気絶していても、夢は見る物だと、千尋は初めて知った。

 いや、何年前だろうか。もはや十年以上前に一度だけ、見たことがあった。

 だがそれは、嫌にクリアな夢として初め見続け、そして目を覚ました時。

『どうなったの・・・かしら?』

 そこから先が思い出せず、眉を顰める。

 だが、聞こえる音も、視界を遮る暗闇も、嗅いでいる筈の匂いも、その何もかもが閉ざされ、触れている物が何であるかさえ分からない。

 ただ、感触があるとすれば、なま暖かく気持ち悪い闇だけ。

 それだけが身体中を多い、自分を支配しようと中に入ってくる。

『嫌・・・来ないで!!』

 振り払おうと、手を動かして見るが言う事を聞いてくれない。

 そして思い出す。

 過去、一度だけ見た、この夢の事を。

 それは今なお忘れない傷として刻まれ、彼女が一生背負うと決めた足枷。

 誰にも話す事も無く、今なおそれを一人で背負い続けるのは辛い事は分かっていた。

 だが、どうしても引けない理由と、誰かに話さない理由はたったそれだけの事で自分の命を懸けた事が崩れ去ってしまいそうで怖いから。

 そしてたったそれだけが恐怖だった筈なのに、今は失いたくない物が多すぎて、新たなる恐怖は何処にでもあるのか。彼女の辛さを増させる。

 その時、彼女の耳が聞こえる様になった為か。聞き慣れぬ声が聞こえた。

『・・・・何?』

 だが、それは一度だけ彼女の中に響いただけで、霞みの様に消え去り闇がまた支配する。

 思い出した想い出は、予感が告げた過去の事。

 決して取り戻せなかった、愛した人をもう一度繰り返したくないと言う想いは当たり前。

 決して絶望しないと決めたから。

 決して、恐怖に負けないと決めたから。

 だから彼女は叫び、あの時以来、目覚め自分の力として得た双眸を見開く。

「!! ・・・・ここ、は・・・・会社?」

 状況を理解する為に、まずは場所を確認してからそこが本当に会社のオフィスである事を理解する。

 そして次は自分の身体。不思議に思ったのは、何故か特別製の服の、腹の辺りがばっさりと切られている事。だが傷は全く無く、身体の痛みも引いている。

 ついで周りを見た時、目に入った人物はまだ寝ているままの大介だけで、他には誰も居ない。

 そして悪夢の事を思い出した時、彼女は部屋から飛び出した。

『早くしなきゃ!! ・・・・でも、どうすれば?』

 階段を駆け下りた中程で、自分がどう言った状況を抜け会社のオフィスに寝ていたのかが分からない。だが、一度思い出し感じ取った胸騒ぎは消える事無く、それはやがて焦りに変わる。

「・・・・冷静になるのよ。焦ったって、何もならない」

 取りあえず、階段の上と下を交互に見て、どちらに行くかを決めなければならない。

 そして感覚が告げたのは両方。

「違う違う・・・・どちらが・・・先なの?」

 上へ行けばオフィス、その上は屋上へ繋がる扉のみ。下には空き部屋と地下に雅美の診察室、そして真悟の研究室兼武器庫がある。

 その二つを繋ぎ合わせると何になるかを考えた時、彼女は思いだした様に下へと駆け出す。

「確か・・・試作段階の私専用のスナイパーライフルがあった筈!」

 駆け下り、真悟の部屋のドアを開け放ち武器庫へと駆け込む。そして散乱した武器の中にあった目的の物と弾薬を掴めるだけ持ち、もう一度、今度は屋上へと駆け上がる。

『これなら・・・街一帯をカバーできる飛距離があるから』

 そして屋上の鍵の掛かったドアを蹴破り、夜風が舞うそこへと出る。

「何処なの・・・・」

 辺りを見回す為に、柵の部分を一周する。だが、それだけで分かる程彼女の感覚は研ぎ澄まされては居ない筈。

 だが、彼女の願いはそのまま力へと成るのか。

 僅かな空気の変化さえも読みとる事の出来る視覚は、本来望まざる力。

「・・・・・・・」

 もう一度、今度は視界をクリアにするために、目を閉じてからもう一度見開く。

 その時の瞳の輝きを、彼女は知らないのだろう。そしてそれはまだ、知らなくて良いこと。

「・・・・」

 ゆっくりと、見渡すようにして屋上を一巡し、そしてその瞳は確かに捉えた。

 だが、自分の持っている銃を見た時、千尋は諦めを隠せない。

「・・・スコープが出来てなかったなんて」

 そのライフル銃は銃身、銃弾から引き金まで掛けての全てが、今やプロとなった千尋に取っては完璧の品と言える程の出来映え。これだけの職人仕事は真悟以外の人物に出来る訳がないだろう。だからこそ、欠けている部分は他の代用品や千尋の腕では埋めようの無い穴。完璧な品とは、全て揃えなければ只のガラクタにしかならないのだ。

