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「三国志」 「晋書」 「日本書紀」 による
| 西暦 | 皇帝 | 元号 | 年 | 月 | できごと |
| 220 | 後漢 献帝 |
建安 | 25年 | 正月 | 曹操(武王/太祖) 死去。 享年 六十六歳。 |
| 黄初 | 元年 | <改元> | |||
| 魏 文帝 |
10月 | 文帝 曹丕(そう・ひ) 即位して 魏 を建国。 三十四歳 。 改元して 年号を 「黄初」 とする。 |
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| 221 | 2年 | 正月 | 劉備 蜀 を建国 (蜀:章武元年)。 | ||
| 222 | 3年 | ||||
| 223 | 4年 | 4月 | 蜀 の 劉備 諸葛孔明 に後事を託して 白帝城で死去。 享年六十三歳。 このときの遺言は、「もし息子の 劉禅 に王としての器がなければ遠慮することはない、孔明自身が蜀の王となれ(「君自ら取るべし」)」 というものだった。 対して 孔明 は号泣し、命の限り後主 劉禅 を補佐することを誓った。 この前提があるので、後の 「出師の表」 が 「これを読んで泣かない者はない」 といわれるほどの名文として後世につたわることになる。 |
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| 224 | 5年 | ||||
| 225 | 6年 | ||||
| 226 | 7年 | 5月 | 文帝 曹丕 死去。 享年 四十歳。 | ||
| 魏 明帝 |
明帝 曹叡(そう・えい) 即位。 | ||||
| 8月 | 皇子 曹冏(そう・けい) を立てて清河王とする。 | ||||
| 10月 | 皇子 曹冏(そう・けい) 死去。 明帝 は 皇子をたてると、すぐその皇子が死ぬ。 偶然にしては、どうもきなくさい。 |
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| 227 | 太和 | 元年 | 12月 | 蜀 の 諸葛孔明 の策略により、新城太守 孟達(もう・たつ) 反乱。 驃騎将軍 の 司馬懿(しば・い) に詔勅を下して討伐させる。 |
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| 228 | 2年 | 正月 | 驃騎将軍 の 司馬懿、新城を攻撃して 孟達 を討ち取る。 | ||
| 蜀 の 諸葛孔明 の軍が国境に侵入(第一次 北伐)。 このとき 孔明 は 有名な 「出師の表」 を提出し、劉備 から託された 後主 劉禅 のため、みずからの生涯をかけた最後の決戦(第一次〜第四次北伐)に出撃する。 しかし蜀の先鋒であった 馬謖(ば・しょく) は 孔明 の忠告を聴かず、水のない山の上に陣をかまえ大敗する。 孔明 は 馬謖 の将来を嘱望していたが、責任を明らかにするため、泣いて 馬謖 を斬る。 |
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| 9月 | 皇子 曹穆(そう・ぼく) を立てて繁陽王とする。 | ||||
| 12月 | 蜀 の 諸葛孔明 の軍が国境に侵入(第二次 北伐)。 蜀軍は 陳倉(ちんそう) を包囲するが魏軍はよく防戦し、蜀軍はやがて食料が尽きて撤退する。 |
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| 公孫淵(こうそん・えん) が その兄の 遼東太守 の位を強奪したので、そのまま 公孫淵 を 遼東太守 に任命。 | |||||
| 229 | 3年 | 6月 | 皇子 曹穆(そう・ぼく) 死去。 二人目の皇子の死亡である。 |
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| 7月 | このとき妙な詔勅が出る。 その内容は、「皇位は神聖であり、何人もこれを犯してはならない。 もしそのような者があれば、たとえどのような高位の重臣であろうとも厳罰に処する」 というものである。 明帝 も、なにか きな臭い ものを感じていたのだろうか。 | ||||
| 呉 の 孫権 即位 (呉:黄龍元年)。 | |||||
| 230 | 4年 | 2月 | 驃騎将軍 の 司馬懿 を 大将軍 に、 遼東太守 の 公孫淵 を 驃騎将軍 とした。 | ||
