文学的断片(寄稿:やまだ おろち氏)



69 休暇を利用してブラジルに行って来た
 ブラジル --------  日本以外で「日本人」が最も多く住んでいる国。それと同時に、現代の日本人が、最も考えることのない国。ブラジルの全人口(1億8千万人)の1パーセントにも満たない130万人ほどの日系人がサンパウロを中心とした地区で暮らしている。そのため、外国に行っても不思議に違和感がない、われわれ日本人には、奇妙な感覚を味わうことになる国である。かつて多くの日本からの移民たちは、船で2ヶ月あまりを経てこの地にたどり着いた。南米の半分、アメリカ合衆国にも匹敵する広大な面積を有する、この国はアメリカよりもはるかに民族の混交が浸透している。人口の6割から7割近くはファベーラと呼ばれる高台の貧民街に勝手に家を作って暮らしている。こういった人たちは、電線や水道官に自分たちで勝手に線を継ぎ足して電気や水を盗み取って生きている。毎年、電気について知識のない、身の軽い子供たちが親に命じられて電柱に登り、感電して丸焦げになる。
「こちら側の世界」に生きている人たちは、未来を考えながら生きているが、圧倒的多数を占める「あちら側」の人たちは、その日の食べ物のことで精一杯である。ここには、思索をするような、ゆとりのある「馬鹿」は、まれにしかいない。
 春(10月)にはちょうど日本の桜のようにジャカランダのうす紫の花が街を彩り、カーニバルの季節である夏には、クワレズマの色濃い紫の花に混ざって、赤やピンクの花もあちこちで妍をきそっている。カーニバルの4日間の夜には、生を燃焼し尽くして、昼間はみんな、死んだように路上に横になっている。
1998年に話題になった「セントラル・ステーション」というブラジル映画は、いわゆる、ロード・ムービーであるが、ブラジルの社会問題を赤裸々に表現したもののひとつであった。 映画は、何か特別な事件が起こるわけでもなく、少年が、ふとしたことで知り合った女性と共に父親を訪ね歩くという、要約してしまえば、他愛のない物語であるが、そこには、ブラジルの現実が象徴的に描かれていた。
広大なブラジルの半分を領するアマゾン流域は、世界中から息抜きにやってきた人々を誘引してやまない不思議な魅力がある。旅行者たちは、見たこともない動植物に目を奪われ、なにか、自分をも含む、生命の源に接しているかのようなめまいに揺すぶられる。時折、水面を、ピンク色の河イルカがはねる。陽光は、水鏡に無数に散って波間に光を反射している。いつしか、空をおおい尽くした雲からは、激しいスコールが川面にたたきつけるように雨滴を白く崩壊させながら降り続ける。
ブラジル--------- サンバのリズムが風に乗って聞こえてきては消えていく。リオのイパネマ海岸を洗う波も、白い浜辺に、大きく、また小さく打ち寄せては引いていく。


68 戦国の世

源義朝(みなもとのよしとも)には、九人の息子と二人の娘がいた。男の系列を見ると、長男の義平は、平治の乱後程なくして、処刑された。次男の朝長(ともなが)[能楽《朝長》で有名]も、十五歳で平治の乱に破れ、負傷して死んだとも、自害したとも言われている。そして、三男が鎌倉幕府を開いた頼朝で、四男義門、五男希義と続き、異母弟となるが、六男範頼、七男全成、八男義円、九男義経に至る。頼朝が政権についたときには、すでに、六男範頼、七男全成、九男義経の三人しか生きていなかった。その後、六男範頼は伊豆に流されて抹殺され、周知のように義経は奥州で自害させられる。享年、三十一歳であったという。結局、頼朝の死後まで生きていたのは、政治を捨てて禅師となった七男全成だけである。
 政治は、利害関係で動いていくのは、言うまでもないことであり、悲劇は、古代ギリシャ時代から血縁関係に基づいて生まれる、ということになっている。今となっては、日本人に愛されてきた義経という人物が、実際にはどんな人物であったかほとんど知る由もないが、われわれ日本人は、圧倒的に強い者よりも、「悲劇的に」消えていった人物に引かれるようである。だが、義経の生涯は、この時代にあっては、決して悲劇的な死でも、早すぎる死でもなかったように思われる。血縁間の残虐な権力争いも、三十代での死も、「この時代」には珍しいことではなかった。歴史は、夜作られるといわれるが、悲劇は後世の人たちの感情移入によって作られていくものなのかもしれない。そうだとすれば、いつか、ギリシア悲劇が悲劇でなくなる時がくるかもしれない。



67 エリック・ロメールという映画作家

  エリック・ロメールの映画は、本当に見始めると止まらない。知らない間に、彼がこれまで制作した二十数本の映画をみんな観ているなんてことになる。
 『レネットとミラベル』はパンクした自転車が二人の女性の出会いを生み、そこから話が始まる。『木と市長と文化会館』では、庭から道路に転がったボールを拾った女の子同士が友達になり、対立している親同士にある種の「接近」をお膳立てする。『飛行士の妻』では、朝、恋人のアパートに伝言を伝えに行った時に目にした出来事からすべてが始まる。ロメールの映画に慣れている人たちは、『美しき結婚』でも出だしの電車の中での男女の出会いを予想する。しかし、ここには出会いは生じない。だが、巧妙にも、映画は、最初の場面に登場した男性と向かい合いの座席にすわっている、冒頭のシーンを想起させながら終わる。この映画では、すべての出来事は、その間に用意されているのである。また、「四季の物語」シリーズの『春のソナタ』では、哲学教師が登場し、食事をしながら、カントの「超越論的な総合判断」について教科書的な議論が出てくるが、これは、「たまたま」主演したアンヌ・テセードルが哲学科を卒業していたということと彼女がカント哲学に引かれていたこと、さらには、相手役のエロイーズ・ベネットも哲学科の学生だったという「偶然」から生まれた場面だという。このように、ロメールは、出演者の実話をそのまま脚本の中に取り入れてしまうこともよくある。
 日常的には普段と変わったことは何も起こらないはずのちょっとした出来事の背後には、その人の人生を大きく変えてしまう「偶然」が隠れ潜んでいる。しかし、ロメールの映画は、他愛もない、ちょっとしたことにわれわれが入り込んでいけば、いろいろな出来事が生まれる可能性を示唆している。 裏返せば、われわれの毎日は、すべて、一瞬一瞬「偶然」の積み重なりから成り立っているのである。ロメールの映画を見ていると、何かすべてが偶然に見えてきてしまうのである。たとえば、約束した時刻に知人がやってくるのだって、途中で、電車やバスが遅れなかったという「偶然」、その人が、病気になったり、交通事故にも遭遇せずにそこまでたどり着いたという「偶然」、その他、天気や世界情勢などの様々な要因が、大なり小なり影響を及ぼしている日常をかいくぐってその場に現れたという、何という「偶然」の積み重ねから成り立っていることだろう、と思われてくるのである。


66 鶴屋南北

正式には、四世・鶴屋南北(1755−1829)は、魅力のある歌舞伎脚本作者である。今でも、『天竺徳兵衛韓噺』(てんじくとくべいいこくばなし)『お染久松色読販』
(おそめひさまつうきなのよみうり)『桜姫東文章』(さくらひめあずまぶんしょう)『盟
三五大切』(かみかけてさんごたいせつ)『鈴ヶ森』『馬盥』(ばたらい)『白藤源太』『阿国御前化粧鏡』そして、『東海道四谷怪談』等々と、数多くの作品が繰り返し上演されている。南北のおもしろさは、一口でいえば、「悪の美学」「アウトローのいきざま」とでもいおうか、勧善懲悪を見事に打ち壊した世界、つまり、勧善懲悪を《完全に超悪した》
展開の現出を観ている者に納得させてしまうところにある。『盟三五大切』『東海道四谷怪談』などは忠臣蔵のパロディになっており、昼、正義、男性、忠義、現世といった言葉を纏った「忠臣蔵」の世界に対して、夜、不義、女性、不忠、他界が南北劇の構成要素となっていることは、よく指摘されるところであるが、こういうところに、南北の人生観が、顕著に現れているといえる。


65 シュテファン・ツヴァイクと時代の流れ

学生時代にドイツ語で読んだ、「私の子供はきのう死にました」という書き出しで始まる、「見知らぬ女の手紙」(Brief einer Unbeknten )がツヴァイクという作家との出会いであった。
  小説家というよりも、伝記作家としてよく知られているシュテファン・ツヴァイクは、ユダヤ系ドイツ人を両親に持つ、経済的には恵まれた家庭に生まれた。1881年という年にヨーロッパに生を受けたということは、後世からみると、二つの世界大戦という荒波に翻弄されていく世代であることはすぐにわかる。この時代のウィーンの知的雰囲気は、彼の自伝であると共に、変動の時代の自伝ともいえる『昨日の世界』に詳しく描写されている。
 「私は、他人に自分の生涯を語りきかせようという気持ちに誘われるほど、自分という人間に重きを置いたことは一度もなかった。(中略)私が物語るのは、本来、私の運命ではなくて、ひとつの世代全体の運命である。それは、歴史の運行においてほとんどいかなる世代も担わされたことのないような運命を担った、われわれのただ一回限りの世代である」(『昨日の世界』)
 ここには、20世紀初頭にドイツ語圏で活躍していた、様々な詩人や芸術家との動向や、ヴァレリー、トマス・マン、ロマン・ローランなどとの交流が生き生きと描かれているが、時代は、暗い方へ暗い方へと流れていく。やがて、ナチスの台頭による、ユダヤ人への迫害の波がツヴァイクの周辺にも押し寄せ、イギリスに亡命する。ロンドンで、同様に亡命してきていたフロイトとの交流(この時期に、サルヴァドール・ダリをフロイトに紹介したのもツヴァイクである)もあったが、しかし、イギリスもナチス・ドイツとの戦いの中にあって、《敵国人たち》に寛大な待遇を与える余裕はなかった。ツヴァイクは、イギリスを捨てて、かつて講演旅行をしたブラジルへと流れていく。ここで、上記の名著『昨日の世界』と最後の著作となった、『未来の国・ブラジル』を出版するが、ブラジルの参戦という、きな臭いにおいが南米にまで漂ってきた1942年2月22日、ブラジルにて自殺。この二つの作品の題名からわかるように、ツヴァイクの自殺は、過去と未来にしか可能性を見いだせない時代に圧殺された文学者の苦悶の果ての選択であったのだろうが、この時代に生きたからこそツヴァイクは文学者になれたといった方が当たっているような気がしている。


64 フリードリヒの絵画

 岩、石、廃墟、墓・・・殺伐とした、からからの月面のような、メランコリックな、荒涼とした風景がどこまでも続く。たっぷりと陽光を受けているはずの朝も、暖かさを感じるはずの夏も、すべて冬枯れの寒々とした空気に支配されている。人間の存在などは、こういった自然の中では、どうでもよいのだ。人間がそこにいようがいまいが、自然は頑として、揺るぎなく息づいている。いや、ハイデガーなら、人間がいるからこそ、自然は現出する、と言うかもしれない。
 フリードリッヒの絵の多くには共通した構図へのこだわりがある。大地や山の稜線、海、雪原などの横の線に、人、岩、樹木、マスト、十字架が突き刺さっているかのように天空へと上昇する、強烈な垂直線を刻印する。また、しばしば、前景には、小さな人間を配し、どろどろに溶けた空と大地と光が背景を作っている。
 13才の時に、フリードリヒはスケートをしていて、事故に遭遇する。自分の命を救おうとした、1才年下の弟クリストフが逆に溺死した。この事件がフリードリヒに与えた影響は計り知れないとしても、バルト海沿岸の小さな町で生まれたフリードリヒの脳裏には、北欧の凍てつくような光景が、原風景として焼き付いていたに違いない


63 ランボー、幻影

ランボーが詩を書いていたのは、実質的には、17才から19才にかけてヴェルレーヌと共同生活をしていた2年あまりの歳月にすぎない。もちろんその前後に書いた詩も残っているが、ランボーの名を決定的にした、『地獄の季節』と『イリューミナシオン』はこの時期に書かれたものである。二人の奇妙な共同生活も、ヴェルレーヌの泥酔と錯乱状態からの、ピストルの発砲で終わりを告げる。ランボーは軽傷ですんだが、この事件をきっかけに詩人としてのランボーは死んだ。瞬時にして、美と地獄を同時にかいま見て、歓喜と苦悩の絶頂を捨て去る。以後、言葉の世界に永遠に別れを告げ、商人として、アフリカの大地をさまよう。病に倒れ、右足を切断し、その後程なくして臨終。37才。

 ランボーの詩は、はっきりとした意味は読みとれなくても、不思議な気持ちの高揚を与えてくれる言葉が多い。
「もう秋か。-----それにしても、何故に永遠の太陽を惜しむのか、俺たちはきよらかな光の発見に心ざす身ではないのか、----- 季節の上に死滅する人々からは遠く離れて」
・・・『地獄の季節』  別れ
「破壊の裡に酔う事ができるのか、残虐によって青春を取り戻すことができるのか。誰一人文句を言うものもない、誰一人同意を称えるものもないのだ」
・・・『イリューミナシオン』 小話       (以上 小林秀雄 訳)


62  民主主義という悪魔

今や、世界情勢は、アメリカが大義名分として主張する民主主義の旗のもとに、「悪の枢軸」国へ鉈が振り下ろされようとしている。「民主主義」対「テロリズム」という構図が声高に叫ばれる。しかし、そもそも、民主主義って何なのだろう。
 いうまでもなく、民主主義の起源はギリシアに遡るわけだが、そこでは、奴隷制を基盤にして、初めて成り立つものであった。ヨーロッパの歴史をみると、地続きの大陸では、様々な民族が、勃興し、移動し、その過程で戦いが絶えず、殺戮と破壊が繰り返され、人間不信が常態であった。ここからは、個人主義が芽生えてくるのは必然であり、他者と共に生きるということは、妥協の産物以外の何ものでもない。また、そこでは、個人は攻め入ってくる力に対して、徹底的に、自己主張をし、相手を押し返す力がないと生きていけないのである。多数決の原理を重要な決定手段とする民主主義は、こういった他者への懐疑に根ざした必要悪の政治手法として生まれたものである。翻って、日本という国を考えてみると、そこには、聖徳太子の時代から「和をもって尊しとなす」という集団意識が、生得的に身についており、協調からはみ出した個人というのは、村八分にされ、ほとんど生きていくのが不可能だったともいえる。つまり、日本には、そもそも義理人情はあっても、他者不信に根ざした民主主義なるものはなかったし、そんなものは必要のない社会であった。われわれは、民主主義という言葉の背後に隠れた、鋭い牙を忘れてはならないのである。民主主義の名の下に、今日も中東で、チェチェンで、そして、見知らぬ町で人が殺されている。


