、一度家に帰り荷物を纏めた彼女はいつもの道を走っていた。
毎日欠かさず走って来た道であり、これが鍛錬にもなっている事は彼女も十分承知している。
だが、今日でそれも終わりになるのかと思えば少し寂しい気もするのだ。
それ故、少し立ち止まり、そこから見える街の風景を眺めた。
一望できる、と言う程眺めがいい訳ではない。だが、そこから見る風景はいつもと変わらず、茜色の輝きで染められた、自然ではない街。
人が作った訳ではない大地に勝手に線を引き、人間以外に権利を与えないだけの傲慢な街。
だが、そんな街でも彼女は自然だと言える様な気がしたのだ。
それが時の流れだと言う言葉で片付けられる物ではなく、間違いなのは確かな事。
だからこそ、変えたいと思うのはおかしい事だろうか。
それは学校の卒業していった友達や、後輩の為、かもしれない。
母親の居た病院で働いている知り合いの先生や院長、姉代わりの看護婦さんやちょっと怖い
けど本当は優しい婦長さんの為かもしれない。
三年前に知り合った自分の師であり、年の離れた友人とペットだと思っていた、自分を優しく包み込んでくれる
二人目の姉代わりの人物の為かもしれない。
だが、やはり自分が一番やりたい事故に頑張れるのだと思えば、この街と少々の間別れるのも惜しくは無い。
「やるぞー!!」
そしてわき目もふらず叫んだ彼女は胸中で決意を新たに固める。
昨日、雅達と別れる前に楓はこれからの進路を相談した。とは言っても「正義になる」等と言う半ば訳の分からない事であったが、
楓に取っては楽しい事だったのだろう。半分呆れる様にして対応していた雅とは違い、真剣にこれからの事を考えていた。
そこでルイが出した当分の目的なのだが、一応龍人族を守る為に星の意志と言う女性に逢いに行く事にしたのだ。
楓に取ってはお目通りであり、雅とルイに取っては旧友との久々の再会と言う事になる。
だが、雅はそこで一つの条件を出したのだ。
それがここいら一帯の魔物を狩ると言う事だった。
雅自身、それで楓が生長するとは思えぬし、ただ掃除して故郷へと赴くと言った感覚なのだろう。
だが、それによって楓が何かを得ると言う確信めいた何かを見い出したのか。
香港に旅行に出る時よりも楽しげな顔をして言っていた。
「お師様〜」
「おう、来たか」
そして玄関先に来た楓を迎えに出た雅を見て、楓は少々驚いた。
何せ万年同じ服、いや、全く同じ形の服ばかり着ていた雅が初めて別の服を着ているのだ。何故か黒い光沢のあるレザー洋品で
ズボンもジャケットも何故か填めているグローブでさえ固めているのかは分からなかったが、
いつもの白い絣と同じく、やはり着こなしている事は同じである。ただし、ゆったりしていない服故にあまり気に入っている訳では無い様だったが。
「お師様、もしかして何着ても似合うんじゃない?」
「私は服は拘らん。そんな銭があったら食い物か酒か煙草の方がよっぽど良い」
「けど勿体ないよ。お師様見たいな綺麗な人、男の人手玉に取れるんじゃないの?」
「残念だがな、腰振るだけの種馬なんぞこっちから願い下げだ」
「?」
雅の言った言葉の意味が理解できていない、楓が分からないのか。学校行っている割にその方面の知識を得ていない
楓に少し心配すら覚える雅だが、今はそれよりも楓の準備の方が先であろう。
昨夜楓に言い、家から持っていく物を全て持ってこいと言ったのだ。その通り、楓は大きめのスポーツバッグに色々と詰め込んできた様である。
だが、腕に抱えたそれが母親の遺骨を包んだ箱である事に気付いた雅はそれを気にしないように、そして触れないようにしていたのだが、
そこは既に吹っ切れていると言う証だろう。何喰わぬ顔で楓は提案した。
「お師様、お母さん、ここの道場に置いて行っても良い?」
「別に構わぬが・・・。お前の父親と同じ場所に埋めてやるべきではないのか?」
「家中引っかき回して色々探したんだけど、お父さんのお墓の場所何処か分からないんだ。だから旅先でもし見つけられたら、もう一度ここに戻って
持って行くつもりなの」
そこで雅は「面倒な」と一瞬は思った。だが、楓なりにそれが生きて帰ると言う、意志の現れなのだろうと分かった時、
やはりあまり表には出さないが怖いとは思っているのだと言う事を悟る。
「ま、お前の好きにしろ」
「ありがと」
そしてぶっきらぼうに言うのが雅の礼儀であり、楓もそれは分かっているのだ。そして楓は中身の詰まったスポーツバッグを雅に預け、