| 7月 | 大司馬 曹真(そう・しん)、大将軍 司馬懿 に命じて 蜀 を攻撃。 | ||||
| 9月 | 大雨により大河が氾濫したため、 大司馬 曹真(そう・しん)、大将軍 司馬懿 の軍は撤退。 | ||||
| 231 | 5年 | 3月 | 大司馬 曹真 死去。 | ||
| 蜀 の 諸葛孔明 の軍が天水に侵攻(第三次 北伐)。 大将軍 司馬懿 に命じて防戦。 |
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| 7月 | 蜀軍、撤退。 | ||||
| 皇子 曹殷(そう・いん) 誕生。 三人目の皇子が生まれた。 次々に世継ぎをなくした 明帝 の喜びは大きかったろう。 |
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| 232 | 6年 | 5月 | 皇子 曹殷(そう・いん) 死去。 ところが、ほら、また皇子が死んだ。 |
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| 233 | 青龍 | 元年 | 12月 | 公孫淵 が 呉 の 孫権(そん・けん) の使者の首を斬って送ってきたので、公孫淵 を 大司馬楽浪公 に任命。 | |
| 234 | 2年 | 3月 | 後漢 最後の皇帝であった 献帝 死去。 | ||
| 4月 | 蜀 の 諸葛孔明 の軍が国境をこえ 五丈原 に駐屯(第四次 北伐)。 大将軍 司馬懿 がこれと対陣した。 |
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| 7月 | 蜀 の 諸葛孔明 の動きに呼応して、呉軍が国境を侵すが魏軍はよく防戦し、明帝も自ら出陣する。 しかし明帝が前線に到着するまえに呉軍は撤退。 | ||||
| 8月 | 蜀 の 諸葛孔明 が 五丈原 で病没。 享年五十四歳。 司令官を失って撤退を始めた 蜀軍 を 魏軍 が追撃するが、にわかに反転して逆に攻撃のかまえを見せる蜀軍をみて、「死んだ という噂は、我らをおびき寄せるための 孔明 の罠か!?」 と、指令官の 司馬懿(仲達) は全軍に追撃中止・退却を命じる。 「死せる孔明、生ける仲達を走らす」 という三国志演義の有名な場面である。 三国志演義によれば、孔明は死に臨んで、「もし魏の軍勢が追撃してきたら、わたしの屍骸を生きているかのように車に乗せて、敵陣からよく見えるようにして陣頭にたてよ」と命じたというが、まあそれはお話だろう。 |
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| 235 | 3年 | 正月 | 大将軍 司馬懿 を 太尉 とする。 | ||
| 3月 | 洛陽宮 大修理。 | ||||
| 8月 | 皇子 曹芳(そう・ほう) を 斉王 に、曹詢(そう・じゅん) を 秦王 とした。 明帝 は実子が全滅(?)してしまったので、いずれも養子である。 |
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| 236 | 4年 | ||||
| 237 | 景初 | 元年 | 7月 | 呉 の 孫権 が 江夏郡を包囲。 呼応して 公孫淵 が叛旗をひるがえす。 魏軍の攻撃により呉軍は撤退するが 公孫淵 は自立して 燕王 を自称し、年号をたてて 紹漢元年 と称した。 |
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| このころ、東南大海のなかに浮かぶどこかのクニで、一人の女児が誕生したはずである。 壹與 と名づけられたその赤ん坊は、のちにそのちいさな肩に倭国の運命を背負うことになる。 |
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| 238 | 2年 | 正月 | 遼東の 公孫淵 攻撃のため 太尉 司馬懿 が四万の軍勢を率いて出撃する。 | ||
| 6月 | (魏志倭人伝 によると、 倭の使者 難升米 らが、帯方郡に皇帝との謁見を願い出る。) しかし、このとき朝鮮半島では 公孫淵 と 司馬懿 の戦闘がおこなわれており、この時期ではおかしい。 景初三年 の間違いであろう。 |
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| 9月 | 太尉 司馬懿 が 公孫淵 を滅ぼす。 | ||||