61  ポンペイ

西暦79年8月24日、ヴェスヴィオス山が大噴火した。山麓にあった、ヘルクラネウムとポンペイはこの噴火で埋没し、地上から姿を消した。正確なことはわからないが、ポンペイのこの当時の人口は2万人弱、そのうちの1割強、つまり2千人以上が死んだと言われている。だが、その後人々は、この大事件を忘れてしまった。いや、忘れたかったのかもしれない。皮肉なことに、その他のローマ時代の都市は、繁栄を続けたために変貌し、古代の姿はいつの間にか消え失せ、かすかな、断片的痕跡しか残さなかったが、ポンペイは一瞬にして消えたために永遠に残った。当時のパン屋や公衆浴場や居酒屋などの様子もはっきりと分かるし、円形闘技場や音楽堂などもあった。ペトロニウスの『サティリコン』に描かれている「トルマルキオの饗宴」から、この当時の貴族の様子がわかる。そこには、退廃が色濃く支配しているとはいえ、贅の限りを尽くした、飽くなき料理の探求は現在イタリア料理がなぜうまいのかということを自ずから語っているようでもある。それにしても、ポンペイは古代がありありと見えてくる、想像力を掻き立たせる町である。現在では、文明に守られて生きているわれわれは自然の脅威にさらされていることを痛感することはきわめてまれである。しかし、自然は今あるものを暴力的に破壊し、存在しなかったものを常に生み出している。そういう意味では、ポンペイは自然の逆説であろうか。そこには止まった時間が永遠にあるのだから。


60  ドニゼッティ と ベッリーニ

最近、新宿のオペラ・シティで、ドニゼッティの「ランメルモールのルチア」とベッリーニの「夢遊病の女」を聞く機会があった。ドニゼッティ(1797-1848)とベッリーニ(1801-1835 )はライバル関係を意識して作曲を続け、それ故に何かと比較されて語られる。どちらかが存在していなければ、二人とも音楽史の中に現在のような隆盛をみていなかったかもしれない。また、両人とも決して長生きだったともいえない(ドニゼッティは53才、ベッリーニは34才で他界)し、私生活に恵まれていたとも思えない。ベッリーニは、「三人のジュディッタ」との関係がゴシップとして語られるが、女性との関係は「奔放」だったように見える。あっけなく34才で死んでしまったが、残したオペラの作品は天才的な名曲が多い。ドニゼッティも父親と母親を立て続けに亡くし、産まれてきた子供3人をすべて幼児のうちに失い、妻も死に、続けざまに不幸に見回れている。晩年は精神錯乱状態になってこの世を去っていったと伝えられている。
この二人の生涯を追いかけてみると「不幸」が芸術家を作るものなのかもしれないと思ってしまう。逆に、芸術家とは、“ある種の”不幸を必要条件にしている人たちと定義してもいいかもしれない。ドニゼッティが70曲あまりのオペラを作曲したのに対して、ベッリーニは10曲しか残していない。総じて、イタリア・オペラは「声」のオペラだと言われが、ベッリーニの作品ほど「声」を聞かせるオペラは他にない。

二人の全盛期の作品を年譜で追ってみよう。

1825年02月  *ベッリーニ「アデルソンとサルヴィーニ」ナポリ
1826年05月  *ベッリーニ「ビアンカとジェルナンド」ナポリ
1827年10月  *ベッリーニ「海賊」ミラノ
1829年02月  *ベッリーニ「異国の女」ミラノ
    05月  *ベッリーニ「ザイーラ」パルマ
1830年03月  *ベッリーニ「カプレーティ家とモンテッキ家」ヴェネツィア
   12月   ドニゼッティ「アンナ・ボレーナ」ミラノ
1831年03月  *ベッリーニ「夢遊病の女」ミラノ
    12月 *ベッリーニ「ノルマ」ミラノ
1832年05月  ドニゼッティ「愛の妙薬」ミラノ
1833年03月  *ベッリーニ「テンダのベアトリーチェ」ヴェネツィア
    12月  ドニゼッティ「ルクレツィア・ボルジア」ミラノ
1834年10月  ドニゼッティ「マリア・ストゥアルダ」ナポリ
1835年01月  *ベッリーニ「清教徒」パリ
    
    9月23日パリ近郊にて、ベッリーニ死去
   
09月  ドニゼッティ「ランメルモールのルチア」ナポリ
1836年02月  ドニゼッティ「ベリザーリオ」ヴェネツィア
1837年10月  ドニゼッティ「ロベルト・デヴリュー」ナポリ
1838年     ドニゼッティ「ポリウト」(初演は1948年11月ナポリ)
1840年02月  ドニゼッティ「連隊の娘」パリ
   12月   ドニゼッティ「ラ・ファヴォリータ」パリ
1842年05月  ドニゼッティ「シャモニーのリンダ」ヴィーン
1843年01月  ドニゼッティ「ドン・パスクワーレ」パリ

 最後に、この二人の作曲家に共通していることは何か。それは、無類の美しい旋律に包まれた至福の瞬間をこの世に作り出したということである。


59  いくつかのギリシア語から
   
英語のeconomy という単語には、「経済」という意味と「節約」という
意味があるが、ギリシア語のoikonomikos (家庭のやりくりにたけた)に由来す
る。それ故に、家《国家とは国の家》のやりくりは、経済であり、やりくり上手
は、節約に通じている。
さらに、このギリシア語は、oikos (家)に由来する。ecology(生態学)も
ecosystem (生態系)も同じ語源である。だから、古代ギリシア人の生活では、
生態系の破壊は、経済の破壊であり、個人の家や国家の破壊に通じている。
 para- (そばに「傍らに」、越えて)という接頭辞がつく単語もギリシア語に
由来する。いくつか、われわれに馴染みのある単語を拾ってみよう。paradise
「天国」は、紀元前5世紀にクセノフォンが、ペルシャの果樹園、狩猟地を指す
のに用いたのが最初といわれており、古代ギリシア語のparadeisos(「そばにあ
ってほしいもの」「公園」)が起源である。paradox「逆説」は、paradoxa
(doxa「意見、定説」をpara「越えた」)であり、paranoia(偏執病)は、
paranous「取り乱した、狂乱した」(nous「心」をpara「越えた」)であり、さ
らには、parasite「寄生虫」はparasitos(para「他の人のそばで」sitos「食べ
物」を食べる人)である。parallel「平行線」もparallelismos、すなわち、
(allelon「お互いに」para「そばに」あるもの)から来ている。


58  ことばの響き

1   谷川俊太郎
    
かっぱ

    かっぱかっぱらった
    かっぱらっぱかっぱらった
    とってちってた
  
    かっぱなっぱかった
    かっぱなっぱいっぱかった
    かってきってくった

2   正岡子規

     柿の実のあまきもありぬ柿の実の渋きもありぬ渋きぞうまき


3 室生犀星

杏あまそうな人は睡むそうな


4  ジャン・コクトー (堀口大学 訳)

私の耳は貝のから
     海の響きをなつかしむ


57  インド・1991

体験したことのない暑さが皮膚をさし、甲高い女性の歌声が耳をつんざき、牛糞と砂埃の交ざった風が鼻をつき、鮮明な赤と黄と青を主調にした絵が目を奪う。
      インド −−−  感覚の洪水、感性の氾濫。

 その少女の顔には、食物をあさることを余儀なくされた、日々の苛酷な生活の陰りと赤道直下の太陽よりも明るい輝きがあった。一瞬の顔の表情がこれほど相矛盾する心性を映しだすのは珍しい。そういえば、これと似た経験としては、アルカイック・スマイルというのを写真で知り、そこに不遜と純真という相入れない形質を見て取ったときの戸惑いが思い起される。アルカイック・スマイルは落ち着きと余裕から生まれた優雅な微笑であるが、この少女の笑いには何か切迫感がある。それは空腹に追われて生きているからであろうか。この子に比べて、先進国の子供達の場合、総じて生活が空腹に追い抜かれることはない。空腹が食欲に絶えず先行していると、空腹を満たすために費やされる時間の呪縛から逃れた生活をすることは難しい。
 インドの太陽は大きい。午後の太陽の気怠い暑さには誘眠作用がある。ここでは、光が空いっぱいに広がって見えるせいか、空に太陽があるというよりも太陽が空をおおっているように感んじられる時がある。
 
 『ギミマニー(お金ちょうだい)』と、その少女は片言の英語で言う。おそらくは、この少女の知っている数少ない英語なのであろう。ガイドブックには、「誰かにお金を与えること、特に子供に与えることは乞食になることを奨励しているようなものだから、絶対にお金をやるべきではない」というようなことが書いてある。
 しかし、もしも一日、いや、数日食べていない子供を前にしたら、食物を与えること以外に何ができよう。無数の飢えた子供がいるのを知りながら、たった一食の足しになる程度のお金を与えることにどれだけ意味があるのかは知らない。私は折りにふれ子供にわずかな金を与えた。
 とはいえ、私はヒューマニズムという名の暴力が大嫌いである。たまたま出会ったある子供にお金をやることはある。もう一人か二人がやってきてもそうするかもしれない。だが、もうこれ以上は無理だと思ったら見捨てる。困っている人には誰にでも分け隔てなく援助の手を差し伸べるというのがヒューマニズムの基本とするなら、私のはその時の気分にしたがった、自分のご都合主義である。


 ニューデリーの休日の公園は平穏である。高校生くらいの少年達がクリケットに熱中している。イギリスの影響がこんなところにもあるのかと思いながらルールのわからないゲームをしばらく眺めている。公園の芝生をリスが時々気持ちよさそうに横切っていく。痩せこけた犬もいる。何頭かの「のら牛」が思い思いに時を過ごしている。四つの足をついて休んでいるのもいれば、草を食んでいるものもいる。ここでは動物は飼われているのではない。人と共存しているのである。
 日本からニューデリーに着いたのは深夜だった。空港の外はタクシーの運転手でごったがえしている。人相の悪い男が二人寄ってきて自分のタクシーに乗れといって引っ張っていこうとする。どうもこれに乗るといいことはなさそうだと判断し、誘いを降り切って気の弱そうな運転手のタクシーに乗り込んだ。ホテルの名を告げると、怪訝な顔をして私を見返したので、もう一度大きな声で言う。何度か発音やアクセントを変えて言っているうちにやっと通じたらしい。
 車は等間隔で街灯が並んでいるきれいな道をゆっくりと走っていく。そのうち急に左折して、真っ暗やみの中のでこぼこ道を進んでいった。どこに連れていかれるのだろうか、という不安でいっぱいになる。「止まれ!」という言葉が何度か込み上げてくるが、これがホテルへの近道だと言われればそれまでだし、却ってこちらがおどおどしているのを見抜かれて手玉にとられるのも癪なので、腹を決めて黙っていた。結局なんのことはない。暗やみの中に裸電球を燈したガソリンスタンドがあったのだ。何台かの車が闇のなかでじっと順番を待っていた。ガソリンを入れ終わると車は元の大きな明るい道に戻った。
 5分ほど走ると、この高速道路のようにきれいに舗装された道をのんびりと象が歩いているではないか。タクシーの運転手は、そんなことは少しも珍しい事ではないという風情で素早くハンドルを切って象を追い抜いていく。初めて見るインドという国の建物のシルエットを暗やみのなかに探りながら私は何度も心の中で、「とてつもない国にきてしまった」と何度となく唱えていた。


56  ベルイマンの映画から考えたこと

ベルイマンの作品には、牧師であった厳格な父に対する憎悪と確執、および、「自分は母親に愛されていないのだ」という母への不信が随所に現れている。父への反発は、キリスト教への猜疑心につながり、「最後の審判」後の世界を信じず、徹底的な生(性)の肯定へと向かわせることを彼に促した。『魔術師』のからくりは牧師のからくりでもある。
映画『野いちご』では、フラッシュバックという手法がうまく使われていた。アラン・レネの『去年マリエンバードで』などがフラッシュバックの典型的な作品かもしれない。
これは単に過去の記憶を差し挟んでいるのではなく、過去を再体験、再構築していくことをも意味している。映画の中の追想は往々にして、現在の説明のように使われるが、実は、主人公が過去の意味を変容しつつ、生まれ変わっている過程であるともいえるのだ。言い換えれば、我々の人生において起こった事実は変えられないが、その事実の意味は絶えず変容し、揺れ続けている、ということである。そもそも、我々は、意識の上では、過去や未来を自由に行き来して生きているのである。
 さて、コミュニケーションの不可能性というテーマも ベルイマンの一貫したテーマである。いつもいっしょにいる人間は、いったい何でつながっているのだろう。血縁ゆえになのか、愛情なのか、金なのか、それとも、単なる惰性なのか。話し言葉の宿命は、数秒後には永遠に消えていくということだが、言葉を吐き出しても、相手に通じないもどかしさがベルイマンの映画の登場人物にはよく見られる。神への祈りの言葉も、かなえられることなく、宙に消えていく。その果てに、人間はやみくもに叫び狂う。むなしい言葉の数々が宙に舞う。しかし、振り返ってみると、むなしくない言葉が自分の人生においてこれまでどれほどあったろうか。あまり、自虐的にならないようにしても、自分の言い放った言葉のほとんどは空中に刻まれることなく、虚空に消えている。なぜか、六波羅密寺にある空也像が、脳裏に象徴的に浮かんでくるのである。


