詩を読む力

前々号まで三編の詩の学習についてお伝えしてきましたが、一昨日、詩の学習を終えました。最後の学習はいわゆる「授業」はしませんでした。プリントを使って自力で詩を読んでもらったのです。
授業では教科書に載せられている三編の詩を扱いました。その結果、その三編の詩に関する子供たちの理解は深まったでしょう。しかし、それだけでは不十分です。国語では「詩の読み方」も学ばねばならないからです。自力で読める力を持つ必要があるからです。
例えば算数の学習を考えます。『小数のかけ算』の学習で、「0.5×2.3」という計算を子供たちに教えるとします。その時「0.5×2.3」の計算だけができるようするのではありません。「0.6×3.5」のように数字が変わっても子供たちが自力で計算することができるようにする必要があります。国語だって同じことです。

さて、子供たちに二編の詩をプリントしたものを配りました。次の詩です。

赤い林檎

山村暮鳥

林檎をしみじみみてゐると
だんだん自分も林檎になる

おなじく

山村暮鳥

こどもはいふ
赤い林檎のゆめをみたと
いいゆめをみたもんだな
ほんとにいい
いつまでも
わすれないがいいよ
大人になってしまへば
もう二どと
そんないい夢はみられないんだ

二編の詩に続いて、プリントには次の設問をしました。

二つの詩のうち、好きな方を選んで、その分析・感想を書きなさい。

書かせる前に「分析」と「感想」の違いについて子供たちに話しました。

「感想」というのは心で感じるものです。理屈ではありません。自分が感じたことや思ったことを書けばよいのです。料理にたとえると自分で食べてみて「おいしい」とか「まずい」とか味わうことですね。
「分析」は違います。これは脳味噌を使って考えることです。料理で言えば、材料を包丁で切ることです。作品を包丁で切って分析してみるのです。例えば、「馬でかければ」の詩を勉強したときに、話者の視点を考えましたね。「りんご」の詩の勉強をしたときには『りんご』と『気持ち』の対比や類比を考えましたね。これは詩を分析したのです。肉と魚では使う包丁が違うように、国語の勉強でも作品によって包丁を使い分けなくてはなりません。「話者の視点」「対比・類比」「裏の意味(象徴性)」どの包丁がその作品に合っているのか考えて分析してみましょう。

かなり高度なことを要求しています。最初から高レベルのものが書けるはずがありません。しかし、挑戦してほしいのです。自分の「読む力」を高めていってほしいのです。そう考えて、今の自分の精一杯の力で、書いてもらいました。

裕樹
【話者の視点】
ぼくは話者の視点は林檎の気持ちの中にあると考える。なぜなら、話者は赤い林檎の中では『林檎をしみじみみてゐるとだんだん自分も林檎になる』と語っているからだ。これは山村さんが、林檎一つにどれだけ注目しているかがよく分かる。
話者の視点は林檎になっているということだ。


「赤い林檎」という詩は、話者は自分が林檎になってしまいたいんで、自分も林檎になると書いたと思う。
この詩はたった2行だけれど、話者が林檎を見ていたときのことをちゃんと書いてある。
山村暮鳥という人は本当に林檎が好きなんだ。

奈央子
私は『おなじく』が好きです。なぜかというと、山村暮鳥さんは『大人になったらもう二どとそんないい夢はみられないんだ』と私たちに言い聞かせているみたいに書いてあって、山村さんは後悔しているみたいでした。
私はこんな短いのにすごいなと思いました。なぜなら一文、一文、気持ちがこめられているからです。特に最後の三行目からがすごいなと思いました。なんか、すごい詩を読んでいる気がしました。

威宏
ぼくは、「こども」と「大人」は対比されていると考える。
なぜなら、「おなじく」という詩と同じで、子供はいい夢を見やすいとおもうけど、大人は会社とかでムシャクシャしていい夢が見られないと思うから。


「おなじく」
自分の体験だと思う。
なぜなら、「もう二どとそんないい夢はみられないんだ」と書いてあるからです。「こどもはいふ 赤い林檎のゆめをみたと」と書いてあるところは、子供のころ、それからあとは、今の自分だと思います。
私、詩が好きです。図書館に行って詩の本を借りたいです。きっと「りんご」も入っているでしょう。

裕樹君は「話者の視点」という包丁を使って見事に作品を分析しています。すばらしいと思います。
薫さんはさっそく図書館へ足を運び、詩集を借りていました。

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