| 12月 | (詔書 により 卑弥呼、 親魏倭王 となる。) この時期ではおかしい。 やはり 景初三年 のことであろう。 |
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| 239 | 3年 | 正月 | 明帝 曹叡(そう・えい) 死去。 享年 三十六歳。 | ||
| 魏 少帝 |
少帝 曹芳(そう・ほう) 即位。 このとき、 八歳。 大将軍 で 皇族 でもあった 曹爽(そう・そう) と 太尉 司馬懿 が、これを補佐した。 |
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| 2月 | 司馬懿 、 大傳 に昇格。 大傳 は名誉職である。 実際は 司馬懿 から軍事力を剥奪するための左遷であった。 |
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| 6月 | 倭の使者 難升米 らが、帯方郡に皇帝との謁見を願い出る。 魏志倭人伝 によると 景初二年。 しかし 日本書紀 は 神功皇后摂政紀 三十九年の条に 景初三年 と記載している。 この説をとる。 |
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| 12月 | 詔書 により 卑弥呼 、 親魏倭王 となる。 (このとき 壹與 は三歳くらいの幼児である) | ||||
| 240 | 正始 | 元年 | 帯方郡 から 建中校尉 梯儁等 が 詔書・印綬 を奉じて 倭国 にいたり、卑弥呼 にこれをさずける。 日本書紀 は 神功皇后摂政紀 四十年 のこととする。 |
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| 241 | 2年 | 少帝、初めて 「論語」 を習う。 考えてみるとこれはすごい。 卑弥呼 にこのような素養があったかどうか? |
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| 242 | 3年 | ||||
| 243 | 4年 | 正月 | 少帝、元服。 | ||
| 12月 | 卑弥呼 の使の 伊声耆掖邪狗 等八人が、生口・倭錦など献上する。 倭人伝には記載がないが、「三国志 魏書 三少帝紀 第四」 によると、12月のことであった。 日本書紀 によると 神功皇后摂政紀 四十三年 のこと。 |
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| 244 | 5年 | 2月 | 大将軍 曹爽 、蜀を攻撃。 | ||
| 245 | 6年 | 詔書により、倭の 難升米 に 黄幢 をさずけ、これを 帯方郡 に仮授せしめた。 | |||
| 帯方郡太守 弓遵、楽浪郡太守の劉茂と協力して遼東の ワイ を攻撃。 | |||||
| 246 | 7年 | 帯方郡太守 弓遵、反乱を起こした韓族との戦闘で戦死。 | |||
| 247 | 8年 | 弓遵 の後任として 王キ 帯方郡太守に着任。 | |||
| 卑弥呼が 載斯烏越 等を 帯方郡 に遣わして、狗奴国 との戦況を訴える。 そこで 帯方郡 は 張政 等を遣わし、詔書・黄幢を 難升米 にさずけ、檄をもってこれを告喩した。 |
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| 248 | 9年 | 日本で皆既日食がおこる。 | |||
| 9月 | 卑弥呼 死去。? 享年 不詳。 | ||||
| 249 | 嘉平 | 元年 | ? | 壹與 十三歳 が 倭の女王に。 ? | |
| 正月 | 大将軍 曹爽 が反乱をくわだてたとして誅滅される (「正始の政変」)。 事実は 司馬懿 一派の巻き返しであり、このとき皇族(曹氏)の有力者たちが反乱に荷担したとして朝廷から一掃される。 |
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| 250 | 2年 | ||||
| 251 | 3年 | 8月 | 大傳 司馬懿 死去。 息子の 司馬師 撫軍大将軍・録尚書事 となる。 司馬氏による王朝のっとりがこの頃から徐々にあからさまになっていく。 司馬懿 がなくなったことにより、魏王朝への義理もなくなったということだろうか。 |