55  泉鏡花・神秘

 文学とは何よりも言葉の芸術である。芸術の根は宗教に通じるところがあり、神秘主義的でない芸術などない、というのが私の持論である。鏡花はその意味において、無類の文学者であり、追随を許さない芸術家であった。鏡花研究者の村松定孝は、「鏡花の才能は、言葉の魔力を信ずる者だけに許された詩魔の所業であった」と書いているが、まさに、至言である。鏡花の資質を決定づけた大きな事件は、明治15年12月24日、母、鈴の早い死であろう。29歳の若さで逝った母の死が彼の言葉の世界への没頭を駆り立てる大きな要因になっているような気がする。ある種の人たちは、「自殺的に」仕事に打ち込む。自死への負のエネルギーは、正に転じるとき、他者を寄せ付けないほどの境地で仕事をやってのけさせることがある。鏡花は言葉に命を懸けていた。
たとえば、『高野聖』といえば、魑魅魍魎(ちみもうりょう)という言葉を覚えたことと、山蛭(やまひる)の大群の強烈なイメージのせいで、その後山に入るたびに蛭におびえるようになってしまった。『歌行燈』では、能楽師が登場するが、知る人ぞ知る名人・松本長(ながし)は、鏡花とは母方のいとこの関係にある。鏡花の母方は能楽と非常に関係が深いし、いろいろな意味において、鏡花の作品には能楽が見え隠れしている。『滝の白糸』『夜叉ヶ池』『天守物語』『海神別荘』『婦系図』『外科室』『草迷宮』『日本橋』『山吹』といった作品は、鏡花の小説と平行して、映画や演劇で観てきたが、鏡花には何かと思い入れの深い、妖艶な玉三郎の姿態は鏡花の作品の可能性を広げてきたし、三島由紀夫が絶賛した『山吹』の上演は芸術家の命運を山吹の花に託して見事に描き出していた。「別れろ切れろは芸者のときに言うことば」『婦系図』という名せりふや清葉の可憐さを取り巻く人間関係を描いた『日本橋』は今でも演じた役者の姿が目に焼き付いている。ただ、溝口健二が初期に撮った『日本橋』(1929年)のフィルムが失われてしまったことは大変残念である。こういった鏡花の作品の特徴を簡単に言い表すならば、怪異と妖気に満ちあふれた異次元の世界ということだろうか。明治以後の文学者の中で、鏡花は全く独自の光を放っており、あまりにも科学的知識に「汚染された」我々にとって、実に貴重な解毒剤なのである。


54  ヘーゲルの青春

 ヘーゲルは、学生時代にシェリングやヘルダーリンという、後世に共に名を残す友人たちと出会っている。ヘルダーリンとの友情は、古典ギリシアに対する憧憬の共有にあったといってよい。ヘーゲルのギリシア悲劇、とりわけ、ソフォクレスの『アンティゴネ』に対する偏愛はつとによく知られている。ギリシアにおいては、神々の意志に従うことは、主体としての人間の自由な選択を妨げるものではなかった。神々の意志に従って生きることこそが、同時に人間の自由の顕現でもあった。ここには、すでに運命愛がある。
これに対して、人為や掟という人が作り上げた制度は、専制と奴隷を生み出し、人間を抑圧する権威となる。こういった制度をうち破る運動として、ヘーゲルはフランス革命を評価し、だからこそフランス革命の理念を実現するナポレオンにも強い共感を表明していた。若きヘーゲルが、キリスト教を実定性(ポジティヴィテート)としてとらえ、批判した背景には、強いギリシア精神の勝利がうかがえるのである。
 ヘーゲルはキリスト教の精神を考えることから、彼の哲学の体系を作っていった、と唱える人がいる。それによると、神がイエスに受肉し、様々な布教活動を通して、最後は十字架の上で召され、その後イエスの再来が待たれる、という構図は、絶対精神の顕現と帰還という循環の中に結晶化されている、という説明がなされる。しかし、ヘーゲルはイエスの到来を待ち続けたのではない。ヘーゲルの絶対精神は、ギリシアへと帰還していくのである。西洋の哲学者たちは、しばしばキリスト教の精神とギリシア精神の狭間に立たされて、葛藤する。そして、多くの場合、ギリシアに帰還していくのである。いったい、ギリシアには何があるのだろうか・・・。


53  行乞(ぎょうこつ)の人、山頭火

 かつて、芭蕉は西行を慕い、放浪の旅に出た。山頭火も、芭蕉や方哉といった先人の生の軌跡を思い起こしつつ放浪の旅を続けた。
 種田山頭火は、明治15年12月3日に、山口県防府市に生まれ、昭和15年10月11日に、この世を去った。西暦でいうと、1882年から1940年にわたる、六十数年の生涯であった。 彼の残した定型を外れた句集をひもとけば、それは句というよりも独り言、うめき声といった方が当たっているような気がするし、そういう言葉が並んでいる。
「石に腰を、墓であったか」「分け入っても分け入っても青い山」「桃が実となり君すでに亡し」「風ふけばどこからともなく生きていててふてふ」「ゆきふるだまっている」「うしろすがたのしぐれてゆくか」
そして、「ちんぽこにも陽が当たる夏草」といったようなユニークな句もある。


52 イエス・キリストのこころ 
 
1「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬を向けなさい」『マタイ伝 5・39』
 その心は、「てめえ、ほら、こっち側も、ぶってみろよ」と突き出せば、相手は興ざめする。
2「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」『マタイ伝5・44 』
 その心は、自分に同情してくれる人は、その人を強くすることはない。真に人を鍛え上げる のは、敵である。
3「貧しい者は幸いなり。神の国はあなたがたのものだから」『ルカ6・20』
 その心は、失う物がないほど貧しい者は、死に際して至福を味わう。
4「人はパンのみにて生きるにあらず、神の口からでる一つ一つの言葉による」
 『マタイ伝4・4』
 その心は、パンばかり食べていたらうんざりして、神の言葉に耳を傾ける余裕もなくなるの で、いろいろな物を食べなさい。
5「あなたの隣人を自分と同じように愛しなさい」
 その心は、自分が困ったときに、隣の人から助けてもらえるから。

注 これは決して、キリスト教を茶化したものではない。聖書の解釈の多様性である。


51 マルクスの言葉をめぐって

 おそらく、吉本隆明が、「共同幻想」という言葉を使いだしたのは、「幻想的な共同性」『ドイツ・イデオロギー』によるものであろう。分業というものが、個人を抑圧する力となって作用し、ここから利益を得るのは、幻想としての共同体である国家である、という文脈の中で使われている言葉である。そもそも、言葉というものは、文脈から切り取られて、一人歩きしていくものである。
「ヘーゲルはどこかで、すべて世界史上の大事件と大人物はいわば二度現れる、と言っている。ただ、彼は、一度目は悲劇として、二度目は茶番として、とつけくわえるのを忘れた」と、マルクスはどこかで(『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』)言っているが、彼は、三番目は嘲笑として、とつけくわえるのを忘れた。
一時期、柄谷行人が何度も取り上げた言葉に、「商品から金への商品価値への飛躍は、商品の命がけの飛躍である」『資本論』という言葉がある。客にとっては商品の何が魅力的かは、作った人にはわからないのである。ビールは飲み物ではなくて、頭からかけるための商品でもあれば、橋の上から川に流してもよい。商品価値は、買ったものの手にゆだねられる。しかし、本当の「命がけの飛躍」はそもそも売れるかどうかわからない商品を作るという行為にある。商品の生産はそもそも賭である。買ってくれる客がいることを前提に作り出すからである。もちろん、労働力も商品であるから、我々が生まれてくることこそ「命がけの飛躍」である。
「 宗教上の悲惨は、現実の悲惨の表現でもあるし、現実的な悲惨に対する抗議でもある。宗教は、抑圧された生き物の嘆息であり、非情な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の精神である。それは民衆の阿片である」『ヘーゲル法哲学批判序説』
今となってみると、「マルクス主義」なるものも、貧しい国の人々にとって阿片であったのかもしれない。しかし、昨今の社会情勢をみていると、資本主義の末期状態を彷彿とさせるかのような出来事が相次いでいる。金が何よりも優先される社会は、何も今始まったばかりではないが、保険金殺人、偽装結婚、不法投棄、粉飾決済などなどの言葉が、新聞を賑わせている。その度に、人間の道徳や企業倫理(どう考えても、この言葉は形容矛盾にしか聞こえないが)が問われる。ある意味で、適切な宗教こそ求められているものなのかもしれない。
ところで、歴史上、ユダヤ民族ほど、金銭と結びついて考えられる民族は少ない。 
「ユダヤ人の社会的解放は、ユダヤ教からの社会の解放である」『ユダヤ人問題によせて』ユダヤ人が、ユダヤ教から解放されるときには、ユダヤ人ではなくなるかもしれないが、パレスチナ問題を解決する、唯一の方法は、マルクスのこの言葉に象徴されているように思えてならない。


50 写真集

夏休みを使って、中国の秘境、九寨溝(きゅうさいこう)と黄龍(こうりゅう)へ行って来た。

九寨溝
 四川省の省都・成都から北へ400キロのところにある「九寨溝」は、「谷間にある九つの村」という意味で、今でもチベット族の人たちが暮らしている。標高、3150mあたりから登っていく九寨溝はY字型に道が分かれ、最奥部の原生林まで32kmもある。公園内は天然ガスで動く専用のバスで移動しなければならない。樹正郡海、鏡海、時節の水量によって姿を変える季節海などの湖が点々としているが、パンダの生息地でもあるので、時折野生のパンダが出現するという。湖面は透き通り、文字通りエメラルドの水を湛えている。






黄龍
 「黄龍」は岷山山脈の主峰である雪宝山(標高5588m)の麓にたたずむ小さな渓谷。段々畑のように大小の池が連なっている。海抜三千数百メートル地点を出発して、森の中の散策路を進むと小さな池があちこちに点在している。「迎賓彩池」「飛瀑流輝」「蓮台飛瀑」「盆景池」「明鏡倒映池」「婆夢映彩池」「争艶彩池」「玉翠彩池」「映月彩池」と進んで、今は渇水期で殆んどが黄色い地肌を見せているが、水の多い時はこの辺りも美しい濃紺色の水が光を反射していることだろう。
 いよいよ最後の「五彩池」(ゲートから直線距離で約4km)、海抜3500m地点までやってきた。 黄龍寺という寺があり、その背後には、開けた展望が広がり、石灰分を多く含んだ水が、灰白色、水色、緑色と瞬時に色を変えていく。ここまで来るのに歩いて約3時間あまり、途中何人もの人が高山病の症状を現して蹲っている。





49 南総里見八犬伝と滝沢馬琴

歌舞伎座で『南総里見八犬伝』を観てきた。この物語は、異類婚姻譚に端を発して展開される。伏姫は八房という犬の子供を宿す。伏姫の腹からは、仁、義、礼、智、忠、信、孝、悌という八文字の刻まれた球が、虚空に飛び散る。犬山道節(忠)、犬塚信乃(孝)、犬飼現八(信)、犬坂毛野(智)、犬川荘介(義)、犬田小文吾(悌)、犬江親兵衛(仁)、犬村角太郎(礼)という犬の文字を名字に持った八犬士が、勧善懲悪という原理に基づいて、里見家の勃興に尽力するという筋立てになっている。
作者の曲亭馬琴こと、滝沢馬琴は、四十八歳からこの小説を書き始め、実に、二十八年の歳月を費やして完成させたものである。その間、眼疾を患い、失明に至るが、最後の方は口述筆記させて書き終えたという、労苦の産物がこの『南総里見八犬伝』である。一口に28年というが、われわれが自分の人生を鑑みるに、何にせよ、30年近い歳月を投入して作り上げるような対象を見いだすことができるかどうか。そう考えてみると、馬琴のこの作品は鬼気迫るような執念による命の彫刻の結晶以外の何物でもない。八犬伝を書いている馬琴の姿は、芥川の『戯作三昧』の中にかいま見られる。それは、風呂屋の場面から始まって、芸術家の苦悩とそれを相対化してしまう家族の目という視点から、馬琴の日常の様子を描いて見せたものである。もちろん、芥川が、自らの姿を重ねて描いた創作であるが・・。


48 モーツァルト讃歌

「死とは、モーツァルトを聴けなくなることだ」という、アインシュタインの言葉は、あまりにも有名であるが、モーツァルト自身たぶんに、死の影につきまとわれていた。父親のレオポルト・モーツァルトに生まれた7人の子供のうち、4人は死去してしまい、姉のナンネルと二人だけの姉弟関係の中で育った。6歳の時に、ウィーンのシェーンブルン宮殿で、女帝マリア・テレジアを前にして演奏した折りに、宮廷内で転んだモーツァルトを助け起こしたのが、モーツァルトより一つ年上だったマリー・アントワネットだったというエピソードはよく知られている。モーツァルトが1791年に35歳でこの世を去り、その2年後に断頭台の露と消えていった彼女の運命を考えると、歴史上に刻まれた、かすかなすれ違いの運命の綾なのだろうか。
 一方、ゲーテは13歳の時の1763年8月に7歳のモーツァルトが姉のナンネルと共演をした演奏をフランクフルトで聴いている。ゲーテがモーツァルトの愛好家であったのは、ここらあたりにすでに起因しているのかもしれない。モーツァルトも後に、ゲーテの詩に曲をつけて『すみれ』という歌曲を残した。
 ところで、モーツァルトが、フリーメーソンに入会したのは、1784年12月であるが、それ以前にも、父親との旅行を通して、ヨーロッパ各地のフリーメーソンの会員たちとは様々な形でつきあいがあった。フリーメーソンの運動が、啓蒙思想の普及と相まって各地に浸透していった背景には、カトリック教会の威信の崩壊やヨーロッパ全土の制度的な行き詰まりがあり、その象徴的な現れが、フランス革命となって表出したともいえる。これは、単に、絶対王政という王権だけが地に落ちたという問題ではないのである。
 さて、モーツァルトの作品、とりわけ、オペラについて考えてみると、時代的には、荒唐無稽ともいえる内容の作品が多い。だが、これらの作品につけたモーツァルトの曲はどれもみなすばらしい。『フィガロの結婚』は、初夜権などの貴族の特権を風刺し、変装による成り変わりの妙を通して、暗に、平等を歌い上げ、『後宮からの誘拐』は、ものわかりのよいスルタンの下で、愛と自由をテーマとし、『ドン・ジョバンニ』では、始まるとすぐに、殺人が起こり、父親を殺されたドンナ・アンナが、放蕩と無秩序の権化とも言えるドン・ジョバンニを追いつめていく。『コシ・ファン・トゥッテ』になると、恋人が不倫になびくかどうかということを、賭をしながら試してみる実験である。こういった作品は最後は、赦しと博愛の精神をもって終わる。一番、フリーメーソン的であるといわれる『魔笛』に関しても、同様である。『魔笛』の主題は、夜の女王の娘・パミーナの救出にあるのではなく、パパゲーノを引き連れたタミーノの密議儀礼を通しての生まれ変わりにある。
 ところで、モーツァルトの早死にを惜しむ人は数知れないが、考えてみると、モーツァルトが死んだ年に作曲された『魔笛』や『クラリネット協奏曲』(K 622)、そして、未完成とはいえ、『レクイエム』(K 626)が、モーツァルトの死がもうちょっと早かったらモーツァルト共々あの世にいっていたであろうに、よく踏みとどまってこの世の側に残ってくれたものであると感謝したい気持ちが強い。
 最近では、神格化されてきたモーツァルトの姿が少しずつ相対化されてきている。その顕著な例が、ずいぶん前になるが、映画『アマデウス』であろう。そこでは、かなり下品で、女好きなモーツァルトが登場するが、これはこれで一つの解釈として成りたつし 、モーツァルトの生涯そのものが、多様に表現されることで、文学作品の題材となってきたと言える。
 ついでながら、モーツァルトの死後、妻コンスタンツェは再婚し、二人の息子は二人とも独身を貫いたために、遺伝子は絶えたが、その音色は彼の生前には予想もしなかった形で、東洋の片隅にまで達し、毎日どこかで鳴り響いている。
 最後に、個人的な好みを述べさせてもらえれば、ジュノム協奏曲(K 271)、ニ長調のディベルティメント(K 334)、ハイドン・セットと呼ばれる6つの弦楽四重奏曲、弦楽5重奏曲ト短調(K 516)、クラリネット五重奏(K 581)、ジュピター(K 551)、未完成のハ短調ミサ(K 427)などなど、どれをとっても奇跡的な作品であるといえる。


