りんご

さて、詩の学習も終わりに近づき、昨日三つ目の詩の学習をしました。次の詩です。

りんご

山村 暮鳥

両手をどんなに
大きく 大きく
ひろげても
かかへきれないこの気持ち
りんごが一つ
日あたりに転がってゐる

短い詩です。子供たちはあっという間に暗唱してしまいました。中には学習前からすでに暗唱していた子供も多くいました。しかし、解釈は難しい詩です。これまでの2つの詩以上に難しいと言えるでしょう。音読の練習をした後、こんな学習をしました。

この詩の中で、対比されていることがあります。どれとどれでしょう。ノートに書きなさい。

5分ほど時間を与えて考えさせました。出てきた対比は次の三つです。
○「大きく」と「大きく」
○「両手」と「りんご」
○「気持ち」と「りんご」

この詩の中の対比としては、どれが一番いいかな。

全員が「気持ち」と「りんご」の対比だと答えます。そこで尋ねました。

どんな対比なのだろう。対比の意味を考えてごらん。

「これは難しいよ。」「わからないなあ。」などと言いながら、それでもかなりの子供がノートに自分の考えを書いていました。子供たちが考えた対比の意味は次のようなことです。

【りんご】
・一つしかない
・転がっている
・一つの命
・目に見える
【気持ち】
・かかえきれない
・あふれている
・命あるものの中にある
・目で見ることができない

松井君が発言しました。
「両方とも『作者が書きたかったこと』という点では類比だと思います。」

こんな対比・類比を考えさせた後、この詩についての解釈・感想を書かせました。次のものです。

千絋
私はこの詩を読んで?ができた。
私はこの詩の話者は作者だと考えた。詩のなかに書いてある「気持ち」は多分作者の気持ちだろう。そこで私の?。それは話者のその「気持ち」だ。「気持ち」といっても話者のどういう気持ちなのか。かかへきれないほどある気持ち、私の?だ。
「りんごが一つ日あたりに転がつてゐる」
なぜそこでりんごが出てくるのか?題がりんごだから。でも、ミカンでもいいじゃないか。ぶどうでもいいじゃないか。作者はなぜりんごにしたか?私のもう一つの?。
二つ目の?は多分、日にあたるとりんごはつやつやするからである。

恭平
ぼくは作者が書きたかったのは、「かかへきれないこの気持ち」だと考えます。なぜなら、「両手をどんなに大きく 大きくひろげても」というのは、「かかへきれないこの気持ち」の表現をしていると考えます。ぼくは、かかへきれないこの気持ちがいいと考えます。

薫子
りんごは小さくてもかかえきれないくらいのエネルギーを感じさせるんだよというようなことを作者は書きたかったのだと思う。
あと私はこの詩を読んでとてもきれいだなと思った。どんなところがといわれてもこたえられないがきれいだと思った。


作者は、気持ちをりんごにたとえていると思います。なぜなら、かかえきれなくてりんごが一つ転がってしまったと思います。

薫さんは授業後、「わかった!」と目を輝かせながら声に出していました。「りんご」と「気持ち」の対比・類比を考えているうちに、これは比喩であるという解釈ができたのでしょう。
一人一人、いろいろな解釈をしています。それでいいのだと思います。自分なりに精一杯頭を使って作り上げた解釈です。どの子供の解釈を読んでみても「なるほどなあ」と思います。
ただ、この詩、少々難しすぎたのでしょうか。最後までよくわからなかった子供も多かったようです。しかし、薫子さんのように「理由は言えないが、きれいだなと思った」というのも立派な感想です。その子供の感性です。十分な詩の楽しみ方だと思います。

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