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12月12日「クリスマスカラー」
 クリスマスが近くなった。12月25日はそもそもはゲルマン民族の間で行われた収穫祭の日であり、大地の豊饒の女神を祀る日だった。キリスト教の布教者たちは、多分、犠牲の儀式もあったであろうこの祭りをキリストの誕生日に重ねて、この民族たちのキリスト教への抵抗感を和らげ、そして、まんまと彼等を改宗させていったのだ。
 だいたいが豊かな森に住みついていた人々と荒れ野に住んでいるユダヤの人々の宗教とが融和するはずはないのだが、ニーチェ的に言えば、実に巧みな演出と懐柔策をもって「ルサンチマン(恨み)」の精神をゲルマンの人々の心に植え付けたのである。
 さて、日本では、クリスマスを祝い、ケーキを食べるのが、今や習慣となっている。これはキリスト教の精神を突き抜けた向こうにある、森に宿るいわば八百万の神々とともに生き、そして祀っていたゲルマンの人々の心と、古来より同様の生活を営んでいた日本人の心が繋がっているからかもしれない。
 そうそうクリスマスケーキは、みんなで切って、分けて食べるが、これはまさに犠牲の儀式なのだ。かつて生贄の羊や、山羊を切り裂き、皆で分かち合ったように共に生きていることを、あらためて確かめあう擬似的な犠牲の儀式なのだ。
 ただ、両者の決定的な違いは「流れる血」がないことだ。本来の「共に生きていること」を実感するためには、この「赤」が絶対的な必要条件なのだ。



11月14日「それ」
かたく、かたく夕闇が目を閉じる

ぼくたちの語らいにほのかに漂う音楽をぼくだけがひとり耳を傾けて
笑うきみ、微笑むきみ、怒り出すきみ、あなた
手をふるきみ、足を小刻みに揺らすきみ、あなた
音楽が漂う。ぼくだけが耳を傾けて

かたく夕闇が目を閉じる

どうしてなのだろう。そこに立つ人たちのなにひとつ失う
ものなく、揺るぎない確信とかたく握りしめた拳は・・・
ぼくの語りかけに返事もせず、握りしめた拳は

その拳は高く、高く沈む夕日にむけてさしのべるのか

かたく、かたく夕闇が目を閉じる

ぼくたちの語らいに沈黙がただよう。ぼくひとりそれに耳を傾けて
笑うきみ、微笑むきみ、怒り出すきみ

そして、そこにいたそれ、あなたは、だれだったのだろう。

遠い空の雲のふちによぎる一滴のため息。

ため息。ため息。ため息。その奥から大きな笑い声がする。
朱に染まる雲の奥から大きな笑い声がする。

語りつづけるぼくらの上に乾ききった笑い声が響く。
きみなのか。あなたなのか。ぼくなのか。
ここにいないきみなのか、あなたなのか。ぼくなのか。

静かに夜がまぶたの向こうに訪れる

               かたく夕闇が目を閉じる




10月30日「チェーホフ観劇」
 ロシア国立アカデミーによるチェーホフ『三人姉妹』を観た。セリフはすべてロシア語で、回り舞台のマールイ劇場をそのまま再現している。
 さて、この芝居では様々な恋がストーリーの軸となって物語が展開する。すべて不幸な恋である。

 −むしろ、恋と言うものは、そもそも不幸なものなのか。

 狂言回し役は軍医チェプトィキンと砲兵中隊長ヴェルシーニンである。

 軍医は「みんな存在しているように見えていても、実はなにも存在していない」と、事あるごとに酔いながら繰り返し呟く。
 中隊長は「今のこの生活は後世の者たちには憫笑の対象となるだろう。この後の時代はよくなる。生活は望みどおりの世界になる。」と力説する。
 そして、芝居の最後の長女オーリガの有名なセリフ。「・・・わたしたちの苦しみは、あとに生きる人たちのよろこびに変わって、幸福と平和がこの地上に訪れるだろう。そして、現在こうして生きている人たちをなつかしく思い出して祝福してくれるだろう。ああ、可愛い妹たち、私たちの生活はまだおしまいじゃない。生きていきましょう。・・・もうすこししたら、なんのために私たちが生きているのか、なんのために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ。・・・それがわかったらね。それがわかったらね。」
 それに対して軍医が「・・・おなじことさ、おなじことさ」と呟く。