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| 252 | 4年 | 正月 | 撫軍大将軍 司馬師、大将軍 となる。 | ||
| 253 | 5年 | ||||
| 254 | 6年 | 9月 | 大将軍 司馬師 の画策により 少帝 廃位。 もとの 斉王 として朝廷から追放される。。 このとき 少帝 二十三歳。 (このとき 壹與 十八歳 ?) |
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| 魏 高貴卿公 |
10月 | 文帝 曹丕 の孫 高貴卿公 曹髦(そう・ぼう) 少帝のあとをついで即位。 | |||
| 正元 | 元年 | ||||
| 255 | 2年 | 正月 | 司馬氏の専横を見かねた 鎮東将軍 (カン)丘倹 が反乱をおこす。大将軍 司馬師 はみずから軍をひきいてこれを平定するが、にわかに病となり陣中で死去。 | ||
| 2月 | 司馬師の弟 衛将軍 司馬昭 が 司馬師 の後を継いで大将軍・録尚書事 となる。 | ||||
| 256 | 甘露 | 元年 | 8月 | 司馬昭 、 大都督 の称号を付加される。 | |
| 257 | 2年 | ||||
| 258 | 3年 | ||||
| 259 | 4年 | ||||
| 260 | 5年 | 4月 | 司馬昭 、 相国 晋公 となる。 | ||
| 5月 | 司馬氏の専横に怒った 高貴卿公 が、皇帝自ら手兵を率い、武器をとって 司馬昭 を討とうとする前代未聞の事件が起こる。 しかし逆に 司馬昭 の部下に殺されてしまう。 享年 二十歳。 (このとき 壹與 二十四歳 ?) |
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| 魏 陳留王 |
6月 | 曹操の孫、常道郡公(のち 陳留王 ) 曹奐(そう・かん) が 高貴卿公 のあとをついで即位。 曹氏 から 司馬氏 へ 皇位を譲る手続きのために即位した傀儡であったとおもわれる。 |
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| 景元 | 元年 | ||||
| 261 | 2年 | ||||
| 262 | 3年 | ||||
| 263 | 4年 | 5月 | 蜀 への本格的な攻撃を開始。 | ||
| 11月 | 蜀 の後主 劉禅 が降伏し、蜀 は滅亡する。 (このとき 壹與 二十七歳 ?) | ||||
| 264 | 咸熙 | 元年 | 蜀の人々のうち魏の国内に移住可能なものを勧誘・募集した。 | ||
| 265 | 2年 | 8月 | 司馬昭 死去。 司馬昭の息子 司馬炎 があとを継ぐ。晋書に 「文帝、相と作(な)るにおよび 云々」 とあるのはこのことか? |
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| 晋 |
秦始 | 元年 | 12月 | 魏 から 晋 への 禅譲 がおこなわれる。 (このとき 壹與 二十九歳 ?) 司馬炎、即位して 晋 の 文帝となる。 魏の皇帝 曹奐 は 陳留王 に封ぜられ、晋王朝の賓客として遇せられた。 漢 の 献帝 と比較するとよほど優遇されたらしい。 のち 五十八歳 で 大安元年(302年)に死去し、 元皇帝 とおくりなされた。 |
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| 266 | 2年 | 晋書に 「泰始初 遣使重譯入貢」 とある。 卑弥呼 の先例にならい、壹與 も新王朝が成立するやいなや、入貢の使者を送ったものらしい。 日本書紀 によると 神功皇后摂政紀 六十六年 のことである。 (このとき 壹與 三十歳 ?) |
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| 267 | 3年 | ||||
| 268 | 4年 | ||||
| 269 | 5年 | 日本書紀 神功皇后摂政紀 六十九年 によれば、このとし四月 神功皇后 百歳 で崩御。 | |||
| 270 | 6年 | ||||
| 271 | 7年 | ||||
| 272 | 8年 | ||||
| 273 | 9年 | ||||
| 274 | 10年 | 斉王 曹芳 (少帝) 死去。 享年 四十三歳。 (このとき 壹與 三十八歳 ?) 呉 が滅びるのはこの後、六年をへた 西暦 280年 のことである。 |