47 英単語の散歩

salt(塩)という語が, ローマ時代に塩代として兵士に与えられた銀貨を指す salary(給料)[ラテン語の salarium]という語のもとになっていることは、比較的よく知られており、古代において塩が大変貴重であったことを物語る傍証になっているが、ここでは、いくつかの日本語になった英単語の語源を覗いてみたい。 
ticket(切符、入場券)という単語は、日本語の中でもよく使われているが、この語の語源は、フランス語の etiquette(値札、ラベル、エチケット)であり、この単語も、エチケットというカタカナで日本語の中にすでに入っている。さらに遡ると,stick(突き刺す)という語がもとになっていることがわかる。つまり、「突き刺して張っておく札」を意味していたのであり、そこに書かれていることを守ることがエチケットということになる。
また、yacht(ヨット)という語は、オランダ語から入ってきた語であるが、ドイツ語の jagen(狩りに出かける)と同じ語源である。つまり、狩りに出かける道具としての船を表したものである。 
また、aqua(水)は、ラテン語から英語に入った語だが、もともとはサンスクリット語のargha であり、日本語の古語である、水を意味する閼伽(あか)に通じているようだ。

「神無月の頃、来栖野(くるすの)といふところを過ぎて、或る山里を尋ね入ることはべりしに、はるかなるこけの細道を踏み分けて、心細く住みなしたる庵あり。木の葉に埋もるる筧(かけひ)のしづくならでは、露おとなふものなし。閼伽棚(あかだな)に菊・紅葉など折り散らしたるは、さすがに住む人のあればなるべし。」『徒然草』第十一段より                                         このようにいくつかの単語を追いかけていくとわかることだが、英単語の80パーセントは、実は外来語なのである。


46  芥川龍之介について

いわゆる、コントに透徹した才能を発揮した芥川だが、漢籍と英語の素養は抜きん出ていた。その意味では、漱石の後継者だったと言ってよい。代表作は、人によってまちまちだが、私は『地獄変』を挙げておきたい。ここには、芸術至上主義が色濃く現れており、文学作品として、見事としか言いようのない完成度を持っている。『芋粥』の逆説、『鼻』の傍観者の利己主義、『藪の中』の客観性への懐疑などは、一読して忘れられない。「末期の眼」や「ぼんやりとした不安」という言葉も残した。「点鬼簿」の冒頭で、「僕の母は狂人だった。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない」と言い切っている。芥川は、苦悩して生きていた。そういう意味では、36才の死は、彼にとっては、ぎりぎりの限界だったのかもしれない。母親の狂気の遺伝的な要因を過剰に意識した自殺だったともいえる。「人生は地獄よりも地獄的である」(侏儒の言葉)


45 タルコフスキーの映像

(『ローラとバイオリン』『僕の村は戦場だった』については紙面の都合で割愛しました)

 ひとことで言ってしまえば、どの登場人物も、総じて、宗教的なものを信じきることができないがゆえに、かえって、根強い宗教性への希求というものが感じられる。火は闇の中のものを出現させるが、同時に、ものを焼き尽くして灰燼に帰す。水は、生命の源であるが、あらゆるものを飲み込んで押し流す。文明さえも。

1 『アンドレイ・ルブリョフ』 この作品から、ルブリョフの沈黙と聾唖の少女という、言葉を閉ざした人間の姿が、タルコフスキーの作品にくり返し現れるモチーフとなる。タタールの侵略によって、崩れ去った教会のシーンや気球による飛翔というイメージも後の映画で反復される。廃墟の中で絶望的になり、言葉を失ったルブリョフの犠牲を払拭するかのように、後の世代の鐘職人ボリースカが花を咲かせる、鐘を鋳る場面は感動的である。

2 『惑星ソラリス』の海は、後の『ストーカー』におけるゾーンとオーバーラップしている。三人の人物が、未知なるものに直面しながら、実は自分自身と向き合っているという構図は、まさに後の『ストーカー』そのものである。この作品は、物質文明の果てに、かいま見られる、空虚としての心象風景を映し出している。ソラリスでは、記憶の物質化という現象が起こっている。タルコフスキーの映画では、絵画が至る所で効果的に使われている。たとえば、この作品では、ブリューゲルの「雪中の狩人」の絵が、幼少期の体験と重なりながら、時間をかけて丹念に映し出される。また、無重力状態で空中に漂う亡き妻ハリーの姿は、『鏡』の中での母親の空中浮揚や『サクリファイス』の魔女マリアとの抱擁の場面へとつながっていく。故郷に戻ったケルヴィンの家の風景がカメラを引いていくといつの間にかソラリスの海に飲み込まれていく最後の場面は、現実と記憶を混沌とした一如の中に投げ入れて終わる。この作品から、地水火風という象徴がはっきりと、くり返し現れるようになる。

3 『鏡』という作品は、自伝的色彩の強い作品といわれている。おそらく、映像はタルコフスキー自身の記憶の断片を自由につなぎ合わせたものなのだろう。というのも、この映画は、実生活において、タルコフスキーの父(アルセニー・タルコフスキー)が妻と子(タルコフスキー)と別れたのとまったく同じ運命を、タルコフスキー自身も歩んだという事実に基づいている。その運命的相似性を作品の中にふんだんに利用している。自分の子供の頃の逸話は、そのままタルコフスキー自身の子供に仮託され、母親の姿は、同じ女優による妻の姿に重ね合わされている。記憶は、人物と時代を超越して、断片の間を自在にさまよう。そして、場面場面の映像は非常に絵画的である。具体的には、「サクリファイス」同様、レオナルド・ダ・ヴィンチの画集が効果的に使われている。タルコフスキーの残した8本の作品の中で、一番断片的で、錯綜している。どもりの少年を矯正させるという冒頭のエピソードは、「はじめに言葉なき」タルコフスキーの「言語喪失」というテーマを印象づけ、ほとんど口を利かない『ストーカー』の子供、さらには、病気で一時的に言葉を失った『サクリファイス』の子供へと受け継がれていく。風になびく植物と火事による火のイメージが非常に効果的に使われている。

4 『ストーカー』は、越境することのスリルを味わう作品である。作家はゾーンのなぞを解明し、作品化しようとする。他方、科学者は科学的に解明できない神秘を破壊すべく、爆弾を持参する。風がそよぎ、靄が立ちこめ、燠(おき)が明るく輝き、水は変幻自在な様態を見せる。廃墟を飲み込んだ自然が物質文明の果てを予見しているかのようである。ゾーンすべてが廃墟といってもよいが、その廃墟には、電気も電話も通じている。この作品でも、ミルクはこぼれ、犬はどこにでも自由に出現する。ストーカー(密猟者)は自己を犠牲にして、ゾーンという、神秘と恐れの空間を守ろうとする。彼は、明らかに後のドメニコ(ノスタルジア)とアレクサンデル(サクリファイス)の先駆者である。

5 ピエロ・デラ・フランチェスカの「出産の聖母」が飾られたモンテルキの教会から始まって、サン・ガルガノ大聖堂の天井のない廃墟の中に映し出される箱庭のような別荘を前にした、うずくまる犬と主人公の姿で終わる『ノスタルジア 』は時空に制約されない越境で溢れている。翻訳という異文化への越境を通訳の女性と詩集が主題化し、狂人ドメニコが歴史的象徴たるマルクス・アウレリウスの騎馬像の上に立って「常人」に演説し、あげくの果てには、あの世へと、自らを越境させて焼死する。ここでも「犠牲による救済」というテーマが現れる。幽閉されたドメニコの子供は、解放されたときに「世界の終わり」を口にする。廃院の天井から漏れる水は、容赦なく、建物という概念を打ち壊し、頻繁に登場するシェパードは、セピア色の過去を、ホテルの寝室を、ドメニコのあばら屋を、さらには川沿いの道をも自由に越境して徘徊する。そして、圧巻は、火のついたろうそくを、風の吹く中、水がないとはいえ温泉の中で横断させるという風変わりな越境(犠牲)で力尽きて幕を閉じる。この越境という行為こそ、何物かへの、果てしないノスタルジアである。

6 『サクリファイス』では、文字通り、サクリファイス(犠牲)という、タルコフスキーの主題が全面に現れ出ている。冒頭の、枯れ木に水を与え続けて花を咲かせるという、献身的なエピソードに始まって、贈り物を含めて、所有物を焼き尽くして犠牲を捧げるというテーマに至るまで、この映画は犠牲に満ち満ちている。飛行機の轟音と共に揺れる家財のシーンで、「こぼれるミルク」というタルコフスキーのお気に入りの映像が挿入されている。冒頭から、背景に廃墟と戦争が描かれている、レオナルド・ダ・ヴィンチの「東方の三賢人の礼拝」の絵が、執拗に現れる。主人公のアレクサンデルは、タルコフスキーの愛読書であるドストエフスキーの「白痴」を演じたことがある俳優という設定になっている。この映画は、強烈な炎の場面の後、“「はじめに言葉ありき」 なぜなの、パパ” という、初めて言葉を口にした子供のセリフで終わる。


44 詩、二編(これらの詩を始めて読んだ頃のことを思い出しつつ)

 甃(いし)のうへ      三好達治(1900~1964)

あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
   うららかの跫音(あしおと)空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりにうるほひ
   廂々(ひさしひさし)に
   風鐸のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうへ


一つのメルヘン 中原中也 (1907~1937)

秋の夜は、はるかの彼方に
小石ばかりの、河原があって
それに陽は、さらさらと
さらさらと射しているのでありました。

陽といっても、まるで珪石か何かのようで、
非常な個体の粉末のようで
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもいるのでした。

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでいてくっきりとした
影を落としているのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもいなかった川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れているのでありました・・・・・・


43  オスカー・ワイルドとアフォリズム

西洋の文人には同性愛者が実に多い。ヴェルレーヌとランボーとの関係は特に有名だが、妻と一度も《交渉》がなかったとされるアンドレ・ジッド、ナルシシズムと同性愛の問題にこだわり続けたトマス・マン、父の冷酷な権威と母の過度な愛情、そして虚弱な肉体の持ち主・マルセル・プルースト、そして、アルフレッド・ダグラス卿との関係が裁判にまで発展したオスカー・ワイルド。ここでは、ワイルド特有のアフォリズムを『ドリアングレイの肖像』からいくつか拾い出してみたい。
 
 「この世には人の噂にのぼるよりもひどいことがたったひとつある。うわさにされないことだ」
 「思想の価値は、それを表現する人物とは何のつながりもない、むしろ人物が誠実さを欠けば欠くほど、思想の知性度は純粋となる。というのも、その場合、思想が個人の願望、欲求、偏見といったもので彩られる心配がないからだ」
 「誘惑を除きさる方法はただひとつ、誘惑に敗けてしまうことだけだ。反抗でもしようものなら、人間の魂は自分に禁じたものに対する憧れで毒され、魂の醜悪な法則ゆえに醜悪とされているものに対する欲望に悩まされることとなるだろう」
 「永遠!恐ろしいことばだ。それを聞くとぞっとする。女が好んで用いたがる言葉だ」 「この世に存在する精美なるものの背後には、つねに悲劇的な要素が宿っている。一輪のみすぼらしい花が咲きいでるためにも、世界は陣痛を味わわねばならない」
 「青春を取り戻したいなら、過去の愚行を繰り返すにかぎる」
 「人をあっと言わせるような効果をあげるたびに、ひとり敵が増える。人気者であるためには凡庸人でなくてななりません」


