荊軻(けいか)は衞(えい)の人なり。 その先はすなわち齊(せい)の人。 衞に徙(うつ)り、衞人はこれを慶卿(けいけい)と謂(い)う。 而して燕(えん)に之(ゆ)くや、燕人これを荊卿(けいけい)と謂う。

 荊卿は讀書・擊劍を好
(よ)くし、術を以って衞の元君(げんくん/衞の第四十一代君主に説くも、衞の元君は用いず。 その後、秦は魏を伐ち、東郡を置き、徙りて衞の元君は野王(やおう/地名に支屬たり。

 荊軻は嘗
(かつ)て游(あそ)びて楡次(ゆじ/地名を過ぎ、蓋聶(こうじょう/人名と劍を論ず。 蓋聶、怒りてこれを目(もく/にらむす。 荊軻、出ず。 人、或いは言う、「また荊卿を召せ」と。 蓋聶の曰く、「曩者(さきに)吾と劍を論じ稱(かな)わざる有り、吾これを目す。試みに往け。これ宜しく去るべし。敢(あえ)て留まらざらん」と。 使をしてこれが主人荊軻が宿泊している宿の主人のところに往かしむ。 荊卿、則ち已(すで)に駕(が)して楡次を去る。 使者、還りて報ずるに蓋聶の曰く、「固(もと)より去らん。吾、曩者(さきに)これを目攝(もくしょう/にらみつけて恐縮させるせり」と。

 荊軻、邯鄲(かんたん/地名に游(あそ)ぶ。 魯句踐(ろこうせん/人名、荊軻と博(はく/スゴロクの博打し道を爭そう。 魯句踐、怒りてこれを叱(しっ)す。 荊軻、嘿(もだ)して逃げ去り、遂にまた會(かい)さず。

 荊軻、既に燕に至り、燕の狗屠
(くと/イヌの屠殺人。当時犬は食用の家畜である及び善く筑(ちく/楽器を擊つ高漸離(こうざんり/人名と愛(むつま)し。 荊軻は酒を嗜(たしな)み、日に狗屠及び高漸離と燕の市に飲み、酒、酣(たけなわ)にして以って往き、高漸離は筑を擊ち、荊軻は和して市中に歌い、相樂しみ、已(すで)にして相い泣き、(かたわら)に人無きが若(ごと)。 荊軻は酒人に游ぶと雖ども、然(しか)るにその人となりは沈深・好書。 その游ぶところの諸侯は、盡(ことごと)くその賢・豪・長者と相い結ぶ。 その燕に之(ゆ)くや、燕の處士(しょし)の田光(でんこう)先生またこれを善く待(たい)す。 その庸人(ようじん/凡庸な人に非(あら)ざるを知ればなり。

 居ることこれを頃
(しばら)くにして、會(たまたま)燕の太子の丹(たん)は秦に質(ち/人質たりしが燕に亡歸(ぼうき/「亡」は「逃げる」。「歸」の字義は「もと居た場所に戻る」のではなく、その人が「本来居るべき場所に身を移す」の意す。 燕の太子丹は、故(もと)嘗て趙に質たり。 而して秦王の政(せい/後の始皇帝は趙に生まれ、その少(わか)き時に丹と驩(かん/うちとけて親しいたり。 政の立ちて秦王となるに及び、而して丹は秦に質たり。 秦王、燕の太子丹を遇するに善(よ)からず。 故に丹は怨みて亡歸す。 歸して秦王に報を爲すを求むるも、國は小、力は能(あた)わず。 その後、秦は日に山東に出兵し以って齊・楚・三晉(さんしん/春秋時代の普が分裂したのちにわかれた「韓」・「魏」・「趙」の三国を総称していうを伐ち、稍(ようや)く諸侯を蠶食(さんしょく)し、且つは燕に至らんとす。 燕の君臣は皆禍の至るを恐る。 太子丹はこれを患(うれ)い、その傅(ふ/もり役の鞠武(きくぶ/人名に問う。 武、對(こた)えて曰く、「秦の地は天下に遍(あまね)く、韓・魏・趙氏を威脅(いきょう)す。北に甘泉(かんせん)・谷口(こくこう)の固(かた)め有り、南に涇(けい/涇水・渭(い/渭水の沃(よく/「肥沃」の沃。豊かな水にうるおうこと有り。巴(は/巴郡・漢(かん/漢中の饒(じょう/豊饒を擅(ほしいまま)にし、右は隴(ろう/隴山・蜀(しょく)の山、左は關(かん/函谷関・殽(こう/崤山の險。民は衆(おお)くして士は厲(たけ)く、兵革は餘り有り。意、出ずる所有れば、則ち長城の南、易水(えきすい/燕国の南の国境の川以北は、未だ定まる所有らざるなり。いかにぞ陵(しのが)るる怨を以って、その逆鱗に批(ふ)れんと欲するや」と。 丹、曰く、「然らば何にか由(よ)らん」と。 對えて曰く、「請う、これを圖(はか)るに入らん」と。