「それでも・・・・やるしかないのよ」

 決して過去を繰り返さないと誓った事は嘘ではない。

 奢り高ぶりを捨て、全てを銃に籠めた弾丸に託すだけ。冷徹な感情で心を氷らせ、ただ一点のみに集中すれば良いのだ。

 自信などあろう筈も無い。

 それは真悟の腕を知っているからこそ言える、今は至極皮肉な事。

 だが、彼女はそれでもと言う答えを出したからこそ、スコープもない長身の銃を構えた。



















 時を戻し、まだ千尋が目覚め得ぬ頃。

 一緒に走る事がこれだけ辛い事だとは、遥は予想していなかった。何せ半蔵は異常と言えるまでに脚力があるのか、彼女が五歩走るのを半蔵はたった一歩でやってしまうのだ。

 だが、それは単に鍛え上げられた物だと分かったのは、自分の嫌いだった父親の事を重ねてしまったからだろうか。

 子供の頃は、素直に「お父さん」と呼べた頃、市民運動会で父親の走る姿が眩しく映り、それを真似た時に言われたのだ。

『人間は決して動物には適わないさ。だけど、それに追いつこうとする努力は大切だ』

 優しげに微笑む父は、もはや帰らぬ人。

 想い出だけが存在し、それ以外、形すら無くなっているだろう。

 そして半蔵は父親の言葉通り、いや、その言葉さえも越え自らを高めたのだ。

 それは、彼の両親がその理由。幼い頃からの鍛錬は間違いなく辛い物だったに違いない。

 だがどうして耐えられたのかが遙には分からず、今なお疑問を抱いてしまう。

「遅い」

「え?」

 息は整ったままで、疲れはしていない。だが、いい加減脚が限界なのか。呼吸を整えて居られるのももう少しだけだろう。

 それを見越し、半蔵は遙を抱え、そのままで走り出す。

「ちょ、ちょっと!」

「喋るな。舌を噛むぞ」

 言われた途端、舌を噛み痛い想いをする羽目になる。だが、それを構って居られる程余裕が無いのか。全くの無表情だが、少しの疲れとそして、焦りの色が半蔵の顔には浮かんでいた。

 その理由など、分かっている筈。

 会社から逃げる時、雅美の声は確かに頼もしく聞こえ安心は出来た。だが、それを覆す様に現れた影を二人は見、半蔵の判断で逃げ出す選択を選んだのだ。

 その時、半蔵は「雅美さんでも勝てない」と言い、無理矢理遙を説得しようとしたのだろうが、遙もその意見には素直に賛成出来た。

 何故だか分からなかったが、現れた黒い影には絶対に逆らうなと、本能が告げていたのだ。それ故、恐怖のあまりそこに居たくないと思ったのが正直な所。そして罪悪感が胸にあるのも、彼女に取っては当たり前の事なのだろう。

 その時、遙は半蔵にもそう言った感情があるのか等と言う事を考えてしまう。だが、抱かれるだけで、何もしていない、そして何も出来ない彼女に取ってはそれが精一杯の出来る事なのか。

 やがて半蔵の身体にも無理が出てきたのか。息も切れ切れに立ち止まり遙を降ろし座り込む。

「五分だけ休ませろ・・・・」

 ぶっきらぼうなその声は、半蔵の強がりなのだと直ぐ分かる。だが、それを遮り逃げろと言う程、遙は冷徹ではない。

 そして自分も半蔵の隣りに座り、耐えきれなくなった心は疑問を漏らした。

「死ぬの・・・怖くないって言ったわね」

「?」

「嘘よ・・・そんなの」

 否、それは訴えだ。

 だが、それも納得出来るだろう。そして理由も分かっている半蔵は、またかと想い面倒くさそうに話を聞く。

「やっぱり、あんただって死ぬのが怖いから逃げてるんでしょ? そうよ、誰だって死ぬのは嫌よ。怖いに決まってるわ」

 何が言いたいのかはよく分からない。遙自身にさえそれは当てはまり、聞いている半蔵に至ってはさっぱりだった。だが、それだけ困惑していると言う事だろう。それが日常から非日常へと移り変わりがあまりにも早すぎた故の結果、と言う事だけは半蔵には分かっていた。

