朝起きた時間は早朝の四時。用意は昨晩の内に出来ているのだから六時まで寝ていたかったのだが、自分の神経は思ったよりも繊細だったらしい。

「・・・・くそっ」

 熟睡は、出来た筈なのだが眠りに落ちた瞬間、起きたと言う感覚で全く睡眠を取った気にはなれない。要するに身体だけ準備万端で精神状態はすこぶる最悪と言う奴だ。

 最も、寝たと言う事実さえあれば気分転換も出来るのだが、一日の始まりであるこのとき、背中の奥と言うか、背骨全体にかけてと言うか。

「嫌な一日だな、今日は」

 むずむずとこそばゆい様な感覚があるのは、述べた言葉通りの始まりだ。

 こういう感覚だけは妙に鋭いので、便利な事は便利。前もって問題が何かは特定出来ないモノの、心構えだけは出来るのだから。

 だが、その何かを回避する事は出来ないらしく、当たるも八卦当たらぬ面八卦的な部分があるので信用して良いのか悪いのかも曖昧なのだ。

「・・・・くそっ!」

 二度寝するには時間的に半端であり、かといってすることもなく、怠惰な時間を過ごす様な趣味は持ち合わせては居ない。

 結局の所、悶々とした気持ちを発散させる時にやる事は一つ。

「はぁ・・・」

 そそくさとベットから起き抜け、着替えを済ませて顔を洗って、食事の用意をしてそれを食べ、終わったと同時に机やら引き出しやらの中にしまってある工具類を取りだして幾つかある銃も全て床の上に並べる。

「癖だな癖。治らんわこれは」

 それを一つばらしては掃除してまた組み立て、それを繰り返すだけの作業なのだが、慣れてしまった今となっては目を見張るような速さで行える様になったのだ。

 なので少し暇な時間などがあれば同じ事をやっているモノだから、本来掃除など必要もない位キレイになっている。

 言ってしまえば、銃を使う仕事の前後と、その途中の約三回掃除すれば整備不良で動かなくなる等と言う事は無いのだが、使い勝手は新品同様と言う状態を保つには良いのかもしれない。

 だが、それ以外にやる事が見付からないのもどうかと思う。

 同時に、他の事を考えながらでも、半ば自動的になった手作業は絶対に間違う事も無いのだ。

「はぁ・・・。若いんだからもう少しこう、あるだろ?」

 本を読むにしろ、部屋にそんな都合の良いモノがあれば何度だって読み返してやると、常々も思うのだが、買って来ようと思う度に忘れてしまうのだ。

 そして掃除が全て終わった後は最近、はじめた銃の構える練習。

「はじめた、じゃなくて初めちまった、だな」

 くるくると手の中で銃を弄びながら、頭の中で決めた目標に向かって何度も何度も銃を構え続ける。

 自分で既に、どの程度照準がずれているのか。身体の何処を如何に動かせば一番早く構えられるのかも分かっているから、後は基礎体力と集中力さえあれば何時間でも続けていられる。

