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●21● 難升米が会った魏の皇帝はだれ?
年表 (こちら:別窓で開きます) も参照してみてください。
日本書紀 神功皇后 摂政三十九年 に ・・・
魏志に云く、明帝の景初三年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣して郡に詣りて天子に詣らむことを求めて朝獻す。太守劉夏、吏を遣わし将て送りて京都に詣らしむ。
とあり、日本書紀 は 明帝 (魏 第三代の天子) の時だとしています。
しかし、はっきり 「明帝」 としているのはこの日本書紀の引用だけで、他の文書には明記がありません。
今に伝わる 魏志 には・・・
| 三國志 魏書 卷三十 東夷伝 倭人 景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、吏将を遣わし送りて京都に詣らしむ。 |
とあり、 「景初二年」 と書いてあります。 ところが冒頭にあげたとおり 日本書紀 では 「景初三年」 と書いてあります。 どちらが正しいのでしょう。
別のページ (●20● 景初二年) でも書いたとおり、 景初二年 の朝鮮半島は戦乱の真っ只中にあり、 難升米 たちが易々と通行できるような状況ではありませんでした。
さらに、この 魏志 の文章をみると 帯方郡 には太守の 劉夏さん と言うひとがいて、きちんと事務をこなしています。 そこで、これはやはり 魏志 のほうが間違いで 日本書紀 の言うように 「景初三年」 が正しく、 卑弥呼 の使者 難升米 たちが魏の都まで使いできたのは、遼東に割拠していた 公孫淵 がその前年に滅亡し、朝鮮半島の帯方郡が魏の勢力下におかれたためであるというのが定説となっています。
これはなにも近年の研究者達がそう言っているだけでなく、「三国志 東夷伝」 の冒頭の前書きに 陳寿 自身が・・・
「西域のことは、いろいろくわしくわかっていたが、東域については 公孫淵 が父祖三代にわたって遼東を支配したため、皇帝はそのあたりを 絶域 と見なし、海のかなたのこととして放置されたので、東夷との接触は断たれ、中国へ使者がやってくることもなくなった。 しかし 景初年間に 公孫淵 を滅ぼし、さらに楽浪郡、帯方郡を手中にすると、東夷の者たちは中国の支配下にはいって、その命に従うようになった。 −略− そこで、これらの国々のことを順に記し、それぞれの異なった点を列挙して、これまでの史書に欠けていた点を補おうとするものである」
・・・と書いています。
三国志 魏書 によると、明帝 は 景初三年(239年)正月 に36歳 (もっとも 裴松之 は、「36歳であるはずがない。 34歳か、無理しても35歳だろう」 と注釈しています) でなくなっているので、難升米 等が京都に到着したのは 景初三年六月以降 であったはずですから、だれかと謁見したとするなら、それは明帝の皇太子であった 斉王 芳 ( 少帝。 明帝没後に即位した、魏の第四代の天子) であったはずです。 この時期、魏の朝廷は先帝の喪中でした。
| 三國志 魏書 卷三十 東夷伝 倭人 汝がある所はるかに遠きも、すなわち使を遣わして貢献す。これ汝の忠孝、我れはなはだ汝を哀れむ。 |
と、卑弥呼に呼びかけたのは 魏の第四代の天子、当時まだ9歳の 少帝 なのでした。
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と、まあここまでいったんは書いたのですが、当然 9歳の子供 がこんなこと (詔書) を書けるはずもなく、当時の魏の2大実力者といえば、大将軍で皇族の 曹爽(そう・そう) か、太尉の 司馬懿 でしたから、そのどちらかの意志がはたらいていたのでしょう。 一つの見かたとして、魏書 東夷伝 に 倭人の条 が長々と書かれているのは 司馬懿 が 公孫淵 を滅ぼした功績を喧伝する意図があった と言われていますから、 卑弥呼 のこのような行動を 「かわいいやつ」 と思ったのは、実際のところ 司馬懿 だったのではないでしょうか。 ご参考までに 年表をどうぞ (こちら)。