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12月27日「年末のほのぼのとした風景」

 昨日、マンションのエントランスに抹茶色の二羽の小鳥がガラス戸の下にうずくまっていた。私が近づくと見上げて、嘴をつつく真似をする。私は立ち止まって二羽の様子をしばらく見て、
「なにか欲しいのか」と言うと、首を傾げた。
「ここにいると猫に襲われるよ。戸を開けてあげるから、飛んで行きなさい」と言うと、二羽同時に笑うように口をぱくぱくさせた。

 目の回りが白いのでたぶんメジロだろう。まさにウグイス色なので 、ウグイスと間違えそうだが、メジロにちがいない。私は自動ドアの前に立ち、ドアを開けた。二羽は動こうとしない。「しょうがないな」と言いながら、包むように二羽をそっと両手で掴まえた。なされるがまま、じっと私を見つめている。よく見ると嘴が長く鋭く尖っており、二羽ともうっすらと赤い血のような色に濡れている。でも、怪我している様子はない。一羽は頬まで濡れている。

「怪我しているようには見えないけれど、気をつけなよ。この辺りは猫がうろうろしているよ」二羽は、また大きな口を笑うようにぱくぱくさせた。

 マンションのドアの外に出ると、大きな冬枯れの欅に向けて両手を伸ばすと、二羽は飛び立っていた。ほぼ同時に、ニャーオと言う猫の声が背後から聞こえた。

「だから言ったろ、危ない危ない」

 猫の方を振り返ると、白い猫が弧を描くようにふらふらしている。両目から血を流していた。さらにその後ろから茶色の猫がふらふら歩いてきた。同じように目から血を流していた。どうしたことだろう。なにが起こったのだろう。「ギャ」と言う声がしたので、欅の方を見ると、二羽のウグイス色の鳥が飛び立ち、根本で黒い猫が顔を木にこすりつけて前足で空を切っている。

 メジロは「猫狩り」を楽しんでいたのだ。今度はエントランスに猫がいたら「メジロがうろうろしているよ」と注意してやらねばならない。


10月27日「作家の中の作家」
  内田百閧ヘ作家の中の作家だ。

 書く内容の虚実などどうでもいい。言葉そのものが編まれるままに開かれる世界を彼は「だらだら」と描き続ける。この「だらだら」の奥には、深い闇が横たわっている。

 それは彼の意識の奥にひきずる「死」の風景だ。戦争や震災で死んでいった人々の黒い影だ。

 日常の中で、いつものように、「今度、会いましょう・・」と約束し、それが叶わなくなった人々。会おうと思って、その人の住んでいたところに行っても、家は焼け、それどころか辺りは焼け野原になり、どこになにがあったかわからない。天災、人災で理不尽に死んでいった人々の死の影が、百閧フ作品の奥に横たわっている。

 この死を前にした無力感。笑うしかないし、ふざけるしかない。でも、ひきずる影はどうしようもない。そして、百閧ヘ言葉の内にこの「どうしようもなさ」を織り込み、沢山の物語、エピソードを蚕が糸を吐くように編み出していく。まるで死者達を供養するように書き続ける。彼が死んだ今も、書き続けている。


8月1日「リーマンショック直前直後」
昨年のリーマンブラザーズ破綻直前の日記と直後の日記だ。私はこの後、内田百閧ノ没頭した。








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 2008年8月24日(日)
 9:33 雨
 寒いくらいだ。金曜に北海道から帰った。その日から東京も涼しくなった。

以下、HPに書こうと思ったがやめた。

 かつて学生闘争が激しかった時代に流行っていた言葉に「主体性」と「自己否定」がある。

 他に迎合することなく自己意志で判断し、行動するというような意味がこめられた「主体性」と、留まることのない変革を己にも差し向ける「自己否定」といったところか。

 でも実際は政党やセクトという集団の意志や、あるイデオロギーに積極的に従属することが「主体性」であり、ブルジョア的と称する体制に身を置く己を否定して、あるイデオロギーに与することが「自己否定」であった。

 そこには複数の選択肢はなく、また責任主体という言葉も皆無である。ひとつだけの選択肢を「主体的」に選び、体制内の自己を否定し、ある集団の中に身を置いて集団と一体となって活動する。それは、まさに思考の停止と責任の放棄であった。

