読書

8時15分から8時25分。全校朝読書の時間帯です。全校朝会がある水曜日を除くすべての曜日、子供たちは教室で読書をしています。
私が教室に入ると、ほとんどの子供たちが静かに本を読んでいる。騒いでいる子供は一人もいない。これが始業式直後からの5年生の姿でした。感心しました。ただ、数名の子供たちが学級文庫の前に立ち、本を選んでいる状態でした。
「読む本は、8時15分までに選んでおきます。15分からは自分の席で本を読みます。」
このように話した翌日からは、席を立っている子供もいなくなりました。
私は子供たちに次のような状態であってほしいと思っています。

・常に読みかけの本がある
・その本が手元にある

上の状態であれば、そのときになって、本を選び始める必要はなくなります。自分が読む本は決まっているからです。そして、その本が常に手元にあれば、朝読書の時間だけでなく、テストが早く終わってしまった時や給食の待ち時間等、ちょっとした隙間時間に読書することができます。一日の中の隙間時間を合計すると、結構な時間になるものです。
学級文庫の本、図書館から借りた本、家から持ってきた本。いずれでもかまいません。常に手元に本がある状態をつくりたいと思います。ただ、子供たちの机の中にはほとんどスペースがありません。本を入れるための布カバン等をご準備いただけると幸いです。

『読書力(岩波新書)』という本があります。最近、脚光を浴びている齋藤孝さんの著書です。私も昨年読みました。次の部分が印象に残っています。

今、若い人の間では、読書は流行っていない。流行っていないどころか、すっかり廃れてしまっている。まともな内容の本を月に一冊も読まない者が少なくない。私は大学に入学したての学生たち数百人に、毎年読書量を聞いている。まったくと言っていいほど読まない者が三割ほどはいる。きちんとした本に限定すれば、半分以上が読書の習慣を持っていない。
(中略)
本当に、「本を読む読まないは自由」なのだろうか。
私はまったくそうは思わない。少なくとも大学生に関しては、百パーセント読書をしなければだめだと考えている。こんなことは大学ではかつては当たり前のことであった。しかし現在は、「何で読書しなくちゃいけないの?」という問いに答えなければならない時代になっている。「なぜ人を殺してはいけないか」について、まじめな議論がなされる時代なのだから、読書の必要性について疑問が出されるのも無理のないことなのかもしれない。
この本は、この「なぜ読書をしなければいけないのか」という問いに、答えようとするものだ。

あまりにも当たり前のことかもしれないが、考えることは、言葉で行う行為だ。一人で考え事をしているときも、言葉で基本的には考えている。言葉の種類が少なければ、自然と思考は粗雑にならざるを得ない。考えるということを支えているのは、言葉の豊富さである。
(中略)
言葉をたくさん知るためには、読書は最良の方法である。なぜ読書をした方がよいのかという問いに対して、「言葉を多く知ることができるからだ」という答えは、シンプルなようだがまっとうな答えだ。

自分の体験や経験を絶対の根拠としたがる傾向が、読書嫌いの人には時々見受けられる。こうした自己の体験至上主義は、狭い了見を生む。
経験していないことでも私たちは力にすることができる。
自分の中に微かにでも共通した経験があれば、想像力の力を借りて、より大きな経験世界へ自分を潜らせることができる。自分の狭い世界に閉じこもって意固地になったり、自分の不幸に心をすべて奪われたりする。そうした狭さを打ち砕く強さを読書は持っている。

齋藤氏は、私たち教師にも厳しい言葉を投げかけています。次のようにです。

私の考えでは、小学校、中学校、高校では、全体が一貫して読書部であり続けていい。そこを十二年間通ってきたら、十二年間バスケットボール部で鍛え上げてきたような技術と体力が身についているというようであるべきだ。高校卒業時に、本を読む習慣ができていない、あるいは、そもそも本を一冊読み通せないという状態で送り出すとすれば、それは学校教育として怠慢というほかはない。

こうした「相手とのコミュニケーションの中で本を薦める」ような読書トレーナーの仕事が、社会的にもっと評価されていいのではないだろうか。図書館の司書という仕事もそういう役割をもつものであっていいし、学校の先生は全員そのような役割を果たしてほしいと私は願っている。読書をする習慣のない教師は、教師としては不十分だ。

子供たちに対しては年間50冊、自分自身には年間100冊程度を一つの目標として課したいと考えています。あっ、課すなどと書くとだめですね。読書は楽しむものですから。