 決闘があり、火事があり、ロシアの近代のお話の舞台装置が散りばめられている。

 私はこの芝居に「空虚」を見てしまう。無心になって恋に走る者たちの隣りに、熱く希望を語る者、執拗に現世否定を語る者がいて、そして、これらの者たちの中心にうずくまっている「空虚」を見てしまう。

 「今の苦しみ、今のむなしさ」が、今において、決して救われることがない。そのことはよく分かっている。それだからなのか、人々は、不幸な恋や、不幸な観念にからめ取られ、そして、空しい結末に向かう。「空虚」がゆえに、「空虚」へと向かう不幸とでも言うのだろうか。

 − あるいは、情念のあるところに「空虚」が巣喰うのか。

 おなじロシアの作家ドストエフスキーの「神」のことを思いながら、この芝居を観ていた。



10月11日「まれびと」
 昨晩、友人が家に来て、酒呑んで、泊まって、今日帰った。今朝、朝食を彼と食べながら、たわいのない話をしているさなか、「客人は、ひょっとして福を連れてくるのではないか」と、とりとめもなく思った。特別、今日、なにかいいことがあったわけではない。寝不足で、二日酔いでふらふらだ。でも、客人がいっしょに連れてくる不思議な力を感じてしまったのだ。
 客人が訪れる日は朝からそわそわする。どんな料理にするか。嫌いなものはなんだったか。好きなものはなんだったか。と、あらためて思い起こす。彼が来る時間にはテーブルのお膳立ては済ませ、料理がちょうど出来上がるように仕込む。さて、彼がやってくる。「ワイン2本持ってきたよ」。玄関で高々とボトル2本を掲げる。出来上がった料理をテーブルの真ん中におき、まずはそのワインをあけて、乾杯する。そして、あとは食べる。飲む。しゃべる。気がつくと、次の日になっている。不思議な1日である。
 沖縄のニライカナイ信仰に刺激をうけた国文学者かつ民俗学者折口信夫は「まれびと」の思想を確立した。「まれびと」とは、一般に客人のことを指すが、彼によれば、本来の意味は「遠くの地からまれにくるたいせつなひと」のことであり、そもそもが「神」のことだと言う。

 そう、「神」なのだ。「客人」は「神」なのだ。

 「神」を迎え入れるためにはそれ相応の「もてなし」がいる。ここで生じる「神」との「交換=EXCHANGE」において「なにかが起きる」。

 今日、私はそれを「福」だと思った。



9月18日「Sometime−五十嵐一生」
 最近サムタイムへよく行く。サムタイムは今では吉祥寺の老舗のジャズライブスポットである。かつては若く才能があるジャズミュージッシャンをここで見つけては、その後の成長を見守ると言う楽しみの場であった。もっと昔では新宿のピットインの午前、午後の部がそうであった。ふと浮かぶ名は本田竹広か。
 さて、サムタイムで、こいつは伸びると目をつけたひとりに若き日の五十嵐一生がいる。はじめて聴いたときは「天才」だと思った。すばらしい演奏だったので、その晩、演奏が終わるまでジャックダニエルを友人と2人で一本空けてしまった。演奏後、「お前はすげーよ。」と言って握手しにいって、「ありがとうございます」と言ったときの汗をかいた彼の表情と手のぬくもりが忘れられない。そして、その後、彼はどんどん伸びた。自分のバンドを率いり、リードアルバムは出すわ、スイングジャーナルの特集は飾るわで、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
 さて、最後に彼の演奏をやはりサムタイムで聴いたのはそんな絶頂の時だった。がっかりした。わがままな演奏はそこにはなく、他のメンバー(たいした奴らでなかった)に合わせたつまらない演奏だった。今も覚えている。最後の演奏にモンクの曲をもってきた。まったく気に入らなかった(セロニアス・モンクは大好きだが)。演奏のプログラムがなっていなかった。加えて、初めて聴いたときのブッカー・リトルを彷彿とさせる透明な音はどこにもなかった。ことごとく「凡庸な天才」になってしまっていた。そのライブを聞いた後、彼のことにはまったく関心がなくなった。名前も目に入らなくなった。
 しばらくしてあるジャズトランペッタについての記事が新聞に取り上げられていたのでなんとなく読んでいたら、五十嵐一生の名が出ていた。食い入るように読んだ。その内容は、マリファナの常習犯で禁固刑になったトランペッタの話で、彼は自分の犯した罪を深く反省している。その姿勢を評価して裁判官が服役の前に、一回だけ演奏をしていいと許可をしたと言うのだ。実にくだらない話だ。彼はその裁判官の判断に深く感じ入り、感動の演奏をしたと言うのだ。ああ、五十嵐一生よ、そこまで落ちぶれたか。そう思った。
 サムタイムに最近よく来る。ライブの時間には行かない。昼過ぎのコーヒタイムだ。最後に彼のモンクの曲を聴いた席に腰掛け、本を読むのだ。この文もここで書いている。ここのこの席に座るたびに、最後にモンクをもってきたのが彼を狂わしたのだと意味のないことをひとり呟く。と同時に同じこの目の前で飛び跳ねてラッパを吹きまくったあの「天才」にもう一度会いたいと思う。おまえがやらないなら俺がやるか。なんてもっと意味のないことも思ったりもする。