 何年か前にも似た様な事があった。

 その時は、遙よりも少し年齢の上の女性だっただろう。依頼内容はやはりボディーガードであり、狙われていた理由はある人物の殺害現場を目撃してしまった為。

 その女性は、間違いなく一般人だった。そう、なんら変哲のない、少し変わっていると言えば結婚願望が強いだけで、引く事を学ばないと言う事だろうか。そして狙っている連中は今回の「NIGHT SHADOW」よりは巨大ではなかった物の、まだ真悟は会社には居らず、雅美が入社する少し前。だからかなり大変だったと言える時だ。命が今よりも危機に晒された事は多く、だがその反面、今回と比べてみれば別段大変な仕事でもなかっただろう。

 だが、その女性に取っては全く見知らぬ、映画の中だけの仮想現実。それが本物になった時、心は壊れていたのかもしれない。

「それに・・・思ったんだけど、罪悪感って、あんたにもやっぱりあるの? それとも無いのかしら」

 そしてその女性は半蔵に言った。

 どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか、と。

 誰しもが、それは考える事かもしれない。

 そしてそれは、別に事件に巻き込まれ、命が危機に晒されなくても言う台詞だろう。

 どうしようも無くなった時、人はそう言うのだと、半蔵はその時初めて学び、そしてそのことに関して何も感情を抱かなかった。

 依頼人だった女性を助ける事は出来たのだ。それ以上、考える事など無かったのが彼の若い頃の心境。

 だが、今と昔は違い、それ故、現在と過去と言う呼び方もある。

「黙殺? 疲れているのは分かるけど、少しは気遣ってくれても良いんじゃないの?」

「随分と・・・」

「自分勝手な言いぐさなんて分かってるわよ!! でも・・・でも・・・」

「お前が招いた事でもあるんだ。くだらない愚痴なんぞ聞きたくないね」

 愚痴と言われたのは効いたらしく、遙はわなわなと震えながら黙り込む。それだけ、図星を突かれ辛いのだろう。自分が招いた事とは言え、自分だけに責任がないと考えるのが人間。

 だが、そう言う意味で言えば、自分は人間なのかと、半蔵は考える事がある。

「・・・・雨、か」

「・・・・・」

 濡れる事を避ける為、建物の影へと移動する。漸く気付いた事だったが、この辺りは工場地帯の近くらしく人気は全く無い。空を見てもあるのは曇り陰る雨空と正面と後ろにある建物だけ。やけに暗いと感じるのは、まだ体力が回復仕切っていない証拠。

 半蔵は、自分自身が人間なのか、それともそうでないのか、時々迷い、そして導き出される答えは「分からない」の一言。

 それが嫌で、考えないようにはしているのだが、やはり考えてしまうのは未熟故と言うのが半蔵の結論。

 だが、このときばかりは遙につられたのだろう。隠していた弱さを、無意識の内に見せてしまう。

「罪悪感なんて無いさ・・・」

「・・・・何?」

「・・・・罪悪感など無いと言った」

「あっそ。良いわね、感じる場所が無くて」

 人らしい生活をしていれば、遙の口調が本当はそんな事を言いたくないと言う顔をしているのは分かる。だが、それとは全く別世界故ではなく、未熟故に半蔵にはそれが言葉通りの意味としか伝わらないのか。その時は何故か暗がりと雨音が支配する世界が嫌に、見慣れている筈の景色なのに見たこともない世界に見える。

「だが何故罪悪感を感じる必要がある。あそこで俺達が死んだ所で、何の意味もないだろう?」

「それは正論よ。でも、人間ってそんな正論だけで動ける物じゃない・・・。あんたにゃ分からない感覚なんだろうけどね」

「ああ、分からないさ。そう言う風に育てられたからな」

 こんな景色など、何度でも見、そして居た筈だった。光の届く世界よりも、闇が支配する世界の方が長く居るのだ。雨など戦術的に不利になる要素でもあり、それ故有利になる要素を含む自然現象としか半蔵の頭の中には叩き込まれていない。

 だから遙は言うのか。まだ半蔵には理解出来ない。

「だったらあんたは人間じゃないのかもね・・・ケダモノですらないわ。人形よ」

「かもな・・・」

 素直に認めた所が、遙には驚きだったらしい。だが、半蔵に取ってそれが一番自分を適切に現す言葉だと言う事を自覚している。

 遙に取っては罵詈雑言の意味を込めて言った筈だったが、半蔵にしてみればごく当たり前の事を言われただけ。だから遙が立ち上がり怒る理由が分からない。

「あんたは人形で良いの!? 人に操られなければ動かないなんてどう考えてもおかしいわよ!!」

「そう言うあんたも似た様な物だろう?」

「どういう事よ」

「人なんて言うのは、所詮操るか操られるかのどちらかだ。あんただってそうだろ?、両親を嫌いながら両親の進めた進学校に行った。あんたを見てると他に行きたい所があるなんて簡単に分かる。俺にとって操る側が合わなかっただけの事だ」

