『やまなし』(その6、7)

何回かにわたって、お伝えしてきた「やまなし」の学習を月曜日に終えました。その後、子供たちは火、水、木の三日間を使い、「評論文」と題した学習のまとめを書きました。原稿用紙で5枚から十数枚という結構な大作です。私は、下のアウトラインと「はじめに」の書き方だけを示しました。

はじめに
1 物語の舞台
2 二枚の幻灯の対比
3 象徴性
4 賢治は『やまなし』で何を描こうとしたのか
おわりに

真太郎
はじめに
「クラムボンって何なのだろう。なぜ、兄さんは笑ったりした理由が分からなかったか。」
この文は、「やまなし」を初めて読んだ感想である。ぼくは、この時、クラムボンやイサドなどが出てきて全然分からなかった。
しかし、勉強を進めていくうちに、分からなかったことが、ちょっとずつ分かってきた。次から、『やまなし』について、ぼくの考えを述べる。

1 物語の舞台
『やまなし』の舞台である谷川の深さは、どのくらいか。
ぼくは、20〜30cmくらいだと考える。なぜか。
教科書には、「小さな谷川の底」などと書いてある。もし1m以上ならば、作者の宮沢賢治は「大きな谷川」と書くはずだ。だから1m以上の川ではないと思う。しかも、教科書に出てくる「かわせみ」や「やまなし」を1m以上の深さで二ひきのかにの子供らが見えるはずがない。それに、教科書には、「光が谷川の底にとどいている」と書いてある。これは、谷川が小さくないと無理だ。
あと、残っているのは「50cmくらい」という考えだが、ぼくはちがうと思う。ここで、かにの子供らが見たものをか条書きしてみよう。
・クラムボン
・魚
・かわせみ
・かばの花びら
・あわ
・光
・かげの棒
・やまなし
ここで、「かばの花びら」に注目してみよう。かばの花びらは、せいぜいぼくたちの親指のつめぐらいだと思う。小さなかにの子供らがつめぐらいの花びらを50cmも下の水の底から見えないと思う。だから50cmもちがう。
だから、ぼくは20cm〜30cmくらいだと思う。

2 二枚の幻灯の対比
『やまなし』で書かれている二枚の幻灯の対比はどのくらいか。
ぼくが書いたのは、次の六つである。
・底の景色が春(五月)←→底の景色が冬(十二月)
・光のあみ(五月)←→月明かり(十二月)
・青白い水(五月)←→水がきれい(十二月)
・日光の黄金(五月)←→月光のにじ(十二月)
・小さなかに(五月)←→大きくなったかに(十二月)
これがぼくの書いた六つの対比である。この他にも、友達の意見でいいと思ったものをつけたしてみよう。
・昼(五月)←→夜(十二月)
・かわせみ(五月)←→あわ(十二月)
・かばの花(五月)←→やまなし(十二月)
・かわせみ(五月)←→やまなし(十二月)
この時、ちがう意見の人もいたが、「かわせみ対やまなし」と「かばの花対やまなし」の真っ二つに分かれた。
ぼくは、「かわせみ対やまなし」だと思う。なぜなら、五月では「かわせみ」がいちばんくわしく書いてあってクライマックスだと思うからだ。だから、ぼくは「かわせみ対やまなし」がいちばん重要な対比だと思う。それに「かばの花」は、怖がっている子供たちをお父さんが流れてくる「かばの花」を使ってなぐさめているだけだ。それに、「かばの花」でなぐさめても、かにの兄弟の心は変わらなかった。だから、「かばの花」ではなく、かわせみだと思う。

3 象徴性(クラムボン、イサド、かわせみ、やまなし)
クラムボン、イサド、かわせみ、やまなしの象徴性は何か。
クラムボンは、賢治の妹のトシの象徴だと考える。
まず最初に、『やまなし』と賢治の心象スケッチ『春と修羅』を重ね合わせてみよう。
なんと、妹トシとクラムボンが死んだということについて一致している。しかも、この二つの作品は、妹トシが死んだ次の年とその次の年に発表している。ということは、クラムボンは妹トシを象徴しているということは十分にある。だから、ぼくはクラムボンの象徴性は妹トシだと考える。
イサドの象徴は、林だと考える。
また、『やまなし』と『春と修羅』を重ね合わせてみよう。『春と修羅』の「松の針」で賢治は「おまへは林へ行きたかつたのだ」と書いている。これは、
かにのお父さん=賢治
かにの兄弟=妹トシ
に照らし合わせて、『やまなし』に「もうねろねろ。あしたイサドヘ連れていかんぞ」と書いたのだと思う。だから、イサドの象徴は林だと思う。
ぼくは、かわせみと五月の象徴は、さみしさだと考える。
同じように、『やまなし』と『春と修羅』を重ね合わせてみよう。『春と修羅』の「白い鳥」では、妹トシの思い出と白い鳥とをさみしそうに照らし合わせている。何度も言うが、これは妹トシが死に、さみしくなってこんなことを書いているのではないか。
しかも、かわせみに魚を食われたとき、かにの兄弟をお父さんはなぐさめている。だが、お父さんはうろちょろしている魚がいなくなり、本当はさみしいのではないか。
だから、ぼくはかわせみと五月の象徴はさみしさだと思う。
最後に、やまなしと十二月は「妹トシが生まれ変わる」ことの象徴だと思う。
今度は、『やまなし』をみてみよう。川の中では、

というふうになっているのではないか。
五月の中では魚は妹トシで、かわせみに連れて行かれる。つまり、かわせみは「死」ということになる。
十二月だと、やまなしが落ちてくる。川の流れで進んでいく。それから木にひっかかる。そして、かにのお父さんが言う。
「待て待て。もう二日ばかり待つとね、こいつは下へしずんでくる。それから、ひとりでにおいしいお酒ができるから。さあ、もう帰ってねよう。おいで。」
ここで、やまなしを妹トシ、かにのお父さんを賢治にする。父さん、つまり賢治が「もう二日ばかり待つとね、こいつは下へしずんでくる」と言っているのだ。つまり、「妹トシは天国から自分たちの世界へもどってくる」とかにのお父さんが言っているのと同じである。こうすると、話とぴったり合うではないか。
だから、ぼくはやまなしと十二月の象徴は「トシが生まれ変わる」ことだと思う。

4 宮沢賢治は『やまなし』で何を描こうとしたのか
宮沢賢治は「生き物はみんな生まれ変わる」ということを書きたかったのだとぼくは思う。
なぜなら、『やまなし』は妹トシが死んだ後に発表している。しかも「五月」には魚が死ぬ。そして「十二月」にやまなしがしずんでくる。ぼくが象徴性で書いたことと同じだ。
しかも、『春と修羅』の「永訣の朝」で妹トシが(またひとにうまれてくるときは・・・)と言っている。これに心を打たれ、賢治は「生き物はみんな生まれ変わる」ということをみんなに知らせたくて『やまなし』を書いたと思う。
だから、賢治は「生き物はみんな生まれ変わる」ということを『やまなし』で書いたのだろう。

おわりに
「賢治は、こういうことを書きたかったのだな。」
これが、今評論文を書いて知ったことである。ぼくは、今賢治の心にすごく近づいたと思う。ぼくはこの評論文で「賢治はすごい人だ」とさらに実感した。
これがぼくの「心象」である。
おしまい。