走りながら道場へと向かう。
相変わらずの道場の扉を開け、靴を乱暴に脱ぎ捨て中へと入る。そして奥へと進み、段差の上に畳み三枚分のスペースの中心に
遺骨の入った箱を置き、彼女は手を合わす。
何か言葉を掛けようかと思ったが、良いのが思い浮かばないのか。照れ笑いだけして彼女はもう一度手を合わせ目を開く。
「行って来るよ、お母さん」
それ以外、何も言葉など要らぬ事。
見据えた先は母の遺骨なれど、その瞳に宿る光は決して濁った物ではない。
これから先、何が起こるのか等分からなかったが、それに対して母の言葉を重ね彼女は胸中で呟いた。
『妥協しないで、自分のしたい事をしてくるよ』
それが彼女の、この街でのけじめの付け方の一つ。
迷いもなく、振り返り進む道は彼女の夢の第一歩だった。

FILE type 3rd 003 [ 最強の名を持つ:TRY SOUND ]
「だーめ、こんなに重くて多い荷物持ってけないってば」
「えー。これもこれもお気に入りなのにぃ〜」
「楓・・・観光に行くんじゃない。私たちの旅って言うのはなるべく軽装の方が良いんだ」
「どうして?」
「敵が襲ってきた時、直ぐに対応出来る様にして置く必要があるだろう? 飯位ならそこらの森で探せば対外の物はあるし、街に行けば金さえ出せば
飯など食える。それともこの重い荷物持って戦えるのか?」
「むぅう・・・」
二人に言いくるめられ、結局楓は殆どの荷物を諦め大河家に置いてその場を後にした。
ちなみにレザー用品で身を固めている雅とは違い、ルイはやはりセーラー服がお気に入りの様で全く変わって居ない格好で荷物は全く無し。
そして楓はどこからかルイが用意してきた黒いダウンベストを学校の制服、ちなみにこれは卒業した学校ではなく、これまたやはり
どこからか仕入れてきたブレザーの上に着用した格好である。ポケットがいっぱい付いていて、中身を確認したのだが、途中で止めたのは
大小様々なナイフ、小さい物は何故か医療用のメスからコンバットナイフまで装着されており、それ以外のワイヤーや訳の分からない物まで付いている
のでそれ以上の追求は既に止めている。
そして歩いている場所は夜のアーケードのある商店街。殆どの店がもう閉めてあり、人通りも少なくなりつつあるそこには
会社帰りのサラリーマンやOL、他にもこれから出勤なのだろうか、化粧品の匂いがする女性や若い連中、としか分からないチーマーや
塾帰りの子供達までがまばらにいた。
その中でやはり楓の格好だけではなく、同じ方向で会話しながら進む三人の組み合わせはどこから見ても珍妙なのは
振り返るか目線を逸らす人々の反応で明らか。しかし雅もルイもそんな視線には慣れているのか、楓だけが少しむず痒い感覚を味わっている気がしていた。
「それじゃあ、この辺りで良いかな?」
余程これから起こる、否、起こす事が楽しいのか。ルイは首を鳴らし呟く。
場所は丁度、商店街のアーケードが終わる場所。この辺りにはあまり来た事のない楓に取って無縁とも思える町並みだったが、ここに来て雅が
ここを選んだ理由は街その物が放つ雰囲気でなんとなくであったが分かっていた。
ネオンが煌びやかに輝くその街は、もはや街の終わりを告げる時間と言うのを知らない様に光を放ち続け、人もアーケードの中よりは
多く見かけ、その殆どが背広姿の男性か、ケバいと言える程濃い化粧をした外国人女性。
それらが織りなす雰囲気はまさに人間としての理性を解き放った、ただ、飢えただけの獣と言う名の欲望だ。
だが、あまりにも静かすぎる反応を見せる楓を見、雅は自分は甘いと想いながらも言ってしまう。
「無理に街の雰囲気に慣れようとするな。現時点で理解出来ない事は後に回せば良い」
「分かった」
そして淡々とした口調で答えが返り、続いてこの辺り一帯の魔物の狩り方を決めるルイが口を開く。
「私と雅ちゃんは先に行くから、五分経ったら楓は出発。そっからゲームスタートなんだけど、
一応、こんな街でも人間が居るから見付からない様に行動してね。出てくる敵の種類は大方死霊とか悪霊の系統で、たまーに強いのが居るから
気を付けてね。実体が無いからと言って攻撃できない訳じゃないのは覚えて置いて。ちなみに弱点は自分で探す様に。
後、ゴールとかは無いし、自分で辺りの魔物の気配を感じなくなったら私か雅ちゃんを探してそこに行けばおしまい。分かった?」
「うん、分かった」
「それじゃ、先に行ってるよ」