8月28日「沖縄−奇跡」
 「沖縄にはなにもない」と岡本太郎が言っていた。「なにもない」とは得るものがなにもない。なんの価値もないと言うことでなく、恐ろしいほどの「虚無」とでも言っていいような「Nothing」が「ある」と言うのだ。
 沖縄の魂の象徴とでも言える御嶽(ウタキ)と呼ばれる古代からの霊場がある。今やそのほとんどが香炉や鳥居がおかれ内地からの宗教に演出されたものとなってしまっている。しかし、いまだ原初形態を維持している「ウタキ」にはなんの変哲もない石が霊場の真ん中にただころがっているだけで「なにもない」。その「なにもなさ」が驚異的な体験となると言うのだ。
 私も、ある代表的な「ウタキ」へ行ったことがある。私が訪れた時、いくつかのグループが何カ所かでたむろしていた。(かなりハイレベルな霊場なため、宗教団体関係が礼拝に来るらしい。)煩わしいので、別の誰もいない奥の拝所へ行くと、奇妙な鍾乳石があるだけでなにもない。ただし濃密な霊気が漂っていた。決まってそう言うとき、私は鳥肌が立つのだがそれがまるで起きない。むしろ「それら」は優しく包み込む。私は陶然としてその場に立ちつくした。そこで起きたことはここではこれ以上話さない。つぎに最初に寄ったメインの拝所に戻ると誰もいなくなっていた。そこで起きたこともここでは話さない。
 沖縄は各所観光地化が進み、那覇の郊外はベットタウン化し、都市化が著しいものとなっている。でも、この「ウタキ」に立つと沖縄では奇跡が起きていることを体感できる。ここには「なにもない」。しかし、生命の内臓に迷い込んだような優しいぬくもりに抱かれ、つかの間まどろみに襲われ、すべてが与えられる充溢感に恍惚とする。そう「ここにすべてがある。」



8月2日「沖縄−青青青」
 その取引先へ行くには車を降りて歩かなければならなかった。細い裏路地に迷いこんだのが失敗だった。目当てのところになかなか辿りつけない。人に道を訊こうにも沖縄の真夏の昼日中に人影はどこにも見当たらない。もちろん犬や猫もいない。蝉もこの時間には鳴くのをやめてしまう。暑さで木から落ちる蝉もいる。汗でシャツはびっしょり濡れ、ネクタイにも汗が浸みてきている。俺は簡単な地図を見ながらため息をついた。小さな合歓木の木陰でペットボトルの水を飲んで一息入れ、空を見上げた。
 「なんと言う青さだ。そしてなんという雲の白さだ。」
 汗がポタポタと地図に落ちる。赤い瓦屋根のシーサが彼方をにらむ。
 「どう考えてもこの坂の先だ。」
 一度通った道だが、もう一度行くことにした。白い坂道を10mほど登ると、「あ、こんな階段あったけなぁ」目の前に階段が立ちふさがった。白い階段が真っ青な空に向かって昇っていた。なにも考えず、俺は登り始めた。一段一段足を運ぶ。でも、階段の向こうが見えてこない。下から見上げたときはそんなに長い階段には思えなかった。登っても登っても青い空があるだけだ。持っていた鞄を投げ捨て、汗をタオルで拭いながら、意地になって登り始めた。でも、どうしてもたどり着けない。「戻るか」はじめてそう思った。そこで振り返ると、はるか下に真っ青な海が波打っていた。