一方、現代である。

 高度テクノロジーに裏打ちされた資本主義の市場原理支配が徹底したように見える今、リスク社会論がもてはやされている。「かつて」との決定的な違いは「自己責任」ということが前面に出ているという点だ。フラットな条件下で己が判断し選択した行動のあらゆる結果に対して己が責任を取るというのだ。経済活動の原理を一面的に社会理論化したと言える。この社会理論に決定的に欠如しているのは、共同体の「共同性」である。そこでは社会は共同の基盤、すなわち、社会そのものの責任を放棄してしまっているのだ。

 かつては集団という共同体によって自己が圧殺され、今は個の基盤である共同性がみごとに剥奪された自己がぽつんと立っている。そして、自己選択と自己責任というキーワードが、かつては中心的な役割をもっていた中間層の心を圧迫し、没落へと追い込んでいる。

 そもそもがフラットな条件などないのだ。親が豊かな子供は将来、高い確率で豊かとなり、親が貧しい子供は将来、高い確率で貧しくなる。そこに生まれたことは「自己選択」ではないし、しかも、それがその後のステータスを決定的にしているのだ。

 いずれにせよ、かつても今も、喪失しているのは「共同性」である。
人が人として生き、活動する場は、まず人との「共同の場」である。植物が育つには土壌が必要であり、そのような「場」が喪失している。

 で、そこでお前はどうするのか? 最近、私はそんなことばかり考えている。

 そんな時、詩人吉増剛造の企画展に行った。そこにはなんら救いも解決もなかった。でも、自分の詩を朗読する詩人の言葉と声を聴いていて、人が生きていく際に迫られる「諾と否」の基準がここにあるように思えた。


 2008年9月21日(日)
 15:00 雨
 かなり涼しくなった。
 5日くらい前、アメリカの大手証券会社がつぶれた。続いて波及すると言われた大手保険会社にはアメリカ政府は巨額の税金を投入して救済した。

 徹底した市場経済を「自由」の象徴としてきたアメリカは極力国家による経済活動の関与を排除してきた。この楽観的な市場原理にもとづく経済を日本に直輸入しようしてきたのが小泉政権だった。生産管理と資本の周到な管理がコンピュータによってなされ、カタストローフも予想され、すべての経済活動はコントロール可能であるというアメリカ的な知性が一気に崩壊したと言える。

 今や、経済活動は「数値と記号」のみで進行している。商取引上の「超越的存在」である貨幣は姿を消し、数値と記号が支配しているのだ。「信用」という名のもとで、空疎な「担保」をもとに数値が集中し、拡散していく。コンピュータシステムによって貨幣経済の行き着くところまで行き着いたと言える。

 真面目な顔をして「ごっこ」を演じ、巨万の富を手にし、更にそれを膨らませるために見事に論理的に構築された虚構商品をつくり上げ、崩壊する。

 このきっかけになったのは「土地」である。「信用」という空虚な妄想を妄想と知りつつ、土地価格の上昇を「信じて」、数値を積み重ね、膨らませ、崩壊していく。所詮空疎な遊びなのだ。

 土地を耕し、種をまき、収穫する。あるいは食べる分だけ野山に獲物を捕りに行く。そして、土地に感謝し、カミに感謝する。この「感覚」が戻ってこない限りは、崩壊は繰り返されるし、致命的な崩壊が約束されている。


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5月3日「Bio-Politique 生−政治」
 今、世界は豚インフルエンザで大騒ぎである。メキシコの寒村から発した新型インフルエンザはアメリカ、ヨーロッパに広がっている。もっとも毒性がそれほど強くなく、死者は医療体制が整っていないメキシコに集中しており、それ自体は「ひどい風邪」に過ぎない。

 問題は、こうした動きがそのまま「生の管理」の整備を強化すると言うことだ。人の「健康」のために衛生を徹底し 、隈無く人の生活から不衛生を駆逐する。人は感染を恐れ、他者を監視し、自己の健康を配慮する。かくして、中心のない「権力」は我々の生を周到に支配・管理するのだ。

 一方、インフルエンザが発生した村にはアメリカ資本の養豚場があり、豚の糞のずさんな始末で地元でトラブルがあったようだ。でも、メキシコ政府は放置していた。

 つまり、政府としては「金を落とす資本」にけちをつけたくない。資本が撤退することを恐れているのだ。だから、ましてやここが発祥地だと疑われている「はやりの風邪」で大騒ぎしたくない。そして、メキシコで死人が増えていく。