 日々の積み重ねによって、自分の仕事の善し悪しも決まるのでそれを悪いと思うどころか、自分にしては良い傾向だとも思う。

 しかしその一方でやはり、

「これこそ怠惰じゃねぇのか?」

 頭の中はスッカラカンな状態を鑑みて、漏れるのは不満だけなのだ。

 怠けているにも種類があると、たまに思う。

 そして一人暮らしを初めて増えてしまった独り言に、彼は今日三回目の溜息と叱咤を吐き出す。

 時間は早朝の四時三十分。

 まだまだ、怠惰であれる時間は過ぎ去りそうになかった。






































アナザー・ナイン・ファンタジー■ACT:GAN'S VERMILION





































 定刻の前に家を出て、皇都の東側にある街の駅へと行く道は人通りもまばらながらも、近づくに連れて人の数は群れへとなって行った。

 朝早くからご苦労な事で、と、半ば嫌味を心の中で呟くも、その通り、彼らの殆どは行商人か、帰路へと就く、もしくはこれから仕事へと出向く騎士か傭兵達なのだ。

 旅行客も稀に居るらしいが、あまり見た事は無く、だから、今の状況が少々納得行かないモノでもあった。

 昨晩、悪友の西方魔術師は誰か自分に護衛でも付けようかと、冗談じみた様子で言っていたのだが、まさか本当にそう言う「の」が居るとは思わなかったのだ。

「どうしたのさ。変な顔して」

「悪かったな変な顔で」

「久々に逢ったのにそれはないんじゃない?」

「ああそうかい。それはすまなんだ」

 皮肉を言っている相手は女だ。

 間違いなく、自分に取っては異性だ。

 普通、こんな対応をする様な女性はそれこそ目上の気に入らない年寄りか、性悪女と決めているのだが、もう一人、自分には居るのである。

 何せ、駅に着いた途端、自分を名前ではなく大声を出して愛称で呼ぶ様な女はコイツしか知らないとまで言えるだろう、身内。

「二年ぶりなんだからさぁ、もう少しキレイになったとか言えないの?」

「さぁなぁ」

「ま、期待した私も馬鹿だけどね。武兄ぃはモットバカでしょーね。まだ彼女出来てなさそうだし」

「やかましい・・・」

 見てくれと言うのもなんだが、確かに彼女、咲夜(サクヤ)は18と言う年齢の同世代から見れば綺麗と称されるだけの容姿はしている。

 もう一人、兄妹は身内に一人居て、雪恵(ユキエ)と言う自分よりも四つ年上の姉が居るのだが、彼女に似て美人になったと言っても良いだろう。無論、その辺りは言えば怒る事くらいは、年を重ねて分かった事だから言おうとも思わないが。

 だからもし「身内でない」と言う条件に当てはまるのであれば、迎えとして悪い気分はしないだろう。列車酔いと言う、現代病の事を気遣ってくれたあの屈託がなく、人を騙す事を趣味にしているような女たらしに感謝しても良かった。

 だが、よりにもよって、これである。

「ねぇ、さっきからじろじろ見てさ。言いたい事あるならハッキリ言いなよ」

「ん、ああ・・・」

「武兄らしくないじゃん。すぱっとしゃきっとしてんのが武兄だろ?」

 言ったら間違いなくぶち切れるのだから、言える訳がないと心の中で毒づいて奥だけで我慢するだけで、ストレスがたまることたまること。

 多分、それも見越して彼女を寄越したか、もしくは彼女が来るから自分を行かせるのかのどちらかだ。

 どちらにしろ今、胸中にあって、尚かつ知った所で肩にのし掛かった何かをおろす為に晴らす疑問は、

「何でお前がココに居る」

 自然と口から漏れるに十分なモノだった。

 だが、妹の性格を知っていて聞くのは、間違いな事も分かっていた筈だ。

 流石に二年も経つと、子供っぽさは無くなる年齢に達した様だが、オトナの悪い部分ばかり影響されたらしい。

「何故でしょー。少しは自分で考えなきゃ」

 それも、昔自分が言っていたセリフそのままなのだ。

 文句を言おうモノなら、また調子付かせる事になる故に、我慢するしかないのがツライ所。

 こめかみ辺りがぴくぴくと痙攣しているのも自分で分かっているのだが、止められるモノなら止めている。

「あ、それ」

 そして、どうなった所で、この妹との関係の立場上的な優劣と言うか、別に劣っているとも思わないのだが、家族の中での権力の図は昔とあまり変わっていないらしい。

「あ?」

「そのこめかみ。父さんにそっくり」

「・・・・・」

「あ、怒った? 怒った?」

 さぞ、面白いだろう。彼女の顔はそれこそ、年齢より遥かに下の少女の様に綻んでいた。

 だが、ここで手を挙げようモノなら周りの反感を買うことも必至。

 なのだが、本当の所で言えば、家に帰った途端、母親に、家の道場の隅っこに貼り付けにされてナイフ投げの的にでもなれるのが落ちなのだ。

 帆村家が代々、男が頭首であるが、女の尻に敷かれると言う図式は今なお変わっていないらしく、母親を敵に回す位ならば今なお仕事に何をしているのかさっぱり分からない父親を敵に回す方がどれだけ楽かも分からないだろう。

 道場で門下生を教えているのは確かに父なのだが、その殆どの門弟は女性ばかり。男も確かに居るのだが、それこそ朔日逢った東方魔環師のリーゼ・ガ・ストラストの様な男勝りな女性ばかりであり、皆が皆、旦那や彼氏を尻に敷いているのだろうと簡単に想像出来てしまう。

 それこそ、見惚れてしまう様な綺麗所ばかりなのは確かだ。

 母親も、マザコンと罵られようが美人である事に違いは無く、妙齢と言う程ではないにしろ、女性であり続ける人であると今でも思っている。

 その上で、悪く言えばしたたか、聞こえを良くすれば賢いのだから、頭が上がらないのも分かるであろう。

 西に一時的ではあったが引っ越した時等、その状況を羨む友人が多かったが、変わってくれるモノなら本気で変わって欲しいとまで思った程なのである。

 それ故、怒る事も出来ず、むしろ、怒る理由には届かない。

 こうやってからかうのが、彼女なりの再会の印しなのだから。

「にしてもさ、そのコート。無茶苦茶趣味悪いよ」

「うるせぇ。文句言ってないでさっさと乗りやがれ」

 纏っている赤いコートは一番のお気に入りだっただけに、機嫌が悪くなる。何処が悪いのかさっぱり分からないが、彼女は黒や灰色の落ち着いた色を好む癖があり、彼女が今着ている服も確かに何処か可愛いと言う容姿を、綺麗と言う容姿に格上げするだけに十分な落ち着きを払わせては居た。