7月19日「しらざーいって」
「先生、どうも体の右半分が麻痺して体を動かすのもつらいです。」
「いつからなの?」
「先月からです。」
「なにかした?」
「とくになにもしませんが」
「ここは?ここは?」と言いながら医者は私の体に触り、深呼吸をした。
「あれだね。あれ。」
「あれ?」
「あれだよ。すぐに左半分も麻痺するよ。」
「え、治療法はないのですか?」
「あるけれど」
「お願いします。」
「手術だよ。」
「どこを切るんですか?」
「左半分がひどくなる前に、右半分を切り落とします。」
「え、そんな!」
「早くしないと間に合わないよ。」
「すぐお願いします。」

 手術の結果、切り離した左半分も完全麻痺してしまった。
 手術は失敗だった。
「分かり切っているのに、なぜ患者は同意したのだろう。ま、絶命したので最悪は避けられたな。」
 医者は大きくため息をつき、仕事を果たした充実感に浸った。



6月27日「ラブドガン」

0.「ラブドガン」と言う映画を観た。監督は鈴木清順筋の渡辺謙作。

@殺し屋に追いかけられる殺し屋の話で、追いかけられる殺し屋と無理心中で両親に死なれた少女との出会いと別れがストーリの軸になっている。

Aストーリの内容は荒唐無稽で、馬鹿馬鹿しい。しかし、その骨格は幾何学模様と言ってよいほど整然として美しい。

Bストーリのテーマは銃弾の色である。青は悲しみ。黒は憎しみ。黄色は恐怖。を、それぞれ表し、撃つ者の感情が銃弾の色を染めると言う。

Cさて、そこで赤はどんな感情をもって撃ち放たれたときの銃弾の色か?それは愛情だと言う。愛情をもって撃ち殺す。そのときの銃弾の色が赤なのだ。

D歴然と「拳銃−銃弾−殺人」は性行為の比喩だ。これは男の行為を表すだけではなく、「行為」そのものを喩えている。悲しみや、憎しみ、恐怖から人を殺すこともあるが、「真の殺人は愛をもって」と言うことなのだろう。

Eつまるところ「殺人=愛」と言うことか。

F映像はどこまでも暗い。セリフはどこまでも重い。

G病死を題材に、お涙頂戴ものの小説や映画が跋扈する今時、下品なタケシ的殺戮でもない、殺人映画は好感がもてた。

Hしかし、あまりにも計算しつくされた映画でなにかものたりなかった。

I映画館は空いていた。だから両脇に荷物をおいてひとりだらしなく寝そべるようにして観ていた。でも右側の席の3つ先の客が気になっていた。映画が終わってそちらに目をやると人はいなかった。きっと途中で帰ったのだろう。それにしても、ずっと気配がしていた。きっとそっと帰ったのだ。そっと・・。



