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* 発掘された日本列島2005 −新発見考古速報展− 見学レポート *

場所/期間 :  江戸東京博物館 / 2005年7月12日(火)〜2005年8月21日(日)

● 江戸東京博物館 ホームページ 
● 同 企画展示 『発掘された日本列島』 のページ 


 「もうそろそろじゃないの?」 という息子の言葉に 「おお、そうだ!」 と思い出して、 『発掘された日本列島2005 −新発見考古速報展−』 を見学に出かけることにしました。 数ヶ月前に予告を発見して楽しみにしていたのです。 ところが見学前夜に上記ホームページに行ってみると … 『土・日曜日は大変混雑いたします。 平日のご来館をお薦めいたします。』 … などと、サラリーマンにとっては無茶とでも言うほかないとんでもないことが書いてあります。 「できるか、そんなこと(;;)」 と、人ごみが嫌いな獺祭は早くもがっかりモードに突入です。 しかし 「木・金曜日は夜8:00まで開館してるって書いてあるよ」 と教えられ、 『それなら明日は金曜日。勤務後に行ってみよう』 と気をとり直したのでした。 ちなみに獺祭の勤務先は神田神保町の書店街と秋葉原電気街のほぼ中間地点にあり、どちらへも徒歩でアクセスできるという、わたしの職種からして絶好の場所にあります。 最寄駅のJR御茶ノ水から江戸東京博物館のあるJR両国駅までもほんのわずかな距離。 勤務後に出かけるにしたってちょろいものなのであります。

 さて金曜日(7月15日)、前夜から充電を終えたデジカメと、ある 『必殺アイテム』 を鞄にひそませ、準備万端怠りなく会社にでかける獺祭。 定時の5:30になったところで 「今日は所用があるので」 と、そそくさと退社して博物館に急ぎました。 あ、でもちゃんと仕事はしてますよ! 博物館に到着したところで、午後6:00すぎ。 「よしこれで約2時間たっぷり見学できるぞ」 と胸は躍ります。

● 入場してみると、ご覧の通り人影はまばら。 時には警備の係員さんだけしか見えない獺祭の貸切状態。 やったね! わざわざ金曜日の夜にやってきた甲斐があったというものです。

 展示会ゲートをはいって真っ先に目に飛び込んでくるのが、このキトラ古墳の石室1/1スケール。 思っていたよりさらに小さいのでびっくり。

* キトラ古墳石室の実物大模型(左)と、作業用ゲージ(右)

 その右手にあるなにやら多足ロボットみたいなのは、不注意に作業者が壁面に触れないように、ボトルシップよろしく狭い石室内に組み立てたアルミ製のゲージなのだそうです。 その小ささたるや、獺祭が横になったらひざはまず伸ばせそうにありません。

● さてここで獺祭の必殺アイテムをご紹介。

 それがこの 「ギャラリー・スコープ」。 全長10cmというチビのくせに、普通の望遠鏡では不可能な至近距離なんと30cmから、ばっちり焦点が合うという遠近両用の8倍望遠鏡。 これを使えば、たとえ人の頭越しでもガラスケースの中の展示品の細部までまさに手にとるように見えるという優れものなのです!

 電車にのってわざわざ専門店に出向き一万円はたいてこれを買ったときには家のものにはあきれられましたけど…。 うちはびんぼーなのです…(TT)


 それから後は石器時代から縄文、弥生、古墳、飛鳥と時代順にこの一年に発掘された遺跡の展示が続きます。 

 ● 石器時代
     『田向冷水遺跡(たむかいひやみずいせき)』/青森県八戸市

 ● 縄文時代
     『入江内湖遺跡(いりえないこいせき)』/滋賀県米原市
     『鷲ノ木5遺跡(わしのき5いせき)』/北海道森町
     『正福寺遺跡(しょうふくじいせき)』/福岡県久留米市
       ・網かごにぎっしりつまった大量のどんぐりが出土。川の中に穴を掘って水に浸して保存していた?
       ・木製の柄に石斧が着いた完全な形で『直柄石斧』が出土。
     『忠生遺跡A地区(ただおいせきAちく)』/東京都町田市
     『寺下遺跡(てらしたいせき)』/青森県階上町
       ・二匹分の蛇の骨がはいった小さな壷。
       ・ミニサイズの土偶多数。

 ● 弥生時代
     『油田遺跡(あぶらでんいせき)』/福島県会津高田町
     『吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)』/佐賀県神埼町・三田川町・東背振村