去り際にわざわざ楓の頭を撫でたのは心配と言うよりも可愛いだけと言う感じのするルイ。だが楓に取って心配されるよりも信用されている
と思えるその行動は何より嬉しいのだ。
「青天井のここなら天井にぶつかる心配も無いから、好きに暴れて来い」
「もう、嫌な事思い出させるなぁ」
そして雅は皮肉めいた笑みを浮かべその場を後にし、楓はそこでルイに貰った大きめのスポーツ用品と思われる腕時計を見ながら道の隅に座り時間が経つのを待ち、
時間は直ぐに来た。
「さてと、行くかっ」
気合いを入れ直す為に拳同士をぶつけ合わせ、辺りを見回してから上を見、彼女は空へと駆け上がる。
雅が言った通り、あの道場内では天井がある故に上には飛べず、今まで前後左右にしか飛んだ事が無いのだ。
学校や他の場所で試す気になれなかったのは何となくであったが、ビルの一つや二つならば飛び越せそうな気がしたから。
そして案の定、楓は後ろにあった壁を下にし屋上へと出る。
「あーあ・・・これで人間失格かなぁ」
ビルの屋上から見下ろす、と言うより見渡す風景は絶景とはほど遠く、楓は苦笑しながら自分の手を見て苦笑した。
大分前から思っていた事だったのだが、やはり楓も年頃の女の子と言う訳か。周りと違う自分に少しだけだが疎外感を感じていたのだ。
だが、所詮それは一瞬の迷いであり、他に終わらせる理由が無くとも彼女はそれ以上悩みもしない。
「・・・あそこ、かな?」
ただ一点を見据え言った言葉は自信の無い物だが、瞳はそこ以外有り得ないと言う輝きに満ちた瞳。
感じ取ったのは敵の気配、と言うより、楓の居る場所が風下に当たる所為か。匂いで分かったと言うべきだろう。
だが、一つ目の気配の正体が死霊だと分かった途端、その近くに生まれた匂いに怪訝な顔をした。
「あれがルイちゃんの言ってたたまーに居る強い奴?」
雅ほど、と言う訳では無い。だが、それに近い気配を放つそれを感じ取り、楓はそちらの方に身体を向け一気に屋上の床を蹴る。
しかし鳴った音はタンっ、と言う小気味よい音だけで、それ程距離を飛べると言える脚力から出る音ではない筈。
だが、彼女の身体はまるで宙を滑る様にして舞い上がり、そして前方50メートル辺りにその二つの気配が在る場所の近くのビルの屋上へ降り立つ。
『ここからだったら・・・』
約100メートルの距離を助走も無しに中空を駆けた事など全く気にもしていない様子で、楓は前方を見て様子を確かめたが、やはり妙だと思い首を傾げた。
片方の死霊の匂いはここならば先ほどよりもハッキリと感じ取れるのだが、もう片方の匂いは近くに来たと言うのに全く変わらない大きさと言うか、
感じが変わらないのだ。そして徐々にではあるが移動している様を見ると、それが死霊の方へと向かっている事が直ぐに分かる。
『お師様やルイちゃん以外にもここで狩りをやってる人が居るって事?』
聞いていない、とは思わない。だが、どうすれば良いのだろうかと問いかけたくなるのは当たり前だろう。
頭の中で幾つかの選択肢を一瞬にして挙げそして選び、彼女はそれを直ぐさま実行する為に楓は再び宙を音もなく駆ける。
『一体誰だろう?』
彼女の取った行動は敵の前に出ると言う物だった。それにより、死霊をもう片方の分からない気配と挟み撃ちにして撃破しようと言う考えである。
その為に、正体不明の気配よりも距離にして少しだけ近く敵の前方に降り立ち、相手の進むスピードを考えながら屋上を歩く。
『真っ暗・・・』
胸中でそう呟く物の、楓自身驚いて居たが恐ろしい程夜目が効く様になっているのだ。それのお陰でアンテナや看板にぶつからずに済むと言う物。
敵の気配は完全に捉えられたが死霊故か、姿は全く見えない。しかし気配の動く、微妙な空気の流れとも言うべき物を肌で感じ取れて居るので心配は無かった。
そして相手の気配を自分の確実に仕留められる、10メートルの距離に来た時、彼女は屋上から相手目掛け一気に飛び降りる。
「!!」
声にならない、雑音の様な悲鳴。それが死霊のあげた物だと分かったのは拳を死霊の土手っ腹辺りに突き刺した後。
だが、生ぬるい感覚だけでハッキリとした手応えが無く、楓は後ろ、壁ギリギリの所まで一気に下がる。
『弱点は自分で見つける様に、か・・・』
相手の気配と共に伝わってきたのは血の匂いと言うか、腐臭にも似た嫌な匂い。
そしてそれを感じる中で楓はノイズの様な雄叫びと共に目を見開いた。
ガシュゥッ!!