 そして列車へと乗り込み、自分の席へと急ぐのだが、東方から皇都に来るまでに乗った席とは全く違い、個室を宛われる事になるとは思っても見なかった。

 よくよく考えれば分かる事だったが、税金を取って自分の様な一介のハンターにわざわざこんな上級席を用意する理由と言えば、やはり周りの事を気にさせぬ様、列車酔いになりにくい場所を彼なりに用意してくれたつもりなのだろう。が、要らぬお節介である事は明白。

 列車が目的の駅に着くのは昼頃であり、室内から出ては行けないと言う決まりは無いにしろ、この妹と六時間近く一緒に居なければならないのだ。

「来る時もこんな席だったけど、なかなか乗り心地良かったよ」

「さいですか・・・」

「リスキィさんも気が利くよね。やっぱり、持つべきは友人だ」

 悪友だ、と言い直しでもしたかったのだが、そうすると罵声と拳と蹴りが飛んでくる様な自体になるのでぐっと堪え、席に座る。

 ただそれだけなのだが、気分が悪くなるのはもはやトラウマだろう。子供の頃に二、三度乗った経験があるのだが、やはり落ち着かないのは一つの列車を現す言葉を何処かで聞いたから。

「もう、いつまでも引きずってないでこの際克服しちゃいなよ。「走る棺桶」なんて言葉さぁ」

「思い出したくも無いんだから言うなよお前も」

「はいはい。じゃ、もう言わないよ。「暴走柩」なんてね」

「・・・・・」

 それを何処で聞いたかは全く覚えていないのだが、確かに聞いた覚えはあり、その事もあってか、列車が揺れる度にびくびくと身体を振るわせたモノだ。

 何年か乗っていなかったから克服出来ていると高を括っていた事も少しはあったが、それを吹き飛ばすだけの予感は今なおある。

 何せ、列車に乗った時から、いや、駅に着いた時からかもしれない。

 情報漏れを危惧していた訳ではないが、殺気じみた視線を何度も感じているのだ。

 多分、東方ハツ国の間者か、それとも雇われ暗殺者かは分からないが、誰かを送り込む様な事があるなら殺せとでも命令されているのだろう。検討がつかず、手詰まりにはなったモノの、注意は払っていると言うプロ根性は見あげたモノだったが、どうせなら一流らしく殺意を感じさせない様に注意を払ってくれと、半ば無茶な注文も胸中にある。

「あ、発車だね。さー、地獄の三丁目にごあんなーい」

 洒落にならないから止めろと、注意する前に列車はかたんかたんと音を立てて動きだし、自分に取っては地獄にも似た時間の始まりだった。

 ものの五分と立たぬ内に、吐き気を堪えながら窓から身を乗り出して気分を回復するも、十分を過ぎた辺りから顔色は青から土色へと変色してゆく。

 そんな事を繰り返し二時間経ち、最初はからかっていた咲夜も悪いと思ったのだろう。心配そうな眼差しで此方を見ていた。

「ねぇ、そんなにダメなんだったら乗らなきゃ良いのに」

 無茶な事を言うなと、言った所で問題が解決する訳でもない。

 確かに時間を掛けて、馬や徒歩で行けば良いだけの話しではあるが、一番事を早く段取りする為にこの列車移動と言うモノが欠かせない事も分かっている。

 帰りは絶対乗るもんかと腹に決め、三時間が過ぎた頃だろう。

 漸く相手も動き出した様子だった。

「武兄・・・」

「ああ。分かってるよ。ったく胸くそ悪い・・・」

 物音を立てぬ所は流石だと言いたいが、僅かに漂ってくるのは火薬と血の匂い。

 どういう理由で乗客の誰かを殺したのか分からないが、この列車には意外に自分たちよりも分かり易く、尚かつ立場が上な人物が乗っていたらしい。

 ドアを開けて周りを見回して様子を見るモノの別段変化は無かったが、確かに鼻につくこの匂いだけは強くなった気がした。

「言いたくないけど、あんまり関わらない方が良いんじゃない?」

「そうは思うがな。大人しく殺されるかもしれない場所で待ってるのもなんだろ」

 待っていろと手で指示を出してから、何事も無い様に前方車両へと歩いて行く。

 咲夜の言った通り、ここで動くのは得策ではないにしろ、血の匂いだけなら放って置いても良かった。が、火薬の匂いとなると話は別だ。

 暗殺者は自分の身分や素性、特に顔を知られると商売上、不具合がある為、人に滅多に正体を見せる事は無い。その為に、一度仕事を終えて、関わり合いにさえならなければ安全と言っても良いのだが、火薬を使う様な暗殺者と言うのは数が少ない。