「そう言う事を・・・言ってるんじゃない」

 馬鹿にすることも疲れたのか。ばかばかしいと言う風に、少なくとも半蔵にはそう見える様子で遙はまた座る。そして立ったり座ったり忙しい奴だと言う考えが読まれたのか。遙はまだ言い足りなそうに、そして俯きながら口を開くだけ。

「あんたは・・・あんたは違うかもしれないけど、私は少なくとも操られてるなんて思って生活してないわ」

 それは半蔵に取ってトドメの言葉だったのだろうか。遙の胸ぐらを掴み引き寄せ、殺気と怒気を入り交じらせた声で言い放つ。

「現実を見ろ。自分の事だけ例外なんて言うのは絶対に無い。それがお前らの弱さなんだよ。何度繰り返せば・・・」

「・・・・何よ」

「・・・何でもない」

 しかし、途中で止めてしまったのには遙も眉を顰める。大体次の言葉は予測出来る物の、抜け落ちたパズルのピースは何が画かれているのかハッキリと分からない。そして何より、半蔵の表情が瞬時に青ざめたのが気になった。

「どう、したの? 汗掻いてるけど・・・」

「何でもないと言った。黙ってろ」

 早口に捲し立て、今度は縋るような瞳で遙を射抜く。それはまるで天敵に怯える兎の様で、狩られる寸前固まってしまった蛙にすら似ているのかもしれないと思った時、彼女も漸くそれに気付いたのか。少々遅れ自分の背筋に走る恐怖を感じながらその声を聞いた。

「何度繰り返せば君たち一般人は学ぶんだい? と、言いたいんだね。ニンジャボーイ」

 やたら流ちょうな日本語は、訓練されている事で身につけられると言う感じではなく、生まれた時から使っていると言う風に受け取れる。言い回しはまるで成績優秀の遙の一番嫌いな男子生徒会長に似ていたが、そこに居るだけで感じ取れる威圧感はまるで別物。

 逃げる理由になった人物と同じく、それが人間だとは思えなかった。

「でも僕から付け足して言わせて貰えば、人類は何時になったら馬鹿げた茶番を終わらせてくれるのか。それが気になる所だけどね」

「俺に取って貴様らの存在が一番茶番に思えるさ。人間じゃなければ一体何者なんだ」

「何者? はぁ・・・・そんな質問をするなんて、ナンセンスだと分かっている筈だよ君は。少なくともそちらのお嬢さんよりはよっぽど賢い筈だろう?」

「俺は賢いんじゃない」

「ほう? じゃあ、どう違うんだい?」

 楽しげに話し、振り返れば側に居るとだけ分かる敵と、半蔵の様子は丁度正反対だろう。何よりも半蔵は自分の実力が分かり切っているらしく、勝てる気など全くないのだ。表情からもそれが受け取れ、そして対等に話している様に聞こえるのはただの強がり。敵に取ってはそれが更に面白さを増しているらしい。

 そして遙にだけ聞こえる小声で一言。

『逃げろ』

 矢次に

「狡猾なだけだ」

 そう言い放った途端、遙は視界の中で目の前に居た筈の半蔵の姿が消えた様に映った。

 正確に言えば、まだそこに居るのだが、やたらと透けて見える半蔵が居ると言うのか。それを気にしている暇が無いと悟り走り出した途端、それは消え夜露と化す。そして直ぐさま脚に力を入れコンクリートの大地を蹴った筈、だった。

 だが、世の中そう甘くないご様子。

「行動がばればれだよ」

 ご立腹ではないが、あまり機嫌の良い訳ではないと分かるのは、笑っている表情からではなく雰囲気からの物。軽薄でもなくかといって重くもなく、しかし確かな物を感じ、それを現す名前は歓喜へと移り変わり遙の身体は後ろへと引き戻される。

「!!」

 首が苦しくなり襟を掴まれたのだと言うのは直ぐには分からず、反動で下へと曲がる顔が見据えたのはばっさりと切れた服。腹部の辺りに熱い痛みを感じ、切断されたと言う事が漸く分かる。

 だがそれよりも、遙の心を掻きむしったのは半蔵の手の感触。どろりとした、雨ではなくなま暖かい物に濡れていた。

「あれ? 浅かったかな・・・?」

 敵の声が聞こえ、ついで半蔵のうめく様な答える様は、耐えきれない証拠。

「腕一本切り落としたくらいじゃ俺は殺せない。せめて首でも跳ばしてみな」

 まだ強がるのは、策があるからではなく無いから。後ろを振り返らずとも、半蔵のその焦りを含む表情など手に取るように遙には分かる。そしてやっと痛みで濡れ始めた瞳で見据える事が出来た敵は、見知った顔だった。

