9月28日「神の数式・・・完全数496」

アインシュタインの一般相対性理論の数式と量子力学の数式を統合する試み。これは、粒子が詰め込まれてしまっているブラックホールの底無限大に対する理論的な裏づけでもある。
ブロンスタインは、これを試みたが、無限大が至るところに発生することになり行き詰る。
結局、量子は粒子でなく、振動する弦状の輪になっているという「弦理論」をグリーン、シュワルツが導入することで、理論的に説明を完成させるが、ホーキングが、ブラックホールの底の熱(ホーキング輻射理論)はどのように説明するのかと反論する。これについては、ボリチンスキーが発展させた「超弦理論」によって一定の説明がついたが、一方、この理論にしたがえば次元が4つ以上、10次元が要請されるという。
果たして、ミクロの量子の世界に複数次元が存在するという理論で整合性がとれることになる。
アインシュタインの一般相対性理論から、その存在が想定された「ブラックホール」は、宇宙理論のいわば試金石であり、かつ、また「ブラックホール」が、複数の次元の存在を理論的に要請する。
つまり、「ブラックホール」という「虚無」が、その宇宙理論の整合性を問いただし、それがまた多様な次元の可能性を要請する。
こうした展開から、あることが頭をよぎった。
物理学の理論も、結局、「死の照り返し」で成り立っているのかと。
生きている限り、大きなテーマであり、生きている限り、つかみきれない「死」。この「死」という究極の不可能性から逆説的にひろがる可能性。多様な可能性。一義的な「死」から派生する多様な「生」の可能性。これはハイデガーの『存在と時間』で、死をめぐる議論だ。
まさに「ブラックホール」を巡る議論と、「死」を巡る議論は重なるのだ。
理論物理学者たちは、哲学者が語っていることを数式で表現しているのか、なんて、思いつつ、「アリストテレスはこれらをすべて語りつくしたんだな」と、はたと気づいた。
ところで、超弦理論を成立させる過程で、完全数496が常に計算結果として算出されたということ、かなり興味深い。
我々は死と生の織りなす世界に住んでいる。また、これも「ひとつの世界」であろう。
そして、私は、「この世界」に住みつつ、死と生の糸を手繰り寄せ、あらたに紡いで、織りなおす。一枚の織物ができたとき、そこに「496」が模様になって浮かび上がる。・・・完全数496・・これは「死」の別の表情なのかもしれない。
8月30日「木田元、とりあえず、Goodbye」

8月16日、木田元が亡くなった。
通夜にいった。暑い夕方だった。斎場におさまりきれないたくさんの弔問客が長い列をつくっていた。
私は早めに行き、場を仕切っていた兄弟子と言葉を交わし、焼香をすませ、斎場を後にした。今も親しくしている大学教師や関係者の姿もあったが、互いに目と目で挨拶するだけだった。
この人は不思議な人だった。
哲学者という肩書だが、ギラギラした思い切り俗っぽい人だった。
一方、頭はとびっきりよく、無駄のない思考の持ち主だった。
一匹狼のくせに、寂しいのか退屈なのか、常に人を周りに置いていた。
私は、できの悪い弟子だった。加えて、徒党を組む彼の風情が好きではなかった。
だから、疎まれることもあった。にも拘らず常に気にかけてもらい、そして、私は常に裏切ってきた。
この人は手強かった。彼のもとを離れる時、私は「俺はずっとこの人との戦いだな」と思った。なぜなら、彼はある言葉を私に投げかけ、それがその後の私を休ませることをさせなかった。
彼の訃報を知ったその日、「木田さんに伝えたい。勝ち負けの戦いではないが、やっとあなたに俺はここまできたよと言えそうだ」と思いながら、自分で書いたある文章のゲラの校正をしていた。
偶然に過ぎない。ただ二つの出来事が偶然交差したその日、私にとってここで起きたことは、限りなく「必然」に思われた。
ご焼香で木田さんの遺影を見ながら、わざわざ家に電話して、だらしない私をどなったこと、彼のもとを離れて10年後に会ったとき、満面笑みで迎えてくれたときのことなど思い出した。
そして、彼に纏わりつくたくさんの嫌気のさすことはあの棺の中に封じ込められ、私に対する思いやりだけが心にしみわたり、思わずこみ上げるものを感じた。
斎場を後にした日から、どうしても心のざわめきがおさまらない。
だから、ここに追悼のような文をあげることにした。
今年の木田元からの最後の年賀状の文
「まだまだお若い。未だに一仕事できるくらいのものです。
こっちは、もう八五歳、さすがにもう終わりです。」
こんなこと言いながら、最後に月刊文芸春秋で対談をして、亡くなった。
これからもあの爺いとの戦いは続く。
ギラギラした敵の多かった「反哲学者」よ、ありがとうございました。合掌
4月27日「桜・・寺山・・言葉」

