NO.96[2004/9/15]

『二つの意見から』批判

 光村図書6年(上)に『話し合って考えを深め、意見文にまとめよう』という単元がある(p.104)。その冒頭に掲載されているのが『二つの意見から』という教材である。教科書では、新聞の投書を紹介し、話し合いのテーマを設定している。

 新聞の投書らんには、わたしたちの日常生活にかかわりの深い話題が寄せられます。次に挙げる二つの投書は、どちらも片仮名の使われ方について述べていますが、大きく意見が異なっています。

 紹介されている投書が、次の二つである(原文は○付き番号であるが、機種依存文字のため、A,B記号で示す)。

A 映画館で、「シニア料金を頂きます。」と言われた祖父が、うれしそうにしていた。日本語で「老人特別料金」と言われるより、耳にここちよかったらしい。受ける感じももちろんだが、日常使っている言葉の中には、「ボランティア」「ポスター」「リサイクル」など、片仮名で言ったほうが分かりやすいものが数多くある。片仮名の言葉ぬきの生活は、もはや考えられない。(高校生・十七歳)

B コンピュータの説明書を開いてみて、あまりの分かりにくさにため息が出てきた。片仮名の言葉が多すぎるのだ。「ディスプレー」でなく、「画面」ではどうしていけないのか。「プリントアウト」より「印刷」のほうが文字数も少なくて済む。これだけコンピュータが行きわたっている今、説明書は、年代の別なく、だれにも通じなければ意味がないと思うのだが。(会社員・四十八歳)

 問う。この二つの投書は、教科書が言うように「大きく意見が異なって」いるのか。
 二つの投書を紹介したあと、教科書は言う。

 Aは、「片仮名の言葉は、受ける感じがいいし、分かりやすい。」という意見です。いっぽうBは、「片仮名の言葉が多すぎて、分かりにくい。」という意見です。

 教科書が引用符付きで示した上の「意見」を読むと、二つの投書は対立しているように思える。しかしである。それぞれの筆者は、そのようなことは言っていない。どちらの投書にも教科書が引用しているような文はないのである。教科書が引用符付きで示している文は、引用ではない。教科書側の乱暴な要約である。私が投書の主だったら「私はそのようなことは言っていない」と取り下げを要求すべき文だ。
 Aの筆者が「受ける感じ」について述べているのは、「シニア料金」と「老人特別料金」という例についてである。また、「分かりやすい」という点についても、「ボランティア」「ポスター」「リサイクル」という三つの例を挙げ、「片仮名で言ったほうが分かりやすいものが数多くある」と言っているに過ぎない。決して、片仮名の言葉全般について述べているわけではない。
 Bについても同様である。投書の筆者は、「説明書は、年代の別なく、だれにも通じなければ意味がない」と言っているのであって、片仮名のすべてが「分かりにくい」と言っているわけではない。
 つまり、AとBは教科書の言うように「大きく意見が異な」る投書ではないのである。もし、二つが対立する意見なのだとしたら、Bの筆者は次の文章に賛成するはずである。

 環境委員会の計画書を開いてみて、あまりの分かりにくさにためいきが出てきた。片仮名の言葉が多すぎるのだ。「ポスター」ではなく、「貼り紙」ではどうしていけないのか。「リサイクル」ではなく、なぜ「再生利用」と言わないのか。「ボランティア」より「奉仕」のほうが文字数も少なくて済む。これだけ環境問題が話題となっている今、環境委員会の説明書は、だれにも通じなければ意味がないと思うのだが。

 Bの筆者も、これには賛成しないであろう。試しに、次のどちらが「分かりやすい」と感じる人が多いか考えてみたらよい。

A ボランティアやリサイクルに関するポスター募集のお知らせ
B 奉仕や再生利用に関する貼り紙募集のお知らせ

 多くの人は、Aの方がBよりも分かりやすいと感じるはずである(クラスの子供たちに尋ねてみたところ、1名を除く全員が「Aの方が分かりやすい」と答えた)。Bの筆者もこれに異を唱えるとは考えにくい。しかし、それでもBの筆者に矛盾はないのである。投書では「コンピュータの説明書」について述べただけなのだから。
 Aの筆者もBの筆者も、例を限定して意見を述べているのだ。二つの意見は異なってなどいない。それを教科書は乱暴な要約により一般化し、あたかも二つの意見が異なっているように思わせているのである。「A,Bのどちらに賛成か」などと問われた子供はたまったものではない。
 「引用無きところ印象はびこる」と言ったのは宇佐美寛氏である。まさに至言だ。論理的思考力を育てるための教材である教科書の文章が、このように非論理的では、子供たちに論理的思考力など育つはずがない。