「駆(かける)・・・・」

「似てるかな?」

 にっこりと微笑むそれは、間違いなく遙の弟、駆の物。服装もそれに習ってか、駆の通っていた学校の学生服姿である。それを見て、錯乱状態になりそうになりながら何とか、現実に引き戻ろうと踏ん張るがそれ程遙は強い訳ではなく、負けてしまいそうになる。

 だが、それを引き戻したのは半蔵ではない。

「特殊体質って言うか、そんな様な身体でね。一度見た人の顔ならコピー出来るんだよ。どうだい? 弟の顔をした人物に殺されそうになった気分は」

「・・・ひ、酷い」

「ただ殺すだけだったらボクが出向かなくても良いんだけど、調停者が居るって言うんで派遣されて来たんだよ。仕事で楽しむって言うのがボクのやり方でね。気に入って貰えて光栄だよ」

「・・・」

 喋る内に、通常変わるのは表情だが、それの場合は顔その物が変わり行く。そして駆と言う、遙の弟から徐々に変わっていったその顔は雅美の物。しかしそれについで服装や体格までも女性化してしまったのには流石の半蔵も驚く。

「こんな風に、服装も体格も全て複製出来るんだよ。変装じゃなく完全変態って言ってね。例えは嫌いだけど蛙とかの擬態とかのもっとレベルの高い技術なのさ。これの元々のアイディアの一片を出したニンジャには一度逢ってみたくてね。」

「俺はお前なんぞに会いたくもなかったよ」

「そうかい? でも、少しは僕の気持ちを汲んでくれると嬉しいなぁ」

 身勝手な事を言い、またそれの表情は遙の弟の物へと戻る。

 それは間違いなく自分の顔に戻す気などさらさらないと言う意思表示。何よりも、半蔵の戦力を極力削ぎ落とそうと考えているのだろう。例え違うと分かっていても、自分の弟が殺される現場を二度も見据える気力など遙には無い事が分かっているから。

「一つ訪ねるが良いか?」

「? なんだい? 一つ位なら答えてあげるよ。冥土の土産に」

 頭の中はこの後どう言った行動をするのかと言う複線で一杯。たった一つの事を選び、遙の安全を確保しなければならないのだから。

 だが、それを分かっていながら、頭の半分は別の事を考えているのが今の半蔵に取っては邪魔なのか。その表情は傷の痛さだけで歪む物ではない。

「お前は、死ねば元の顔に戻るのか?」

「流石に死んだ事が無いから分からないなぁ。けど、実験台の奴らは死んでも元に戻らなかったよ。だから僕らの組織名はSHADOW GHOST(影の亡霊)って言うんだけどね」

 死んで顔が戻るのならば、命に代えてでも相手を殺せる事は出来ただろう。だが、顔がそのままで亡骸と化すのならば、それを見た遙の精神を壊してしまう可能性は十二分にある。だから今は遙を逃がす事以外考えなくとも良いだろう。