 硝煙の匂いではないのだ。

 銃を撃ったのではなく、窓でも開け放っていたのだろう。火薬が風に舞って外に漏れだした結果、自分たちの部屋に届いたらしい。

 列車を爆破する様な量でない限り、そんな大量の火薬を必要ともしないだろうし、火薬を風に舞わせる等、扱いに長けたモノであればそんなへまはしない。

 それこそ、一流ではないだろう。半端な腕のモノが居ると考えて良い。

 だが奥へと歩くに連れて、妙な違和感を感じざるを得ない状況になってくる。

 自分が列車酔いしている所為も無論あるのだろうが、それだけではない何か。

 ヤケに静かな車両の中は、自分が何処かで聞いた走る棺桶に違いなかった。

「妙、と言うべきか・・・?」

 そして前方車両へと映る扉を前に立ち止まり、ガラス越しに向こう側を見るのだが、別段、変化は無い様に見える。

 誰も出てこようとしないのは、部屋の中で談笑にでも興じている為だろうが、それにしては一人も外に居ないと言うのは違和感がありすぎた。

 考えてみれば、この辺りの時間では車掌が切符を確認しに来ていてもおかしくなかったのだ。本来、キセル乗車をする様な輩を早々に見つける為に発車から約二十分でそれが来ると言う事は何処かで聞いた事がある。

 確認しようもなく、駅から降りた時に確認するのかもしれないが、効率で言えば悪く、何よりキセルする様な輩であれば直ぐさま逃げるのだろう。それを前もって捕まえて置くのなら、早めに見つけて置いた方が得策である。

 その上、耳を澄ませて聞こえてくるのは列車がレールの上を揺れる音と、僅かな風切りの音だけ。

 談笑をしているのであれば、個室から聞こえる様なくぐもった声でも聞こえて来そうなモノの、それが一切聞こえて来ないと言うのは変過ぎる。

「聞き耳立てて様子見て、状況変なら一時撤退・・・」

 妙な独り言を呟きながら、ゆっくりと元来た場所へと帰って行く。

 足音を立てぬ様にして気配断ちしたのには理由があり、こめかみは妹咲夜と出逢った時とは違い、冷や汗が流れていた。

 しかし、それは待ってくれるような酔狂さは持ち合わせて居なかった様子。

「くそっ! また当たりかよっ!!」

 嫌な予感的中と、警報が自分の中で鳴り響いているのも分かるが、流石に個室の殆どから黒を起点とした、ローブだろう。全身真っ黒な服装で顔も見えない相手がざっと出て来られては正直逃げるしか選択肢は内容に思える。

 だが、一方向、即ち、先ほどまで進んでいた前方車両だけにそれは当てはまり、自分が来た側の車両には一人として妖しい人物は居ないまま。

「あ、おかえり〜」

 自分の個室のドアを空けた途端、聞こえた咲夜の声は呑気であったモノの、流石にドアを開けっ放しにして銃を撃った姿には驚きを隠せないらしい。

「な、何? そんな状況真っ赤っか?」

「無駄口叩くな。さっさと行け」

 そして窓の外を指さしてやるが、意図が分からないらしい。

「飛び降りろ、と?」

「屋根伝いに後方車両へ行け。前方に行くなよ」

「ああ〜・・・オキニだったのにこの服」

 手慣れた様子で窓をすんなり通れる大きさに蹴破り、登って行く格好はこれ以上なく手際が良いと言えるだろう。

 何処でそんな技術を身につけたかと問われれば、間違いなく彼女の口から漏れるのは自分の家だと言う筈だ。

 その間も、何人かどたどたと走ってくる音が聞こえる度に、回転式銃を撃っては足止めをして、六発ある全段を打ち尽くした所で自分も後を追う。

 そして疾走を続ける列車の上に出たのだが、こんな場所なら酔わずに済むと、何処か呑気な事を考えてしまったが、それをかき消すのに十分な自体が迫っているらしい。

「武兄〜、すんごいの見えるんだけど」

 咲夜の視界と同じ方向を、即ち行けと言った後方車両なのだが、煙でも上げているのかと冗談めかした言葉を胸に押しとどめたのはそこに無かったから。

 何が、どう、無いのかではなく、何も無い、のである。

 それこそ、今の今まで気付かなかったが、後方車両が全て無くなっているのだ。

 鋭利な刃物で切断された、と言う訳ではなく、連結部分を切り離しでもしたのだろう。

 今はここが、最後尾の車両と言う事。

 同時に、追いつめられたと言うべきだろう。

「走れー!!!」

 まるでゆっくりと世界が動く様に見えるのは、自分の感覚が研ぎ澄まされて行くのだと言う事など知っている。

 だがそれが現しているのは、状況が悪化へと一直線に進んでいると言う事になり、目の前を先に行く咲夜と自分は一番前の車両へと急ぎ、後ろから聞こえて来たのは銃声と爆音。

「・・・! ・・・!!!」

「何言ってっか分からねぇよっ!! 無駄口叩くなら走れ走れ走れっ!!!」

 次々と車両の一部が吹っ飛んで行く光景は見れば壮大だなぁと、バカみたいに感想を漏らせる自信はあったが、流石に命を賭してまでやる気も無く、咲夜も無論それは同じ。

 早々に爆発音が聞こえなくなったのは敵の団体さんが居る車両を追い越したからだろうが、やかましく響く足音の後ろを銃弾が飛び出して来るのも分かってしまう辺り、相手の正確な人数が分からなくなってしまった。