42  マハとは誰か

 「裸のマハ」(ビガス・ルナ監督)という映画を見た。1802年7月、この絵のモデルとも目されているアルバ公爵夫人が急死した。その前日、ゴヤは、アルバ公爵夫人に絵の具の毒について次のような説明をしている。「コバルト紫は砒素酸、ナポリ黄とヴェネローゼ緑は、そのどちらも猛毒の青酸カリです」 
そして、死んだ夫人の水差しからは、ヴェネローゼ緑の染料の沈殿が確認されたが、自殺か、他殺かわからない。この事件は、権力と欲望の渦巻く社交界と宮廷の姿をえぐり出す。 時の総理大臣、ゴドイは、チンチョン公爵夫人を政略結婚で娶るが、王妃マリア・ルイーザをはじめとして、アルバ公爵夫人や、愛妾ペピートとも肉体関係を続けていく。「裸のマハ」はゴドイがゴヤに注文したものであるが、この絵は、当然のことながら、これら3人の女性の間に、嫉妬心の炎をめらめらと燃え立たせ、絵の存在が彼女たちの運命を操っていくことになる。いったい、ゴドイがゴヤに描かせた人物は誰なのか。王妃マリア・ルイーザは古い家柄を誇るアルバ公爵夫人に一目置いているが、内心は、気に入らない。映画では、身の軽いペピータが、アルバ公爵夫人を毒殺した可能性を示唆するが、その背後には、王妃マリア・ルイーザの指図が、見え隠れしている。ゴヤもアルバ公爵夫人とは愛人関係にあった。アルバ公爵夫人を描いた絵も残っているが、その肖像画と比べてみても、マハとはあまり似ていない。映画では、ペピータをモデルとして、ゴヤは、マハの絵を描いたと解釈されている。
後になって、ゴヤは「裸のマハ」を描いたことによって、異端審問所に告訴される。「裸のマハ」と「着衣のマハ」を注意深く眺めてみると、いろいろな点で、微妙な違いが立ち現れてくる。 この二枚の絵は「着衣のマハ」を前面に出して飾り、背後に「裸のマハ」の絵を重ねるように隠しておき、全面の「着衣のマハ」の絵を釣り下げるか、釣り上げるかして、ずらすと、背後から同じ姿勢をとった「裸のマハ」が出現するという仕掛けを意図してほぼ同じ大きさに描かれたとされている。


41  西行と崇徳院

醍醐天皇の時に右大臣になり、斬新な改革を打ち出した菅原道真は901年に太宰府に左遷された。これは、焦慮の際に立たされた、藤原氏を率いる藤原時平の讒言による都落ちであった。その2年後に道真がこの世を去ると、にわかに疫病や干魃が続き、藤原氏にも様々な「たたり」が 降りかかり始める。自分の娘婿である斉世(ときよ)親王を道真が即位させようとしたという陰謀をでっち上げた藤原時平と藤原菅根があっけなく死ぬと、続いて、時平の娘の子である皇太子二人も共に夭逝する。また、玉座が置かれていた清涼殿には、雷が落ちて、藤原清貫が即死。さらに、その後、醍醐天皇までもが急逝。たたりを恐れて道真を祭る北野天満宮への参拝が絶えなくなる。
 このような御霊信仰に基づく騒ぎは、跡を絶たつことなく起こり、平将門や後鳥羽院の死後にも同じような、不吉な出来事が世間を震撼させた。上田秋成の『雨月物語』には、香川県坂出市に今も残る崇徳院の陵のある「白峰」が、取り上げられている。西行は、生前からの知己でもあった崇徳院の陵を訪れ、今は亡き院の霊と対話問答をするというのが「白峰」の内容である。譲位を強いられ、不遇のうちに他界した崇徳院の霊は、西行に向かって次のように言う。「汝しらず、近ごろの世の乱れは朕(わが)なす事なり。生きてありし日より魔道にこころざしをかたふけて、平治の乱れを発(おこ)さしめ、死してなほ朝家に祟りをなす。見よ見よやがて天が下に大乱を生ぜしめん」[『雨月物語』白峰]
そもそも、崇徳院は鳥羽天皇の第一子として生まれるが、その実、女御であった待賢門院が、白川院と密通して産まれた子であったが、このことは、鳥羽天皇自身も知悉していた。天皇は、白川院が、院政を敷いて実権を握っている間に退位させられ、ここに崇徳天皇が五歳で即位する運びとなるが、白川院の存命中は命に服する態度をとっていた鳥羽天皇も、院の死後には、白川院とまったく同じ事を断行する。つまりは、崇徳天皇を廃し、実子であった近衛天皇を擁立してしまうのである。こうして、完全に蚊帳の外に置かれた崇徳院は、鳥羽院の没後に保元の乱を起こすが、破れて、讃岐に流されてしまったことは、よく知られているとおりである。そして、程なくして、この配流の地で四十六年の生涯を閉じたのであった。

 さて、二十三才にして出家した西行は、出家の決意を歌にして詠んでいる。
 「惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは身を捨ててこそ身をも助けめ」
院亡きあとに讃岐を訪れた西行は、齢(よわい)すでに五十になんなんとしていたが、崇徳院の墓の前で、一首を読む。
「よしや君むかしの玉の床とてもかからむ後は何にかはせむ」(君よ、たとえ、昔、りっぱな玉座に座っていたとしても、死の世界にいる今は、それが何になろうか)
その西行も、やがて、西暦1189年に、現在の、大阪府南河内郡河南町にある、弘川寺にて、入寂。七十三才であった。有名な、「ねがわくは花のしたにて春死なむそのきさらぎの望月のころ」と歌った通りに、桜の花が咲き始める(た?)頃に、見事にこの世を去っていった。


40 フェルメール、あれこれ

これまでに確か、フェルメールの作品の「現物」を17、8枚は見ているはずである。実作と言われているものが、36枚くらいしか残っていないことを考えると、半分近くを眼にしたことになる。日本で開催された美術展で眼にしたものもあるので実際に眼にした正確な枚数は断言できない。これまで見た主なものは、デン・ハーグにあるマウリッツハイス美術館、アムステルダム国立美術館、ワシントン・ナショナルギャラリー、メトロポリタン美術館、ウィーン美術史美術館にある絵画である。これらの美術館にあるフェルメールの絵を全部足すと17枚になる。これらの美術館を訪れた際に見たフェルメールの絵は、他の絵と比べると、今でもよく覚えている。中には、美術館の部屋の状況と飾られている絵の向きまではっきりと記憶しているものもある。確かにマウリッツハイス美術館のように、フェルメールの絵を目的に出かけていったこともあるが、大半は、そこにあると知らずにフェルメールの絵に出会ったというのが、偽らざるところである。なぜ、フェルメールの絵を意識するようになったかといえば、とにかく残っている枚数が少ないということをどこかで読んでいたからだと思う。だから、フェルメール作という絵に出会うと「こんなところにもあったのか」という感慨が、いつも湧いてきたのだ。
 さて、マウリッツハイス美術館には「デルフトの眺望」(1661年頃)と題された絵があるが、この絵に描かれている光景を追い求めて、フェルメールの故郷デルフトを歩き回ったことがある。ハーグから市電に乗って20分くらいでデルフトに着く。デルフトの街は運河が縦横に走る、人通りの少ない静かなところである。
 この絵は、全体を圧倒的に支配する空が絵の半分以上を占め、空の青の切り込みが、下方のスヒー川の切り取られた形と同じような、すそ野の長い、歪んだ富士山形をなし、左下にいる小さな人間と対峙している。人間はあまりにも小さいので風景に飲み込まれそうである。川面には、中央で窪んだ町並みが水脈の輝きの中に影で映し出されている。
フェルメールは、フランスの美術評論家、トレ・ビュルガーが19世紀の半ばに再発見するまでは、まったく忘却されていた画家である。今でも、知られずに眠っている「芸術作品」は、無数にあるに違いない。


39 忠臣蔵雑感

忠臣蔵の武士たちは、四十七士として知られているが実際に切腹させられたのは四十六人であった。寺坂吉右衛門信行という足軽は、赤穂への伝達使を命じられたために、討ち入りの現場に居合わせなかったといわれているが、敵前逃亡したという人もいる。いずれにせよ、この人は生き残って、後に資料として役立つことになる『寺坂信行筆記』という覚え書きを残している。
忠臣蔵という言い方は、現在でも歌舞伎の演目として知られる「仮名手本忠臣蔵」に由来するものだが、いろは四十七文字に引っかけて付けられたこのタイトルも四十六人では成り立たなくなってしまうのである。忠臣という言い方も、本当は単なる主君・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の喧嘩に後から加勢した暴挙にすぎないともいえる。現に、著名な学者である荻生狙徠は、断固この事件を糾弾する立場を貫いた。もっとも、彼らにとっては、あくまでも主君の意思に殉じたのであり、正義や法などどうでもよかったに違いない。
さて、この事件の原因であるが、未だによくわからない。歌舞伎では、吉良上野介から内儀・顔世御前へ横恋慕を仕掛けられ、さらには、高家(こうけ)[朝廷からの勅使を江戸で歓待する役を任せられた家]という立場を利用して、吉良から賄賂を強いられた浅野内匠頭が、拒否したために「ふなだ、ふなだ、ふな侍だ」という科白で馬鹿にされたことが発端となる。実際には、吉良はいい人で、浅野内匠頭が短気だったにすぎないと言う説を唱える人もいるほどである。忠臣蔵は主君に対する忠誠を美化するものとして、天皇制擁護者たちに利用されてきた側面もあるが、現代のわれわれは映画や歌舞伎などのドラマを通して、いったいここに何を見いだすのだろうか。醜悪なる時代の記念碑的な遺物なのか、それとも、今も日本人の心の奥底で、通奏低音のように連綿と響きわたる、自らの命を犠牲にして何事かを成し遂げた人たちに対する共感なのか。


38 クレオパトラをめぐる断章
                                
 クレオパトラはエジプト人ではない。クレオパトラの出自は、前323年にアレキサンダー大王が死去し、マケドニアの一武将であったプトレマイオスがエジプトに赴き、プトレマイオス朝を創始したことに由来する。それ故に、この王朝は、ギリシアとエジプトの融合から成る。
 パスカルは、今では非常に有名になった言葉を自著に記した。(『パンセ』162, 163  「クレオパトラの鼻、もしこれが低かったら地上の全表面は変わっていたことであろう」 「・・・なぜなら全世界が愛ゆえに変わってしまう」
パスカルはこう言ったが、プルタークの『英雄伝』によると、クレオパトラは魅力のある女性ではあったようだが、美人であったとは書かれていない。

 古来、エジプトのプトレマイオス朝には兄妹(姉弟)結婚による王位相続という風習があり、クレオパトラ7世も「笛吹き王」と呼ばれた父親の遺言書に従って、実の弟プトレマイオス13世と結婚し、共同統治についた。この時クレオパトラは、18才、弟のプトレマイオスはわずか10才にすぎなかった。やがて、プトレマイオスの後見人とクレオパトラの不和が表面化し、クレオパトラはアレキサンドリアを追われる。政敵ポンペイウスを追撃してアレクサンドリアにやってきたシーザーに助力を求めるため、クレオパトラは、シーザーに接近しようとする。どうやって弟陣営の者に気づかれずにシーザーに会えるか苦慮するが、贈り物として絨毯を捧げるという案を考えつく。そして自分はその絨毯に巻かれ、シーザーの前に運ばれたのである。不意をつかれたカエサルに、自分の境遇を語り、助力を請う。シーザーは、機転が利き、勇気のあるクレオパトラに心を奪われていく。そして、奪われていた王位をクレオパトラに返すよう、プトレマイオス13世に命じる。その後、シーザーとクレオパトラは深い仲になっていった。しかし、プトレマイオス13世側もただでは引き下がらない。密かにポティノスを中心とした、プトレマイオス13世の側近達が戦いの準備を進め、シーザーに戦いを挑んだ。シーザーは直ちにプトレマイオス13世を軟禁し、ローマ属国に援軍の派遣を要請する。ポティノス側はアレクサンドリア港に停泊している船団を出航させようとするが、それを阻止するため、シーザーは船団に火を放つ。船団は全滅したが、その火がアレクサンドリア図書館にも燃え移り、ここに50万冊とも70万冊ともいわれる古代の貴重な蔵書が灰燼に帰した(前48年)。これは、人類史上最大の痛手の一つだった。こうして、とにかく、シーザーはプトレマイオスの軍勢をなんとか退けて、クレオパトラを女王に復させることには成功したが、その後、権力集中を進める独裁者シーザーに憎みを抱いた、共和主義者たちによって暗殺されてしまう(44B.C.)。
 さらに、時が経ち、クレオパトラはレビドゥス、オクタビアヌスと共に、三頭政治の一角を担っていたアントニウスをも魅了した。だが、やがて、アントニウスはオクタビアヌスの軍勢との戦いを迫られる。これが歴史上有名なアクティウム海戦(前31年)で、この戦いでアントニウスとクレオパトラの連合軍は撃破される。翌年8月1日アレクサンドリアが陥落した時、クレオパトラは地下墓室にこもり、アントニウスに、自分は死んだが嘆くな、と告げさせた。彼をローマに帰らせようと思ったのだろう。しかしこれを真に受けたアントニウスは悲嘆の余り自刃して果てた。それを知ったクレオパトラも、オクタウィアヌス側監視の目を盗み、腕をコブラにかませて命を絶った(39才)、といわれている。シェークスピアの『ロミオとジュリエット』の最後を思わせるような結末である。ここにプトレマイオス朝は滅び、肥沃なエジプトはローマ属州に加えられた。


37 中世の詩人、フランソワ・ヴィヨンの軌跡
 
   1431頃 パリに生まれる
   1440 このころ、ペストがパリで猛威を振う。
   1451 悪魔の屁事件(「悪魔の屁」という境界石をパリ大学の学生が持ち去り、
       当局ともめる)。
   1452 パリ大学文学士になる。
       サン・ジャック塔辺りに多くあった代書屋で働く。
   1455 諍いから、フィリップ・シェルモア司祭を殺傷 。パリを去る。
   1456 シェルモア司祭惨殺による、殺人罪に対して、二通の 国王の赦免状をえ
       て、パリへ戻る。
       クリスマスの頃、ナバール神学校に侵入し、コラン・ド・カイユーほか五名
       と共に、500 エキュ盗む。
   1456 〜57 アンジェーへ逃亡。
   1457 事件発覚。
   1458 共犯者、ギー・タバリ逮捕。
   1457〜61 フランス各地を放浪。
       その間、作品『隠語によるバラード』に取り組む。 
       作品『雑詩』と作品『遺言詩集』の制作に従事。
   1461 『遺言詩集』によるとマン・シュル・ロワールの宗法牢獄に入獄。
   1461〜62 パリのどこか、ないしパリ郊外にて『遺言書』作成。
        また、1463年のパリ出立までに、『雑詩』の残りの部分作成。
   1462 窃盗で、シャトレに収監される。
       釈放数日後 友達の刃傷沙汰に巻き込まれ、またシャトレに収容される。
       シャトレで水攻めの拷問を受ける。
   1463 ある喧嘩が元で、起訴され、絞首刑の宣告を受ける。高等法院へ上告。
       十年間パリからの追放を命じられ、パリを去る。その後、まったく消息知
       れず。


