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* 古代史 妄言・放言 *


○1○ 謎・日本のルーツ     ○6○ 記紀の史実    ○11○ 八咫烏のエンブレム
○2○ 倭人伝にひかれるわけ ○7○ 卑弥呼=アマテラス
○3○ 邪馬台国はどこに?    ○8○ 三内丸山遺跡に思う
○4○ 「魏志倭人伝」はあてにならない! ○9○ 魏志倭人伝 年表をつくり終えて
○5○ 邪馬台国はどこに?(2) ○10○ 中国資料を読むときに・・・

○1○ 謎・日本のルーツ

 こんな島国で、これといった侵略にもあわず、単一民族でなりたっているわりに ( 『ちょっとまった』 という声が聞こえてきそうですが、話の都合上ここではそういうことにしといてください) 、これがさだかでない。 どういうわけでしょうね?

 日本の古代に関しては 「古事記」・「日本書紀」  という歴史書 (いわゆる 『正史』) があるのですが、その内容は天皇家が日本を統治することの正当性を記すこと、つまり 「天皇は神様の子孫であり、この国土を治めることを神様から委任された」 と主張することを目的としたもので、このクニのなりたちを客観的にしるしたものではありません。

 日本の古代史の真実にせまるには、次の三つのルートを組み合わせることが必要でしょう。

@ 古事記・日本書紀 (『記紀』) ルート
A 『魏志倭人伝』 をはじめとする中国の史書ルート
B 考古学ルート

 ところが、シロウトの素直な目で見て不思議なことに、それぞれのルートはどうもチグハグで整合せず、それぞれがてんでんバラバラの方向を示しているように見えます。 

@  古事記・日本書紀には魏志倭人伝にいう邪馬台国も狗奴国もヒミコもでてきません。
A  魏志倭人伝には古事記・日本書紀であれほど重要視されている 『出雲』 がでてきません。 また、考古学で注目されている 『吉備』 も出てきません。
B  最後の望みは考古学ですが、畿内では重要な古墳のほとんどが宮内庁の管轄下にあり発掘調査がゆるされていないうえに、北九州では奴国があったであろうと思われる場所が博多市街地となっており将来的にも大々的な発掘調査はまず見こめません。

 さらに歴史とは 政治史・経済史 であるといってよいと思いますが、政治史・経済史 はこれを記録した文書ではじめてわかるもので、考古学では限界がありこれがわかりません。

 ルートが多ければ多いほど各々が補完しあって、あるヒトツの方向に収斂していってよさそうなものなのに、実際はますます混迷するばかりです。 

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○2○ 倭人伝にひかれるわけ

 日本の正史とされる『日本書紀』の記述は、 「だいたい6世紀くらい以降の記述に関してはほぼ信頼できる」 とされていますが、5世紀以前の記述については、なにやら 神憑り になっていて、そのまま信用するわけにはいきません。

 そこでなにかほかの資料はないかといったときに行き当たるのがいわゆる 『魏志倭人伝』 です。 『魏志倭人伝』 の時期は日本の弥生時代にあたり、ちょうど 『日本書紀』 の記述が神話のかたちになってしまうころの日本の様子が描かれていると考えられます。

 ちょっと脱線すると、日本神話と呼ばれる 記紀(古事記・日本書紀) の 「神代」 のくだりを読むと弥生時代の色彩が強いのです (たとえば 「水田稲作」 のことがかかれていたりしますね)。 「神話」 といえども日本のそれは、さほど昔のことではなく弥生時代のことが書かれているわけです。 ところで、弥生時代といえば、なんとなくとんでもない大昔という印象を受けますが、ごく大雑把にいうと中国では「三国時代」(つまり有名な 諸葛孔明 などが活躍していた時代)です。

 となると、 『魏志倭人伝』 を読めば、日本の神話の時代が 「本当はどうだったか」 が解るはずです。

 さて、いざ読んでみると、そこには当時の 『倭人』 たちの習俗がえがかれ、有名な 『邪馬台国』 やその女王である 『卑弥呼』 についての記述がでてきます。 すると次にでてくる興味は 『邪馬台国』 は日本のどこにあったのか、 『卑弥呼』 とはどんな女性だったのかということです。

 たいへんやっかいなことに 『魏志倭人伝』 には朝鮮半島から『邪馬台国』にいたる道筋が方向と距離で明解に記述されていて、ちょっと読めば 「なーんだ、これならシロウトでも簡単にわかるじゃないか」 と思わせるのですが、そう思ったとたんに人は 『魏志倭人伝』の甘い罠にはまった といえます。 その方向・距離を記述のままに読むと 『邪馬台国』 の所在地は九州のはるか南の太平洋上になってしまうのです。 そこで、これをどう解釈すべきかをめぐって昔 (本居宣長や新井白石あたり) から、議論されつづけてきたのですが、いまだに決着をみていません。
 