 当初目にした数は十五人から二十人。その全員が銃を装備しているとは考えにくいが、銃弾の来るタイミングから考えて七丁ほどしか拳銃は無いらしい。

 が、次弾を装填するにしてはあまりにも半端に銃声が止むのだ。一つ、また一つと消えて行く銃声の存在が奇妙としか言いようが無い。

 だが、考えて見ればこの列車に乗っているのは何も行商人だけではないのだ。もしかしたら、誰かが迎撃しているのかもしれないと考えるのは必然。

「咲夜っ! 先に行って乗客の安全確保しとけっ!!」

「え〜、めんどくさい〜」

「イイから言う通りにしやがれっ!!」

 肩を無理矢理掴んで引き留めて言ってやったのだが、意見の食い違いではなかったモノの、そんな事を言う暇があったら全員を倒す、と言うのが彼女の意見なのだ。そうする間に何人犠牲になるかも分からない、と言う事まで頭が回らないのは彼女なりに自分の身を守るので精一杯と言う事。

 彼女が行ったのを確認してから、下へと舞い戻る為に連結部分に音もなく飛び降り、一瞬だけ周りの状況を把握する。それだけで十分だったのは、前からの血の匂いが消えたから。要するに、言い換えれば今向かって見ている後方車両から死体が転がっていると言う事だ。

「鼻につくな。やになるぜ」

 最も、自分の勘を信用すると、と言う言葉が前に着くのだが、朝起きた時の勘はまだ働いている様子で、危険と告げているのは後方車両のみ。

 これ以上犠牲者を増やさない為には、自分もその死体の仲間入りしない事が第一である。

「っと・・・」

 そして死屍累々としているだろう、惨劇の場へのドアをゆっくりと開けて行ったのだが、血の匂いに対して見えるのは何の変わりもない通路。

「部屋の中だけ屍、か?」

 にしては、ドアの下から血一滴流れ出てないのは妙としか言いようが無い。

 変な所に来てしまった、と、漏らしてから気配断ちをして、前へと進んで行く。

 その内に聞こえてきたのは鍔迫り合いの音と、言い争いの声。

 他に動く者の気配は無かったが、それでも周りに注意を払いながらその現場へと急ぐ。

 が、意思とは無関係に身体が止まり、その場に立ちつくしてしまう。

「・・・・?」

 次いで自分にも分かる感覚で、これ以上進むのは危険だと告げているのだが、何が危険だかが分からない。

 視界を即座に移り変わらせて周りの様子を見るも、罠を仕掛けた様な兆候は一切無い。

 かと言って誰かが潜んでいる訳でもない様だが、この、寒空がそこにだけある様な感覚は逆に気配を絶てるモノに取って致命的。

『・・・疲れるから嫌なんだがね。』

 片目を瞑り、意識を集中させ、次の瞬間彼がやって退けたのは彼だけが使える特殊な技能。

 気配を断つ、と言う行為は文字通り、気配を感じさせなくするモノであり、それを見抜くには、それ以上に気配を絶てるモノにしか分からないと言う事実がある。どれだけ上手く気配を絶てたとしても、それは周りと同化している訳ではなく、空気の流れもそこだけ変化してしまうのは必至。

 だから、彼はその応用で裏ハンターと呼ばれる暗殺士の技術を会得してしまった。

 それは故意ではなく、事故だったろう。そもそも、そんなバケモノじみた事が自分に出来るとは思わなかったのだ。

 誰も想像し得なかった技ではないにしろ、暗殺士の中で自分と同じ技を使える人間、魔族、様々な民、そのどれもを取っても居ないらしい。

 気配「だけ」を動かす等、玄人相手にしか使えぬのもその理由。

 此方の気配が元のように動き出したと同時に攻め来たのだろう。まさか姿その物を壁と同化させているとは思わなかったが、東方の暗殺士は個性的な技を使う輩が多く、壁と自分の身体を幻で分からなくする事くらいならば二流でも使えるらしい。

 魔導力に長けたその分、他の技術が劣ると言うのも変な常識だったが。

「悪いな」

「!?」

 相手方にして見れば先ほどまで感じていた気配が確かにドアを開け、此方に来たかと思えば、そこに誰も居なかったのだ。

 間抜け面を晒す羽目になったその人物には悪いが、両腕を後ろへ即座に回させてからみぞおちに一発、拳を叩き込んで気絶させる。

 後はぐるぐる巻きにでもして煮るなり焼くなり窓の外へ捨てるなり好きにすれば良いのだが、それは自分の仕事ではない。

 未だに続いている鍔迫り合いの音を思えば、そちらに急いだ方が得策なのだ。自分たち側と断定して良いかどうかは分からないが、この列車を吹っ飛ばそうと思った輩でないなら誰でも良いと言う気分である。