6月13日「多分、理由はここにあるような・・」
 今の仕事を始めてから最北は北海道の和寒、最南は沖縄の豊見城、日本中ほとんどの土地へ仕事で行った。そして、それぞれ「いきつけの店」ができた。そのほとんどが立派な構えの店ではない。泡盛で酔った後、立ち寄る沖縄の「三角そば」(2本の道路に挟まれた三角形州にある店であって地元ではそう呼ばれている。店の名前はない。看板もない。)。金沢の香林坊はずれの居酒屋(酒を飲む私の面前で客の予約の電話をうけ、その時間になってもいっこうに客が来ない。そして、いつまでたっても客は私ひとり。それでも店の者は皆平然としている。さすが泉鏡花の地元)。大阪お初天神裏の地元の地酒しか置かない居酒屋(あの曾根崎心中の舞台だ。)。客の会話も圧倒する音でジャズを流す札幌の老舗ジャズバー(多分、地図だけではたどりつけない知る人ぞ知るの店。)など、くせのある店が多いが、どれも旅先でくたびれ果てて「流れつく」場所で、ほんの2、30分でもそこにいるだけで疲れが癒されるのだ。(そう言えばどれもきまってひとりで行く。)
 こうした数ある店の中でも、癒しの店、筆頭は、博多の屋台だ。その店とはもう10年以上のおつきあいである。この店に先日久しぶりに寄った。ばあちゃんはいなかったが、いつものにいちゃんとおばはんはいた。私はラーメンを注文し、できるまでのその間、ミミガーをつまみ湯割りの芋焼酎を啜る。「城島が打ったぁ!」とおばはんがテレビのダイエー戦に興奮している。にいちゃんは黙々と仕込んでいる。やがて豚骨ラーメン(博多のいたるところで喰ったがここの豚骨が最高だ)が差し出され 、ゆっくり食べる。そして「お勘定」と言うと、にいちゃんの計算は相変わらずでたらめで(金額が多いときと少ないときがある。もちろん悪意はなく、ほんとうに計算が駄目なのだ。)、おばはんはちゃんと計算できている。帰り際みんなで大笑いして、店を後にした。
 愚かしい人々との実りのない商談。意味もなく罵る人々。頭を下げ、強く主張し、頭を下げ・・・。人生のほとんどを占めるこうした「馬鹿馬鹿しさ」が、出張先で集約され繰り広げられる。そんなこんなも、屋台の「ぴょん吉」での大笑いとともに博多の闇につかの間消え去る思いがした。そして、ふと立ち止まり、振り返って写真を撮った。大儲け、小儲け、欲望、絶望、好意、憎悪。この屋台を見つめているとどうでもよくなった。



5月30日「山上のおにぎり」
 『忙しいっていいものだ。朝早く会社に行って、遅くまで仕事をして、くたびれて帰る。北海道へ行ったかと思うと九州へ出張。やれ会議だ。商談だ。休みは疲れ果てて人と話す気にもなれない。でも、ますます忙しくする。「俺は仕事してるんだ!」少しばかりの知恵がつき、口先上手になり、成長を実感する。多忙がこうして人を成長させる。忙しいっていいものだ。「俺は仕事してるんだ!」』と言っている奴の傍らで大あくびをして屁をする奴を遠目に、地べたに寝そべって舌を出して昼寝する奴の100km先の山の上で、私はおにぎり喰いながら沈む夕陽に舌鼓をうつ。







5月16日「5月16日雨」
 今日は一日雨だ。本を手にとり読み進めると、うつらうつら眠ってしまう。疲れ果てているのだ。バタイユ研究者の『絵画と現代思想』を読み終え、筆者のバタイユ的思考の枠組みでしか考えられない姿にうんざりし、さてさて、それでは久しぶりに森敦でも読もうかと『鳥海山』を取り出し、グレン・グールドのバッハオーボエ組曲を聴きながら読み始めると眠ってしまった。ふと、起きると、外の雨は激しくなっている。今日の阪神戦はないなぁ、なんて思い、キッチンに向かい、紅茶を入れる。
 昨晩のNHKの高田渡のドキュメンタリー番組を思い出す。吉祥寺の『いせや』で昼間から呑んでいる彼の姿、いつも私が行く飲み屋で夜ふと隣席を見ると彼が呑んでいる姿。ああ、いい風景だといつも思っている。その高田渡がテレビに出ていた。沖縄のライブで最後には客の前で眠りこけてしまう。ああ、いい風景だ。生きている彼の風景を思い起こしながらフォト&メーソンを入れ、自室で煙草を吹かしながら飲む。ひんやりとする湿気を含んだ空気が煙草の香りと絡みあう。それでは、本の続きでも読もうか。それともこの疲れがいつぞや癒されたら、書くつもりのことどものことでも考えようか。ああ、それにしてもいつになったら疲れが癒されるのだろう。死んだ後でもかまわない。ぐっすり眠りたい。



