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●19● 「宗女壹與年十三」


 三國志 魏書 卷三十 東夷伝 倭人

 卑弥呼の宗女壹與年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。

 「♪〜壹與 (イヨ) はまだ十六だから〜♪」 どころか 十三歳 ですから、いまでいえば 中学一年生 ですね。 「モーニング娘。」 の新メンバーくらいでしょうか (2002年現在)。 「なにも、こんな子供をかつぎださなくても・・・」 と思いますが (つんく♂ もね)、ほかに人がなかったのでしょうね。
 彼女のその後についてはとても気になります。 幸せに天寿をまっとうできたのでしょうか? 先の 卑弥呼 の生涯を考えると (卑弥呼謀殺 を参照)、どうにも悲観的な想像しかわいてきません。
 実はUPするつもりのなかった 「晋書」 をUP (こちら) する気になったのは、壹與 のその後が気になってしかたがなかったからです。 「晋書」 には、わずかにその後の 邪馬台国 の消息らしきものが記されています。

 晋書 卷九十七 四夷伝 倭人


 宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帶方朝見 其後貢聘不絶 及文帝作相 又數至 泰始初 遣使重譯入貢


 宣帝の公孫氏を平げるや 其の女王、使を遣し帶方に至り朝見す。 其の後、貢聘絶えず。 文帝、と作
(な)るにび、又、數至る。 泰始の初め、使を遣し譯を重ねて入貢す。


 晋書 武帝紀


 泰始二年十一月己卯 倭人來方物


 泰始二年十一月己卯、倭人來り方物を獻ず。

 秦始二年 ( 晋 の年号で、西暦 266年 にあたる) 十一月に、倭国から使者が来て入貢してきたと書いてあります。 「このときの倭王が 壹與 だったのではないか」 といわれています。
 魏が「張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を為してこれを告喩」したのが 正始八年(247年)。
 卑弥呼 が死んだのが 仮に 正始九年(248年)として、その跡を継いで 壹與 が十三歳で女王となったのが、余裕をみてその一年後 (249年) とすると、秦始二年(266年) に彼女は 三十歳 の女盛りだったと考えられます。 もっとも 三十歳 は、当時の感覚では 「年すでに長大」 なのかもしれません。
 
日本書紀 も 神功皇后 摂政紀 六十六年 に・・・

 日本書紀 卷第九 氣長足姫尊 神功皇后


 六十六年 是年晋武帝泰初二年 晋紀居注云 武帝泰初二年十月 倭女王遣重譯貢獻


 六十六年 是年、晋の武帝の泰初の二年なり。 晋の紀居注に云はく、武帝の泰初二年十月、倭の女王、譯を重ねて貢獻せしむという。

 と書いています。 そして、このあとついに 邪馬台国 の消息は途絶えてしまいます。  次に倭人が中国の史書に現れるのは 421年 の 倭王  で、これ以後がいわゆる 倭の五王の時代 であり、そしてどうやらこれは 大和朝廷 のことであるようです。
 ここにあげた 晋書 の記録はその意味で 邪馬台国 の最後の消息と考えられます。 そして、わたしにはこれが 

 「わたしは、ここにいます。 邪馬台国 もここにあるわ。 忘れないで!!」

 という、若干十三歳で倭人の女王となった 壹與 の最後の、そして歴史のはるか彼方からかすかに届いてくる悲痛な叫びのように思えるのです。 いったいこのあと 邪馬台国 はどうなってしまったのでしょうか? 大和朝廷 との関係は? そもそも 大和朝廷 とはいったい何者なのか? 興味は尽きませんが史書は黙して語りません。 

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