 「よーっし、それならこの私が!!」 と思ったあなた。 あなたはさらに一歩深く罠にはまったのです。

 今にもわかりそうで、わからない。 今にも見えそうで、見えない。
 これを私はひそかに 「倭人伝チラリズム」 と命名しています。

 謎の 『邪馬台国』。 しかもそれを率いるのは ”うら若き女王(当然美女!)” 『卑弥呼』。
 「おい、おい。」 とツッコミがはいりそうですが、まあ、そう思わせておいてやってください。 私はこれで幸せなので・・・(^^;

 『卑弥呼』 という人格と一体化した 『邪馬台国』 が、歴史のベールのかなたから魅惑的なまなざしを送ってくる・・・。
 『いまにも解明できそうで、できない』 それが 『倭人伝』 に私たちがひかれる理由だと思います。 

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○3○ 邪馬台国はどこに? (邪馬台国の作り方)

 正直いって 「わからん」 というほかないと思います。
 それは 「邪馬台国」 について唯一の ”よりどころ” である 「魏志倭人伝」 の記述があてにならないからです。

 「魏志倭人伝」 の 「方位・距離」 の記述をそのまま素直に受け入れれば、その場所は九州をとおりこして、はるか太平洋沖合いになってしまうらしいですね。

 では、 「方位」 か 「距離」 か、どちらかがまちがっていたのだとすると・・・
 「方位」 を正しいとすれば 「九州」 (九州説) 、 「距離」 を正しいとすれば 「畿内」 (畿内説)。
 そこで、これまでその両方の立場から論争がつづけられてきたのですが、両論とも 「決め手」 に欠け、その論の多くは我田引水式の 「説得」 であって 「論証」 になっていません。

 以下では、これらの 「論証?」 の手法にならって 邪馬台国の作り方 をお教えしましょう。

 まず、日本国内の任意の (あるいはあなたにとって 好ましい と思える) 場所を 「邪馬台国」 所在地として決めます。
 次に 「魏志倭人伝」 のいくつかの文言を少し読みかえたり解釈をかえたりします。
 すると、あら不思議。 そこに あなたの「邪馬台国」 ができあがります。

 こんなわけで、諸説のいずれもがみな正解ということになってしまい 日本国中 「邪馬台国」 だらけ になってしまいました。
 ということは結局 「方位」 も 「距離」 もあてにならない ということだと思います。

 このさきよほどの新資料がでてこないかぎり、結局この問題は永遠の謎として残るのではないでしょうか。

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○4○ 「魏志倭人伝」はあてにならない!

 といって、いたずらに 「魏志倭人伝」 の価値を ”おとしめる” つもりはありません。 撰者といわれる 「陳寿(233〜297)」 にしてみれば、当時せいいっぱいの記述だったのでしょう。 それを現代人のわれわれの知見と比較して 「うそ八百のでっち上げ」 と非難するのは酷だし、的外れといわざるをえません。

 だからといって、 「魏志倭人伝」 の記事を金科玉条のごとく 「一言一句まちがいない。」 「理路整然として非のうちどころが無い。」 と、言い張るのもちょっと・・・ね??

 まあ、冷静な評価をしてやるべきだと思います。

 魏志倭人伝の記述はあてにならないという事実を受け入れて、これに振り回されるのは、もうやめるべきだと思います。
 「捨てるにおしい」 という気持ちは心情的に十分理解できますが・・・。

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○5○ 邪馬台国はどこに?(2)

 この議論はやめるべきだと言ったばかりで、恐縮ですが・・・(^^;A
 強いて言えば、私はなんとなく 北九州のどこか だと思ってます。

 でもこれは若干の理由はあるにしても、ほとんど私の 「先入観」 と 「独断」・「偏見」 以外にさしたる根拠はありません。

 邪馬台国の所在地問題に関しては、これ以上ふれません。

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○6○ 記紀の史実

 古事記・日本書紀 (「記紀」) の神代の部分は、フィクションでおおいつくされているにせよ、なんらかの史実がかくされていると思います。 といって、わたしは 「皇国史観」 とはまったく無縁であり、かつて戦争に利用されたそれをむしろ憎悪しています。

 ただ、自分が生まれたこの国の成り立ちがどうであったのか、それを知りたいとおもっているのです。

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○7○ 卑弥呼=アマテラス

 卑弥呼が古事記や日本書紀にいう誰にあたるかというのは、いろいろ議論があるところですね。

 ただ、 『卑弥呼は誰か?』 という設問自体に意味が無いとの批判もあります。 ま、それを承知で・・・。

 日本書紀自身は 「神功皇后」 にあてる (あるいは示唆する) 態度をとっていますが、私は 卑弥呼=アマテラス だと思います。
 日本神話に現れる女王といえば アマテラス 以上の女王はないじゃないですか。
 だって、いちばんエライ女神様なんですから・・・って、単純? (^^;A 