 居ること閒
=間有りて、秦の將の樊於期(はんおき/人名秦王に罪を得て、亡げて燕に之(ゆ)く。 太子、受けてこれを舍(しゃ)す。 鞠武、諫(いさ)めて曰く、「不可なり。それ秦王の暴を以って燕に怒りを積むは寒心を爲すに足る。また況(いわ)んや樊將軍の所在を聞くをや。これ『肉を委(ゆだ)ね餓虎(がこ)の蹊(けい)に當(あた)る』と謂うなり。禍必ず振(すく)われず。管(かん/管仲のこと。春秋時代の斉国の名宰相・晏(あん/晏嬰のこと。管仲とともに春秋時代の斉国の名宰相有りと雖ども、これを謀るを爲すこと能わず。願わくは太子、疾(と/早くく樊將軍を遣わし匈奴に入らしめ以って口を滅せたまうべし。請う、西に三晉に約し、南に齊・楚を連ね、北に單于(ぜんう/匈奴の君主を購じたまえ。その後、迺(すなわ)ち圖(はか)るべきなり」と。 太子曰く、「太傅(たいふ)の計は、日に曠(むな)しく久しきに彌(び)なり。心は惛然(こんぜん)として、恐らくは須臾(しゅゆ)すること能わず。且つは獨りこれのみに非ざるなり。それ樊將軍は天下に窮困し、身を丹に歸す。丹、終に彊秦(きょうしん)に迫られるを以って、而して哀憐の交を棄てて、これを匈奴に置かず。これ固(まこと)に丹が命の卒(おわ)るの時なり。願わくは太傅さらにこれを慮(おも)え」と。 鞠武曰く、「それ危うきを行ない安きを求めんと欲し、禍を造りて福を求む。計淺くして怨み深し。一人の後交を連結して、國家の大害を顧みず。これ所謂(いわゆる)『怨みを資(たす)けて禍を助くる』なり。それ鴻毛(こうもう/おおとりの羽毛を以って爐炭(ろたん/炭火の上に燎(や)く。必ず事無からん。且つは鵰鷙(ちょうし/猛禽類の鳥の総称の秦を以って、怨暴の怒りを行うは、豈に道(い)うに足らんや。燕に田光先生有り。その人となり智深くして勇沈なり。與(とも)に謀(はか)りたまうべし」と。 太子、曰く、「願わくは太傅に因りて田先生に交を得ん。可ならんか」と。 鞠武、曰く、「敬(つつ)しみて諾(だく)す」と。 出でて田先生に見(まみ)え、道(い)う、「太子、國事を先生に圖(はか)るを願う」と。 田光曰く、「敬しみて教えを奉ぜん」と。 すなわち造(いた)る。

 太子逢迎
(ほうげい)し、卻行(きゃくこう/後ずさり。相手を敬い尻を見せない。一国の太子が一市井人に対するには異例の礼遇であるして導(どう/案内を爲し、跪(ひざまづ)きて席を蔽(はら)う。 田光、坐定まる。 左右に人無し。 太子、席を避けて請いて曰く、「燕・秦は兩立せず。願わくは先生意を留められよ」と。 田光曰く、「臣聞く、『騏驥(きき/名馬・駿馬の盛壯の時は一日にして千里を馳(は)すとも、その衰老に至りては駑馬(どば)もこれに先んず』と。今、太子は光の盛壯の時を聞き、臣の精の已(すで)に消亡するを知りたまわず。然りと雖ども、光は敢て以って國事を圖らざらん。善くするところの荊卿を使うべきなり」と。 太子曰く、「願わくは先生に因りて荊卿に交を結ぶを得ん。可なりや」と。 田光曰く、「敬しみて諾す」と。 即ち起ち、趨(はし)り出ず。 太子、送りて門に至り、戒(いまし)めて曰く、「丹の報ずるところ、先生の言うところは、國の大事なり。願わくは先生泄(もら)すこと勿(なか)れ」と。 田光、俛(ふ)して笑いて曰く、「諾(だく)」と。

