●第10時(評論文を書く)

これまで学習してきたことをもとに、『やまなし』に出てくる言葉の象徴性と題『やまなし』について自分の考えをまとめなさい。

私の指示によって子供たちは原稿用紙に向かい始めました。鉛筆が走る音とノートや教科書をめくる音だけが聞こえてきます。これだけ真剣に原稿用紙に向かう子供たちを初めて見ました。
子供たちの書いた枚数は平均して4枚ほどでしょうか。授業中、発言できなかった子供もしっかりと自分の考えをまとめています。
宮沢賢治の作品『やまなし』に対する子供たちの全力の解釈です。

A男
言葉の象徴性について検討する。
『クラムボン』は何を象徴しているのか。
ぼくは、宮沢賢治さんの妹のトシを象徴していると考える。
『やまなし』の中でクラムボンは、
笑った→死んだ(殺された)→笑った
と変化している。クラムボンを宮沢賢治さんの妹のトシに置き換えると、『心象スケッチ・春と修羅』の『永訣の朝』のトシの動きと見事重なる。〈クラムボン=宮沢賢治の妹のトシ〉と考えるのが一番妥当なようだ。
『魚』は何を象徴しているのか。
ぼくは宮沢賢治さんの妹のトシの病気を象徴していると考える。
なぜなら、誰かが言ったように魚が頭の上を通ってからクラムボンが死んだ(殺された)という話をかにの子供らがしたからだ。
『かわせみ』は何を象徴しているのか。
ぼくは死神を象徴していると考える。
なぜなら、かわせみが魚を殺した。つまり死神が病気の宮沢賢治さんの妹のトシの命を奪っていったとぼくは考えるからだ。
『クラムボン』・『魚』・『かわせみ』の三つは宮沢賢治さんの妹の死を表しているとぼくは考える。
『イサド』は何を象徴しているのか。
ぼくは兜率の天を象徴していると考える。なぜなら、かにの子供らが行きたいところ→楽しいところ→天国というふうになるとぼくは考える。つまり、妹に行ってほしかったところを宮沢賢治さんは《やまなし》に登場させたのだとぼくは考える。
〈イサド=兜率の天〉だとぼくは考える。
『やまなし』は何を象徴しているのか。
ぼくは、また新しく生き返ることだと考える。
なぜなら、やまなしの実からまたやまなしの木ができる。
そして『春と修羅』で宮沢賢治さんは〈また人に生まれてくるときはこんなに自分のことばかりで苦しまないように生まれてきます〉と妹が言ったのを聞いている。
つまり、『やまなし』はまた妹が人に生まれてくる(かもしれない)ということを象徴しているのではないかと考える。
なぜ、この物語は『やまなし』という題なのか。ぼくは次のように考える。
さっき書いたように、『やまなし』は妹がまた人として生き返るかもしれないということを象徴している。だから、妹にまた人として生き返ってほしいという願いが込められているのではないかとぼくは考える。

B男
言葉の象徴性について検討する。
まず『クラムボン』は何を象徴しているのか。
ぼくは妹のトシを象徴していると考える。これから理由を二つ言う。
理由1
P4〜P5では、クラムボンは笑っている。そして、『永訣の朝』の中でも妹のトシは宮沢賢治をはげまそうとしている。トシは兄をいつもよりいっそう明るくするために笑っていた。P5では『なぜクラムボンは笑ったの』『知らない』という文がある。これは宮沢賢治自身の心の中で、なぜ妹は笑っているのかということなのではないだろうか。
理由2
P6では『クラムボンは死んだよ。』とか『クラムボンは殺されたよ』という文がある。これと妹トシの死は関係があると考え、表にまとめてみた。

クラムボン笑い トシ笑い
クラムボン死 トシ死
魚に殺された 病気に殺された

この表からいくと魚にも関係がある。
『魚』は何を象徴しているのか。
ぼくは魚は賢治自身だと考える。なぜならP8〜P9に『お魚はなぜああ行ったり来たりするの』と書いてあるし、P8には『取ってるんだよ』と書いてあるからだ。『永訣の朝』に妹のトシが『あめゆじゆとてちてけんじや』と言っている。この言葉を聞いて宮沢賢治は外に出て一つの椀に雪を入れ何度も行き来しているから魚は賢治自身だと考える。

次に五月でも重要な『かわせみ』は何を象徴しているのかを考える。
『かわせみ』は病気を象徴しているのではないだろうか。これから理由を言う。
かわせみは川の生き物にとってこわい生物だ。なぜなら魚を食べたのはかわせみだ。そしてかにの子供たちも恐れている。ということは、かわせみの象徴していることは人間にも害を与えるようなことではないだろうか。となると、妹のトシを苦しめた病気なのではないだろうか。