一条の光と共に現れたそれは、多分、もう一つの、正体不明が放った物。楓の頭の中にはそれの名前が無く「お坊さんが持っている物」
としか認識が出来ないが、それが死霊の居た場所に深々と突き刺さり星明かりを受ける様は異様な光景としか言いようがない。
「なんや? レグルやと思たけど違うんか?」
そして大阪弁と共に現したその正体不明のそれは、楓の目には奇異に映った。
「お嬢ちゃんは・・・どっかの国のHUNTERか?」
暗がりの中で纏うのは更に闇色をした、映画や何かで出てくる様なバイカーの着る服。そして暗闇の中だと言うのに、己の瞳を隠す、
サングラスをして不適に笑う顔は楓に取って好印象とは結びつかない物。
そして何より
『お師様と同じ・・・いや、それ以上かも・・・』
平然と立って居るにも関わらず、その男が放っている殺気は否応にも感じ、それが今までで一番の強さを誇っている事を物語っていた。
「そうだと言ったら?」
そしてどうするかを考える前に言葉が出てしまう。
彼女自身の中の何かが、目の前に居るその男と戦って見たいと思ったからだ。
それが分かった上で、無謀だと言う事も分かる。
だがそれでもやってみたいと言う気持ちが強いのか。楓は不適な、少なくとも自分ではそう思える表情を作る。
「そうやったら、殺すしかないやろな」
多分一瞬の間が、その言葉の後にはあった筈。
永遠にも似た、それを感じる時、それだけが何故か彼女には楽しく思えそして身体は自然と動いていた。
『一撃で決めてやるっ』
一歩。
ただ、それだけが彼女の領域故に、極限まで高めた速さで相手との距離を縮める。
そして相手に拳がぶつかる瞬間、彼女はそれを聞いた。
「!!」
耳を劈くような重低音や人間には作り出せない雷の様な高音ではなく、心を蝕むようなそれは彼女の一歩目を崩し目の前に、まさに手の届く距離に居た
その男は不適な笑みを再び浮かべ楓に言う。
「一介のHUNTERにしとくにゃ惜しいけどなぁ」
冷や汗を掻きたい気分とは、この時の事を言うのだとうと楓は思う。何せ全くと言って良いほど身動きがとれなくなっているのだ。
指一つ動かせず震える事すら許されぬ状況はかなり辛い物がある。
だがそんな状況の中ですら、死を覚悟する程の恐怖は感じず、チャンスを狙う為に隙を伺い、
一瞬の間。楓自身、今まで踏み入れた事のない領域の時間が肌で感じ取った時、彼女の身体はその場に残像を残し掻き消える。
「へぇ・・・なかなかやるやん」
男の後方へと移動し、もう一度体制を整え直し構える。身体に染みついたそれはもはや意識せずとも出てくる行動。
そしてそれ以上に、目の前の相手が途轍もない強さを持っていると気付くのも鍛錬の賜物なのだろう。
『だけど・・・』
一端離れ、先ほど何故動けなくなったのかを考え、どうやって攻めるかを考えた所で息詰まってしまう。
雅と対峙する時、いつも感じている筈のそれはいつの間にか忘れてしまっていた感覚なのだろうか。
昔初めて相まみえた時、それに怯えもしたが、それは一瞬の事で終わりを告げ攻める事に専念出来た。
それを考えれば、雅は本当に良い師匠だったのだろうと、今の楓は考えられる。そして目の前の敵と、どうしても雅を重ねてしまう自分が居るのだ。
『お師様は手加減してくれてたんだ・・・・。私が怖さで染まらない様に』
脚が震えずとも心が震えているのが分かった。何者にも負けないと思い、決意した意志が揺らいでいるのが。
その恐れは徐々に、そして確実に楓の身体を捉え決して離さぬ呪縛。
それから逃れる術など、楓は知りもしない。
だが、だからこそ、なのかもしれない。
『だけど・・・・怖いのは当たり前だし』
微笑が漏れ、それが相手に届く。
「なんや? けったいな嬢ちゃんやのう」
それに向こうもつられたのか。微笑で返してくれる。
そしてだからこそ、相手に対する恐怖心よりも、彼女の心には溢れる程にそれが湧き上がって来るのだ。
『隙なんて無いしなぁ・・・・』
策など元より考えるのは苦手。
『でも攻めないと勝てないし』
動くことしか出来ず、誇れる物は第一歩の踏み込みだけ。
『それに逃げたく無い』
そして震える脚は恐怖ともう一つの感情を表し、それは武者震いに代わり始める。
「・・・・・」
無音に近い、深呼吸をしてから己を整える為に瞳を閉じる。
戦いの場に置いて、それは命取りになる行動だと分かっているのだが、今の楓には何故かそう言った行為が愚かでないと思えるのだ。
胸中で思い描くのは攻めている自分や勝った自分、敗北した自分、動けなくなった自分と様々な物ではなく、何もない、ただの闇。
虚無を胸に抱くと言う気持ちは、これ程までに自分を落ち着けられる物だと感じ、うっすらと瞳を開けた時、その曇り無き眼に映ったのは先ほどと変わらず
異質の雰囲気を纏う相手が佇んでいた。
