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『ごんぎつね』教材研究

【教材分析】(と言いながら自分なりの解釈も入っているが・・・)
浜上薫氏が提案する「10のものさし」を使って教材分析を行う。(「分析批評」の授業づくり1 理論編 明治図書)

1.題
物語の題にはおよそ次の3種類がある。

^その作品の登場人物の名前がそのまま題となっているもの
_その作品のクライマックスに関連したことが題となっているもの
`何かを象徴していたり、比喩していたりするもの

『ごんぎつね』は明らかに^である。子供たちの学習は、登場人物である「ごん」の心情変化を読み取ることが中心となる。
しかし、この物語に描写されているごんの心情の多くは、対役である「兵十」へのそれである。したがって、兵十の心情との関わりを無視して読み取るわけにはいかない。また、後にも述べるが、私はこの物語は「ごんと兵十の心情のすれちがい」が大きなテーマとなっていると考えている。

2.作者
新美南吉 1913年、愛知県知多郡半田町生まれ。
『ごんぎつね』は南吉の郷土である半田町(現、半田市)周辺の自然、歴史、文化、伝承を素材としている。「中山様というおとの様」は中山勝時がモデルであり、その居城が半田町付近にあったと推定されている。また、実際に大正時代頃まで中山の近くの権現山に狐が住んでいて、人はこれを六蔵狐と呼んでいたという。さらに当時、江端兵重という「はりきり網」の名人がいたとも伝えられている。
(「ごんぎつね」の<解釈>と<分析> 明治図書 鶴田清司著)
『ごんぎつね』が小学校の教科書教材に採用されてから、かなりの年月が経っているが、その表現はかなり、変更されてきている。昭和三十年代〜四十年代にかけての教科書では原典無視の改ざんが横行していたということである。(前掲書による)
ここでは詳しく触れないが、平成3年度版の教科書と4年度版の教科書においてもその表現には若干の相違がある。
現行教科書は『校定新美南吉全集』(大日本図書)の本文とほぼ同じものになっている。(ただし、読点の位置、漢字、仮名遣い、送り仮名などを除く)
与田準一氏は「南吉の童話作家としての発想出立が生きるものおがたいの、しかしその生存所属を異にするもの同士の、流通共鳴を主題とした」と述べているが、『ごんぎつね』もこれに当てはまると言えよう。同じような主題で書かれた作品に「正坊とクロ」「巨男の話」「のら犬」「花のき村と盗人たち」などがある。学習後、参考作品として、子供たちに紹介してみたい。

3.視座・視点
視点には次の4種類がある。
^一人称視点
_三人称限定視点(限定された登場人物の心情のみ描写)
`三人称全知視点(すべての登場人物の心情を描写)
a三人称客観視点(どの登場人物の心情も描写していない)

教材文がどのような視点で書かれているのかを教師が把握することは重要である。心情描写がされていない登場人物の心情を検討させることはできないからである。(行動や場面の様子から想像させることはできるが・・・)
『ごんぎつね』は基本的には三人称限定視点で書かれている。主に描写されているのは「ごん」の心情である。1場面から5場面まではすべてごんの視点で書かれている。しかし、6場面の「そのとき兵十は、ふと顔を上げました。」という一文からは兵十の視点で書かれており、視点の転換が行われている。
「ごんの一方的な兵十への思い」、そして「ごんの死によって初めて変化する兵十の思い」がこの視点の転換によって描写されている。
ところがその中で一文だけ『ごんの視点』で書かれている文がある。「兵十はかけよってきました。」という一文である。この一文を巡る解釈には様々なものがあるが、ここでは詳しく触れない。
授業では1場面から5場面の「ごんの兵十への一方的な思い」を読み取った上で、6場面の兵十の心情変化を読み取らせたいと考えている。

4.設定(略)

5.アイロニー
○本当には根から悪いきつねではないのに、いたずらばかりした。
○村人の名前(例えば兵十)を知っているほど村人に興味があるのに、嫌われるようなことばかりをした。
○いたずらをして、兵十に見つかるとまずいはずなのに、兵十に近寄っていった。
○兵十に自分の存在を知ってほしいのに、知られるわけにはいかない。
○「つまらない」「引き合わない」と思っていながら、その明くる日も、くりを持って兵十の家に行っている。
○見つかったら殺されるかもしれないことを知っていながら、兵十の家へ行っている。

