NO.60[2001/9/9]

算数夏季セミナー(その2)

・基礎・基本は「育成」するものではない。「身につけさせ」「習得させ」「徹底する」ものである。
・1時間に1問しか扱わない授業は基礎・基本を育成する授業の提案にはならない。

これが私の問題提起であった。
一つ目は、言葉の定義の問題である。定義の問題であるから、議論することは不毛である。どう定義しようと、各論者の考え方次第だからである。
しかし、その定義が授業の事実として現れてくるところに問題があるのだ。この研究会では、基礎・基本を次の三つとしてとらえていた。

「知識・技能」「思考力」「表現力」

それはいい。「思考力」「表現力」はこれからの時代を生きていく子供たちにとって、大切な力だ。当然のことだ。ただ、「知識・技能」はどうなるのだというところに私の批判はある。「知識・技能」のない「思考力」や「表現力」は考えられないからである。知識がなければ考えようにも考えられない。「思考」とは頭の内部に蓄積された「知識」を操作する行為に他ならないからだ。「知識」がなければ「表現」することなど不可能だからだ。
二つの授業(特に実践A)は「思考力」「表現力」に偏重し、「知識・技能」を軽視しているように私には思えたのだ。1時間に1問しか扱わない授業が「知識・技能」を重視しているとは思えない。
このような考えに対し、パネルディスカッションでは次のような反批判もあった。

1時間に1問の授業もあってよい

それはそうだろう。私だってそう思う。私が批判しているのは、次のような事態に対してである。

・問題解決という名のもとに、1時間に1問しか扱わない授業が日常的に行われており、技能を育てる練習問題やドリルは家庭学習に委ねられている。
・そのような1時間に1問しか扱わない授業を基礎・基本を「育成」する授業として提案している。

パネルディスカッションの後、愛知教育大学教授、志水廣氏の講演があった。ご自分の授業ビデオを解説しながらの講演であった。講演を始めるに当たって氏は言った。

1時間1問の授業を見せます。

講演が終わった。私の感想はどうだったか。

プロの授業である

これである。志水廣氏の授業は鍛えぬかれた腕をもったプロの授業であった。脱帽である。私ごときの力量ではとても真似することのできない授業であった。
しかしである。私の批判は生きている。再度書く。私の批判は次である。

・問題解決という名のもとに、1時間に1問しか扱わない授業が日常的に行われており、技能を育てる練習問題やドリルは家庭学習に委ねられている。
・そのような1時間に1問しか扱わない授業を基礎・基本を「育成」する授業として提案している。

ところで、講演を行った志水廣氏は、『心を育てる学級経営(明治図書)』9月号で、次のように述べている。

しかし、「わかる」と「できる」はなかなか同時達成できない。
つまり、「わかって」いても「できる」とは限らないのである。反復練習が必要なのである。学習指導要領が主張する「繰り返し学習」はいいことである。
(中略 渋谷)
算数の教科書のカリキュラムは、内容の理解のために十分に練られた教材である。だから、まずは、教科書通りの授業をすることをお勧めする。教科書の真意をくみ取った授業で子どもは問いを発生し、苦労して内容の意味理解に迫ることができる。普段着の授業は教科書通りでよい。
しかし、教科書通りでは「できる」ことの定着は難しい。それが証拠に現場では、計算ドリルや算数ドリルを必ず持たせているではないか。
「考える」ことの大切さばかり言って、技能が身につくことに関して甘くなってきたのではないかと思う。

志水廣氏のこの主張に全面的に賛成である。先の私の批判は、この点にあるのだ。