 僂行
(ろうこう/背をかがめて歩くして荊卿に見(まみ)え、曰く、「光と子の相い善(うるわ)しきは、燕國に知られざること莫(な)し。今、太子は光の壯盛の時を聞き、吾が形の已に逮(およ)ばざるを知らざるなり。幸にしてこれに教えて曰く、『燕・秦は兩立せず。願わくは先生意を留められよ』と。光、竊(ひそか)に自ら外にせず。足下(そっか/あなたを太子に言う。願わくは足下、太子を宮に過(よぎ)れ」と。 荊軻、曰く、「謹しみて教えを奉ぜん」と。

 田光、曰く、「吾これを聞く、『長者の行を爲すや、人をしてこれを疑わしめず』と。今、太子は光に告げて曰く、『言うところは國の大事なり。願わくは先生泄
(もら)すこと勿(なか)れ』と。これ太子の光を疑うなり。それ行を爲して、人をしてこれを疑わしむるは、節俠(せつきょう)に非ざるなり」と。 自殺して以って荊卿を激(はげ)まさんと欲して曰く、「願わくは足下急ぎ太子に過(よ)ぎり、言え、『光は已に死し、言わざること明らかなり』と」。 因りて遂に自刎(じふん/刃をもって自殺するして死す。

 荊軻、遂に太子に見
(まみ)え、田光の已に死すを言い、光の言を致す。 太子、再拜して跪き、膝行して流涕(るてい)す。 頃(しばらく)有りて后(のち)に言いて曰く、「丹の田先生に『言うこと毋(なか)れ』と誡しめし所以(ゆえん)は、以って大事の謀を成さんと欲すればなり。今、田先生は死を以って言わざることを明らかとす。豈に丹の心ならんや」と。 荊軻、坐定まる。 太子、席を避け頓首して曰く、「田先生は丹の不肖なるを知らず。前(さき)に敢て道(い)うところ有るに至るを得さしむ。これ天の燕を哀しみて、その孤なるを棄てざる所以(ゆえん)なり。今、秦は貪利(どんり/利をむさぼるの心有り、而して足るべからざるを欲す。天下の地を盡し、海内の王を臣たらざれば、その意厭(あ)かざらん。今、秦は已に韓王を虜とし、盡くその地を納む。また兵を舉げて南に楚を伐ち、北は趙に臨み、王翦(おうせん/秦の将軍は數十萬の衆を將い漳(しょう/地名。趙の南界・鄴(ぎょう/地名。ならびに趙の南界に距(いた)る。而して李信(りしん/秦の将軍は太原(たいげん/地名。趙の西北方・雲中(うんちゅう/地名。ならびに趙の西北に出ず。趙は秦を支うること能わず、必ず入りて臣たらん。入りて臣たれば則ち禍は燕に至る。燕は小弱、數(しばしば)兵に困す。今、計るに國を舉げるも以って秦に當たるに足らず。諸侯は秦に服し、敢(あえ)て合從(がっしょう/いわゆる「連衡合従」の合従。諸国同盟して皆で秦に対抗する策すること莫(な)し。丹の私計は愚、以爲(おもえらく)『誠に天下の勇士を得て秦に使わし、闚(しめ)すに重き利を以ってせば、秦王は貪(どん/欲深いなり、その勢い必ず願うところを得ん』と。誠に秦王を劫(おびや)かすを得、悉く諸侯の侵地を反すこと、曹沫(そうかい)の齊(せい)の桓公(かんこう/戦国五覇の一人。斉国の第十六代の君主に與(お)けるが若く(末尾の注1参照)ならしめば、則ち大いに善し。則ち不可なれば、因りてこれを刺殺せん。彼の秦の大將は兵を外に擅(ほしいまま)にし、而して内に亂有らば、則ち君臣相い疑わん。その閒=間を以って諸侯合從するを得ば、その秦を破ること必せん。これ丹の上願(じょうがん)なるも、而して命を委ねるところを知らず。唯(ただ)荊卿、意を留められよ」と。 これ久しくして、荊軻、曰く、「これ國の大事なり。臣は駑下(どげ/おろかで才能もないにして、恐らくは使に任ずるに足らざらん」と。 太子、前(すす)み頓首して、固く請う、「讓る毋(なか)れ」と。 然して後に許諾(きょだく)す。 ここにおいて荊卿を尊び上卿(じょうけい/「卿」の最上の位と爲し、上舍(じょうしゃ/立派な屋敷に舍(しゃ)す。 太子は日に門下に造(いた)り、太牢(たいろう/豪華な食事を供え、異物(いぶつ/珍奇な品を具(そな)え、閒(たびたび)車騎・美女を進め、荊軻の欲するところを恣(ほしいまま)にせしめ、以ってその意に順適(じゅんてき/かなうようにするせしむ。