『待っててくれた・・・のかな?』
少し疑問が浮かんだが、それは相手の声にかき消される。
「一撃で決めたるさかい、本気で来いや!!」
それは笑い声。
見ず知らずの、そして正体も分からない相手に対する言葉ではない。
だがこの領域に置いてそれは必要な事であり、決して無駄な事ではないのだ。
否。
『私が無駄にしなきゃ良い・・・だから』
一陣の風が通り抜け、彼女の短めの髪を撫でて行く。
闇に閉ざされたそこは、二人の戦いしモノが居るだけで輝いている様にも見え、決して暗闇に捕らわれぬ光なのだろう。
何もかもが静寂に包まれる事のない、街の一角。常時ならば人の匂いが無く、じめじめとしたかび臭い匂いさえ感じる事が出来る。
だが、楓は全ての神経を相手だけに集中し、弓を引き絞る様にして第一歩の為の力を蓄える。
『一撃以外・・・・チャンスは無い』
隙を伺っても無駄なのは、相手がそれだけの使い手だと言う事。平然と、普通に立っているだけでも実力の差は明白。
大人と子供ほどの差があり、楓も十二分にそれは承知している。
緊張の糸が正直切れそうな程集中し、時間はどれほど流れたのだろうか。
じっとりと汗ばむ服は背中に張り付き、ばかばかしいと思ったのだがもう一度風呂に入り直したいとも思っている。
そしてそれは雑念と言う、この場に置いては邪魔なモノ。一瞬の隙が出来た事を相手が見逃す筈がない。
『やられる・・・?』
スローモーションの様に相手の動きが見え、身体が恐ろしい程重く感じる感覚は、まるで枷を填められた様になっている。
だが、そんな状況にあろうと楓は何故か冷静で居られた。
恐ろしいほど広い視界は空をも捉え、建物の輪郭すらハッキリと見える。
耳に聞こえてくるのは相手の身体が切る風の音と遠くの方で存在している、いつもと変わらないのであろう街の雑踏。
だが鼻で感じた匂いは相手だけを捉え、重く感じる筈の腕は刻々と変化する場所の空気を伝え、何時の間にかそれと同化していた。
そしてそこから感じ取れたのは全て動いている、いや、動かしている風と言う存在。
何処にでもあり、何処にでも無い形無きそれは、彼女の身体をすり抜け過ぎ去って行く。
『・・・・声?』
そして楓にそれが聞こえた時、彼女は一歩だけ、普通に歩くのと何ら変わらない一歩を踏み出し拳を突き出し、巻き起こるは烈風。
「ぐ・・お!!!」
その場の空気が一瞬にして圧縮され、爆発音も無く、ただ、グラスのかち合う様な音だけが木霊しその場は風に包まれる。
「・・・・・」
そしてそこに居ながら楓は漸くそれが僅かな音などではなく、自分の放った攻撃が造り出す領域が聴覚を奪ったのだと理解する。
攻撃が一瞬造り出すのは無限に広がる闇色の空と同質の真空。
そして戻った時の温度差が生み出した副産物は音が過ぎ去った後の心地よく冷たい風。
それは辺りの空気をも氷らせ、雪となって舞い落ちる。
「・・・・・」
「全く・・・」
そしてその場に立っていたのは双方なのだが、言葉を発したのは楓ではなく男の方。顔には苦笑とも微笑とも分からない笑みを浮かべ言葉を続けた。
「めちゃめちゃな嬢ちゃんやな、こいつ」
その場には決して、男と楓以外の姿も気配も無い筈。だが、男には分かっていた。
姿と気配だけではなく、存在すら闇ととけ込める人物がそこに存在しているのを。
それ故、言葉は返ってくる。
「後一年もすれば、お前も勝てない様になるさ」
その声質は楓が聞けば、戻ってきたと思うかもしれないモノ。だが、そこに居る男に取ってもそれは懐かしさを思い出させるモノなのだ。
「全く・・・久々でこれはきついっちゅうねん・・・」
だが、男が振り返るのと同時に表情が変わって行くのを見て、その声の主、雅は怪訝な顔をする。
「どうした?」
「レグル、お前・・・」
「?」
「女やったんか!!」
「・・・・・・」
頭を抱え、巫山戯ているのだろう。ムンクの叫びの様な顔をする男。だが、それも一瞬の事。
直ぐさま動いた雅の行動を見て冷や汗を掻きながら表情を固まらせる。
「だってあの時フード被っとったやんか・・・。冗談キッツイでぇそのこんばっとないふぅ〜・・・」
「風邪を引いてたんだよ。ルドルフもいちいち一言多い性格は変わって無さそうだな」
「ああ・・・・相も変わらずそのめっちゃ冷たい眼差しは紛れもないレグルさんのもんですやん。分かったからそれどけてくれへん?」
「今は雅だ」
「雅さん、許してくれへん? もう勘弁したってぇなぁ」
その男の、ルドルフの表情を仲間が見れば間違いなく失笑してしまう表情。
だが、裏を返せば雅に見せる一面である事には代わりはなく、それだけ安心していると言う証拠なのだ。
「だが、何故お前がここに居る」
コンバットナイフを納め、立ったまま気絶している楓を抱きかかえながら雅はそう言うが、ルドルフは当然と言う風な顔をして返すだけ。