『・・・だが、遙一人を逃がすだけの時間稼ぎは俺には無理だ』

 諦めの言葉を胸中で呟き、目に染みるのは雨と冷や汗。

 だが、半蔵は自分が今、何を考えているのかともう一度考え直した時、自分からはばかばかしいと言う答えしか返ってこなかった。

 遙の精神がどうなろうと自分の知った事ではないのだ。以前もそうしてきたし、これからもそうするであろうと思っていた。

 何よりも受けた仕事は遙の身辺警護であり、それを脅かす者を抹殺する事。精神状態など気遣うと言う事は今までしたことも考えた事もない。

 だが確かに今、考えている事はそれであり押し殺すのではなく、自然と感情を感じない彼に取って今心の奥底からわき上がる感情は理解しがたい存在。

 それを言葉に置き換えるのならば、間違いなく「生きたい」と言う物だと言う事まで分かってしまう。

 そしてそれが何故か分からなくて、彼は更に焦ってしまうのだろう。

 そこに居たのは、間違いなく機械として生きてきた人形ではなく、只の子供だった。

「何か考えてるんだろうけど、無駄だと思うなぁ。どうせ君達は死ぬんだからさぁ」

 ハッキリと聞こえる声は、雨音でも消せない存在感があるのだろう。殺気も怒気も帯びないそれは、自分よりも強いと感じられる者。

 自分の心境は間違いなくこの窮地を切り抜けられるだけの強さを持たず、遙もそれと同じなのか。固まった身体はいつの間にか震えている様だった。

 だが、それは半蔵の思いとは別の物。この状況下で、遙は相手を見据え、死を覚悟した心境で言い放った。

「もう、もう良いでしょう? 南雲君は助けてあげて。私はどうなっても良いから!!」

「お涙頂戴物語かい? 泣かせるねぇ」

 だが、案の定そんな言葉は相手には通用せず、冗談として受け取りにやけた笑みを浮かべるだけ。だが、何かを思いついた様に遙に言う。

「じゃあ、こうしよう。ニンジャボーイが裸の君を殺すなら、ぜーんぶ水に流してあげよう」

「な!?」

「どうしたの? 死ぬの覚悟した位なんだから、このくらいの陵辱も耐えられるでしょ?」

「・・・・・・」

「僕はね、君みたいな女の子の鼻をあかすのが好きなんだ。精々綺麗な断末魔で最後を迎えてくれよ?」

「ゲスが・・・」

 半蔵の吐き捨てた言葉さえ、それに取っては賞賛に値するのか。これ以上ない笑顔で早くやれと急かす。

 遙に何か考えがあって、そう言った提案をしたのだろう。もしそれがなくとも、彼はどのみち一瞬で二人を殺せる程の腕は持っているのだ。彼にとってはドラマチックな展開でもやってくれる事を期待し、その上で自分がそれを壊すのが楽しいと言った所か。

 無論、半蔵に取ってはそんな提案に乗れる筈もなく、頭の思考はいかにして彼女を救うかを考える。

 だが此方を振り返った遙の表情を見た時、半蔵の思考回路は、まるで壊れたロボットの様に止まってしまう。

「ごめんね。私の所為で・・・こんな事になっちゃってさ」

 その表情は、間違いなく笑っているのだろう。

 雨に濡れながら泣いている様にも見えるが、身体の震えは止まり、その空っぽの笑顔は間違いなく死を覚悟し、それを受け入れようとする者の顔。時々瞳が下へと下がるのは、半蔵の切り落とされた腕が原因だろう。本当にすまなそうな表情だった。