 これ久しくして、荊軻、未だ行く意有らず。 秦將の王翦
(おうせん/前出は趙を破り、趙王を虜とし、盡くその地を收め入れ、兵を進め北の地を略し、燕の南界に至る。 太子丹は恐懼(きょうく)し、すなわち荊軻に請いて曰く、「秦兵は旦暮(たんぼ/「旦夕(たんせき)」に同じ。「今日明日のうちにも」の意に易水(えきすいを渡らん。則ち長く足下(そっか)に侍さんと欲すと雖ども、豈(あに)得るべけんや」と。 荊軻、曰く、「太子の言(げん/ことば(な)くとも、臣、これを謁するを願えり。今、行きて信(しん/信用(な)ければ、すなわち秦は未(いま)だ親しむべからざるなり。それ樊將軍は、秦王これを金千斤、邑萬家に購う。誠に樊將軍の首と燕の督亢(とくこう/地名。燕の領地のなかでも特に豊かな地域であったの地圖を得て、秦王に奉獻せん地図を献上するということは、すなわちその地域を献上することを意味する。秦王、必ず説(よろこ)び臣に見(まみ)ゆ。臣すなわち以って報ずること有るを得ん」と。 太子、曰く、「樊將軍は窮困し來りて丹に歸す。丹、己(おのれ)の私(わたくし)を以って、而して長者の意を傷つけるに忍びず。願わくは足下(そっか)更にこれを慮(おも)われよ」と。

 荊軻、太子の忍ばざるを知り、乃ち遂に私
(ひそか)に樊於期に見(まみ)えて曰く、「秦の將軍を遇するや深しと謂うべし。爲に父母・宗族は皆戮沒(りくぼつ)さる。今、聞く將軍の首を金千斤、邑萬家に購(あがな)うと。將(まさ)に柰何(いかん)せん」と。於期、天を仰ぎ太息流涕して曰く、「於期、これを念(おも)う毎(たび)に、常に骨髓痛し。顧(ただ)計の出ずるところを知らざるのみ」と。荊軻、曰く、「今、一言にして以って燕國の患(うれい)を解き、將軍の仇に報ゆるもの有り。何如(いかん)」と。於期、乃ち前(すす)みて曰く、「これを爲すこと柰何(いかん)」と。荊軻、曰く、「願わくは將軍の首を得て、以って秦王に獻ぜん。秦王必ず喜びて臣に見(まみ)ゆ。臣、左手にその袖を把(と)り、右手にその匈(むね)を揕(さ)さん。然らば則ち將軍の仇を報いて燕の陵(しの)がるる愧(はじ)を除かん。將軍、豈に意有りや」と。樊於期、偏袒(へんたん/肌脱ぎになる搤捥(やくわん/腕組みするして進みて曰く、「これ臣の日夜切齒腐心(せっし・ふしん/歯噛みして深く思慮するするところなり」と。 遂に自剄(じけい/自ら首を切るす。 太子これを聞き、馳せ往き、屍(かばね)に伏して哭き、哀極まる。 既(すでに)にして已(すでに)に柰何(いかん)ともするべからず。 乃ち遂に樊於期の首を函(はこ)に盛りこれを封す。

 ここに太子、豫
(あらかじ)め天下の利(と)き匕首(ひしゅ/あいくち。短刀を求め、趙の人、徐夫人(じょふじん/人名。女性かともいわれるが性別は不詳の匕首を得て、これを百金に取る。工をして以って藥をこれに焠(や)かしめ、以って人に試すに、血、縷(る/ほそ糸を濡らすに、人たちどころに死せざる者無し。乃ち裝して爲に荊卿に遣わす。