「決まっとるやんか。お前さんを探しに来たんや」
「動き出したと言う事か」
「その通りや。ほんま・・・・めんどくさいっちゅうねん」
苦笑し合いながら、二人は笑う。だが雪の降る闇の中で、両側の建物に亀裂が入る。
「この調子やと、仲良う酒飲みに行くのも大分後回しやな」
「私が居るんだ。仕方なかろう?」
皮肉めいた笑みを浮かべる雅だったが、心中穏やかではないのは久々に逢ったルドルフとて見逃さない。
何よりも楓に見せた事のない、禍々しいまでの表情を浮かべているのだ。そしてその視線の先、空の上では何度か光がぶつかり合っている。
「ルイの奴・・・・派手にやるなとあれほど言っただろうが・・・」
「報道規制張られとるとは言え、あれはまずいなぁ。れぐ・・雅の知り合いか?」
「私と同じ龍人族だ」
「龍人族同士の争いかいな・・・いや、かたっぽはちゃうな。ヤク漬けの狂戦士(バーサーカー)か?」
二人が話している間も、その光は断続的にぶつかり合い、更なる輝きを放つ。その度に起こるのは空気を裂く様な耳障りな音。
そしてだんだんとそれは二人の方向に近づき、そして目前にまで迫った所で動きを止めた。
「雅ちゃん、そっち終わったなら手伝ってくれない?」
空から降り立ったルイが苦笑を浮かべている理由は、苦戦しているからではない。
そしてその理由が分かっている雅は横目でルドルフを見、言ってみる。
「手伝ってやってくれるか?」
昔、それは一度言われた言葉だった。
雅に取って、隣りに居るルドルフと言う男は旧友でもあり戦友でもあり、そして掛け替えのない、血の繋がらない家族とまで言える存在。
大阪と言う地で、初めて出逢った時、脈動し変わった男の性格は心地よいモノだった。そしてそれは今も変わらずそこに存在し続けている。
例えこのさきだろうと、それは変わらぬ物となっているのだろう。だから返ってくる言葉さえ予想出来た。
「任せとき」
そして雅は楓を抱え、空へと舞い上がる。無論、敵がそれを逃す筈もなく、追いかけようと飛び上がるが、その先に居たのはルドルフと言う男と、
後ろにはルイが位置していた。
「嬢ちゃん、結界張ったるさかいにさっさとトドメさせよー」
気さくと言うか、馴れ馴れしい口調でルドルフはルイに言ってみせる。だが、ルイは何故かそれが気に入らなかったらしく、
結界が張られる寸前に動き、言葉を発しながら敵へと飛ぶ。
「闇に揺らめく二対の刃」
そう言った途端、ルイの両手には光を帯びた朱と蒼の剣が浮かび上がり、ゆっくりと、恐ろしい程ゆっくりと敵へと向かう。
だが、そのゆっくりさが敵にチャンスを与えてしまったのだろう。向かい来る敵を滅ぼす様に、雄叫びをあげながら空を走る。
が、それはルイの声と共にかき消された。
「我が咆哮に答え・・・切り裂け」
沈黙の間に、一瞬にして天へと移動したルイの剣は二色から一色へと染まり、その濡れた剣からは血が滴っている。
それが敵の身体に辺り、敵は漸くルイが天に移動したのだと分かったのか。首を向け目でそれを追う。
だが、そこで事切れたのか。それ以前に事切れていたのか。それすらも分からない速さで切り刻まれたと言う事だろう。
バラバラになった肉片はコンクリートの大地に落ち血溜まりと化す。
「出逢って早々で悪いんやけどさぁ・・・」
「・・・・?」
「自分、かなりエグイ事しよるな」
「そう?」
そのルイの笑顔が魅力的だった故に、ルドルフは第一印象を変えざるを得なかったのだろう。後日談だが、その時は次々と敵が来てくれたのが
嬉しかったらしい。
「さーて・・・・久々に切り刻めるね。思いっきりさ」
そしてその言葉が出るのも楓が居ないからと言うのも、ルドルフは後になって知る事になる。
だがこのときばかりは、一言多い自分を呪った事は無いだろう。
「なぁ嬢ちゃん・・・」
「なぁに?」
「バラバラフェチか?」
「・・・・・」
「冗談やがな・・・ほ、ほら。あっちの方から敵来よったで・・・」
そしてでこぼこコンビと人外の者の交戦はしばしの間、住民が呼んだ警察と挙げ句の果てに自衛隊まで出てきた所で終わる事となった。
真っ黒い暗闇なのか、真っ白い光の中でさえ分からない場所。
風も音も、空気の流れも分からない場所だと悟った時、楓はそこが夢の中である事を悟る。
僅かに起きた意識の中で確認できるのは自分が誰かに抱かれ揺れている事だけ。そしてそれを思った途端、視界に入ってくるモノがあり、目を覚ます事となる。
「漸く起きたか?」
「お師様・・・?」
優しげな声なのだが、今日は嫌に優しすぎる声だと思う感想を抱きながら、楓は雅の腕の中から離れようとする。
だが、起きた時、肌でその場所が何処か理解出来なかったのだろう。夢の中で断崖絶壁から飛び降りた時同様の感覚に襲われ、下を見驚く。