  …と、ここまで来て獺祭の足がぴたりと止まります。 小さな銅鏡がある! それとイモガイ製の腕輪多数。 大いに心惹かれますが、閉館までの時間が限られているし、このさき何がどれだけあるのかわかりません。 ひととおりさらっと見て先へ進みます。 とにかく何があるのか、まず出口まで行ってみてから引き返してこようと決意します。

     『八尾南遺跡(やおみなみいせき)』/大阪府八尾市
     『門前遺跡(もんぜんいせき)』/長崎県佐世保市

 ● 古墳時代
     『巣山古墳(すやまこふん)』/奈良県広陵町
     『長湯横穴墓群七号墓(ながゆよこあなぼぐん七ごうぼ)』/大分県直入町
     『武蔵府中熊野神社古墳(むさしふちゅうくまのじんじゃこふん)』/東京都府中市
   
 ● 古代
     『法隆寺若草伽藍跡(ほうりゅうじわかくさがらんあと)』/奈良県斑鳩町
     『キトラ古墳(きとらこふん)』/奈良県明日香村
     
 … etc。

 しかしもうあの銅鏡が気になって、心ここにあらず。 正直、文字の書いてある遺物に最大の興味を引かれる獺祭なので、足早に出口に到着して、すぐに元の場所にとって返します。


 吉野ヶ里遺跡

 ●銅鏡と貝製腕輪の発見
 銅鏡と貝製腕輪は、長大な列状の甕棺埋葬墓地の南側にあたる、弥生時代中期後半の石蓋甕棺墓(JS2775)から出土しました。 銅鏡は、甕棺の口と蓋石との間の目貼り用粘土の中から出土しましたが、破片数点が棺内に落ち込んだ状態でした。 がんらい完全な姿で置かれていたものと思われます。 径7.4センチ、 「久不相見長毋相忘」 の銘のある、中国前漢代に製作された上質な連弧文(れんこもん)鏡です。(引用:文化庁編 『発掘された日本列島2005』 より)

●先に紹介した 「ギャラリー・スコープ」 と比べると、その大きさ(小ささ)がわかりますね。

 貝製腕輪は甕棺内部におさめられた女性人骨の両腕に装着(右腕に25個の縦型、左腕に11個の横型)された状態で発見されました。 南海産のイモガイの貝殻でつくった腕輪で、双方とも手首のものが少し大きく、関節部分で小さくなり肘側に向かって順次大きいものを着けていました。 腕輪をびっしりすきまなく着ければ、全体の長さは両腕で等しくなるようです。 南海産貝殻腕輪の片腕の装着数としては最も多く、腕輪周辺からは衣服の一部らしき絹布の細片も出土しました。(引用:同上)

● 甕棺内部の埋葬の様子を写した写真パネル。

 奥に見えるアーチ状の大きな骨が骨盤らしい。手前に向かって脊柱が伸び、最も手前が頭部にあたる。 まっすぐ下に伸ばした右腕の手首から肘にかけて長方形の縦型腕輪が、胸に手を当てるように折り曲げた左腕には、丸い横型腕輪がすきまなく装着されている。


 ● これが、その腕輪の現物。

 展示ケースの中の説明文で知ったのですが、この腕輪の穴の径はやや小さくて、大人の手は入らないのだそうです。 なるほど言われてみればそのようです。 ということは、彼女は少女のときにこの腕輪をはめるべく運命づけられ、そのまま成人し、そしてその運命を全うして一生を終えたことになります。 しかし、こんなものを着けていては、日常の動作はともかく、とても労働にはむきませんね。 しかも衣類の一部と見られる絹布の存在。 これらを考えると労働にたずさわる必要のない、ある程度の身分のある女性だったのでしょう。

 
 邪馬台国の女王卑弥呼も、このような装身具を身につけていたのでしょうか。 『鬼道につかえ、能く衆を惑わす。 年すでに長大なるも、夫婿なく、男弟あり、たすけて國を治む。 王となりしより以来、見る者少なく有り。 婢(はしため)千人を以て自ら侍せしむ。 ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。』 というのも、優雅な女王様生活というよりなにか生活無能力者が養われている (もっと過激な表現をすると 『飼われている』?) ようにも思えてきます。 まるで、あの 『持衰』 のように。 そして、卑弥呼なきあとを継いだ13歳の少女 壹與 の腕にも、このような腕輪が装着されたのでしょうか? 