5月5日「イラク」
 イラク「問題」について、発言をひかえている。なぜなら、情報テクノロジーと一体となった高度資本主義のある種の「成果」と「なれの果て」がそこに横たわっており、ここで語る者たちはすべてあの「クレタ人」であり、そしてあの無限自己言及のスパイラルに「己自身そっくりのまま」が巻き込まれるからだ。

 「「クレタ人は嘘つきだと「クレタ人が言った」」と「クレタ人」が言った」」と・・

 と言いつつ、「発言」を少しばかりしよう。

 問い:「情報テクノロジーと一体となった高度資本主義」?

 ヒント:空間も時間もねじれて、位相転位と反転が反復して、その中で 「利潤」を生み出す。このスパイラルテクノロジーの氾濫は、まさに「歴 史の終焉後」の煉獄のようだ。


4月10日「PROFFESOR」
「桜の花吹雪がいいね」
「花びらがほら杯に・・」
「あ、俺のにも」
「本は出さないのですか」
「紙がもったいないよ」
「でも、ほらこれまで書いたもの、読みたいですよ」
「読む人にだけあげます」
「花びらが、また・・酒に浮かんでいいね」
「いいですね」
ぐいっと一緒に飲み干した。

「〜をすべし」の呪縛が桜吹雪とともにほどけていくような気がした。

数日後、彼の論文が送られてきた。

そして、

 「生きることは決してたやすくない。すべての哲学とおなじく、
 とカミュはこう教える」

 という文から始まる彼の恩師の旧仮名遣いのエッセイも同封されていた。



3月31日「白い花」
 私は母の影響もあって白い花は嫌いだった。「白い花は死者を送る花だから好きではない」と母が私の幼少期に言った言葉がずっと私を支配していた。しかし、杉浦日向子の北斎を扱った漫画を読んで「木蓮」と言う白い花がたまらなく好きになってしまった。
 どんな漫画かと言うと、庭でカランカランと言う音がするので障子を開けると、高い木の下で小坊主がほうきで何かを掃いている。よく見ると「どくろ」じゃないか。木を見ると枝に小さな「どくろ」が沢山ついている。その「どくろ」が落ちてカランカランと音を立てているのだ。眼をこすりよくよく庭を見直すと、高い木は木蓮で、立派な大きな白い花を沢山つけている。その下で小坊主が落ちた白い花を掃いている。
 それだけなのだが、この漫画に接して以来、私は木蓮が好きになり、白い花が好きになった。
 さて、「どくろ」なんぞとなれば、ますますもって「あの世」の香り漂うわけで、それがとにかく気に入ってしまったということは、おびただしい疲労と無意味な消耗の日々に、そこはかとない否定を、「この私」は告げたいのかもしれない。



3月14日「香月回顧」
 香月泰男回顧展を観た。「物質の力」をこれほど感じた画家はいない。彫刻家ではジャコメッティの作品に接して感じた世界だ。
 香月はシベリア抑留を体験し、極寒の地で過酷な労働を強いられ、仲間の不条理な死を目の当たりにしてきた。作品紹介ではその体験や、反戦的な部分ばかりが語られるが、そんなことなんてどうでもいい。大切なのは作品そのものと向き合うことだ。生の物質化ともいえる「死」と交える空間で浮き上がる「思考の無効と停止」の極北で、まさに彼方から訪れる「力」(これを「物質の力」と言いたい)、その「力」との相克が彼の作品に一貫して漲っている。「眼を閉じて」作品そのものに向き合う。すると、この無慈悲な「力」の照射に抗いながら小さなキャンバスの中に、この「力」を封じ込めた画家の「生の力」が、暗いステーションギャラリーの煉瓦の壁にこだましだす。
 狂気と紙一重の地点に立って、私は「再生」した。