眼下に広がっているのは恐ろしいほどの暗闇一色。空には星があるのだろうが、月夜でない今日は明るい光などは下には全くないそこは海。
人工物の全く見えない事を悟ったと同時に、自分を抱きかかえる腕の感触を感じた。
「あんまり手間を取らせるな」
「ここ・・・何処?」
進む方向から太陽が昇っているのは眠気を一瞬にして奪った落下の後感じ見、そして理解した事。
だが落下のショックが大きすぎたのか。自分の居る場所が空の上だと言う事を理解するまでに少々の時間が掛かってしまう。
「何処と言われてもな。地名など私は覚えてない」
「あはは、お師様も私と一緒だ。地理苦手だったし」
そしてここは空の何処かだと言う事と、自分はそこに居て前に進んでいると分かった時、漸く風を肌で感じる事が出来る。
「気持ちいいね、ここ」
身体一杯に広げて、と言う訳ではなかったが、感じた事のない、風の匂いは潮の香り以外の何かを含んでいる。
海外旅行などしたことのない楓に取っては、土やコンクリート、木々や街の、そしてそこに住まう人の匂い以外が多い場所など来た事はなかったのだ。
視界全てが空と海で、どこからが海と空の境界線なのかは太陽が無ければ分からないだろう。
そして僅かだが、雅独特の匂いもそこに混じっている故に安心出来るのだ。
「お師様?」
「なんだ?」
「私・・・どうなっちゃったの?」
そして頭の中に浮かんだ疑問はそれだけ。見ず知らずの男の人と闘い、負けたのか勝ったのかも分からず目が覚めれば空の上なのだ。
分からないのも当たり前。
「お前は負けたよ。最後の詰めがまた甘かったんだ」
「そっか・・・私もまだまだだね」
「・・・・・そうだな」
いつものお説教など雅はする気も無く、それが嬉しいのか。腕を回して楓は抱きついてくる。
それは落ちるのが怖いと言う訳ではない。
負けて悔しい、と言うのだけがそれの理由でも無い。
何よりも、どうなったかを覚えていない自分が恥ずかしいのだろう。
だが、それを感じている楓が分かる雅だからこそ、嬉しいのだろうか。楓に見えない様に微笑んでしまう。
しかしそれが一瞬の事である事は雅自身が良く分かっている事。
そしてそれが、まだ楓には言っていない、雅自身の秘密でもある。
「敵・・・?」
「見たいだな」
雅の口調がおかしい事に楓は気付かないのか、それだけ雅の演技力が凄いのかは分からない。
だが刻々と迫る気配は凄まじい速さで二人の居る場所を目指し、肉眼で僅かに点が確認できたと思った瞬間、それは街の道路の向こう側ほどの距離に来ていた。
丁度、雅と同じ位の身長をした見慣れぬ異国の白い服を纏ったその人物は、やはり常識など関係無いのだろう。空に平然と、翼も無いのに浮かんでいる。
それは雅も同じなのだが、雅とその人物の決定的な違いがあると言う事は楓自身の勘が告げていたのだが、それが何なのか分かる程、楓は博識ではない。
「これはこれは、誰かと思えば玄凶ことレグルさんではないですか。わざわざご足労願える等と思っても見ませんでしたよ」
「人間側か、貴様は」
「分かってらっしゃるなら話は早い。ご足労ついでに、私共の願いも聞き入れて貰えますかな?」
一言一言に含まれるそれは皮肉に他なら無い故か、第一印象は楓に取って最悪な人物だ。そしてそれが人ではない事は直ぐに分かる事となる。
「いい加減・・・・邪魔なんですよ。あなた方、九龍神の行動は」
皮肉を籠めた声から、殺気その物を籠めた声に代わりそれと同時にその背中からは幾枚もの羽が生えた翼は天使に見えない事も無い。
だがその翼の色は純白ではなく、くすんだ灰色と、その翼は空に輝く星々の光を受け鈍く輝きを放って居た。
「だから死んでくれ、か?」
「ええ。聞き入れて・・・クレマスカ?」
にたりと笑ったその表情は感情を持った物が出来る形相ではなく、無機質な人形の様なそれは楓に取っては気持ち悪いとしか表現出来ない。
そして気が付けば周りは目の前に居る人物と同じ様な姿をした人形の群で囲まれている。
だが、そんな状況下で楓は雅が何故か笑っているのが分かった。
抱きつき、視界の中には雅の顔は決して無い。上を見上げ、雅の顔を見てもその表情は凍り付いた様に動かず、冷気を帯びた表情は楓が初めて見るモノ。
そしてそんな表情をしている雅を見ても、何故か笑っている様に思えるのだ。
「流石に命はくれてやれんよ。だが、別のモノならくれてやるさ」
いつもの口調の中に含まれる重みがそこには無く、軽んじて発言している風にしか聞こえない。
思い返してみれば、雅の言葉はいつも楓に取って何かを考えさせるモノであり、楓は決してそれを無駄にしたいと思った事は無い。
だが、今の一言だけは認められない何かが含まれた、ただの記号にしか聞こえなかった。