36 太宰という男

『二十世紀騎手』エピグラフの「生まれてすみません」や『人間失格』の第一の手記の冒頭「恥の多い生涯を送って来ました」という言葉は、常に太宰の心をよぎっていた真実の吐露であったかもしれない。大地主の家に生まれたという「原罪」への反動から一時期マルキシズムへ接近していくが、所詮無理がある。いっしょに心中した女だけ死んでしまったことに対する罪意識は終生持っていた。その後も自殺未遂を繰り返し、何度かの失敗の果てに玉川上水でついに「成就する」。39才だった。太宰自身、「芸術家にとって、めぐまれた環境というのは、かえって不幸なことではあるまいか、と思った」と『正義と微笑』の中で書いている。世の中の人は、家庭をもつと保守的、保身的になる傾向が確かにある。「家庭の幸福は諸悪の本」『家庭の幸福』とはよく言ったもので、太宰自身、言葉の通り、落ち着いた家庭生活とは無縁な生き方(いわゆる、無頼)を貫くが、実際のところは家庭を顧みない自分に対する贖罪としての言葉だった。「子供より親が大事と思いたい」『桜桃』という言い方も然り。三島由紀夫は「器械体操でもすれば、太宰の苦悩など直ってしまう」と言い捨てたが、人間の弱さを言葉にしていくような太宰の姿勢は、三島にとっては甘え以外の何物でもなく、受け入れがたいのは首肯できる。それにしても、ふと手に取った太宰の作品は、どこから読み始めても、ついつい読み進んでしまうほど、おもしろい。この人の文章の「魅力」とはいったい何なのだろうといつも思う。「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」『右大臣実朝』や、「富士には月見草がよく似合う」『富嶽百景』といったような、一度読んだだけで忘れない名言もある。


35 モナリザの苦笑

1911年8月21日にルーブル美術館からモナリザが突如として消えた。この日は美術館は休館日で、保守点検にあたっていた。その後二年近く、モナリザの行方は全く途絶えた。この絵のモデルは、ジョコンダ夫人とも、イザベル・デステとも、あるいは、ダビンチ自身の女装姿という説まであるが、こんな有名な絵を盗んでも、売れやしないと思うかもしれない。だが、世間にはいろいろな人がいて、人に絵を見せるのではなく、密かに自分だけで、名画を所有していたいと思う金持ちもいるのである。こういう人にとっては、それが盗品であろうと、もはや人目にさらすことはないのだから、こっそり手に入れられればそれでいいのである。詐欺師はこういう人の存在を知っている。彼らは、年代物のキャンバスをそろえ、複製画を描く腕の立つ画家を雇い、いろいろな技を駆使して、「古い絵」を作り出してしまう。そんな複製画は、専門家やエックス線などのテストによってたやすく見破られると思う向きもあるかもしれないがそうではないのである。今でも美術館で、模写をしている画学生などを眼にすることがあるが、実物大の模写は許されていないという話も聞く。精巧な模写は、偽物と判定することがきわめて難しいのである。さて、美術品の窃盗団にとっては、本物のモナリザを手に入れて誰かに売ることが目的ではない。巧妙な偽物を何枚も作り上げて、なるべく多くの買い手に「これこそが本物で、将来モナリザが発見されてもそれは偽物である」ということを信じさせられるかが最大の問題なのである。そのためには、まず、とにかく絵が盗まれたという事実を世間に知らしめなければならないのである。こうして、この事件の首謀者は、本物はアパートの片隅においたまま、何枚ものモナリザの精巧な複製を売って莫大な金を手に入れたと言われている。その後発見された「本物」のモナリザはルーブルに返されて、今も世界中の観光客の人気の的となっているが、これこそ偽物である、という専門家は今でもいる。


34  言葉の力(五題)
 
「鮟鱇(あんこう)の骨まで凍(い)ててぶち切らる」 (加藤 楸邨)
「いくたびも雪の深さを尋ねけり」  (正岡子規)
「夜の海に釣りあげた黒鯛 その眼に新月がいつまでものこっている」(田中冬二)
「てふてふが一匹韃靼(だったん)海峡を渡って行った」(安西冬衛)
「月光は凍りて宙にとどまれり」(不詳)


33 芸術作品とは何か

ジョン・ケイジという音楽家がいた。「4分33秒」という有名な「曲」の演奏をテレビで見たことがある。楽譜とストップ・ウォッチをもった奏者が、ピアノの前に座る。三楽章に分かれているが、ピアニストは一音も鍵盤を叩かずに演奏を終える。ジョン・ケイジは長さの違う一音一音を丹念に書いたといっている。彼は周囲の観客席のさまざまな音、たとえば、咳や鼻をすする音さえも音楽だと主張しているが、初演では観客はカンカンに怒ったという。また、マルセル・デュシャンは男性用の便器を逆さまにして、「泉」という名をつけて、展覧会に出展したことがあった 。


32 道成寺伝説

熊野詣でに出た若き僧侶安珍はある民宿に泊まる。宿の女主人である清姫は恋心を抱く。熊野詣での帰りに立ち寄るという約束を破った恨みをはらすために、清姫の執念は大蛇となって現れ、道成寺の鐘に隠れ籠もっている安珍を焼き殺した。【安珍・清姫の伝説】
 和歌山県日高郡矢田村字鐘巻という場所に道成寺という寺がある。一条院に仕えた橘道成が建立したのにちなんで、道成寺と呼ばれている。この寺は女人(にょにん)禁制であったが、ある時ここに歌舞音楽に興じる白拍子(しらびょうし)と呼ばれる遊女がやってくる。居合わせた能力(のうりき)、つまり寺男は舞を見せてくれることを条件に寺への参詣を許してしまう。能の舞台では、小鼓とシテとの緊張感溢れる《乱拍子》という掛け合いが舞台を支配していく。鼓の音が、空間を切り裂く。破れた虚空から怨念の血しぶきが飛び散る。
 せわしい現代にあって、能舞台を取り囲む空間は静謐な落ち着きに満たされていて貴重である。歌舞伎は、華やかな舞台を見せるが、それとは対照的に能舞台は殺風景である。能が削りに削る引き算の芸術といわれる由縁である。物語の凄惨さは見るものの想像力にゆだねられる。さて、今や、舞台の上は、血の海となって、死臭が漂い、亡者の影が揺曳している。


31 ルートヴィヒとその周辺

18才でバイエルン国王に即位したルートヴィヒ二世は、プロイセンとオーストリアの政争の狭間に立たされ、それが普墺戦争にまで発展すると、オーストリア側について敗戦。従軍した、ルートヴィヒの弟のオットーは、敗戦後に発狂する。王はオーストリア皇后となっていた従姉エリザベートに恋情を抱きつつも、他国のお妃との恋など所詮かなわぬのはわかりきっており、その妹ゾフィとの婚約とその破棄以後は、政治の世界からはますます遠ざかっていく。夜をこよなく愛した、この孤独な王は芸術に魂の救いを求めていく。ワーグナーの音楽に魅了され、多大な援助をするが、内外からの批判にさらされて、ワーグナーの国外退去を余儀なくされる。その後、王は狂ったように中世風の城の建築に明け暮れる。政治に興味を示さず、散財し続ける王に対して、ミュンヘン政府は廃位を決定し、王をベルクの離宮に幽閉する。1886年、医師グッテンの監視付きの散歩中、湖にてグッテンと共に水死。グッテンが犠牲になって国にとってじゃまになった王と心中したとも、王がグッテンを殺害した後自殺したともいわれているが不明。王は40才だった。それから十数年後の1897年には、公爵家に嫁いだゾフィが、火災現場で死体となって発見され、その翌年には、ルートヴィヒが愛した唯一の女性といわれるエリザベートがジュネーブで暗殺された。


30 死なない蛸

学生の時に一度だけ読んだだけなのに、今でも時々思い出す詩が一編ある。萩原朔太郎の「死なない蛸」である。
「ある水族館の水槽で、ひさしい間、飢えた蛸が飼われていた。地下の薄暗い岩の影で、青ざめた玻璃天井の光線が、いつも悲しげに漂っていた。誰も人々は、その薄暗い水槽を忘れていた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思われていた。そして腐った海水だけが、埃っぽい日ざしの中で、いつも硝子窓の糟にたまっていた。けれども動物は死ななかった。蛸は岩陰に隠れていたのだ。そして彼が目を覚ました時、不幸な、忘れられた糟の中で、幾日も幾日も、恐ろしい飢餓を忍ばねばならなかった。どこにも餌食がなく、食物が全く尽きてしまったとき、彼は自分の足をもいで食った。まずその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすっかりおしまいになった時、今度は胴を裏返して、内蔵の一部を食いはじめた。少しずつ他の一部から一部へと。順々に。かくして蛸は、彼の身体を食い尽くしてしまった。外皮から、脳髄から、胃袋から。どこもかしこも、すべて残る隈なく。完全に。
ある朝、ふと番人がそこに来た時、水槽の中は空っぽになっていた。曇った埃っぽい硝子の中で、藍色の透き通った潮水と、なよなよした海草とが動いていた。そしてどこの岩の隅々にも、もはや生物の姿は見えなかった。蛸は実際に、すっかり消滅してしまったのである。けれども蛸は死ななかった。彼が消えてしまった後ですらも、なおかつ永遠にそこに生きていた。古ぼけた、空っぽの、忘れられた水族館の漕の中で。永遠に-------おそらくは幾世紀の間を通じて---------ある物すごい欠乏と不満をもった、人目に見えない動物が生きていた。」                      詩集『宿命』より


29 ワーグナーとニーチェと沈黙

ニーチェの活動していた時期は、三つの十年という時期に分かれている。
学生であったニーチェがリヒャルト・ワーグナーに初めて会ったのは、1868年11月8日であった。恩師リチェルの奥さんが、友人であったワーグナーの姉を介して、ワーグナーの前で『マイスタージンガー』の中の歌を演奏したことがきっかけであった。リチェル夫人は夫の教えているニーチェという学生からワーグナーのこの曲を教えてもらったと語る。それを聞いたワーグナーはぜひその学生に会いたい、といったことが、ワーグナーとニーチェの出会いを生み出した。その4ヶ月後に、ニーチェは24才という若さで、バーゼル大学助教授に就く。ワーグナーはこの時、指揮者ハンス・フォン・ビュローの妻であったコジマ(リストの娘)と正式には結婚していなかったが、事実上は「夫婦」生活をしていた。いずれにせよ、ニーチェとワーグナーの親しい関係はこの後約十年続く【第一期】。その間、ニーチェは1872年1月に処女作『悲劇の誕生』を公にするが、ショーぺンハウアーとワーグナーへの共感があまりにも色濃く反映し、学者の論文というよりも、文学作品的であるという批判を浴びせられる。ニーチェは生涯、眼の痛みや頭痛に悩まされていたといわれるが、ワーグナーとの関係が壊れた後、健康上の理由から35才で大学の職を退く。以後十年あまりニーチェは著作活動に没頭する【第二期】。1889年1月昏倒、精神を病む。1900年8月25日没。ひょっとすると、ニーチェの最後の十年【第三期】の沈黙こそ、大きな意味を持っていたのかもしれない。ヨーロッパの20世紀の思想を大きく揺り動かすためには、十年に及ぶ沈黙による思想の発酵と熟成が必要であったのだ、という意味において。


28 三島由紀夫とその美学

美は、ギリシア語では「カレイン」というが、英語のcall、つまり「呼び止める」という意味である。美しいものは、向こうから呼びかけてくるということである。

三島由紀夫が、市ヶ谷にあった自衛隊の東部方面総監部で楯の會のメンバーであった森田必勝と共に割腹自殺を遂げたのは1970年(昭和45年)11月25日のことであった。三島の代表作の一つに『金閣寺』があげられるが、この小説は実際に起こった事件を元にして書かれたものであることはよく知られている。理想というものは、現実になった時に、理想でなくなる。別の言い方をすれば、人間はすぐに生の現実に飽きてしまう。その意味で、徹底的な理想主義は、ニヒリズムに行き着く、というのは、けだし、名言である。その一方で、そういった現実が失われたときに初めて、その重さに気がつく。空気や健康というものがよい例である。当たり前のことだが、われわれの日常は、退屈なくり返しに見えても、一回しか起こらないものである。そういった一回性は確かに突然の消失の中で際立ってくる。『金閣寺』を燃やして美にする、という考え方は、戦争によって身近なものを失い、その喪失感に耐えながら生きていかなければならなかった世代の人たちからの死者たちへの挽歌であったとも言える。つまり、金閣寺を燃やすという行為は、存在したものの不在こそ、永遠に輝き続ける、という強い意識に支えられているのである。そして、三島由紀夫は自分自身をも金閣寺に仕立て上げた。
それにしても、存在しているものは、絶えず不在によって蚕食されていることが見えている目の持ち主(三島)にとっては、金閣寺を燃やすことも、自死を選ぶことも本当は必要なかったのではないか。そういう地平に立っても作品は書けたはずなのだが・・・。


27 シェイクスピアと語呂合わせ

シェイクスピアが生まれたのは、1564年で、死んだのは1616年である。シェイクスピアは作品の中で実に多くの人間を殺した。だから、人殺し(1564)のいろいろ(1616)と覚えておけばよい。シェークスピアは18才の時に、8才年上の女性アン・ハサウェイ(あん・八才上)と結婚した。