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○8○ 三内丸山遺跡に思う

 「三内丸山遺跡」 は縄文時代を代表する青森県の遺跡です。

 数年まえになりますがTV (たしかニュースステーションだったと思います) で、真冬の 「三内丸山遺跡」 の中継があり、その映像に衝撃をうけました。 あたり一面は深い雪で覆われ、再現された建造物にも雪が降り積もり、まるで白い雪の丘のようでした。 このようなきびしい気候の場所に、なぜ大集落ができたのか。 もっと住むのに適した気候の場所もあったろうに、ここに住んだ人々はなぜここをえらんだのか? 寒がりで暑がりの私は、あの映像を見てからずっと疑問に感じていました。

 さて、こんどは昨年 (2001年) 放送された NHKスペシャル 『日本人はるかな旅』 を見て、私なりに少しこの疑問が解けたように思います。 東日本に住んだ縄文人の祖先は、もともと シベリア方面 から獲物を追って サハリン → 北海道 をつたって移動してきた人々だったらしいのです。 とすれば、彼らは寒さに耐える方法をもともと会得していたにちがいなく、さらに捕獲した獲物の肉や採取した木の実や果実を保存するには気温の温暖な場所より、寒い地方の方がより適していたにちがいないのです。 「寒さに耐える」 どころか、寒さとうまくつきあい、むしろ寒さを積極的に利用する知恵をもった人たちだったのですね。

 ここから出土する 「ヒスイ」・「アスファルト」・「黒曜石」・「コハク」 は広く東日本各地から輸入されたものらしいのです。
 多いときは 500人以上 が住んだと考えられる 「三内丸山」 のこのような繁栄の基礎は 「栗(クリ)の栽培」 であったとされています。 そして余剰のクリを他と交換することにより、さまざまな産物が他の地方から流入する。 それをまた他の地方の産物と交換する。 そのような 「貿易」 が行われていたのでしょう。 しかしこの 「貿易都市?」 もやがて滅びるときがきます。 あるとき気候の異変がおこり、「三内丸山」 の繁栄を支えた 「クリ」 の収穫高がいちじるしく減退してしまったのです。
 「クリ」 によって栄えた 「三内丸山」 は、「クリ」 によって滅びた のでした。 そしてそれ以来、縄文期を通じて、このような大集落は営まれることはなかったとされています。

 この事実は、あるひとつのものに依存する、もっと一般的に言えば 「特殊化」 して 「多様性」 を失う ことの危険を私たちに教えてくれます。

 西暦年が 2000年 になると言うだけで大騒ぎになる私たちの コンピュータ に依存した文明は、なんと脆弱でもろいものなのでしょう。
 事実上 Windows というただ一つのOSに依存したパソコン文化は大丈夫なのでしょうか?
 プログラムのミスやデータの入力ミスで時に経済が混乱し、サイバーテロの危険も指摘されています。 企業もコンピュータシステムなしではなりたたなくなっています。 コンピュータを作るのにも、またコンピュータが必要です。
 最近の みずほ銀行のシステムトラブル は一般の人には驚きだったかもしれませんが、 「ミスのないプログラムはない」 というのがコンピュータ専門家では常識なのです。 (だからこそ入念なテストが必要で、期限をきった見きり発車 などあってはならないのです)

 いまや後戻りすることもかないませんが、コンピュータによって繁栄した文明がコンピュータによって滅びることはないと言いきれるでしょうか?
 「山内丸山」 以後、縄文期を通じて、あるひとつの作物のみに依存した大集落をつくることのなかった 縄文の人々の知恵 を、私たちは取り戻すことができるでしょうか?

 あなたは、どう思われますか?

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○9○ 魏志倭人伝年表 を作り終えて

 以前から 「ほしいな」 と思っていた、魏志倭人伝の時期の中国と倭国の同時進行的な年表をようやくUPできました。 (こちら)
 とりあえず、魏書 をもとに作成しましたが、さらに 蜀 や 呉 との関連が調べられればいいなと思っています。 とくに、呉 とはなにかありそうな気がするのですが。
 しかし 魏書 を読むだけで青息吐息なので、蜀書 や 呉書 までいつになったら進めるのか、見当もつきません。 いやいや、それどころか、わたしの本来の目的は 日本書紀 のはずなのに、こりゃいったいどうすればよいのやら・・・(@@;)