「また寝覚めが悪いのは勘弁しろよ〜」

 呟きながら通路を疾走し、漸く目的の車両に辿り着く。

 だが、そこに居たのは一方が黒ずくめの列車強盗だとしても、もう片方は少々面食らうに十分な人物だった。

 知り合い、と言う訳ではなく、顔見知りでもすれ違った事も無い。

 だがその尖った耳と浅黒い肌、金持ち連中が好んで買いそうな絵画から飛び出した様な容姿は間違いなく古代種(ダークエルフ)の末裔の証。それも男ではなく女。

 ただ変わっていると思うのは、細身の剣を得意とすると、物語の中だけであったモノの、そう言った先入観があり、身長よりも僅かに短いだけの大剣を振り回しているとは思わなかった。何より、それを自由自在に、通路と言う巨剣には不利な状況下にあっても互角の戦いを見せているのだ。言い伝えられている様な性格云々、と言う事を考えれば納得できる様なモノだが、体系と言うのはそう言う問題ではない。

『どうかしてんぜあのねーちゃん・・・』

 胸中で浮かんだ言葉も賞賛としてのモノであり、侮蔑などは一切無い。

 そして此方に気付いたのだろう。味方か、それとも敵かと判断しかねている様子だったが、銃を構え叫ぶ様に言い放つ。

「伏せろっ!!」

 言った瞬間、まるで申し合わせた様に銃口の先にあったのは相手の頭のみ。

 しゃがむどころの変えようではなく、異常な迄の姿勢の低さは身体のバネを極限までに扱わなければならない芸当その物。頭の中で、まるで技闘士(バトラー)の様な動きだと思った時には既に、銃弾が相手の頭を吹っ飛ばしていた。

 だが、振りかぶった様な動きで最後の一撃だけは食らわせようとする執念が黒ずくめの男を動かし、それが古代種の女に凶刃を向けているのが嫌と言う程分かる。

 が、女の行動の真意が漸く分かった。ダークエルフは自分の声に反応した訳ではなく、この機会を待っていたのだと。

 姿勢を低くしたのは自分の銃弾を避ける為ではなく、力を一気に解放する為に行う予備動作。

 振り下ろされる剣よりも早く、そして全く同じ軌道を真下から真上へと切り上げた大剣は黒ずくめの身体を文字通り真っ二つにする。

 そして本来ならば血飛沫があがるのだろうが、その剣撃、いや、一閃、と言うべきだろう。あまりにも大剣の動作が速く、切れ味も抜群に違いない。どさりと言う音と共に彼女の足下へと血溜まりが広がり、肉体が斬られた瞬時に何が起こったか認識出来なかったと見える。

「あんた凄いな」

 感嘆を漏らし、銃を仕舞う。後の死体処理は別の奴にでも任せれば良いだろう。

 そんな事を考えながら、相手の顔をじろじろといつの間にか見ていたのかもしれない。

 理由は、無論自分が男であり、相手が女性で、強いともなれば興味も湧くと言うモノ。その上、滅多にお目にかかれない古代種なのだ。じろじろ見るなと言われても仕方のない事なのだが、それでも視線がそちらに動いてしまう事はこれも、致し方のない事。

 だから、分かっていた事なのだが、不機嫌にさせてしまった。

「そんなに珍しいか」

 ギロリと、まさに殺気さえ籠もったような視線を睨め付けられ、明らかに反感を買ったのだと分かり素直に頭を下げはしたのだが、その途端、失笑される理由が分からず眉間に皺が寄ってしまい、当然、文句も口から出てきてしまうのだが、

「謝ったじゃねぇかよ。何がおかしい」

「いや、素直に謝る様な顔に見えなかったからな」

 そして笑みを噛み殺す様にしている女性は、本心で余程可笑しいと思ったのだろう。だがそれでも、本人を目の前に馬鹿笑いするほどの間抜けさは無く、ちゃんとした礼節は持ち合わせているらしい。

 が、話しで聞く様な古代種とはやはり何処か違う様な気がしてならないのはもはや言うまでもない事。

 線が細く、美形で、人間種と違うのは耳が尖った、と言う特徴は合っている。どうひいき目に見ても、彼女は美人である事にも違いはないが、性格は極めて温厚で争い事を好まない、と、言う事に関してだけは違っていると言っても良いのかもしれない。別に暗闇の種族と言われるダークエルフとは言え、性格が破天荒だと言う言い伝えはでたらめだらけなのだ。それこそ、こすっからい性格をしている普通のエルフよりも、ざっくばらんに話せる性格と言うのが彼女達の特徴。

 後は、あくまで武士個人の意見なのだが、閉鎖的な村や集落で暮らしている限り、曖昧に表現すれば心の許容量が狭い、と言う想いもあり、睨まれた後は不機嫌になったままだとも思っていたのだが、その辺りも違っていたらしい。