3月6日「おおさか」
 大阪へ行って来た。昔10年ほど住んでいた町なので、故郷に帰った感覚である。東寺の五重塔が新幹線の車窓の視界からはずれ、北陽高校のグランドの前を通り過ぎ、地面の白っぽい色を見ると「ああ、帰ってきた」と思わず呟いてしまう。
 ところで、「大阪へ行くんだがどこへ行ったらいい?」と、よく訊かれる。はっきり言って見る所はどこもない。大阪城も、道頓堀も、通天閣も、なんもおもろない。でも、私は大阪は心休まる場所だと思う。町がいいのだ。酒場がいいのだ。ここで紹介している「呉春」は大阪の池田の地酒しか扱わない店だ。とにかくこの酒は旨い。燗も、冷やも旨い。曾根崎警察の裏あたりにある。ちなみに池田は大阪空港の近くである。さて、そこで一頻り呑んだら、串揚げだ。立ち呑み屋だ。一本100円から200円の串揚げをソースにつけて食べる。ざっくり切ったキャベツをつまみながら食べる。お客はオヤジばかりである。みんな煙草をスパスパ吸って酒を呑む。灰皿はどこにもない。床が灰皿だ。ここで呑んで喰ったら一応満足だ。次はサンバーなのだが。この日は疲れていたので、たこ焼きでいっぱい呑んで終わりにした。いやー、ほんとに心休まる町だ。









2月15日「ゆりかもめ」
私は「ゆりかもめ」が好きだ。鳥ではない。お台場方面を走っている電車だ。なぜ好きかというと、それに乗ると、未来都市を描いた30年くらい前のSF映画の都市を、それも、ちょっとばかり安っぽく、しかもどこか「変で、悲しい」SF未来都市を体験できるからだ。
 お薦めは雨の日、早朝に乗ることだ。一番前の席に座る。無人ロボット電車だから、運転席に座れる。これが実に楽しい。目に飛び込んでくる風景・・・・白骨レインボーブリッジ、遠く林立する高層ビルの墓標。生気を失った東京湾。これらがどんどん後ろに流れていく。これはどこかで昔、味わった感覚だ。そうだあれだ。映画「惑星ソラリス」(昔の傑作の方)だ。未来都市を表現するためにタルコフスキーが映像に使った東京の首都高のシーンだ。「感動無くスピード感があって、しかも、チープで、悲しい未来」をふんだんに香らせるあのシーンで感じた感覚だ。
 さて、まだ楽しみがある。「ゆりかもめ」をお台場で降りて、あの無様なマスメディアの奇形ビルを背に埋め立ての砂浜に立つと、不思議に感動するなにかがある。それはかつて学生時代に仲間と8mm映画を撮って、試写で、白黒の風景に自分の姿が浮かんだときの、うらさみしい感動にちかいものだ。ここにいて、ここにいない。なにもかも虚構なのだ。しかも、歴然と虚構なのだ。それもまた気持ちいい。


2月1日「20世紀末に私が書いたコラム」
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      1970年 「よど」号 三島由紀夫 アラン・ケイ
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 東大のバリケードの中からピンキーとキラーズのヒット曲「恋の季節」が流れていた。バリケードの内側は思ったほど緊張感が漂っていなかった。しかし、1969年1月、一気に緊張感が高まった。明日か、明日かと構えていたその日がとうとうやって来たのだ。重装備の機動隊の突入とともに学生達が籠もっていたいわゆる安田砦は崩れ、「恋の季節」が終わった。1969年1月29日だった。
 60年代、全国的に広がった学生叛乱は、これを機に(と言ってよい程)方向を失い、大人達は「教育を見なおす」ことに懸命になっていった。
 景気は極めて良かった。次の年、1970年は日本万国博覧会が大阪の千里丘陵で開催され、絵に描いた未来に人々は殺到した。世界中の食物、世界中の絵画もこの丘陵に集められた。だが、浮き足だつ日本の隣国では、ベトナム戦争が泥沼化し、この年、アメリカ軍・南ベトナム政府軍がカンボジアへの侵攻を開始した。
 経済高度成長を誇っていた日本だが、各地では公害問題が深刻となり、都市の住宅地でも光化学スモッグが子どもたちを襲いはじめていた。注意報が出たときは外に出ないようにと指示が出るほどになった。高度成長のひずみは工場地帯や遠くの漁村の問題ではなく、日本人一般にとって身近な問題となってきたのである。
 にもかかわらず、この年を境に、60年代街頭に出て現状を変えようとした若者達、学生達の間には無気力感が漂いだし、「挫折」という言葉がどこからともなく飛び交いはじめた。
 60年代後半から、世界中で、戦後体制のひずみが露呈してきており、日本では70年代に入ってからそれがつぎつぎに吹き出した。1971年のドルショックによる株価の大暴落、1973年のオイルショックと、経済成長が下降線をたどるにつれ、若者達は自分達をとり巻く世界を変えることよりも、自分の内面へ関心を向けはじめたのだ。
 「恋の季節」が終わった1970年は、戦後日本の爛熟した繁栄の頂点の年であり、同時に、繁栄の影に押し隠されていた政治的、経済的矛盾が吹き出しだしはじめたた年でもあった。
 この年、象徴的な事件が2つあった。作家三島由紀夫の自刃と新左翼学生による「よど」号ハイジャック事件である。世界を変えようとした彼らだが、作家の手と、そして、学生の手に光った日本刀は手応えのあるなにかを叩き切ることもなく、片や自らを殺め、片や遠国へ消え去った。