 それが嫌で、半蔵は何かを言おうとするが、自分の中にそんな言葉がある筈も無く、半開きになった口からは何も漏れない。

 そして彼女は、上着を脱ぎ、ブラウスを脱ぎ、下着姿になってもまるで躊躇いが感じられず、ただ、身体に付いた汚れを落とすようにそれも脱ぎ捨ててしまう。

 色気も感じない身体つきだったが、そこにある、多分今までの人生と、先ほど負った傷がある身体は全てを物語る疵痕と言う、彼女が辿ってきた一般人とは違う道。

「さ、私を殺して。そうすれば、君は助かるからさ」

 漸く、死ぬ瞬間が訪れようとした所で、恐怖が再来したのだろう。瞳には確かに強固な意志が感じられるが、その声は震えそれは身体を通り抜けて行く。

 だが、その心境は最後まで半蔵に伝わらないのか。いつの間にか半蔵の表情は苦悶に満ちていた。

「な、なるべくさ・・・。苦しまない様にしてね。君なら、罪悪感も感じないって言ったんだから、出来るよね」

「ほら、この子もこう言ってるんだし、早くしてあげたら? 風邪引くよ?」

 敵の笑い声が聞こえ、それがどうしようもない、自分の無力さに嫌気がさしてしまう。

 そして背けようとする半蔵の顔をしっかりと掴み、自分の方に向かせ、遙は言う。

「逃げないで」

 意志の強さが感じられ、それで居てやはり死ぬのは怖いと言う事も感じ取れる。

 複雑な感情の入り交じったその瞳は、18歳の、自分よりも年上と感じられる物。

 何かを伝えたくて、考えているのだろう。肌寒く濡れる身体が赤く染まるのは恥ずかしさの為かもしれない。

 だがそれでも、遙は半蔵に伝える為に言葉を紡ぐだけ。

「貴方は人形なんかじゃない。だから私を殺せないのも分かる・・・・けど、最後のお願いくらい聞いて。ちゃんと、私の最後を看取って。お願い」

 今の遙を殺せば、間違いなく今まで見てきた物とは違う、最後を見届ける事になるだろう。

 何度と無く、何人も殺してきた半蔵だったが、人が死ぬ時。いや、殺される時は間違いなく苦悶と絶望、そして生への渇望を表情に残し逝くのだ。

 その結果、死んだ亡骸の表情に表れるのは、憎悪と言う作品。

 どれだけ芸術家が絵に描こうとも、それは描けぬほど呆気なく、そして儚い物。

 だが半蔵に取ってそれは、戒めであり呪い。

 呪われ、忌み嫌われ、そう言った相手を殺す事だけで自分の何かを確かめようとして、今まで生きてきたのだ。

 結局の所、それは今まで変わらなかった。

 だが、遙の表情は間違いなく死んでも笑っているのだろう。

 最後に半蔵を助けた事で、満足して逝けるのだろう。

 命と引き替えにして、救った自分ではない命に全てを懸けて。

『何故・・・そんな事が考えられる・・・』

 葛藤。

 ただ、それだけが半蔵の全てを支配し、彼は壊れてしまう。

 ただ、暗殺用に育てられた故の結果だろう。

 だが、それは機械としての彼の考え。

 そんな事で、人間は壊れたりしない。

 否、壊れられないと言う方が正しいのか。

 いっそ壊れてしまえばどれだけ楽かと思う程、半蔵は胸が痛かった。

 感じた事のないそれは、心臓を鷲掴みにし更に彼を圧迫する。

 血流が無理矢理遮られるのを感じ、生きている事を放棄したくなる。

『だけど・・・・』

 それでも生きたいと言う想いは、今の半蔵に取って邪な感情としてしか認識出来ない。

 他人を殺してでも生きていたいと思ったのは、自分が一番成りたくないと思っていた存在だったから。

 だがそんな事を言えば遙は間違いなく許してくれないのだろう。

 決心が揺らぎ、それが敵の機嫌を損ね自分を先に殺されてしまうかもしれない。

 それが自分の最後なら、呆気ない人生と、半日前の自分ならば納得出来た事だろう。

 多分雅美には見抜かれているのかもしれないが、死にたいと願っていたのは正直な所。

 だが、死にたいと、生きたいが混在している今、半蔵はある言葉を思い出した。

『人の気持ちが少しでも分かるんなら、それを汲んでやれば良いだけだ』

 それは、つい先ほど、大介が言って見せた言葉。

 今にそれを当てはめれば、殺してやるのが遙にとって良い事なのだろうか。

 だが、その後の言葉を思い出した時、半蔵の中で答えは出た。

「どうしたんだい? さっさとやらなきゃ、ニンジャボーイ。君が先に死ぬ事になるよ?」

 笑っていた表情はいつの間にか凍り付き、苛立ちを現す物になっている。

 それが怖くて、遙は半蔵に何か言葉を掛けようとした。

 半蔵の言う通り、所詮自業自得なのだから。

 自分の招いた事であり、その報いは自分だけが受ければ良いのだから。

 何より、不器用で、何処か寂しげな目の前で苦しんでいる、自分よりも年下の男を好きになってしまったから。

 だから生きて欲しくて、彼女は殺してくれと、殺される事を望むのだ。

 それが愛だと、彼女は思ったから。

 だが気付いた時、半蔵の表情は曇っていなかった。

「それは困るな」

 冷徹な瞳の輝きを取り戻した半蔵の表情は、間違いなく遙には機械に見える物。

 いつか自分の言った言葉が分かる時が来るのならば、自分の命など惜しくないと思える。

 だが、半蔵はそれを越えたらしい。

「やっと決心が付いたのかい? なら、さっさと」

「遙が死ぬのも、俺が死ぬのも困ると言っただけだ」

「何・・・だと?」

 敵に取っても、遙に取っても半蔵の言葉は常軌を逸しているとしか言いようの無い物。

 理解など出来ず、ただの我が侭にしか聞こえる筈もない。

「君は分かっているのかい? 僕がその気ならいつでも君たち二人を」

「ならやれば良いさ」

「・・・・」

「さっきから気になっていたが、何故俺達を直ぐに殺さない? 気に入らないのならば殺せば良いだろう?」

「調子に乗るとは思わなかったよ・・・。そうだったね、君たち見たいな塵屑(ごみくず)は一緒に死んだら本望だとか言うんだったね」