次に十二月。『イサド』は何を象徴しているのか。というのは置いておいて、『やまなし』は何を象徴しているのか。
ぼくは、やまなしというのは『永訣の朝』で妹のトシが何度も口にした『あめゆじゆとてちてけんじや』だと考える。
なぜなら、『永訣の朝』で一番妹が言いたかった言葉は『あめゆじゆとてちてけんじや』だ。『やまなし』で一番重要な言葉はやまなしだ。だとすると、『あめゆじゆとてちてけんじや』とやまなしはイコールで結ばれるのではないだろうか。
『永訣の朝』の最後に『どうかこれが兜率の天の食に変つて』という文がある。『あめゆじゆとてちてけんじや』はこの『兜率の天の食』のことではないだろうか。
すると『イサド』とは何を象徴しているのかも読めてくる。
『やまなし』が『兜率の天の食』だとしたら、『イサド』は『兜率の天』なのではないだろうか。
かにの子供らにとってはイサドはとてもいいところに見える。そして妹のトシも死んだら天国へ行くことを望んでいると考える。だから『イサド』は『兜率の天』とする。

最後になぜ作者は『やまなし』という題をつけたのか。
作者は妹の死で一番印象に残っていることは『あめゆじゆとてちてけんじや』だと考える。妹のトシは何度もこの言葉を口ずさんでいる。だから、作者にも一番印象に残っているのではないかと考える。そして『あめゆじゆとてちてけんじや』とイコールで結ばれている『やまなし』を題にしたと考える。

C子
言葉の象徴性について検討する。
『クラムボン』は何を象徴しているのか。
私は作者の妹を象徴していると考える。
なぜなら、最初の場面は(P7L2まで)妹が死んだときの様子だと考えたからだ。「クラムボンは笑ったよ。」や「死んだよ。」を妹と考えて当てはめてみるとピッタリ合うのだ。このことから妹を象徴していると考える。
『魚』は何を象徴しているのか。
私は賢治の妹の象徴だと考える。
理由は三つある。
一つ目は、かわせみに食べられてしまうからだ。これは、かわせみを病気として、病気にのまれてしまう妹のことだと考えたのだ。
二つ目は、「魚は行ったり来たりする」からだ。魚が行ったり来たりするように、妹も生と死の間で行ったり来たりしたはずだ。
三つ目は「おれたちにはかまわない」からだ。かわせみが、かにたちをおそわなかったように、病気も賢治や二人のお母さんなどはおそわなかった。
この三つから妹を象徴していると考える。

『かわせみ』は何を象徴しているのか。
私は病気を象徴していると考える。
理由は『魚』の時と全く一緒だ。

『かばの花』は何を象徴しているのか。
私は『死』を象徴していると考える。
理由は二つある。
一つ目は「魚はこわい所へ行った。」の後に、かばの花が流れてきたことだ。「こわい所」はかわせみの口の中、つまり食べられたということだから、当然死んでしまう。そこにかばの花が流れてくる。死の知らせを表すために出てくると考えるのが一番自然ではないだろうか。
二つ目は流れてきた後に、かにが「こわいよ。」と言ったことだ。おとうさんがきれいだと言っているのに、子供のかにはこわいと言っている。子供のかにも死の知らせだと考えたのではないだろうか。
この二つから、死を象徴していると考える。

『イサド』は何を象徴しているのか。
私は天国(賢治は仏教に入っていたから天上の方がいいのかもしれない)を象徴していると考える。
なぜなら『イサド』は死んだ妹が行ったところだと考えるからだ。詩『白い鳥』の中の妹は、鳥になって人間より上の『天上』にいるはずだ。だから、かに達が行きたがっているイサドは天上のことだと考える。
最後に題『やまなし』について検討する。
『やまなし』は何を象徴しているのか。
私は妹、または妹の教えて残してくれたものを象徴していると考える。
理由は二つある。
一つ目は、やまなしは死んでしまったことだ。熟したやまなしは木から落ちてしまった。私はこのときやまなしは死んでしまったのだと考えた。「死んだ」ということが共通している。
二つ目は、やまなしがいいにおいをさせてお酒になることだ。死んでしまったのに役立っているのだ。同じように妹も死んでしまったけれど、何かを教えてくれたり、残してくれたりしたと考えたのだ。その何かはなんだかわからないけれど、きっと何かあるはずだ。そのことを伝えたかったのではないかと考える。
この二つのことから、妹が教えて残してくれたものの象徴だと考える。

なぜ、この物語は『やまなし』という題なのか。
私はやまなしが妹の教えてくれたことだと考えた。このことが一番この話で言いたかったのだと考える。
もし、同じ象徴のクラムボンや魚が題だったとしたら、訴える、伝えるものがない。ただ妹が死んでしまった。それだけでも話は作れるかもしれない。けれど、それを通りこした『教えてくれたこと』がある『やまなし』の方が数段、題にふさわしいはずだ。
私はきちんと訴える伝えることがある『やまなし』だから、題になったのだと考える。きっとこの話で一番作者宮沢賢治が言いたかったのは、妹の教えてくれたことだ。

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