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古代史獺祭 卑弥呼謀殺 §7 ● 十三歳の倭王 ●


 張政 は、倭国の混乱を横目で眺めつつ、洛陽からの使者を待わびていたはずである。 その使者は帰国命令とともに 張政 らの功績をたたえ褒賞を取らせる旨の書状をたずさえてくるはずであった。 ところが、洛陽から駆けつけた使者がもたらした書面をみて 張政 は驚愕し、恐れ、狼狽した。 それは厳しい叱責とともに 「ただちに倭国の争乱をおさめよ。 さもなくば帰国におよばず」 というものであったからだ。 一体これはどういう訳か、張政 にはわからなかったであろう。 秘密命令をおびて倭国にわたり、最後の詰めだけは予想外だったが見事に 卑弥呼 を消すという使命を果たしたはずである。 そして今や得意満面で帰国の途につこうというやさきに、はげしく叱責されたうえ、最初の命令とはまったく逆の命令が中央から来たのである。 しかしなんとかするしかない。

 そうと腹をくくれば、そこはもともと有能な官吏である。 ふたたび 顧問団 の活動が活発になった。 みずからまいた種をみずから摘み取るために、張政らはまさに東奔西走した。 とにかく卑弥呼にかわって、倭国全体の求心力となるべき人物を探さなければならなかった。 しかし 張政 はここで頭をかかえてしまった。 卑弥呼死後の争乱により、倭国内のこれという人物は互いに殺し合い、ことごとく死んでしまっていた。 有力な勢力同士が、卑弥呼のあとの権力を互いに争そいあって自滅していくさまを 「我が事成れり」 と、内心ほくそ笑みながら眺めていたことが、いまさらながら悔やまれた。 卑弥呼の重臣 難升米 もまた争乱の中、白刃に倒れていた。 こうなればふたたび 卑弥呼 の名をかつぐよりない。 卑弥呼に連なるものであれば、誰でもよかった。 そこそこの霊力をそなえた人物であれば、なおよかった。

 そうしてようやく見つけ出したのは、卑弥呼の縁者という 十三歳の少女 
壹與 であった。 このような子供を担ぎ出すしかないほどに、倭国の人材は払底してしまっていたのである。 しかしやはり 「卑弥呼に連なるもの」 との肩書きの効果は絶大だった。 あれほど反目しあっていた勢力同士が 壹與 のもとにふたたび結束し、邪馬台国連合のクニ同士の話し合いがもたれたのである。 こうして 壹與 を 倭の女王とし、これを卑弥呼の遺臣である 掖邪狗 らが補佐するという新体制が発足した。

 しかしここに至って 張政 にとって頭の痛い問題となったのは卑弥呼謀殺のからくりを知る 卑弥弓呼 の存在である。  なんとかして即刻 卑弥弓呼 を始末しなければならない。 そこで、張政 は 「そもそも倭国の争乱の元凶は狗奴国と卑弥弓呼である」 と言いたてた。 「連合内部の混乱がおさまったいま、狗奴国および卑弥弓呼をただで済ませるわけにはいかない」 と言い張ったのである。 ただちに新生邪馬台国連合の首長たちによる会議が開かれた。 結論は狗奴国および卑弥弓呼の邪馬台国連合からの追放であった。 卑弥弓呼 が 張政 の変節に気付いたときはすでに遅かった。 卑弥弓呼 は捕らえられて、髪を切られ、爪をはがされて重罪人として追放されたのである。

 「古事記」はいう、

 「ここに八百萬(やほよろず)の神、共に議(はか)りて・・・千位(ちくら)の置戸(おきと)を負わせ、また鬚を切り、手足の爪も抜かしめて、神逐(かむや)らひ逐(や)らひき」 と。

 また「日本書紀」にいう、

 「然して後に・・・科(おほ)するに千座置戸(ちくらおきと)を以てして、遂に促(せ)め徴(ほた)る。 髪を抜きて、その罪を贖はしむるに至る。 亦曰はく、其の手足の爪を抜きて贖ふといふ。 すでにしてつひに逐降(かむやらひやら)ひき」

 またいう、

 「既にして諸の神・・・責めて曰はく 『汝(いまし)が所行(しわざ)甚だ無頼(たのもしげな)し。 故、天上(あめ)に住むべからず。 亦、葦原中国にも居るべからず。 急(すみやか)に底根(そこつね)の國に適(い)ね』 といひて、乃ち共に逐降(やら)ひ去(や)りき。 ときに霖(ながめ)ふる。・・・宿を衆神(もろかみたち)に乞ふ。 衆神(もろかみたち)の曰はく 『汝(いまし)は是(これ)(み)の行(しわざ)濁悪(けがらは)しくして、逐(やら)ひ適(せ)めらるる者なり。 如何(いかに)ぞ宿(やどり)を我に乞ふ』 といひて、遂に同(とも)に距(ふせ)ぐ。 是(ここ)を以て、風雨(あめかぜ)甚だふきふるといえども、留まり休むことを得ずして辛苦(たしな)みつつ降りき」 と。

 この結果 狗奴国 は、その罪を償うために多くの土地を接収され、大勢の人々が邪馬台国連合の奴婢におとされた。 長年にわたる邪馬台国連合との争いに加え、卑弥呼死後の混乱により狗奴国もまた疲弊していたうえに、このたびの措置である。 さらに一度は邪馬台国連合に組み入れられたことにより狗奴国の軍事力は牙を抜かれ、いまや昔日の威勢はなく、一国で連合と戦えるだけの力はなくなっていた。 こののち再び狗奴国が邪馬台国連合を脅かすことはなかったのである。

 ここにいたり、二重・三重の使命をはたした張政顧問団はようやく帰国の途についた。 あしかけ三年にわたる倭国滞在であった。

 『魏志倭人伝』 にいう、

 「壹與、倭の大夫・率善中郎将 掖邪狗 等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。 因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大句珠二枚・異文雑錦二十匹を貢す。」  と。 このときの生口こそ、奴婢におとされた狗奴国の人々の一部であった。
 
 張政 や 壹與 がその後どうなったのか、邪馬台国がその後どのような運命をたどったかはさだかでない。
 陳寿 の 「魏志倭人伝」 も、張政顧問団の帰国を最後に筆をおいている。 想像をたくましくすれば「三国志」を執筆するにあたり 陳寿 が収集した膨大な資料の中に、このときの張政顧問団の記録も積みあげられていたのかも知れない。 

 −おしまい− 本日もご覧くださいまして、ありがとうございました。−−− (NHKの松平アナウンサー風に) <(_ _)>
 

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