闇とさえ言えぬ、多分混沌であろう物に抱かれるさなか。声など聞こえる筈も無かろう場所で、自分が聞いている声は一体誰の物なのだろうか。そう問いかけ、口元の僅かな筋肉が動いたのが分かった。
時を移動する時と似た感覚だと、話半分に聞いていたが、なるほどと頷ける体験だ。頭の中の思考は嘘のようにハッキリしているのだが、その一方で過去に考えた事、そしてこれから思う事だろう。様々な感情が流れ込み、正直な所、まともな精神状態で居られる自分が信じられなかった。常に、自分の中の獣を解き放っている様な物だ。これではまるで時を渉るのではなく、時その物に自分の存在を根底から否定されている様な物だと、また笑えてしまう。
聞こえてくる声は常に一定で、決して統一性があるとは思えない、まるで地獄絵図の情景が無い場合とでも言った所か。
恨み、妬み、憎悪、怒気、狂気、そして殺意。
誰の過去だろうか。触れる度に流れ込んでくる様々な哀しみと総称出来る感情の束は決して一つに収束する事は出来ない。多分、自分に負荷が掛かるのはそんな一つにならない場所を、世界として成立させようと、半ば身体に染みついた通常空間の癖が抗っているのだ。
認めてしまえば。
この世界ですらない場所を当たり前だと身も心も認めてしまえば、苦痛もなく流れに流され一体となり、自我その物にまるで意味がなくなってしまう。その結果、ここから出られはするのだろう。当初の目的とあまりに違いすぎる終幕で良ければの話だが。
言葉すら、発する事は出来ない。もどかしさは無いが、何時の頃からか、一人になった時はまるで確認する様にして言葉に出さなければ思考が纏まらないのだ。
不便と感じた事が無かったのは、常に隣にクレアと言う存在が居たから。
だからと言って、解決策など今は全くと言って良いほど無い。だからこそ、こうして自分を僅かに保ちながら流れ着く先を探しているのが現状だ。
よくも、自分を保っていられる物だと、一体何度目かも分からない問いとも自賛とも分からない言葉を胸中のみで呟き、世界に成りきれていない場所を見る。
ある部分が風景その物が破れた様に見え、ある部分は音、だろうか。目に見えぬ筈の振動がハッキリと空間に具現化していさえ居る。
まるで絵空事の様にその中で動く人々は様々だったが、見たこともない様な服装や、目に見える言語は当たり前で、それこそ、未来とも過去とも全く分からない闘いや、戦争を映し出している物もある。
こんな場所だからと、暇つぶしの代わりにそれらをたぐり寄せてみようと考える自分もどうかしているが、ある場面ごとに映る「ある人物」はその自分よりも遥かにどうかしているのだろう。
見た事は無かった。
当たり前だ。あんな知り合いが居れば、自分は既に死んでいるか、戦う事すら止めて居たかもしれない。それほどに、まるで演劇でも見ている様な華々しさがある。
ただ一点、血が世界を紅く染め上げる光景などと言う異常な場面を見なければ、だったが。
黒の決断、魔族が同族殺しを認め、ある世代より上の年代の者達が例外なく死んだ事件。遥か過去の話であるのだが、目の前で起こっている事はそれ以前の事なのだろう。
間違いなく、それが切掛けだ。
断言できる程の狂気に満ちた世界を創り出すたった一人の子供。
どんな方法を使ったのかが、分からなければ良かったとこれほど思った事はなかったろう。何もかもがうち崩された気分で、胸が高揚しているのが分かり戸惑いと喜びと、狂気がそれを包み込みこれほどまで満たされた気分になった事は今まで生きてきた中でなかった様に思う。
そしてクレアに聞いた、紅の殺戮者と言う二つ名のみの存在を思い出し、確かに、この光景を知った者であればそう名付けるのだと分かってしまう。だが、この現場に居て、もし二つ名を付けて良いのならば自分はこう表現する筈だ。
一音の悪夢(ワン・サウンド・ナイトメア)。
強すぎる者に、大業な二つ名など必要ではない。
それ以外に、表現方法を必要とせぬ程の強さを持った、紅と朱を瞳に宿した少年がまだ生きているのならば、一度だけでも会いたいと思う。
それで殺されてしまう結果になろうとも。
そこまで考えた所で、途端否定している自分と、誰かの。確かに分かる他者の感情。
空間が映し出す流れではなく、自分と同じ立場に居る他者からの感情が同じ事を考えたからだろう。
言うなれば、感情の交換だった。
自分の望んだ事と、名も、姿も、意思すらも分からない他者との感情の交換。
そして慣れているからこそ分かった、他者が女である事と、まるで一音の悪夢を渇望するただ「欲しい」と言う強い想いが自分の中の獣と呼応し、扉と呼ぶには、あまりにも凄惨な物。現世こそ地獄だ、と誰かが言った言葉を思い出すような負の感情、幾重にも張り巡らされた螺旋の輪をくぐり抜け、出られたのだと分かったのはもう少し先の事だった。

アナザー・ナイン・ファンタジー■ACT:BLUE COMPENSATION