 そういえば以前どこかで頭骨の顔面が扁平に変形した女性人骨が発掘され、それは外傷でも埋葬後の損傷というわけでもなく、どうやら彼女は巫女のような祭祀にかかわる役柄であって、小さいころから顔に扁平な板状の仮面のようなものを装着し続け、それが原因で頭骨の健全な成長が妨げられたものであるらしいとの記事を見たことがあります (どなたか、この件のくわしい情報をお持ちのかた、どこの遺跡の話だったかお教えください)。

 弥生時代の倭国女王などというと、わたしみたいな素人はきらびやかで優雅な生活をつい想像してしまいますが、現代のわたしたちからみればとんでもなくおどろおどろしい、無残で残酷な生活を強いられていたのかもしれませんね。 

● さて、これが今回獺祭が心ひかれた銅鏡です。

 直径7センチばかりのまさにコンパクト(手鏡)サイズ。 彫りもシャープで実に美しい見事なできばえの鏡です。
 他に人も少ないのをよいことに、展示ケースを抱きかかえるようにかじりついて、デジカメで撮影したり、拡大鏡で細部をじっくり観察。 まさに独り占め状態です。
● 上の画像では少しわかりにくいので、画像編集ソフトで『今昔文字鏡』の画像フォントのなかから近い文字形のものを貼り付けてみました。

 右側中段、時計の3時の位置にある 「久」から時計回りに「不(古形・甲骨文字に近い)」「相」「見」「長」「毋(難読)」「相」「忘(古形・最も難読)」とあります。


 何千年も昔の人の思いが現代に伝わってくるとは、いまさらながら 『文字』 というのはすごい発明です。 これらの文字を見ているとさまざまな思いが広がってきます。 埋葬者は何を考えてこの鏡を棺の封印の粘土にうめこんだのでしょうか。 鏡は魔よけの力があると考えられていたようですから、被葬者の霊が悪霊となって生者にたたるのを封じようとしたのでしょうか、それとも外から悪霊が侵入して彼女の安らかな眠りを妨げるのを防ごうとしたのでしょうか? また、この鏡は彼女が生前愛用していたものなのでしょうか? だとすれば、女性が身近に置いて愛用するには実に似つかわしい、かわいらしい鏡なのですが…。 しかし、この時代に女性が手鏡を愛用して化粧するなどということはありえないのでしょうね。

 それにしても、この銘文の鏡を封印に使ったというのは見事な選択だったといわざるを得ません。 解説では銘文をこう読み下しています。

 『久しく相い見(まみえ)ず、長く相い忘るる毋(なか)らんことを』

 意訳すると 『わたしたちはもう永久に互いに会うことはないだろう、それでも長くお互いに忘れないでいよう』 ということですね。 この銘文は死者に対する決別と哀惜の思いにあふれているではありませんか。 もちろん、この鏡を製作したのは中国の工人でしょうし、製作者がこのような用途を想定してこの銘文を刻んだかどうかは定かではありません。 また元来の意味は別のものなのかもしれません。 しかしこの鏡を埋葬に使った人々の中にはこの銘文の意味を理解し、死者との別れの言葉に転用できるだけの能力を持った人がいたと考えてもいいと思います。 てじかにあった鏡をテキトーに選んで、棺の封印に貼り付けたとは思えません。 卑弥呼の時代、倭人が文字を解したかどうか議論があるようです。 吉野ヶ里の全盛期は卑弥呼の邪馬台国の時代よりさらに少し古い時代とされていますが、この鏡と鏡の使用法をみるかぎり、吉野ヶ里にはすでに 『文字を解する人がいた』 とわたしには思えます。

 この鏡の作者は何を思って、何のためにこの銘文を刻んだのでしょう。 万数千里の距離を野越え山越え、対馬海峡をこぎわたり、どのような人々のどのような思いが、この鏡をはるばる倭地の吉野ヶ里にはこばせたのでしょうか。 埋葬者は何を思ってこの鏡を被葬者の封印に使ったのでしょうか。 そのような千何百年も前の幾人もの人々の、さまざまな思いが重なりあい連なりあって、長い長い空間と時間の旅のすえにこの鏡は今わたしの目の前にある。 そう考えると、この銘文はまた違った言葉を語りかけてくるようです。 吉野ヶ里の時代を生きたこの被葬者の女性が、現代を生きるわたしたちにこう言っているようです。 『わたしとあなたは永久に相まみえることはないでしょう。でもお願いです。どうかわたしのことを忘れないで』 と。 それはまた弥生から現代へ、時代から時代への強烈なメッセージでもあるようです。

 興奮してこんなことを考えているといつの間にか時間は過ぎ、熱にうかされたようになって博物館を出ると…外は蒸し暑い梅雨明け前の都会の夜の雑踏の中なのでした。

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