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●『翰苑』豆知識

  『翰苑』 は唐の時代の 張楚金が撰し、雍公叡が注した「類書」。 「類書」とは、多くの書物の中からその内容を分類収録した、いわば百科事典のようなもの。 『翰苑』 は中国にも現存せず、9世紀ころ平安初期の書写とみられる 蕃夷部 のみが、わが国の大宰府天満宮に伝存しています。 世界中のどこにも他に写本が存在せず、「天下の孤書」 と称されています。 大宰府天満宮といえば菅原道真がすぐに連想されますが、この 『翰苑』 も元はその菅原家に伝わり、のちに大宰府天満宮に移されたものと考えられています。

 大宰府天満宮所蔵 『翰苑』冒頭部

 昭和五十二年五月 (株)吉川弘文館 発行
 竹内理三 校訂解説 「翰苑」より転載
 (赤丸は管理人の獺祭主人によるものです)

 蕃夷部は一般に翰苑の第三十巻といわれていますが、実は原本には上図に示したとおりちょうどその卷の数字の部分が欠落していて、たしかなことはわかりません。 第三十巻というのは  『舊唐書』 の 列傳/卷一百八十七上/列傳第一百三十七上/忠義上/張道源/族子楚金 に 「楚金…(中略)…著翰苑三十卷」 との記述がある こと、 この蕃夷部の末尾には 後敍(いわば 「あとがき」 にあたる) が付随しているため、この卷が全体の最末尾の卷であろうと考えられる ことの2点から推定して称しているにすぎません。 蕃夷部はこの冒頭書き出しの部分を見れば 匈奴・烏桓・鮮卑・夫餘・三韓・高驪・新羅・百済・粛愼・倭国・南蛮・西南夷・両越・西羌・西域・後敍 から構成されています。 ところが本文には 西羌 に該当する記述が見あたらず、書写がくりかえされるうちに脱漏したものかもしれません。


 下図はその倭国条の冒頭部分です。 ご覧のように本文を大書しそれに割注を付す体裁となっています。 当サイトのページではこの雰囲気をあらわすよう表示に工夫をしてみたのですが成功していますかどうか。 フォントサイズの指定を失敗したんじゃありませんからね、念のため…(^^)

 大宰府天満宮所蔵 『翰苑』より 倭国 冒頭部 



 では次に、試みに本文のみを抜き出してその内容を見てみますと、たったこれだけになります。 

 翰苑 卷第卅 蕃夷部 より 倭國 本文のみ

倭國

憑山負海 鎭馬臺以建都 分軄命官 統女王而列部 卑弥娥惑翻叶群情 臺與幼齒 方諧衆望 文身點面 猶稱太伯之苗 阿輩雞弥 自表天兒之稱 因禮義而標袟 即智信以命官 邪屆伊都 傍連斯馬 中元之際 紫綬之榮 景初之辰 恭文錦之獻

倭國

山に憑き海を負い、馬臺に鎭し以って都を建つ。 軄を分かち官を命じ、女王に統
(す)べて部を列す。 卑弥娥は惑翻(わくほん)して群情(ぐんじょう)に叶う。 臺與は幼齒にして、方(まさ)に衆望に諧(かな)う。 文身點(鯨)面し、猶(なお)太伯の苗と稱す。 阿輩雞弥は、自ら天兒の稱を表す。 禮義に因りて袟を標す。 即ち智信を以って官を命ず。 邪は伊都に屆き、傍ら斯馬に連なる。 中元の際、紫綬の榮あり。 景初の辰、文錦の獻を恭ず。



 こうして注をとり除いて本文だけにしてみると、その文脈はとぎれとぎれで前後のつながりも説明もなく、 雍公叡 の注がなければ何をいっているのかさっぱりわかりません。 突如 「女王」 といい、そのあとに続く 「卑弥娥」・「臺與」 とは何者なのか何の説明もありません。 かと思えば唐突に 「阿輩雞弥」 と言い出し、記述の順も時代のあとさきと関係なくむちゃくちゃです。 しかも 張楚金 は 「邪馬臺」 ではなく、どうやら 「邪・馬臺」 だと思っているようです。 それというのも、「馬臺に鎭し以って都を建つ」 とは、「(「倭国の中の」、または「邪国の中の」)馬臺という所に都がある」 という意味にとれますし、「邪は伊都に屆き、傍ら斯馬に連なる」 とは 「邪(国)の(国)境は伊都(国)に届き、一方では斯馬(国)に連なる」 と読めるからです。 どうも倭国に関する 張楚金 の理解と現代の私たちの理解とではかなり食い違ったものがあるよう思えます。 ただしこれは今本が本来の原本とおりに正確に書写されているということが前提であることはいうまでもありません。 ところがここに見るように今本の実態はそうではないと考えられ、脱漏や誤字により文意の通じないところがたくさんあります。 専門の学者による研究が少ないのも、労多くして功少ないことがあきらかなので敬遠されているのかもしれません。

 なぜこれほどまでに脱漏や誤字が多いのかを考えてみると、何度か書写が繰り返される途中に①よほど悪筆の人物がいて、次に書写した人がもとの文字が何なのか判別できなかったとか、あるいは②漢文に通ぜず文意を理解しないまま機械的に文字を書き移した人物を経由したとか、そんなところではないかと思います。 したがって、たしかに天下の孤本ではあるし、また 雍公叡 の注が散逸した 『魏略』 を引用しているなどがあり貴重なものではあるものの、本文そのものは史料として参考になるようなものではないと思います。


 最後に獺祭的校正釈文について少し説明しておきます。
 雍公叡 の注が引用している他書を列挙すると 『後漢書』・『魏志』・『魏略』・『宋書』・『括地志』・『廣志』・『漢書/地理志』 などがあげられます。 これらのすべてを私が読んでいるわけではありませんし、またこの程度の知識で校正などとおこがましいことができるとも思えません。 よって、あくまでも私的にして試的なものとご理解ください。


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