自分を抱いてくれている雅の気配が変わったのが分かり、相手の殺気もそれにつられ変貌する。
と言っても、相手の場合は殺気が増しただけなので雅ほどでは無いのだろう。それでも大群の殺気を受けるのはこれが初めての楓に取っては
印象が濃い出来事。
だが、それ以上に、たった一人の雅の気配が勝っているのには驚きを隠せなかった。
巨大な闇の中にある海と空とそして人の形を模した化け物の群。
それらがどれだけ数を増そうと存在感を露わにしようと、今この場に居る雅と比べれば霞んで見えてしまう程のそれは、楓が今まで感じ取ったモノの中で
一番巨大であり、何者にも揺るがない存在感があった。
例えどれだけの武器で武装しようと、どれだけの群衆をかき集めようと、たった一人の雅には適う訳がないと実感出来るのだ。
そして相手もそれを感じ取り、当然と言った所か。何人かの殺気の具合がおかしくなる。
『こ、こんなの・・・』
辛うじて楓は自分を保つ事が出来、それが常に雅と接していたと言う事にその原因があるのだと言う事に気付いた。
何十年と一緒に居る訳ではなかったが、たった三年の内に殺気に慣らされてしまったと言う事だろう。道場での鍛錬の時もごく僅かだったが、今の
氷山の一角を垣間見た事もある。それ故、勝てないと思っていたのだ。
そして数時間前、雅の土手っ腹を貫いた時それを忘れていたらしい。
皮肉を籠めた、相変わらずの雅の笑み。後ろにあるだけで感じられる、当たり前のそれ。
滅多に見せる事は無いが、時々巫山戯て見せるそれは楓に取って微笑ましいモノなのかもしれない。
ただし、今の殺気を含めなければだったが。
「どうした? 震えておるぞ?」
指摘されるも、それを止められる程強くないと言う証拠。相手自身もそれに気付かなかったらしく、
揶揄られ歯をむき出しにした顔はもはや人とはかけ離れた物。そして黒い空の波となった群は一斉に襲いかかる。
だが、その場に楓は全く動かずして、それを見る結果になる。
「・・・・・」
どうやればそんな事が出来るのか等、分かる筈も無い。
一斉に、黒い空の波は自分を目掛け、いや、雅を目掛け襲いかかってきた筈だった。
だが、それはまた同じく一斉に止まったかと思えば、辺りの中空が鈍く光りうごめいたのだ。
敵の群は確かに波の様に迫ったそれに比べればノイズだらけの汚い雑音に過ぎないが、
雅の起こしたのであろうその光りはあまりにもクリア過ぎるメロディ。
ノイズと言うのが人工物であるならばメロディも人工物なのだが、クリア過ぎそして伝えたい事を直に伝え過ぎるそれは武器ではなく凶器になると言う事だろう。
そしてそのメロディに「死」と言う命令を籠めて置けば目の前の光景が出来上がるのだ。
「楓・・・」
「何・・・?」
ばらばらと海に落ちて行くのは死に絶え既に肉塊となっただけの屍なのだろうか。
先ほどまで感じさせていた殺気など微塵も感じず、逆にあれほどの殺気が無くなった事でこの場に在るはずのモノが無いような気分に狩られてしまう。
「これだけの力に耐えうる強さを持てるか?」
そして楓のそれは直ぐに答えられる質問などではない。
現実とかけ離れた幻に見えるそれは、真実と言う名の虚構の存在なのかもしれない。
その上でそれは真実であろうとあってはならない存在と言う事は馬鹿と自覚している楓でも分かる事。
そして楓は疑問にぶち当たった。
『ずっと勝ち続けるだけが・・・最強なのかな』
何度も負け、勝敗だけに執着して何かを見失っていたのかもしれない。
前にひたすら進むことで得たモノはあるが、それによって後ろに捨ててきた何かが多すぎる故の消失感なのかもしれない。
何もかもが、かもしれないと言う後ろ向きの考え故に、それは楓の頭の中で疑問を次々と生んで行く。
だが、頭の片隅に誰かが居ると言う事を忘れなかった故に、応えてくれるのだろう。
「まぁ、そんな早く結論を出そうとするな。焦る必要は無い」
殺気など微塵も感じさせない、暖かい笑顔がそこに在るはずだった。
だから楓は雅の顔を見上げ当たり前の様にそれを見る。
「・・・・お師様?」
「なんだ?」
「う、ううん・・・何でも無いよ」
「そうか」
だが、やってから楓は何故か罪悪感に苛まれた。
そこにあった表情は殺気を籠めた慣れなくとも欠片を感じた事のあるモノとは違い、見たことも感じた事も無い表情だったのだ。
そしてそれが年を重ねたモノだけが出来る表情だと悟れた時、楓は罪悪感と若いだけの自分が嫌になりつつもあった。
所詮20年も生きていない自分は、雅に取っては取るに足らぬ存在なのかもしれないと思い。
「少し、飛ばすぞ」
「・・・・うん」
太陽の輝きと海の脈動、そして終わりを告げる夜の音が、楓には風となって伝わった。
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