『花と手品師』(その2)

おじさんは本当の手品師になれたのか。

ノートに自分の考えを書かせ、挙手で確認したところ、結果は次の通りでした。
『なれた』・・・10名
『なれなかった』・・・23名

ここから実におもしろい討論が始まりました。

「なれたと思います。P.99に『ぼくのおじさんも、世界のどこかで、ステッキをひらりひらりとあやつっているはずでした。』と書いてあるからです。」
「反対です。『はずでした』というのは『ぼく』の想像だと思います。」
「そんなことはないと思います。この場面のおじさんは目に見えないのだし、本当の花を咲かせています。これは本当の手品師になれたということだと思います。」
「だから、それはぼくの思いこみだと思います。」
「『本当の手品師になりたいと思った』と書いてあるから、まだなれてはいないのではないですか。」
「それは、舞台の上で手品をしている頃に思ったことで、今はもうなれたのだと思います。」
「『それは手品師の仕事だよ』というのは、本当の手品師になれたから言えるせりふだと思います。」
「六、七、八歳の頃のプレゼントは作りものだけど、今年のプレゼントは本当の花の種です。これは本当の手品師になれたという知らせだったと思います。」
「私もそう思います。前の時間に『普通の手品師』と『本当の手品師』の対比を考えたけれど、『作りもの』と『本物』という対比がありました。それともピッタリあっていると思います。」

この討論によって、子供たちの考えは逆転しました。『なれた』と考える子供が圧倒的多数になったのです。
子供たちが書いた学習のまとめを紹介します。

妙子
おじさんは、『本当の手品師』になれたのか。
私はなれたと考える。
理由は三つある。
一つ目は、いないはずのおじさんが「ぼく」に見えたことだ。いない人の声が聞こえたり、いない人が見えたり、これは普通の手品師にはできないことだ。つまり、それができるのは『本当の手品師』ということだ。見せているのはおじさんなのだから、おじさんは本当の手品師のはずだ。
二つ目は、六・七・八歳とは全然ちがうプレゼントだったことだ。おじさんはP.98のL5で「野原を見つけるのに三年かかった」と言っている。その三年というのは、ぼくが六〜八歳の時の三年だ。
そして、三年目で見つけた。ぼくが九歳の時だ。そのときのプレゼントはつくりものではない種だった。この変化は、おじさんが本当の手品師の手品をできるようになったということだ。
三つ目は、P97のL8に『これはまるで、一つの手品でしたから』と書いてあることだ。一つ目で書いたようにこの後の出来事は本当の手品師でないとできないことだ。この出来事が『空想』なら、ここで手品という言葉は使えないのだ。
この三つのことから、おじさんは『本当の手品師』になれたと考える。

奈央子
私は『本当の手品師』になれたと考える。
なぜなら、今年のプレゼントは『花の種』だったからだ。みんなは、ぼくが育てて咲いたと思っている。それはちがう。なぜなら、P98L10に「そっと呼んでやるのはだれだろう。」と書いてあるからである。誰が呼んでやるのかというと、おじさんである。花が咲いたら、おじさんの声が聞こえたし、ほかに誰もいないからである。
P98L13に「ほんとうのはなはひとつもさかせることができなかった。〜」と書いてある。でも、これは昔のことで、今は、花を咲かせられる。ということは、本当の手品師になれたということだ。
だから、私は『本当の手品師』になれたと考える。

孝明
ぼくは×だと考える。なぜなら、P99の最後に「はず」という言葉が書いてある。「はず」という言葉は自分の思いこみを表す言葉だから、「ぼく」という人物が勝手に本当の手品師になれたのだと思いこんでいるだけで、本当の手品師にはなれていない。

back