これらのアイロニー(行動の矛盾)はごんの兵十に対する心情変化を読み取らせる上でポイントとなる叙述である。

6.イメジャリー
7.色
「赤いひがん花」「青いけむり」など、意味のありそうな多義イメージ語や色は出てくるが、ここでは深く分析しない。

8.(伏線)・クライマックス
国語教育におけるクライマックスの定義には様々なものがあるが、ここでは次の定義で考えることとする。
中心人物の考えがガラッと変わるところがクライマックスである。

一般的にはクライマックスとはその物語の最高潮の部分であるが、どこが最高潮だと考えるかは人によってばらつきが生じ、主観的にならざるを得ない。上の定義で考えれば、ある程度客観的な読みが保障される。
しかし、上の定義で考えても『ごんぎつね』のクライマックスを一つに絞ることができない。先行実践をみてもそれはばらばらである。
まず、中心人物が「ごん」だと考えた場合。「ごん」の大きな心情転換点は3つある。
^兵十の母の死を知り、いたずらを後悔したところ。
_「おれと同じ、ひとりぼっちの兵十か。」という思いから、償いとしていわしを兵十の家に投げこんだところ。
`「こいつはつまらないな。」「おれは引き合わないな。」と思ったところ。
中心人物が「兵十」だと考えた場合は、次の箇所に限定される。
・兵十は、火縄銃をバタリと取り落としました。
ただ、中心人物を「ごん」だと考えても、「この兵十の姿を見てごんの心情は変化した」と解釈すれば、ここがクライマックスだとも言える。

ほとんどの先行実践は6場面をクライマックスだとしている。(ただし、その根拠は明言されてなく、主観的なものが多い。)
浜上薫氏は上の_、つまりごんがいわしを投げこんだ場面をクライマックスだとしている。(「分析批評」の授業づくり4 4年の実践 明治図書)
市毛勝男氏は、`をクライマックスだとし、その模擬授業の中で次のように明言している。
「これが物語の最高潮ですね。一番いいところです。これが(ごんの兵十に対する気持ちが)最後まで結局わからないですね。これは破局です。第六場面は、クライマックスじゃあないんですね。第五場面は、心理的クライマックス、第六場面は、破局なんですね。後は一気呵成に「死」まで突入するんです。」(「国語科授業の常識を疑う」 岡本明人編 明治図書)
これらの実践記録を読むと迷ってしまうが、私はどこがクライマックスであるのかを子供たちに決めさせる必要はないと考えている。要は「ごんや兵十の心情の転換点をポイントに二人の心情を読み取れればよい」と判断する。「ごんと兵十の心情のすれちがい」を読み取るにためにはそれで十分であると考えるのだ。

9.あいまいさ
○「小ぎつね」と表記されているが、これは「子供のきつね」なのか「小さい大人のきつね」なのか。(両方の解釈があるようである。以前の教科書には「子ぎつね」と表記されていた。)私は「ある程度年齢のいった小さなきつねである」と考えている。ちなみに『手ぶくろを買いに』に登場する子供のきつねは「子ぎつね」と表記されている。
○兵十のとっていた魚やうなぎは、本当にごんの考えるように「母のため」のものだったのか。
○兵十のごんへの憎しみはいったいどの程度のものだったのか。
○ごんの思いは兵十へ通じたのか。
○兵十の思いはごんへ通じたのか。

これらは非常に曖昧である。子供も迷うところであろう。しかし、これらは決め手のないものであるので、学習場面ではそれぞれの解釈に任せることにする。

10.主題
物語の中では擬人化されて書かれているが、兵十にとってみればごんはあくまでもただの動物である。それ以上のものではない。別の世界に生きる生き物である。
一方、ごんは何とかして村人たちとの接点を持ちたいと考えている(これは主観であるが)。兵十に近寄り、自分の思いをわかってほしいと願っている。
しかし、そんなごんを兵十は殺した。ごんの行動を知り、ごんへの心情が変化したのはごんを撃ってしまったあとである。
上のことから、この物語の主題は『ごんの心と兵十の心の悲劇的なすれちがい』であると考える。