NO.63 [2001/12/2]

絵画コンクール審査評」が分からない

毎年、多くの学校が各種絵画コンクールに出品する。私の勤務校も例年通り出品した。出品作品のほとんどが10月に行われた「展覧会」のために描いたものである。おそらく多くの学校がそうであろう。
毎年、私は次で悩む。

どの作品をどのコンクールに出品すればよいのか。

コンクールによって、入賞作品の傾向があるのである。一つ一つの作品が大切な子供たちの力作である。しかし、私には絵を見る目がない。だから悩むのだ。結局、よく分からないままに出品することになる。
一方、コンクールの審査員となっている先生方は専門家である。絵を見る目はさぞ優れているに違いない。
先日、あるコンクールの入賞作が地元紙で発表となった。自校の子供の名前を探したあと、審査評を読んだ。下に引用する。審査員である大学助教授M氏の文章である。

楽しそうに描いているのが伝わってくるような作品を選んだ。全体的にのびのびとした作品が多く、選ぶのに苦労した。レベルも高く、よくかき込まれたカラフルで明るい印象の作品が多かった。
一方で、「運動会」など学校単位で同じような題材を使った作品も目立った。与えられた材料でかくと同じような絵になってしまい、子どもの表現の幅が狭まってしまう。技術がついたからといって、表現力が広がるわけではない。表現力があってこそ、題材も生かされる。
入賞作はその子の良さが素直に表れていた。学校で遊んでいる様子など身近な題材で描かれていて、楽しんでいる様子が伝わってきた。
子どもは絵を通じて、親、友達、先生に話しかけている。絵に込められている思いを感じてほしい。そうすることで、子どもの意欲も自然とわいて、表現力につながっていくだろう。

私には分からない文章である。以下に述べるように分からないのである。

A レベルも高く、よくかき込まれたカラフルで明るい印象の作品が多かった。
B 一方で、「運動会」など学校単位で同じような題材を使った作品も目立った。
(便宜上、文に記号をつけた)

AとBは相対するものとして書かれている。Bの最初に「一方で」と書かれているからである。M氏は、Aは望ましいものであり、Bは望ましくないものであると考えているようである。
なぜ、Bは望ましくないのか。M氏は続ける。

C 与えられた材料でかくと同じような絵になってしまい、子どもの表現の幅が狭まってしまう。

Bの文では「題材」という語を使用している。Cの文では「材料」という語を使用している。「題材」と「材料」は同じなのか、違うのか。同じだとしたらなぜ異なる語を用いているのか。違うとしたら、どのように違うのか。私には分からない。

題材 芸術作品・学術研究などの主題となる材料
材料 芸術的表現の題材
(広辞苑 第五版)

辞書には上のようにあるから、ひとまず二つの語は同じ意味で使われていると仮定する。それでも分からない。
Cの文を分解する。

C−1 与えられた材料でかくと同じような絵になってしまう。
C−2 与えられた材料でかくと子どもの表現の幅が狭まってしまう。

C−1は本当か。本当だとすると、「運動会」という材料でかいた絵は、どれも同じような絵になってしまうことになる。そんなことはない。「運動会」という同じ材料(題材)でかかれた、まったく違う絵はいくらでもある。
C−2は本当か。コンクールに出品される作品の多くは、学校の授業で描かれた作品である。図工の授業で絵を描かせる場合、教師は材料(題材)を指定することがほとんどである。「運動会」という材料(題材)を与えられれば、「水泳」の絵をかくわけにはいかない。これは当然である。しかし、そのことと「表現の幅」とはまったく関係がない。カテゴリーが違う。
M氏は「表現の幅」という語をどのような意味で使用しているのか。私には分からない。

D 技術がついたからといって、表現力が広がるわけではない。

またまた分からない。「技術」がつけば「表現力」は広がると考えるのが普通である。例えば音楽。楽器で演奏する「技術」をもたない者が、楽器で「表現」することはできない。「技術」がつけば「表現力」も広がると考えるのが(小学生という入門レベルでは)普通なのである。
しかし、M氏はそれを否定している。しかも、普通ではない主張をしているのにもかかわらず、その根拠はなんら書かれていない。Dの文は分からない。
「技術」が否定されるとしたら、授業では何をすればよいのか。
M氏は言う。

E そうすることで、子どもの意欲も自然とわいて、表現力につながっていくだろう。

もう一度、Dの文を読んでみよう。

D 技術がついたからといって、表現力が広がるわけではない。

文末は「ではない」である。断定的に述べたのである。そうであるなら、どうすれば「表現力が広がる」かを断定的に書くべきである。「意欲」が「表現力につながっていくだろう」などと曖昧なことでは分からない。Dの文は「ではない」と断定され、Eの文が「だろう」などという文末では、納得できないのである。

このように分からない審査評を書かれると、子供たちの力作を出品料を払ってまで出品する「意欲」がそがれる。