26 ローマ炎上

ローマ皇帝には奇人が多い。多大な権力が、人を狂気に陥れるのか、異常な人間が皇帝にふさわしいのか、よくわからない。その中でも伝説になっているネロは、カリグラ、ヘリオガバルスなどと共に文学的な興味がつきない。そもそも、カリグラはネロの叔父にあたる。先帝ティベリウスを毒殺して皇帝にのし上がったカリグラは、実の姉妹三人と肉体関係を持った。その姉妹の内の一人が、ネロの母のアグリッピナである。アグリッピナは在位三年足らずで暗殺されたカリグラの後、皇帝の座に着いたクラウディウスに妻がいたにもかかわらずこれを押しのけて妻の座に収まる。さて、ネロであるが、考えられるありとあらゆる「残虐」「非道」を実行した、と伝えられている。まず、皇帝クラウディウスの毒殺に関与した。次に異母兄弟のブリタニュキスを毒殺し、肉体関係を持ったともいわれる母親に意見されるようになると、じゃまになり、遠ざけて暗殺した(母親の方から、権力を行使するために情婦になったという見方もある)。叔母、最初の妻オクタウィア、次の妻ポッパエアその他の類縁の人たちを次々と葬り去り、教育係だったセネカをも自殺に追いやる。64年7月19日ローマはまるまる5日間燃え続ける大火災に見舞われた。古くさい建築や町並みが気に入らないと言って、ネロが放火したともいわれている。ネロは、火炎の美しさに恍惚となって酔いしれていたという話も伝わっている(だが、こういった説は、ネロの残虐さを強調するために、後世の歴史家たちが、作り上げていったものであるという人たちもいる)。68年6月8日、追いつめられて自殺。比較的平和で安定したローマ帝国を14年間統治し、その面でプラスに評価されることもある。ネロは三十才で地上から消えていったが、歴史には、決して消えない伝説を残した。


25 狐の化身

竹田出雲の書いた浄瑠璃に、「芦屋道満大内鑑」(あしやどうまんおおうちかがみ)という作品がある。文楽や歌舞伎で時折上演されている演目である。秘書の伝承を巡って、策略にはまり自害した恋人にうり二つの葛の葉姫に出会った阿倍保名(あべのやすな)は、我に返り、姫と結婚し、一子をもうける。時は流れ、六年の歳月を経た頃、もう一人の葛の葉姫が訪ねてくる。いったいどっちが本物なのか。ついに、事情が明らかにされる時がきた。実は、六年間生活を共にしてきた、「葛の葉姫」こそは、保名がかつて窮地を救ってやった白狐の化身であった。恋人を失って気が狂れた保名を助けるために、亡き恋人の姿に化けたというものだった。今や、自分の役割は終わったと悟った狐の「葛の葉姫」は最愛の息子を残して信田(しのだ)の森に帰っていく。「恋しくばたずねきてみよ和泉なる信田の森のうらみ葛の葉」という歌を残して。この白狐から生まれた幼子こそ、今をときめく阿倍清明である。もちろん、これは清明の死後に作られた伝説である。


24 マリア・カラスの遺産

マリア・カラスが活躍したのは、主に1950年代である。後に残した数々のレコードやCDの中では、二つの録音が残っている、ベルカントの巨匠ベルリーニの「ノルマ」が個人的には特に気に入っている。50年代末の、有名な海運王オナシスとの出会いが、彼女にとっては大きな転機になった。それは事実上、歌手生命の終わりを意味していた。もっとも、あれだけいろいろな演目に情熱的に取り組んだのだから、カラスの声の「寿命」は長くないに決まっていたのだが。オナシスはマリア・カラスを「裏切って」J・F・ケネディーの未亡人ジャクリーンと結婚してしまう。オナシスの子供を身ごもったが、オナシスに堕胎を強いられたという話もある。それでもその後もカラスはオナシスを愛していた。私のようなカラスファンからすれば、オナシスにもてあそばれたも同然なのに、と思ってしまう。オナシスはオナシスで、不幸だったのかもしれない。跡取り息子を飛行機事故で亡くしているし、残った娘も結婚後に一人娘を残して、若くして死んでしまったのだから。マリア・カラスの最後のコンサートは1974年11月11日、札幌の北海道厚生年金会館で行われたものだった。その三年後の、1977年9月16日、パリの自宅にて他界。死因は心臓発作といわれているが、不明。肉親とは不仲であったマリア・カラスの印税は前夫である、メネギーニのお手伝いさんに渡っているとどこかに書いてあった。


23 ゴッホの情熱

アムステルダムを旅していたときに、ゴッホの自画像にそっくりの人を見かけてはっとしたことがある。そのとき、やはりゴッホはオランダ人なんだということを強く感じたのを覚えている。ゴッホの絵は生前には一枚しか売れなかったそうである。借りていた部屋の家賃が払えないので、自分の描いた絵をリヤカーに山積みにして大家のところに持っていったが、にべもなく追い返されたという話も伝わっている。画廊に勤務したり、教師や本屋の店員といった職を転々とし、さらには牧師になろうとしたりもするが何かことごとく空回りしていく。その挙げ句の果てにたどり着いたのが、幼い頃から好きだった絵を描くということだった。ゴッホが本格的に絵を描き始めたのは27才の時だった。だが、そこでも、歯車は空回りし続ける。ゴーギャンとの共同生活も破綻し、自分の耳を切り取り、その後自殺してしまう。37才の一生だった。ゴッホを献身的に支えた弟のテオも後を追うようにして、その半年後に病死する。


22 鴎外の心境

漱石に比して、鴎外は「冷たい」といわれることがある。
明治21年(1988年)9月12日、一隻の船が横浜港に入ってきた。船から降りてきた乗客の中に、ひとりのうら若いドイツ人の女性がいた。初めて踏む異国の地は彼女にはどんなふうに映っていただろうか。この日のほんの4日前に森鴎外は、4年間に及んだドイツ留学から帰国していた。この女性こそは、鴎外の小説『舞姫』の主人公「エリス」であった。鴎外一族の強い反対にあって、「エリス」は説得されてドイツへと追い返される。鴎外は、「家」のことを考えて、自分の気持ちを殺して苦渋の決断をしたともいわれている。
鴎外はその後「エリス」からきた手紙を大切に保管していたが、死期を悟った時に焼いたといわれている。それ故に、鴎外が、エリスに対してどんな気持ちを抱いていたかは今となってはわからない。鴎外の墓は三鷹の下連雀の禅林寺にある。若者の墓参が絶えない太宰治の石塔の近くに、「森林太郎」の墓はひっそりと直立している。


21 タナトゥス(死の本能)

ウィーンの人たちは、一般に、ユダヤ人に対する差別意識と性をタブー視する傾向が強いと言われる。それ故に、ユダヤ人であり、性の問題に真っ向から取り組んだフロイトはウィーンではあまり評価されていないと聞いている。フロイトがタナトゥスに初めて言及したのは、『快感原則の彼岸』(1920年)という論文である。第一次世界大戦という人類史上空前の殺戮を目にして、フロイトはなぜ人々は殺し合うのかを考える。その結果、人間には休息(死)を強く求める本能があるという説明を持ち出す。この本能は生きようとする衝動であるエロスと共にフロイトの考えを示す基本的な概念になった。進化論的にいうと、人間は遠い昔、魚類であった。さらにその昔、タンパク質の合成から生物はスタートした。さらにさかのぼれば、岩石だった。人間の脳の古層にはこの岩石だったときの記憶が残っている、という。つまり、フロイトは死の本能をこの無生物に帰ろうとする原始的な記憶から説明した。この説が、どれだけ説得力を持つかはわからないが、非常におもしろい。人間の持つ闘争本能の一部は、「洗練された」社会では、今や、その「とげ」を削られて、格闘技に代表されるようなスポーツという形で発散させられているのかもしれない。


20 大津皇子の霊

 天武天皇亡き後、皇太子であった草壁皇子の母である、後の持統天皇が皇后になった。大津皇子の母、大田皇女は持統天皇の姉にあたるが、皇后の位につくことなく他界していたからである。大津皇子は人望を集めていた言われている。それゆえ、皇后と草壁皇子の側は権力を脅かされることを警戒していた。その上、この二人の皇子には、共に思いを寄せる女性がいた。石川郎女(いらつめ)である。この恋の行方は、大津に軍配が上がったようである。皇子の歌に対する、郎女の返歌が『万葉集』に残っているし、二人が「ちぎり」を結んだ証拠の歌も残っているからである。
 さて、天武天皇が世を去ると、風雲急を告げる。じわじわと追い込まれていった大津皇子 はついに立ち上がる。反抗の兆しを伺っていた草壁皇子は、大津に死を命じる。

【大津皇子死罪になられた時、磐余(いわれ)の池の堤で、泣く泣く作られた御歌】
ももつたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ (416)
(これまでは毎日見た磐余の池の鴨を今日限りの見納めにして、あの世に行くのであろうか)
二歳年上であった姉の大伯皇女は大津の死後、次の歌を作った。
【大津皇子の亡骸を、葛城(かずらぎ)の二上山に移葬し奉った時、大伯皇女の御歌】
 うつそみの人なる我や明日よりは二上山を阿弟(いろせ)と我が見む  (165)
(生きて現世に残った私は、明日からはこの二上山を弟と思って見て慕っていこう)

今から十年くらい前に、思い立って旅立ち、二上山に登ったことがある。ふたこぶ(雄岳と雌岳)からなる二上山の雄岳の頂上付近にある大津皇子の墓は不思議なほど古代の雰囲気を漂わせていた。古色蒼然とした墓石の周囲は、何か皇子の魂が今でも霊気を放っているような気さえ起こさせるものがあった。山頂付近には、次のような歌が刻まれた石碑が立っている。
    大阪を我が越え来れば二上にもみぢ葉流る時雨降りつつ   (2185)


19 ガウディの変容

今や、バルセロナ、いや、スペインの代名詞になった感もある、ガウディが作り始めたサグラダ・ファミリアだが、その完成は、百年後とも、三百年後ともいわれている。
アントニオ・ガウディの兄弟姉妹は、ことごとく夭逝している。一番上の姉は、三十代で、長男は二才、次女は四才、次男は医者になって半年ほどで二十五才であの世へ旅立っている。ガウディが共に暮らした、長女の娘である、姪もまた三十代で逝ってしまった。おそらく、体の弱かったガウディもいつ自分に訪れるかもしれない死の影におびえて生きていた面があるように思われる。いわゆる「学校の勉強」はからきしだめだったガウディだが、健康には恵まれなかったとしても、ガウディの師と目されているマルトレールやグエルとの出会いを初めとして、彼を有名な建築家に導くことになる人との邂逅という面では、大いに「神の見えざる手」に感謝していたのではないだろうか。ガウディは、若い頃は熱心なキリスト教信者ではなかったといわれる。サグラダ・ファミリアを建設していく上で必要な、教会の構造や儀式などを学び、それと共に、多くの高名な神父と出会っていく。いわば、教会を造っていく過程が、自己の神への献身の心を築き上げていくのに等しかった。、彼が、ある種の地位と名誉と金を得てむなしさから断食をし続け、死に瀕したときに、決定的な言葉を投げかけて、翻意させた人がトーラス神父であった。その後は、一生かけても実現し得ない目標に向かって突き進んでいく。それがサグラダ・ファミリアの建設であった。晩年は「聖人」と呼ばれることもあったほど禁欲的に生きていくが、1926年6月7日、聖堂での仕事を終えて教会へお祈りに行く途中、路面電車にはねられてあっけなく死亡。健康面の不安が死ぬまで独身を貫いた理由に挙げられることもあるがよくわからない。また、女性との「体験」はなかったといわれている。七十才近くまで生きたのは、彼の兄弟姉妹のことを考えると、たいへんな長生きだったといえるのではないだろうか。


18 小林秀雄の名言

小林秀雄(1902 ~ 1983)がこの世を去ってから来年で二十年になるという。時折記憶の底から蘇ってくる小林秀雄の言葉がいくつかある。とはいえ、私自身は小林が残した著作のうちのほんのわずかなものしか読んだことはない。小林いわく・・・
「要するに、色とは、壊れた光である」             『近代絵画』  
「僕は、ただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっているような時間が」
   『無常ということ』
「世捨て人とは世を捨てた人ではない、世が捨てた人である」   『様々なる意匠』
「俺の考えによれば一般に女が自分を女だと思っているほど、男は自分を男だとは思っていない」                          『Xへの手紙』
「模倣は独創の母である」
「謎は解いてはいけないし、解けるものは謎ではない」    以上『モーツァルト』
「戦いは好戦派というような人がいるから起こるのではない。人生がもともと戦いだから起こるのである」                      『戦争と平和』
「美しい《花》がある、《花》の美しさというようものはない」  『当麻』


17 チャーリー・パーカー とは・・・

『チャーリー・パーカーの伝説』という本がある。34歳でこの世を去っていった、不世出の、このアルト奏者とつきあいのあった人たちが語った言葉を集めて一書に編んだものである。ジャズやロックを創り出してきた人たちは、麻薬や酒におぼれて、自らの生を切り刻みながら烈火のごとく燃焼して作品を残して消えていった人が数々いる。ジョン・コルトレーンも、ジャニス・ジョップリンも、ジョン・ボーナム も、そして・・・。浅学寡聞の身を承知で言わせてもらえば、こういった人たち中でも、知人たちが語る奇行において、群を抜いているのはチャーリー・パーカーではないだろうか。金銭的なトラブル、女性関係、演奏会場への遅れ、演奏中の蒸発や熟睡など枚挙にいとまがない。以下、いくつかの思い出話を抜き出してみよう。

 その1 「初めてのパリでのコンサートで、誰かがバード(チャーリー・パーカーの愛称)に大きな赤いバラをあげた。そして、演奏の途中で、チャーリは、その花を振りかざして見せ、口づけをし、花びら、茎、そして、とげまで、みんな食べてしまった。」
 その2 「バードが、はじめて自動車を買ったときのことを、私は覚えている。1949年モデルのキャデラックを中古で買ったのだ。運転免許もなく、車の動かしかたも知らなかったのだが、欲しくてたまらなくて買ってしまい、そのままいきなり走りまわりはじめたのだ。」
その3 「 ある夜、というよりも、明け方の5時に、私の部屋のドア・べルが鳴った。こんな時間に、いったい誰だろう、と私は思った。怪我や病気の人ではないはずだ、と私は考えた。私の部屋までは、5階まで階段をのぼってこなくてないけないのだから。どなたですか、と言ったのだが、返事はない。ドアを開けてみると、チャーリーが立っていた。そして、チャーリーは、マッチあるかい、とだけしか口をきかない。
マッチをあげると、それでタバコ火をつけ、ひとことも口をきかずに帰っていった。」