「まぁ、此方も笑って悪かった。助けて貰った恩人にする態度ではなかったな」

 どちらかと言えば、南方気質とでも表するのだろうか。いや、経験上、似た性格を上げるとすれば、五行の民と呼ばれる魔族と人族の間に位置する様な種族の、炎の民と呼ばれる奴等に似ていると言えば似ているだろう。

 自分の言いたい事をハッキリと言う分、自分が間違っていると分かれば直ぐに治す。ある種、直ぐに意見を変える部分があまり周りに認められなかった様子だが、間違いをそのまま突き通す様なバカよりはよっぽどマシだと思っている。エルフ種全てに置いて、そう言う部分は無いモノだと思っていたのだ。

 よく言えば誇り高く、悪く言えば地位に固執するのだから。

 しかし、総称で受けた印象と一部分だけ違う事を、彼女の持っていた大剣に視線を落とした所で気付く。

「あんた、ダークエルフじゃなかったのか?」

「ん?」

「そのグレードソードの刀身に彫ってある紋章って、確か炎の民のモノだよな」

「ほう、貴様そんなことまで分かるのか」

 笑みが挑戦的な視線に変わり、嘲笑と何処か期待した様な眼差しを女はしていた。

 だが、笑われているよりかは幾分かマシであり、同時に慣れた視線であれば問題ではなく、疑問の方が先行して答えを聞きたいと言う想いが表情に出ていたらしい。

「挑発にも乗らんか。そう言う所は面白くはないな」

「んなもんで人を計るな・・・で、どうなんだ?」

「確かに言われる通り、これは炎の民のモノ。付け加えるなら、養父の遺品と言う事になるか」

「ふーん」

 古代種の集落がこの大陸にあると言う話は聞いた事もなく、人間に育てられたと言うよりは信憑性がある話しだ。

 やたらとお節介を欠けたがる炎の民の気質を考えれば当たり前の事だろう。だが、わざわざ「遺品」と言う辺りに、色々な事情があるのかもしれない。

「とにかく、俺も一応助かった。大人数相手にするのは骨だかんな」

 最も、そんな込み入った所まで関与する気もなく、何処か聞いて欲しそうな顔の彼女の期待に応えてやるまでの義理は無い。

 それを現す様に溜息をわざとらしく吐いて話を切り上げ前方車両へと移ろうとしたのだが、まだ話はあったらしい。

「貴殿は、噂と少し違うな」

「うわさぁ?」

「ああ。技銃師でそんな目立つ赤いコートを着た人物と言えば、貴様しか居らんだろう? ホムラタケシ」

「恐れ多くもダークエルフサマに名前を知って貰えて居たとは光栄だ。どうせなら貴殿の名前もお教え頂けるかな?」

「カリッサ・タングラムだ。覚えて置いて損は無いぞ」

 その途端、構えられる人間がどれだけ居るのだろうか。

 瞬時に身体が反応し、銃を構えた先にカリッサ・タングラムの姿は確かにある。

 だが、何の対応も返さぬ訳ではなく、やがてその姿は

「消えただと!?」

 霞の如く歪み、そして四散する。

 何処に行ったか等、自問自答するだけムダと言うモノ。

 何せ既に自分の首に、ダークエルフの持っていた炎の民の大剣が添えられていたのだから。

「もうちと面白いセリフでも吐いてみせい。つまらぬわ」

「極悪人に言われたかないね」

「旅は道ずれ世は情けとも言うぞ?」

「誰と何処に道連れにされるか分かったもんじゃねぇな」

「酷い云われようだな。お互い助け合った仲じゃないか」

「この状況でそれを言うかそれを」

 相手が自分の事を知っている様に、自分もこのダークエルフの事を知らない訳ではなかった。

 その手に持ち、自分の首を切り落とそうと待ちかまえている大剣を見た時から気になっては居たのだ。ただ、確信と、その名前が思い出せず、調子を合わせていただけだったが、思い出すのが遅かったらしい。

 カリッサと言う名前は、西方ならば珍しい、と言う程のモノではないのだが「タングラム」と言う性は一種類の、それこそ大悪党というレッテルが貼られた一族なのだ。

 その中でも有名なのは、グレース・タングラムと言う、異種族混合盗賊団「竜の爪」に所属している氷女だろう。極悪非道は元より、冷血、冷酷、冷酷の三拍子を揃えた様な女らしく、盗賊団の中でも最も大きいとされる「竜の爪」の中でかなり上に位置していると言うのも聞いた事がある。