 ところで、今回年表を作ってみて、あらためて気付いたことがあります。
 それは、卑弥呼 が死んで倭国が混乱し、そのあとを 壹與 が継ぐことになる倭国の混乱の時期が、魏ではちょうど 「正始の政変」 の時期とかさなっていることです。 魏の年号では 「正始」 から 「嘉平」 へうつるちょうどそのときなのです。 なにか、関連があるのでしょうか? ありそうな気がする=55%、そんなことないだろ=45% くらいに感じてます。 それとも偶然の一致か。 どなたか、これを研究した方はご意見、お教えください。 そして、このとき 呉 では何が起こっていたか? 気になります。 やはりはやいとこ 呉書 をしらべなきゃいかんかな。

 それにしても、西暦と魏の元号にはまいりました。 特に改元して年号がかわるあたりは、混乱します。
 ここのところ一気にがんばったので、ちょっとつかれた・・・。
 
 

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○10○ 中国資料を読むときに・・・

 「魏志倭人伝」 などの中国資料を読むときに注意しなければならないことがいくつかあります。 以下、思いつくままに列挙してみました。

1.  あくまでも原典は 「中国語」 だということを念頭においておきましょう。 「いわゆる【漢文】などではない」 ということは他のページでものべてきました。
2.  昔の中国人の意識構造を理解してそういう頭で読みましょう。
@  東海のかなたには、「蓬莱山」 をはじめとする神山があって、そこは 神仙 の国で 東王父 がいる。
 西方のはてには、「崑崙山」 をはじめとする神山があって、そこは 神仙 の国で 西王母 がいる。
 その 「東方のはて」 と 「西方のはて」 の間にあるのが 「中国」 である。
A  東海のかなたには 女だけの「女人国」 がある。
 魏志倭人伝などが 女王国 と強調するのは、この下層意識が影響していると考えられます。
B  また、 「黒歯国」 や 「小人国」 がある。
 これはすでに 「山海経」 に見え、けっして 「魏志倭人伝」 のオリジナルではありません。 したがって、魏志倭人伝の記述によって 「黒歯国」 や 「小人国」 が何処にあたるかを同定しようとしてもムダな努力だと思われます。
C  女性は 「幼いときは親にしたがい、結婚したら夫にしたがい、老いては子にしたがう」 べきだという、儒教に基づく女性観がある。
 魏志倭人伝が 女王・女王 と連呼するのは、それが珍しく、また 「東夷=野蛮人というのはしかたがないものだ」 という意識があるのではないでしょうか。

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○11○ 八咫烏のエンブレム

 ジーコ監督のもと、2006年ワールドカップを目指すサッカーの日本代表チーム。 このチームになって第2戦目の対アルゼンチン親善試合が今日(2002年11月20日)に埼玉スタジアムでおこなわれましたが残念ながら 2−0 で敗れてしまいました。 なんとか予選を突破してワールドカップ出場をはたしてもらいたいものです。 特に今大会では不幸にして出場できなかった 高原選手 に、次回はぜひ活躍してもらいたいと思うわたしです。
 さて、あの代表チームのユニフォームにあるエンブレムの八咫烏の由来をかねがね知りたいものだとおもっていました。

  ← これね。

 このたび (株)学習研究社発行 の 「歴史群像シリーズ67 古事記 記紀神話と日本の黎明」 のなか (P.100) にその由来が書かれているのを見つけましたので、以下にそのまま引用します。

 二00二年六月、日本を熱狂の嵐に巻き込んだサッカーW杯、ご存じの方も多いだろうが、我が日本代表のユニホームにも、三本足のカラスがエンブレムとして使われている。 ところで、なぜサッカーにカラスなのだろうか。
 現在のエンブレムは、日本サッカー協会が、一九三一年(昭和六)に採用したものである。 図案を発案したのは東京高等師範学校(現・筑波大学)教授の 内野台嶺(うちの・たいれい)。 内野は同校蹴球部出身で、先輩に日本サッカーの生みの親といわれる 中村覚之助(なかむら・かくのすけ) がいた。中村は、八咫烏ゆかりの熊野・那智勝浦の出身で、生家は熊野三所権現の氏子であった。
 内野がこの図案を選んだ理由は、実のところよくわかっていない。 が、日本サッカー界における中村の功績に敬意を表し、出身地に因んだ瑞鳥・八咫烏を図案に採用したのではないかともいわれている。
 いずれにせよ、ユニホームに燦然と輝く三本足のカラスは、我らが日本代表の守護神として、次回二00六年W杯でも、代表チームを勝利へと導いてくれることだろう。

 「内野がこの図案を選んだ理由は、実のところよくわかっていない。」 ということで、いまひとつすっきりしませんが、ずっと知りたいと思っていた謎がすこしとけて胸のつかえがおりたような気がします。

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