『読書力』

11日から始まっていた校内読書旬間が終わりました。この間、毎日の朝読書、伊藤美智子さんによるストーリーテリングなど、子供たちが本に親しむための様々なイベントが行われました。読書の秋(といってももう冬ですが)、みなさんはどのような本を読まれたでしょうか。
私が読んだ本の一冊に『読書力(岩波新書)』があります。『声に出し読みたい日本語』等の著書で最近脚光を浴びている齋藤孝氏の著書です。お読みになった方もいらっしゃるでしょうか。
以下、私の印象に残った箇所を紹介いたします。

今、若い人の間では、読書は流行っていない。流行っていないどころか、すっかり廃れてしまっている。まともな内容の本を月に一冊も読まない者が少なくない。私は大学に入学したての学生たち数百人に、毎年読書量を聞いている。まったくと言っていいほど読まない者が三割ほどはいる。きちんとした本に限定すれば、半分以上が読書の習慣を持っていない。
(中略)
本当に、「本を読む読まないは自由」なのだろうか。
私はまったくそうは思わない。少なくとも大学生に関しては、百パーセント読書をしなければだめだと考えている。こんなことは大学ではかつては当たり前のことであった。しかし現在は、「何で読書しなくちゃいけないの?」という問いに答えなければならない時代になっている。「なぜ人を殺してはいけないか」について、まじめな議論がなされる時代なのだから、読書の必要性について疑問が出されるのも無理のないことなのかもしれない。
この本は、この「なぜ読書をしなければいけないのか」という問いに、答えようとするものだ。

読書は習慣です。齋藤氏が例に挙げている大学生は、おそらく小さいときから読書の習慣がなかったのでしょう。習慣とは長い期間を経て身に付くものです。だからこそ、小学生の今からその大切な習慣を身に付けるべく本を読んでほしいのです。

あまりにも当たり前のことかもしれないが、考えることは、言葉で行う行為だ。一人で考え事をしているときも、言葉で基本的には考えている。言葉の種類が少なければ、自然と思考は粗雑にならざるを得ない。考えるということを支えているのは、言葉の豊富さである。
(中略)
言葉をたくさん知るためには、読書は最良の方法である。なぜ読書をした方がよいのかという問いに対して、「言葉を多く知ることができるからだ」という答えは、シンプルなようだがまっとうな答えだ。

「考える」とは、自分の頭の中に蓄積された言葉を操作する行為に他なりません。蓄積された言葉がなければ、考えようにも考えることができないわけです。

自分の体験や経験を絶対の根拠としたがる傾向が、読書嫌いの人には時々見受けられる。こうした自己の体験至上主義は、狭い了見を生む。
経験していないことでも私たちは力にすることができる。
自分の中に微かにでも共通した経験があれば、想像力の力を借りて、より大きな経験世界へ自分を潜らせることができる。自分の狭い世界に閉じこもって意固地になったり、自分の不幸に心をすべて奪われたりする。そうした狭さを打ち砕く強さを読書は持っている。

人間が一生にうちにできる経験はたかがしれています。しかし、本を読むことにより、間接的な体験を豊富にすることができるのですね。

私の考えでは、小学校、中学校、高校では、全体が一貫して読書部であり続けていい。そこを十二年間通ってきたら、十二年間バスケットボール部で鍛え上げてきたような技術と体力が身についているというようであるべきだ。高校卒業時に、本を読む習慣ができていない、あるいは、そもそも本を一冊読み通せないという状態で送り出すとすれば、それは学校教育として怠慢というほかはない。

こうした「相手とのコミュニケーションの中で本を薦める」ような読書トレーナーの仕事が、社会的にもっと評価されていいのではないだろうか。図書館の司書という仕事もそういう役割をもつものであっていいし、学校の先生は全員そのような役割を果たしてほしいと私は願っている。読書をする習慣のない教師は、教師としては不十分だ。

教師である私にとって、耳の痛い言葉です。私自身も読書トレーナーとしての力量を身に付けるべく努力したいと思っています。