 ところで、20世紀末を彩るパソコン文化はこの時すでに準備されていた。1973年に発表されるパソコン第1号「暫定ダイナブック」の構想をこの時、すでにアラン・ケイは暖め、開発を手がけていたのだ。専ら軍事用に利用されていた中央集権的な大型汎用コンピュータを、パーソナルへと解放しようとしたアラン・ケイの夢は、ある意味では、そのまま叶えられたと言えるだろう。今、ネットワークの驚異的な展開とともに、個人同士が地球レベルでコミュニケーションできるようになり、また個人が国家を越えて経済活動することが容易になった。パソコンは「世界を変えた」ことは事実だ。

 こうしてみると、アラン・ケイが「世界を変えよう」とパソコンを構想していた、その頃、同じように「世界を変えよう」としていた三島由紀夫が受けていた最後のアンケートの回答が印象的である。

 問い「今、もっとも関心があるものは?」 答え「コンピュータ」・・


1月25日「ドコモビル」
 昭和天皇大喪の礼の儀式がとり行われたのは新宿御苑であった。つかのま建てられた総白木の社は儀式終了後、たちまち取り壊されたと聞いた。しかし、十数年ぶりに御苑に行ってみると、私が好きな西洋庭園はどこにもなく、それがあった場所に大喪の儀式が行われた社とは違った大きな社が建っていた。大きな鳥居は真西を正面としており、鳥居から真西を見ると、上の写真となる。いわゆるドコモビルが大きくそびえている。ふと、日本の経済の沈下は風水的に見て、あのドコモビルに原因があるように思えた。日本経済の復活のためにはあの品性の欠けた偽エンパイアを引っこ抜いて消し去るしかないのではないか





1月11日「冬の花火」
 凍てつく夜闇に花火が開いた。−冬の花火−冬の夜空には無数の星が冷たく輝き、空の「黒」はどこまでも深い。火の玉が一筋地上から昇り、この星と黒を光りで切り裂く。が、一瞬にして、凍りついた夜闇が押し寄せ、星と深い黒が頭上に広がる。そして、また一筋、二筋火の玉が走り、闇とせめぎ合う。
 私は冬の花火は嫌いだ。冬の花火はどこまでも冷たく、冷たい夜闇をさらに冷たくする。絶望が心を支配している者が一人冬の花火を見つめていたらどうだろうか。冷たい闇に光が大きく放たれ、そして、再び冷たい闇が押し寄せる。それがいく度も繰り返される。その度、自分の心に鋭利なナイフが繰り返し差し込まれる思いがし、いたたまれなくなるだろう。−そして、そんな時、最後に打ち上げられた花火が、土星型だったら、即刻、彼はその場で自らの命を絶つか、絶望のすべてが一気に揮発し、その場でけたたましく大笑いするか、そのどちらかのような気がする。冬の花火は嫌いだ。危険すぎる。