 そして計五人居るタングラムの名を持つ彼女らは「氷の魔女(アイス・ウィッチ)」と呼ばれるギルド賞金五位の女達。

 洒落にならない相手と関わってしまったと言う想いと同時に、ルシエドと、二対の形無しと言う剣闘師と関わってからろくな事が起こらない気がして、気分が沈むのが分かった。

「一応、素性がばれたら殺す事には決めているのだが、どうして欲しい?」

「・・・・なんとでも、と言いたい所だがまだ死にたくないから断る」

 これ以上なく楽しげに話しているダークエルフに対しては、そんな意見しか返す事が出来ない自分が恨めしい。

「腹を括っておるのか、諦め切れていないのかハッキリせん奴だな」

「あんたならこういう状況でその区別が弁えられるって言うのかい?」

「あはははは、言うのう」

 その上、本来タングラム性のヒミツなど、知らない者の方が圧倒的に多いのだ。自分が知っている理由も、ハンターギルドに属しているからではなく、興味本位で緊急時の金策に、つまりは生活苦から来る暇つぶしとも言うが。賞金首の名前と二つ名、分かっているだけの素性を覚えてしまったのが災いなのだろう。それこそ、一位の死神のジェイルから三十位くらいまでの賞金首の名前なら呪文のように口にする事が出来る。

「しかしどうせなら、悪あがきくらいして欲しいもんだ。貴様もハンターの端くれなら、な」

 言いたい事を言ってくれると、頭の中で呟きながらこの状況を抜け出す策を巡らせる。

 ムダなどと言う言葉はあえて思い浮かべないのは、相手の思惑に乗る様で癪だがこんな所で死ぬのも馬鹿馬鹿しい。

 何より、自分の失策で死ぬのは、いや、あえてハッキリ言おう。

 茶番のようなこの状況で死ぬのがどうしても嫌なのだ。

 何が悲しくて、一時的に助け合った仲で、死ぬ間際までこんな漫才みたいな会話を続けている相手に殺されなければならないのか。

 理由は相手の素性を感づき、顔に表れてしまったからだろうが、何を言われようと納得出来ないモノは納得出来ない。

 理不尽と言われようが、無茶苦茶と罵られようが、そう言うモノである。

 だから最後の賭けに出るために考えを纏め上げ、結論付けた所で腹を括る。

「なら、勝負しようじゃねぇかよ」

「この私がわざわざこの状況からお前を逃がすと思うか?」

「嫌なら良いぜ。アンタもそんなどでかい剣を振り回してんだ。速さに自信があるとは思って居たが、自信が無いんなら仕方ないわな」

「・・・・・」

 伸るか反るかは、まさに大博打だろう。こういう相手に対してのプライドの傷つけ方も良く知っているのは場慣れしているから。

 銃を抜き放つのと、剣で迫って斬り込むにはあまりにもスピードのハンデが違いすぎるのは当たり前であろうが、それを分かっているからこそ強く、そして大仰の武器を扱う事に誇りを持っているのだ。

 どうしようかと思案している様子が手に取る様に分かる、とは言い難いが、少なくとも迷っている事は確か。

 後一押しの一言を告げ

「のろまじゃしゃーないわ・・・・な!?」

 途端、突き飛ばされるのが分かり、早々に体制を立て直し距離を取った所で対峙する。

 そして見えたのは

「良くもまぁその減らず口で言えたもんだなガキが。いいぜ、きっちりその首飛ばしてやる」

 表情は、冷静に見える。

 穏やかな位、と言う訳ではなく、無表情、と言う意味でだ。

 ただ、目の色を変えて、と言う表現がこうも分かり易く使える相手もそうそう居ないだろうと言える程、彼女の目は血走っているのが分かった。

『地雷踏んだのか俺・・・』

 軽く挑発して、この場さえ切り抜ければ後はどうとでもなる。咲夜は一人で居ても、周りを抱き込むなりなんなりして切り抜けるだろうし得策だと思ったのだが、またやってしまったと言わざるを得ない。

 東方の表現で、鬼の形相と言う奴があるが、まさにそれだろうと、頭の中で考えては、なるべく無駄な事を目の前の相手の剣の動きに集中し塗りつぶす。

「こういう時は、言い出した奴が合図を考えるもんだぜ」

 すっかり口調を変え、殺気立った目で早くしろと物語り、苛立っているのだろう。想像以上の速さで此方まで斬り込んで来かねない気迫すら感じていた。

 ポケットの中を探り、即座に取りだした時しまったとも思うが、多分、俺のやり口その物を前もって分かっていたのだろう。攻め来るではなく、早く合図をしろと目だけが言っている。

「じゃ、このコインが落ちたら」

「見れば分かる。さっさとしやがれ」

 そしてとうとう、声がドスの効いたモノになり、仕方なしにコインを指で弾いた。

 その時考えていた事は、まともにやり合おう等と言う事ではなく、落ちた瞬間、後ろへと飛ぶ事だけ。

 後は何処かの部屋に入って、窓を破って、また上に登って逃げるだけだ。

 その後の事は飛び降りる振りでもして、列車から彼女を降ろさせて、手でも振れば良い。

 後は腹でも抱えて無理矢理笑ってやる、と、そこまで考えた時、コインが落ちた音同時に場が動き、唐突に頭に浮かんだのはそろそろ腹が減ったと言う、何故か馬鹿げたモノだった。

[NEXT] [ACT SELECTION] [BACK]