粤(えつ)の地は、牽牛、(ぶじょ)の分(ぶんや)なり。 今の蒼梧(そうご)、鬱林(うつりん)、合浦(ごうほ)、交阯(こうし)、九真、南海、日南は皆粤の分なり。

 その君は禹
(う)の後(すえ)にして、帝少康の庶子と云う。 會稽に封ぜられ、文身斷髮し、以って蛟龍の害を避く。 後二十世、句踐(こうせん)の王を稱すに至り、呉王闔廬(こうりょ)と戰い、これを雋李(すいり)に敗る。 夫差(ふさ)立つ。 句踐、勝に乘じ復た呉を伐つも、呉は大いにこれを破る。 會稽に棲み、臣服し平を請う。 後に范蠡(はんれい)、大夫種(しょう)の計を用い、遂に呉を伐ちて滅し、その地を兼并す。  淮(わい)を度り齊・晉の諸侯と會し、貢を周に致す。 周の元王は使をして命を賜わしめ伯と爲し、諸侯は畢(ことごと)く賀す。 後五世にして楚の滅する所と爲し、子孫は分散し、君は楚に服す。 後十世、(びんくん)(よう)に至り、諸侯を佐け秦を平らぐ。 漢興(お)こり、また搖を立て越王と爲す。 この時に、秦の南海尉(=官名)趙佗(ちょうた)また自ら王となし、傳國して武帝に至りし時に、盡く滅し以って郡と爲すと云う。

 處は海に近く、犀、象、毒冒
(たいまい)、珠(しゅき)、銀、銅、果、布の湊多く、中國より往く商賈の者は多く富を取る。 番禺(ばんぐう)は、その一都會なり。

 合浦の徐聞より南に海に入り、大州を得たり。 東西南北方千里にして、武帝の元封元年に略し以って
(たんじ)、珠(しゅがい)郡と爲す。 民は皆布を服(き)るに單被の如く、中央を穿ち貫頭と爲す。 男子は耕農し、禾稻・紵麻を種え、女子は桑蠶織績す。 馬と虎亡く、民に五畜有り。 山に麈・(けい)多し。 兵は則ち矛、盾、刀、木弓弩、竹矢、或は骨を鏃と爲す。 初め郡縣と爲してより、吏卒の中國人にこれに侵陵さること多し、故に率は數歳に壹たび反す。 元帝の時、遂にこれを罷棄す。

 日南の障塞、徐聞、合浦より船行五月ばかりにして、都元國有り。 また船行四月ばかりにして、邑盧沒國
(ゆうろぼつこく)有り。 また船行二十餘日ばかりにして、ェ離國(しんりこく)有り。 歩行十餘日ばかりにして、夫甘都盧國(ふかんとろこく)有り。 夫甘都盧國より船行二月餘ばかりにして、黄支國(こうしこく)有り。 民の俗は略そ珠と相類す。 その州は廣大、戸口多く、異物多く、武帝より以來皆獻見す。 譯長有り、黄門に屬す。 應募の者と倶(とも)に海に入り明珠、璧流離(へきるり)、奇石異物を市し黄金・雜盾齎(もたら)して往きたり。 至る所の國は皆食を稟(さず)(ぐう=連れ立つ)を爲し、蠻夷の賈船、轉送しこれを致す。 また交易に利し、人を剽殺す。 また風波に逢い溺死するに苦しみ、しからずは數年に來還す。 大珠は圍二寸を以って下るに至る。 平帝の元始中、王莽(おうもう)は政を輔け、威コを燿(かがや)かさんと欲し、黄支王に厚く遺し、使を遣し生きたる犀牛を獻ぜしむ。 黄支より船行八月ばかりにして、皮宗に到る。 船行二月ばかりに、日南の象林(しょうりん)の界に到ると云う。 黄支の南に、已程不國(いていふこく)有り、漢の譯使は此(ここ)より還る。


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