NO.70 [2002/1/6]

『コンピュータが子供たちをダメにする』(その3)

コンピュータを導入する場所として、幼稚園や育児施設(幼児教室)以上に不適切な場所を僕は思いつけない。三歳児がいちばん必要とするものはなんだろうか---彼らは愛情や思いやりの対象にならなければならない。人に温かく接してもらわなければならない。そして大人の手厚い保護を受けなければならない。四歳児や五歳児は、他人とうまくやっていくための、人間としての術を身につけなければならない。僕らの子どもは、映像ではなく、現実そのものを相手にすべきなのだ。なのに、コンピュータはほとんどすべての幼稚園に導入されている。その理由を僕らは考えるべきだ。(p.94)

日本においても、ほぼすべての公立学校にコンピュータが導入されつつある。その理由を私たちもまた考えるべきだ。
コンピュータの使用は、コンピュータでなければならない場面に限定するべきなのだ。そうでないと、次のような事態になる。

子どもはもはや、掛け算の九九を覚える必要もない。電卓に慣れきった子どもは自分で掛け算もできないが、これは驚くにあたらない。そういった子どもは割り算もできない。彼らは算術計算の基本を最小限度にしか知らないのだ。(p.103)
(中略)
いまの子どもは、掛算表や加算表といったものをざっとしか教わらない。どの電卓の回路にも組みこまれているこれらの計算表は、算術計算を理解するための基礎だ。足し算や掛け算のしかたを知らなければ、誰かに(お金の)計算をごまかされたってそれに気づけない。(p.104)

子供たちに楽をさせるべきではない。子供たちに必要なのは、脳をフル回転させるような学習活動である。
かつて、ある講演会で野口芳宏氏の話を聞いた。氏は言う(文責は渋谷)。

「学校は子供たちにとって何よりも楽しいところでなければならない」という考え方があるが、私は反対である。「何よりも楽しいところでなければならない」というのは遊園地の発想である。学校は遊園地ではない。楽しさ本位ではダメである。学校でするべきことはぎりぎり二つ。学力形成と人間形成である。

次の考えも最近よく耳にする。
「学習の主体は子供だ。教師主導の授業はダメ。何よりも子供の思いを大切にしなければならない。」
ホントかなと思う。私はこの考え方にかなり懐疑的である。また、「指導から支援・援助へ」などという考え方にも反対である。野口氏は言う。

支援や援助が必要なのは老人と病人である。子供には指導が必要なのだ。授業の本質は指導。これは不易である。

ストール氏の著書に戻ろう。

「電卓のおかげで、算数のカリキュラムが早く消化できるようになっています」と教育関係者は言う。「それで、子どもたちはもっと早く高レベルな学習事項に進むことができるのです。算数の授業では、学ぶことがとても多いので、加算表や掛算表の学習に時間を無駄使い(ママ)すべきではありません」
もちろん、これでは話があべこべだ。子どもは、高レベルな学習事項に進む前に、まず基礎を身につけなければならない。土台がしっかりしていない状態で算数や数学のむずかしい問題に直面したって、手も足も出ない。電卓やコンピュータは、子どもが一段一段昇っていくべき学習プロセスをはしょってしまう。アルファベットを覚えるのは退屈な作業だが、それを子どもたちにさせないで、文章の読み方を教えられるだろうか。(p.105)

データは情報ではない。ビットやバイト、数値、語句といったもので表されるデータと、情報とのあいだには、大きな隔たりがある。情報は、データとちがって、判断・解釈といったものによる適格性(ママ)がある。信頼できる。入手のタイミングというものがある。理解できる。情報源がある---つまり、どこから来たかがはっきりしている。そして情報は、データとちがって、有益だ。
データと情報は大きく異なるが、情報と知識のあいだの隔たりは、データと情報のあいだの隔たりよりもさらに大きい。人間の脳は、アイディアやインスピレーションといったもので働くのであって、情報をもとに働くのではない。僕らに理解をもたらすもの。それは、知識であって情報ではない。
しかも、僕らが探し求めるべきもの、つまり英知は、知識を超えたところにある。そして、残念なことに、この情報化社会は、経験や熟練度よりもデータに価値を認める社会なのだ。人の思いやりや啓発力よりもデータのほうをありがたがる社会なのだ。(p.227)

「教育の情報化」という。私たちは教育の何を情報化しようとしているのだろうか。どのような子供たちを育てようとしているのだろうか。私は「教育の情報化」に反対はしない。コンピュータを使ってしか、あるいはインターネットを使ってしかできない教育もある。しかしである。ゴールを見誤ってはならない。ストールの著書は多くの示唆を与えてくれる。