16 西郷隆盛の写真
 
明治時代に活躍した志士たちの顔の大半は、そのころちょうど普及し始めた写真によって知ることができる。しかし、西郷隆盛のものは今のところ発見されていない。われわれの知っている西郷の雄姿はイタリア人の銅板画家キヨソネによって、西郷の死後に弟の從道をモデルにして描かれたものである。上野と鹿児島にある西郷の銅像は、この肖像画に似せて作られたものである。西郷の奥さんはこの像を見て本人に似てないと言っている。
 さて、西郷といえば、すぐに、征韓論や西南戦争が想起されるが西郷は安政五年(1858年)に死に損なったことがある。主君である島津斉彬(なりあきら)に心酔し、慶喜擁立を画策していたが、状勢はそれを許さない方向へと流れていく。重大な局面において、斉彬が急死する。西郷も殉ずる覚悟であったが、気の置けない友人であった僧月照(げっしょう)に押しとどめられる。しかし、やがて、月照も幕府に厳しく追われる身となり、行き場を失うと、もはやこれまでと判断し、月照を抱きかかえて錦江湾に入水した。月照は絶命。西郷は息を吹き返した。西郷がもしこの時命を落としていたら、日本史に西郷の名はなかった。


15 植物と意識

月の引力が女性の「月経」に影響を与えていることはよく知られているが、考えてみると、この説明は科学的な根拠があるのだろうが、どこか神秘的でもある。ライアル・ワトソンというたいへん博学で、ユニークな科学者は、植物と意識について研究している人の話を紹介している。ポリグラフよりも感度のよい電位計を取り付けて調べた例では、「これらの植物と過ごす時間が長ければ長いほど、また、肥料や水をこまめにやり、葉にそっと触れたり水で洗ってやったりすればするほど、反応はそれだけ劇的になる」そうである。そして、次のような結論を下している。「どうやら植物というのは、われわれが教科書で信じ込まされてきた以上に、もっと動物に似たものらしい」
ひょっとすると、あなたの身近に「いる」植物はあなたの声に聞き耳を立てているかもしれない。     『アースワークス』 ライアル・ワトソン より


14 普陀落渡海(ふだらくとかい)

中世、熊野の海からは小舟で海の彼方にあるとされる観音浄土を目指して漕ぎい出る風習があった。また、西方に沈みゆく日輪を追いかけて入水するというものもあった。こういう行(ぎょう)は日想観(にっそうかん)とよばれる。
「四天王寺には、古くは日想観往生と謂われる風習があって、多くの篤信者の魂が、西方の波にあくがれて海深く沈んでいったのであった。熊野では、これと同じ事を、普陀落渡海と言うた。観音の浄土に往生する意味であって、渺々たる海波を漕ぎきってたどり着く、と信じていたのがあわれである」     『山越しの阿弥陀像の画因』 折口信夫


13  奇才 カラヴァッジョ

 これほど暴力的な事件が伝記を彩っている画家はいない。時代が時代とはいえ、人を殺してしまうというのは尋常ではない。だが、物議を醸す経歴が強調されるほど彼が描いた人物の柔和な表情が鮮明に焼き付いてくる。そこには確かに後のフェルメールの予兆が伺える。かつて、デレク・ジャーマン監督は、映画「カラヴァッジョ」の中で実際の絵の中の場面を何枚も再現して見せた。特に、娼婦をモデルにして描いたといわれる『聖母の死』は見事なものであった。後半生の絵は闇を描くために人物が背景に描かれているかのようにも見える。レンブラントが影響を受けたというのがよくわかる。
脱獄と逃亡の果てに永遠の休息が突如として襲う。1610年7月18日、ローマ西北、ポルト・エルコレで熱病にて死去。38歳だった。


12 ジョン万次郎の生涯

 天保十二年(1841年)1月7日 土佐の漁師5人を乗せたカツオ舟が漁に出た。 舟は小笠原諸島の鳥島に漂着し、大破。5人は無人島での生活を余儀なくされる。およそ半年後に、アメリカの捕鯨船に拾われるが、鎖国中の日本には接岸できず、結局、ハワイに寄港し、そこで、4人は降ろされるが、ジョン万次郎だけは船長と行動を共にし、さらに捕鯨を続けながら、船長の家のあるマサチューセッツ州にたどり着く。そこで学校に通いながら、英語や捕鯨を中心とした船舶技術を身につける。このころアメリカのカルフォルニアはゴールドラッシュで沸き立っており、そこで何とか帰国資金を稼ぎ出した万次郎は、ハワイにいた二人(ひとりは病死、ひとりは現地に残る)と共に、日本方面に行く捕鯨船に同乗させてもらい、沖縄本島の南東に上陸する。十一年ぶりに帰ってきた日本での取り調べは、入念なものだった。折しも、時代はもはや鎖国を続けることを不可能にし始めていた。帰国した万次郎はペリーによって開国を迫られる幕府に徴用され、アメリカの情報を提供し、「留学」(流学)して身につけた英語を駆使して活躍する。万次郎を養育したアメリカ人の船長ホイットフィールドは「もし帰国の時期が早かったら、彼は命を失っていたかもしれない」と後に友人に手紙を書いている。たとえ、もっと早い時期に無事に日本に帰っていたとしても、おそらく、万次郎の知識を必要とする時代ではなかっただろうから、歴史の中に完全に埋もれていたであろう。


11  ペトラシェフスキー事件

ドストエフスキーは18歳の時に、父親を農民に殺害されるという、まさに後の彼の小説の展開に出てくるような出来事に遭遇している。この父親殺しの問題は、フロイトにオイディプス問題を考える上で刺激を与えている。彼の生き方に特徴的な点を拾い出してみれば、賭博などの浪費癖に由来する借金生活、時折襲われるてんかんの発作、そして、精神的な側面で言えば、貧しい、虐げられた人々の存在が元で、神への疑義へとまなざしを向けさせることになること、などである。この神への不信は、ドストエフスキーを社会主義運動へと駆り立てる一因になるが、それがペトラシェフスキーたちの活動に連座する道を開いた。今から見ると、彼らの運動は、ちょっと過激な、芸術を愛好する集団にすぎないようにも見えるが、当時ヨーロッパを席巻していた革命の波に異常に敏感になっていたロシア皇帝の恐怖心がこの事件には現れているような気がする。いずれにせよ、ドストエフスキーは死刑判決を受けて、処刑台に立たされる。死を覚悟したときに、特赦によってシベリアへの流刑が確定し、以後10年あまり、苦役を強いられることになる。処刑台に立たされたドストエフスキーは、この後、十字架に張り付けにされたイエスに限りなく接近していく。


10 福沢諭吉の正体

「それから一つも二つも年をとれば、自ずから度胸もよくなったと見えて、年寄りなどの話にする神罰冥罰(しんばつみょうばつ)などということは大嘘だと独り自らから信じきって、今度は一つ稲荷様を見てやろうという野心を起こして、私の養子になっていた叔父様の家の稲荷の社の中には何が入っているか知らんとあけてみたら、石が入っているから、その石をうっちゃってしまって代わりの石を拾うて入れておき、また隣家の下村という屋敷の稲荷様をあけてみれば、神体は何か木の札で、これも取って捨ててしまい平気な顔をしていると、まもなく初午になって幟を立てたり太鼓を叩いたり御神酒を上げてワイワイしているから、私は可笑しい。《馬鹿め、俺の入れておいた石に御神酒を上げて拝んでるとはおもしろい》と独りうれしがっていたというようなわけで、幼少の時から神様が怖いだの仏様がありがたいだのということはちっともない。占い呪い、いっさい不信仰で、狐狸がつくというようなことは初めから馬鹿にして少しも信じない。子供ながらも精神は誠にカラリとしたものでした。」       『福翁自伝』幼少の時より


9  どん底のヴェルディ

数々の名作をオペラという形で残したジュゼッペ・ヴェルディには、危機的な時期があった。貧しい家庭に生まれて、勉学を続けることに暗雲が立ちこめたときに、地域の音楽活動に積極的に関わっていた商人バレッツィに才能を認められて、援助を受けるようになる。 恩人バレッツィの娘マルゲリータにピアノと声楽を教えることがきっかけで、恋が芽生える。そして、まだ無名の若きヴェルディも溌剌と作曲を続ける。1836年5月4日に二人は結婚し、マルゲリータは献身的に夫ヴェルディにつくす。順風満帆の船出に見えた。まもなく娘と息子が生まれるが、息子が誕生して一ヶ月後に娘が急逝してしまう。その翌年には息子も死去してしまう。さらに翌年、追い打ちをかけるように妻のマルゲリータも脳膜炎であの世に旅だってしまう。このころ作曲していた作品の評価も芳しくない。だが、ヴェルディは運命に翻弄されることなく、こつこつと仕事をし続けた。ヴェルディの有名な作品はみんなこれ以後に生まれたものである。


8  サウジ・アラビアの王女の処刑

もうずいぶん前(1977年)のことであるが、サウジ・アラビアを旅行していたイギリス人がサウジで行われている公開処刑を映像に記録して、それがイギリスで放送されたことがあった。なんとそれはサウジの王女で、夫を捨てて愛人と共に国外に出るつもりであったが、出国する前に逮捕されてしまったので「法に従って」処刑されたのだった。だが、映像はこの放送を見たイギリス人たちに強い衝撃を与え、イスラム国家の「野蛮さ」に批判が集まった。一方、イスラム法に則った「儀式」を密かにとられて、公開されたサウジ・アラビア側も憤慨し、大きな外交問題に発展した。イスラム法は盗みをすれば、盗みを働いた腕を切り落とし、見せしめのために切り落とされた腕を街角に突き立てておくとも言われている。たとえ、王女であっても例外ではないと・・・。


7 放哉(ほうさい)のゆくへ

明治42年東大法学部を卒業した尾崎放哉は、日本通信社に入社するが一ヶ月で会社を辞めてしまう。その後、生命保険会社に勤めながら定型に収まらない俳句を多く作る。経歴上は結婚し、落ち着いたように見えるが、大酒を飲んでは失敗し、禁酒の約束をするが、できず、諭される。39歳で病いを得て妻子を捨て寺男となる。42歳で、粗末な庵で永眠。「墓のうらに廻る」「一日物云はず蝶の影さす」「たった一人になりきって夕空」


6 パゾリーニの運命

「過激な」映像で知られる映画作家ピエル・パウロ・パゾリーニがローマ近郊の海岸沿いの町で暴行されてから車にひき殺されるという、「過激な」ニュースが1975年
11月に世界を駆け抜けた。犯人は17歳の少年ピーノ・ペロージで、殺人は認めるが、「身の危険」を感じて犯した正当防衛と主張する。金持ちに対して、嫌悪と憎悪と敵意さえむき出しにしていたパゾリーニの無惨な死そのものが、彼の映像を地で行くものだといわれた。母親を溺愛し、父親に対しては忌避し続けた彼は、ソフォクレスの『オイディプス王』に依拠した作品『アポロンの地獄』を自伝と呼んでいる。


5  ある女優の一生

大正7年11月5日午前2時、芸術座を率いて奮闘していた島村抱月が、この年猖獗を極めたインフルエンザにかかって48歳で世を去った。大正3年に「カチューシャの歌」で一世を風靡した女優・松井須磨子は、すでに、妻子のある抱月と「親密な関係」であることが公にも知られていた。彼女自身十代で木更津の旅館に嫁ぐがすぐに破局をむかえる。その後、演劇学校の教師と同棲し、坪内逍遙が始めた演劇活動で頭角を現すようになる。気性の激しい須磨子も抱月を失った空虚感に耐えきれずに、抱月の死の翌年の松の内に後追い自殺を遂げる。34歳。


4 ヴィトゲンシュタインの肖像

5男3女の末っ子としてウィーンでも有数の富豪の家に生まれたルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインは3人の兄を自殺で亡くしている。ただ一人残った兄パウルは戦争で右手を失ったが、左手だけでピアノを弾き続け、「片腕のピアニスト」として名をなす。その後、ルートヴィッヒは莫大な遺産を受けつぐが、その一部を芸術家などの活動を援助するために寄付し、残りは自分の兄弟姉妹に譲り渡してしまう。小学校教師、庭師、建築家などの仕事をしながら、言語の限界と可能性を巡る思索を続け、ケンブリッジ大学に迎え入れられ、難解な著作を残す。
「・・・世界が私の世界であるということは、この言語(私の理解している唯一の言語)が私の世界の限界を意味するということのうちに示されている。」『論理哲学論考』5・62


3 熊楠と漱石の接点

1900年(明治33年)の9月8日、夏目漱石は第1回公費留学生としてイギリスに向かう船に乗る。時を同じくして、南方熊楠はアメリカ、イギリスなど15年間に渡る「放浪」の修行を終えてロンドンから帰国の途に着く。西洋に向かう船と日本に向かう船が9月のある日、お互いの船影を見せることなく異国の海上で交錯して静かに通り過ぎていく。


2 中世の闇  トマス・アキナス 

  聖書やアリストテレスの注解など膨大な量の書物を、昼となく夜となく書き続けてきたトマス・アキナスに、1273年12月6日のミサの最中に異変が起きる。
その後「私にはもうできない。たいへんなものを見てしまった。」と繰り返すだけで、突然言葉を閉ざす。何が起こったかは誰にもわからない。トマスはいったい何を見たのだろうか。翌年の3月7日、逝去。49歳。


1 文学的先駆者、二葉亭四迷の略歴

  「くたばってしまへ」に由来するといわれる二葉亭四迷という名で、二十代にして「浮雲」を書き、明治の文壇に颯爽と登場するが、その後、結婚と離婚という身辺の出来事、日清戦争という事態の中を生き抜きながら、明治32年に36歳で東京外語大のロシア語の教授につく。安定を得たかに見えたが、3年あまりで辞職。以後、作品の発表と翻訳で活躍を期待されるが、日露戦争に巻き込まれていく。ロシア語の力を買われて、朝日新聞に雇われ、その後ロシア特派員としてロシアに渡るが、まもなく、病に倒れる。病気を押して帰国せんとするが、その船中、ベンガル湾洋上で死去。遺灰となりて帰国 。46歳。