 相手の心境はもはや遙一人の命では収まりも聞かない事は、振り返りもせずに半蔵を見る遙にも分かる事。

 その反面で、そう言ってくれた半蔵の言葉が嬉しくて泣いてしまいそうにさえなる。

 だが、半蔵を死なせたくないと言う想いはまだ消えないのか。言葉を、何とか半蔵を生かそうと考える言葉を考える途中でそれは遮られた。

「一緒に死ねば本望? 冗談じゃない。俺は死にたいと今まで思っていたが、今はそうじゃない」

 意志の輝きがなかった瞳には、既にそれが宿り初め、その結果現れるのは煌めきと言う名の生きているモノの証。

 獣でも、人間ですらないと感じるのだが、それは半蔵なりの自分なのだろう。

 決して他人には真似できない事であり、自分探しの旅に出る、等と言う事をしたところで元々答えは出ているのだ。

「ほう? じゃあ、なんだい? 君の願いは」

 だが、それを出すには本来時間が必要であり、それは絶対不可欠だと遙は思っていた。

 しかし、それを半蔵は乗り越えてしまったらしい。

 たった、17年と言う、自分よりも短い人生で。

 それが悔しくて、嬉しくて、雅美の言った「貴方が羨ましい」と言う言葉が、何故か今の自分に当てはまって、複雑な心境だ。

 だが今ならば、どういう結末になろうとも後悔も無いだろう。

 信じると言う気持ちが、これ程心地よい物だと分かり思ったのは、これが初めてだ。

 そしてそんな遙の心境を察してか。

 半蔵は、不器用にも笑っていた。

「コイツと一緒に生きたい。それが今の俺の答えだ」

「じゃあ、否定してやるよ」

 どうなるかは分からない。

 いや、どう考えても、片腕の半蔵と、化け物と呼ばれるだけある相手との実力の差は明白。

 それ故、再び死ぬ覚悟をしなければならないと思った時、少なくとも遙に取って奇跡は起こった。

「死んで詫びろ」

 怒気を帯びた声。

 それは間違いなく敵の声なのだろう。

 だが弟の顔と声をしている筈だったのに、その時だけは別人の物だった。

 そしてそれが分かった刹那、何かが風を斬る音と、それが敵に当たる音だろうか。直ぐさま苦痛を漏らす声が聞こえその刹那、半蔵でも自分でも、敵でもない声が聞こえた。

「よく言った半蔵。それでこそ本物の忍びだ」

「き、さまは・・・・」

「名を騙る奴らに名乗る名前は本当は無いんだがな、教えてやるよ」

 嬉しそうに、まるで弾む声は自分の人生を変えた人物の声。

 いつもは何処か面白く無さそうな声をしているのだが、半蔵は初めてその人物のそう言った声を聞いた気がする。

 そして遙にその光景を見せぬ様抱き締め、自分の頭の中にはしっかりと焼き付ける為に、その自分の瞳でそれを見据える。

「俺が不知火だ」

 微かな、まるで炎の様な煌めきの軌跡を残し、無数に残像を造り出す彼の姿は半蔵に取って忘れられぬ姿になるだろう。

 間違いなく、断末魔をあげながら絶命する筈だった名も分からぬ敵は、その全ての残像に取り囲まれそれが全て消えた時、その姿は存在していなかった。原理までは分からないが、どうやら分子分解を素手でやって退けられるのが、六道真悟と言う人物らしい。

「アンタは・・・何者だ?」

 助けられたと言う感覚は未だ湧かない。

 それだけ、先ほどの敵よりも圧迫感を感じていると言う事か。

 だが、その恐怖と言う感情が、戦慄きと言う名前の憧れと言う物だと言う事を、半蔵は知らない。

「ま、それはどうせも良いさ。帰ったら千尋に礼を言って置けよ?」

「・・・分かった。ありが、と、う・・・」

 そして半蔵は気を失い、同時に疲れ果てたのか。遙も気を失ってしまう。

 だが、そんな二人が倒れ雨水に晒されないのは、既に雨が上がってしまったのと、いつの間にか姿を現した雅美のおかげだろう。

「うわ・・・遙ちゃん裸になっちゃってまぁ・・・」

 だが、何処か間の抜けた感想を述べるのは此処に来るのが遅れた事を隠す為か。しかし、やるべき事は分かっている様子。

「裸ねぇ・・・趣味の悪い奴だな」

「とか言いつつこっち見ちゃ駄目よ真悟」

「・・・・・」

「瑞希母さんが居るでしょ。どうせ近い内に行くんだったらしっかり欲求不満も解消してくれば?」

「クロウ見たいな事言うんじゃねぇよ遅れた癖に・・・」

 二人が眠ってしまった為か。子供じみた反応を示す真悟は、昔とは違う反応を示してくれるのが嬉しくて雅美は微笑みながら二人を自分の白衣で包んでやる。

「に、しても、千尋ちゃんも良くやるわよ。アンタの創った銃とは言えさ。未完成だったんでしょ?」

「ああ。だがな、オリハルコン製の銃だぜ。あいつ自身も乗り越えられたって訳だろ。今度奢ってやらなきゃなぁ、そいつらと一緒によ」

「大介にもボーナス奮発してあげなきゃねー。社長に言っとかなきゃ」

「いや、俺のポケットマネーからそれは出すさ。今回の報酬分に見積もりしてみたが、遙の生活費って事で良いだろ。次に何言い出すか大体分かるからな」

「あら、珍しく優しいじゃないの。あんまり甘やかさない様にって言ったのは誰だったっけ?」

「それとこれとは別だろうがよ」

「ま、それは良いでしょう。でも」

「まだあんのかよ。いい加減帰ろうぜ」

「ドル紙幣で払うのは止めてあげましょうね。ここ、日本なんだから」

「・・・・・・・」

 多分、真悟の頭の中にあるのは銀行で自分の貯金を下ろし、別の銀行で円に換金する自分の姿なのだろうか。

 そう言う姿が似合わない事を思って、歩き出した彼の顔は間違いなく不機嫌に歪んでいるのだろう。

 そして雅美は不満を漏らした。

「私も一応怪我人だったんだから一人は持ってよもう・・・」



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