『さよならの学校』その4

昨日『さよならの学校』の学習を終えました。

○題の意味するところを考える。
○主人公、恭の心の変化を読み取る。
○おじいちゃんと泰山木の類比を考える。

およそ上のような流れで学習を進めてきたのですが、最後にもう一度「題の意味するところ」を考え、ノートにまとめてもらいました。
かなり難しいことなのですが、どの子供も自分なりの考えを書いていました。

正志
「さよならの学校」は、生きる意味を教えてくれたおじいちゃんが先生で、それを学んだきっかけとなったのが泰山木ではないかと考える。そして「さよなら」というのは、その生きる意味を教えてくれたおじいちゃんが死んだことなのだと考える。

薫子
「さよならの学校」とは?
「さよならの学校」というのは、おじいちゃんが恭のために死ぬ前に開いてくれた学校だと思う。つまり、死ぬ前に開いたからさよならの学校なのである。

孝明
「さよならの学校」というのは、おじいちゃんと恭のことだと考える。なぜなら、おじいちゃんと泰山木は、恭に生きる意味を教えてくれた。今の恭は、それを考えるようになっているからだ。

千紘
「さよならの学校」とは?
おじいちゃんは死んで、今まで一緒に育ってきた泰山木と別れてしまった。
筆者は泰山木をおじいちゃんが70年以上通っていた学校にたとえていると私は考えた。おじいちゃんは遠いところへ行ってしまった。泰山木の学校ともお別れ。
私が考えるには、おじいちゃんは学校(泰山木)を卒業したということを筆者は言いたかったと思う。だから「さよならの学校」。

裕樹
恭の「さよならの学校」というのはおじいちゃんのことだと考える。
なぜなら、「さよならの学校」(おじいちゃん)から生きる意味みたいなものを教えてもらっていたからだ。
「さよならの学校」の「さよなら」というのはおじいちゃんのことを意味していると考える。

智子
「さよならの学校」はおじいちゃんから教えてもらったことを表していると考える。なぜなら、恭はおじいちゃんが死んだことによって「自分もけんめいに生きよう」と考えた。恭の成長によって、さよならの学校になったと考える。


「さよならの学校」でもそうだったのですが、いつも子供たちに話していることがあります。学習に臨む姿勢に関することです。

とにかく自分の考えを持ちなさい。間違っていて当然です。みんなが正解ならば学習する必要はないのです。考えを持たなければ間違うことすらできません。
迷うということはいいことですが、とりあえずどちらなのか自分の考えを決めなさい。「違う」と思ったら修正すればいいのです。

「自分の考えを持って学習に臨む」
これは学習の最低条件です。自分の考えがなければ、人が学習しているのを見ているだけになるからです。友達の学習を見る・聞くということも確かに意味のあることですが、自分の考えを持って能動的に学習することと比べたらその成長の度合いは微々たるものです。受け身ではダメなのです。だったら家で教育テレビを見ているのと大差ありません。
「迷う」ということも大切なことです。しかし私は100%迷ったままでの学習を認めません。無責任な学習姿勢になるからです。迷ってはいても、あえて自分の立場を決めるのです。自分の立場を明らかにすることによって学習への姿勢が変わります。「どっちでもいいや」といういい加減な態度でいることが許されなくなります。むろん考えの修正はあって当然だし、かえって望ましいことだとも思います。自分の考えをよりよい方向へ修正することによって、成長の自覚が生まれるからです。自分の成長を自覚することは次の学習へのエネルギーにもなります。良い学習の循環が生じます。
そのための最低条件が「自分の考えをもつ」ということなのです。

いろいろな子供たちがいます。正確も一人一人違います。
間違いなど全く気にすることなく、どんどん自分の考えを発表できる子供もいます。発言することが目的であるかのような子供たちです。たくましいと思います。
一方で、「間違ったら恥ずかしい」という子供たちもいます。気持ちはよくわかります。共感できます。誰にだって「間違ったらどうしよう」という不安な気持ちはありますし、できれば恥ずかしい思いはしたくないものです。
しかし、今の子供たちは一番成長できる時期にいます。成長とは間違いの自覚から生まれるのです。間違いや失敗がなければ成長できないと言っても良いでしょう。
「失敗は成功のもと」と言いますが、あらゆる科学は間違いを修正する過程を経て進歩してきたのです。
たくましさを持って学び、成長する子供たちであってほしいなと切に思います。

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