 恐らくは、この地の養豚場には日本を始めその他の国の資本も投下されているのだろう。

 かくしてグローバルな資本の動きは、ウィルスのグローバルな動きと相即し、世界中に清潔で、健康なマスクをした人々が溢れ、「生の管理」の精緻さに磨きがかかることになる。

 私は今回の豚インフルエンザウィルスの動きに「帝国」に対する、ある種マルチチュード的な抵抗の動きを見るような気がした。

 しかし、「帝国」の支配を強化する結果となるだけのようだ。



3月15日「水掛不動さん」
大阪の道頓堀の橋の欄干に寄りかかりながら、月を眺めていた。
川面には街の明かり、ネオンの明かりが揺らいでいる。
空には三日月がかかっている。少し冷たい風が川を渡ってくる。
法善寺横町で呑んで、ほてった頬に気持ちいい。

 僕は何を考えていたのだろう。

 東京の町の「明るい不安の夜」を表現した内田百閧ェこの町を描いたらどんな作品を書いたろうか。

 多分書けなかったろう。

 なぜならこの界隈には、いつでもでかいウナギがのたうっているし、振り返ったら戎橋はなくなっている。でも、次の日にはちゃんとある。そんなのが当たり前の町なんだ。

 帰りに、薄暗いいくつもの提灯が並ぶ横町の苔むした水掛不動さんにお参りしたら

「お前が書け!」と言われた。



1月4日 「さぁ、祇園へ行こう!」
 昨年の秋のことです。

 京都の清水寺に夕方行きました。京都駅に着いたときはすでに薄暮でした。お天気雨が通り過ぎたあとだったので、肌寒かったです。西に夕日が傾き、大きなまるい虹が京都の町にかかっていました。何かに導かれるように私はバスに乗り、五条坂で降りました。小雨がぱらつくなか、薄暗い坂道を登りました。

 やがて大きな山門が前に立ちはだかり、背を伸ばし仰ぎ見ました。暗くて、もはや全容ははっきりしません。ふと気づくと人がいっぱいいるではありませんか。夢中になって登ったために周囲が全然気にならなかったのです。夜のライトアップ清水寺に行くために長い列ができていたのです。私はライトなしの暗い清水寺参拝時間の閉門ギリギリに滑り込みました。

 それからのことはあまり覚えていません。ひたすら闇の参道を歩き、いわゆる清水の舞台に立ちましたが、眼下は闇の海でした。そんなことはどうでもいい。そんなことではなく、私を呼んでいるところに行かねば。そう、思って、振り向くと、闇の向こうで金色の手が手招きしてました。ふらふらそちらの方へ行き、靴を脱いで、蝋燭が何本も点いた、薄闇を歩きました。ぐるりと回廊を廻りきったときです。

「来ましたか。やっと来ましたか。待ってましたよ。天には虹、地には闇。私を見なさい」と声が上から聞こえました。見上げると、蝋燭に仄かに浮かぶ観音様が朱、緑、紫、白、黄の紐を握って微笑んでました。

「どれかを握りなさい」
 私は緑を握りました。

「よし、踏ん張れ!」と言うと観音様は紐を引っ張りました。
 私は前のめりになり、倒れそうになりましたが、すぐに体が浮き上がり、観音様のお顔の間近まで来ると、観音様は
「行け!どこまでも行け!」と言って、息を吹きかけました。

 私の体は吹き飛ばされ、お堂から飛び出て、舞台の上から、京都の暗い空を飛んで行きました。ふり返ると、あの観音様が追いかけてきました。

「さて、皆を呼ぶぞ!」
 鳥の群が夜の京都の町から湧くようにこちらに向かってきました。

「お前のことをみんな待っていた」

「みんな?」周りを見回すと、みな仏像、いや、仏様でした。

「ライトアップなんぞするものではない。京都中の仏がやってくるぞ」

「さぁ、祇園へ行って、遊ぼう」弥勒菩薩がウインクしました。

「ええ、祇園へ行くんですか。やっほ!」私は万歳をしました。

「そうさな、祇園精舎へ行こう!やっほ」観音様が宙返りしました。

「待って、待ってよ・・・祇園精舎・・・」

 京都の光に満ちた夜の町はどんどん遠のいて行きました。