東北は桜満開だった。
仕事で、寺山修司記念館の近くまでいったので、寄ってきた。
ドーム状の展示室を羽根をつけた「ことば」と「映像」が飛び交っているようで、
とても心地よかった。
寺山は死んだけど、ことばは生きている。というか、そもそも「ことば」しか、この世になかった。
安部公房風に言えば内臓を詰め込んだ革袋に、たまたま「ことば」が住みついただけなんだ。
間引かれしゆゑに一生欠席する学校地獄のおとうとの椅子
3月2日 「アラン・レネが死んだ。」

高校時代、大阪にいた。どうしても『去年マリエンバートで』を観たくて
しょうがなかった。大阪で観られっこなかった。
東京に出てきて、やっとアテネフランセで観た。
時間が交錯し、意識の所在が迷路に入ってしまう期待通りの作品だった。
この上映会では、種村季弘が解説するということだった。
上映が終わり、しばらくするとよたよたしたおやっさんが
壇上に向かって歩いてきた。
壇上に立ち、しゃべりはじめた。呂律がまわっていない。酔っ払っていたのだ。
会場は満席で皆さんじっと座って聞いている。
私は、せっかく観ることができた『マリエンバート』の余韻に浸っていたいのに
この糞じじいが台無しにしてしまった。
で、「バカ!」と言ったかは定かではでないが、席を蹴るように立って、
会場のどまん中をひとり歩いて立ち去った。
しばらく、種村は話をやめてしずかにしていた。
そんな18歳の時を思い出した。
その後『夜と霧』『ヒロシマモナムール』『薔薇のスタビスキー』など観たが
『去年マリエンバート』が最高な出来ではないかな。
ご冥福をお祈りします。
2月20日「温泉宿は、やっぱ、ええわ。」

一応、「仕事」はしてきた。まぁ、うまくいったと言えるのだろう。
九州の東ばかりここのところよく行っていたが、
今回は西だ。温泉があるので、温泉宿に泊まって「仕事」の前日、露天に入った。
久しぶりの「立ち寄り」でない温泉は気持ちよかった。全身がほぐれた。
宿では、浴衣に丹前で、煙草ふかふか、冷酒を飲みながら、くだらない文章を
ねっていた。
かつて小説家と称する人たちは温泉宿で執筆したらしいが、
たしかにいい感じで集中できる。ホテルとはちがう。
裸足で胡坐をかいて、時には寝そべり、天井を見つめ
そして、座り直し、煙草を点け、ペンをとる。
大きな座卓になんやらかんやら拡げ、書いたものを
じっと見つめる。
これはホテルではできない。
だらしなく、だらしなく・・。それがたまらない。
そして、温泉に入り直し、寝る。
しかし、今日の「仕事」で、全部元に戻ってしまった。
腰の痛み、肩の凝り、所在のない苛立ち・・・
こいつらすべてが一気にドアを蹴破って、来やがった。
まぁいいや。こうなったら、「いらっしゃい!、どんどんいらっしゃい」
小麦粉に混ぜこんで、油で揚げて、君らに振舞ってやろうじゃないか。
2月8日「大雪の中「砂の女」」

下北沢のスズナリで「砂の女」を観て来た。安部公房の作品を壊すことなく丁寧に仕上げていた。少し遊んでもいい気もするが、気分悪い笑いをとる流行りの演出はごめんだ。
あの作品をよんで安部公房の砂流に巻き込まれたのだが、芝居を観ていて、なにかジーンとくるものがあった。なぜなんだろう。
1月17日 「少し遅い年頭の辞」

年をとると友達が減ってくる。死んじゃう奴もいるし、去っていく奴、ただ縁遠くなる奴もいる。
でも、不思議に何十年も付き合っている二、三の古い友人とは益々関係が濃くなっていく。
さて一方、新しい友人も突然現れる。何十年も付き合っているような感覚で
理解しあえる人だ。
いずれにせよ、新旧関係なく、私の友人は皆、孤独で、真摯だ。
私がいい加減なだけあって、皆、真摯だ。
皆、俺より先に死ぬなよ。