 燕の國に勇士秦舞陽
(しんぶよう/人名有り。 年は十三。 人を殺し、人は敢えて忤視(ごし/正面からまともに見るせず。 乃ち秦舞陽をして副と爲さしむ。 荊軻に待つところ有り。 與(とも)に倶(とも)せんと欲するも、その人、遠きに居りて未だ來たらず。 而して治行(ちこう/旅仕度を爲すも、これ頃(しばらく)にして未だ發(た)たず。 太子これを遲きとなし、その改悔(かいかい/後悔して考えを改めるを疑う。 乃ち復た請いて曰く、「日、已(すで)に盡くす。荊卿、豈に意有りや。丹、請う、先ず秦舞陽を遣わすを得ん」と。 荊軻、怒り太子を叱して曰く、「何ぞ太子はこれを遣わす。往きて返らざるは豎子(じゅし/小僧)なり。且つは一匕首を提(さ)げて不測の彊秦(きょうしん)に入る。僕(われ)の留まる所以(ゆえ)は、吾が客と與(とも)に倶(とも)するを待てばなり。今、太子はこれを遲きとなす。請う辭決せん」と。 遂に發(た)つ。

 太子及び賓客のその事を知る者は、皆白衣冠
(はくいかん/葬送の装束し以ってこれを送る。 易水(えきすい)の上(ほとり)に至り、既に祖(そ)して道を取る。 高漸離は筑を擊ち、荊軻は和して歌い、變徴(へんち)の聲(せい)(末尾の注2参照)を爲すに、士皆涙を垂れ涕泣す。 また前(すす)みて歌を爲して曰く、


  
風は蕭蕭(しょうしょう)として易水(えきすい)寒し
  壯士
(そうし)一たび去りてまた還らず



 と。 また羽聲
(うせい)(末尾の注2参照)を爲して慷慨(こうがい)す。 士は皆目を瞋(いか)らせ、髮は盡く上りて冠を指す。 ここに荊軻は車に就(つ)きて去る。 終(つい)に已(すで)に顧(かえり)みず。

 遂に秦に至り、千金の資の幣物
(へいぶつ/贈り物を持し、厚く秦王の寵臣たる中庶子(ちゅうしょし/秦の官職。宮廷および諸臣の戸籍をあつかうの蒙嘉(もうか/人名に遺わす。 嘉、爲に先(ま)ず秦王に言いて曰く、「燕王は誠に大王の威に振怖(しんぷ/恐れおののくし、敢(あえ)て兵を舉げ以って軍吏(ぐんり)に逆(そむ)かず。國を舉げて内臣と爲し、諸侯の列に比し、貢職を給すること郡縣の如く、而して先王の宗廟(そうびょう)を奉守するを得るを願う。恐懼(きょうく)して敢て自ら陳(の)べず。謹みて樊於期の頭(かしら)を斬り、及び燕の督亢(とくこう)の地圖を獻じ、函封(かんふう)して、燕王、庭(てい/朝廷に拜送し、使を以って大王に聞(ぶん)せしむ。唯(ただ)大王これに命じたまえ」と。 秦王、これを聞き、大いに喜び、乃ち朝服(ちょうふく)し、九賓(きゅうひん)を設け、燕の使者を咸陽宮(かんようきゅう)に見(まみ)ゆ。 荊軻、樊於期の頭の函を奉げ、而して秦舞陽は地圖の柙(はこ)を奉げ、次を以って進む。 陛に至り、秦舞陽は色變じ振え恐る。 群臣これを怪しむ。 荊軻、顧みて舞陽を笑い、前(すす)みて謝して曰く、「北蕃(ほくばん)の蠻夷(ばんい)の鄙人(ひじん/いなか者、未だ嘗て天子に見(まみ)えず。故に振慴(しんしゅう)す。願わくは大王少しくこれを假借(かしゃく)し、使いを前に畢(おわ)るを得させたまえ」と。(末尾の注3を参照) 秦王、軻に謂いて曰く、「舞陽の所持せる地圖を取れ」と。 軻、既に圖を取りこれを奏(すす)む。 秦王、圖を發(と)る。 圖、窮まりて匕首見ゆ。 因りて左手に秦王の袖を把(と)り、而して右手に匕首を持ちこれを揕(さ)す。 未だ身に至らず。 秦王、驚き、自ら引きて起つ。 袖、絶つ。 劍を拔くに、劍は長し。 その室(しつ/剣の鞘を操(と)る。 時、惶急(こうきゅう/慌て狼狽するにして、劍は堅し。 故にたちどころに拔くべからず。 荊軻、秦王を逐(お)う。 秦王、柱を環(めぐ)りて走る。 群臣、皆愕(おどろ)き、卒(にわか)に意(おも)わざること起こり、盡(ことごと)くその度を失う。 而して秦の法に、群臣の殿上に侍(はべ)る者は尺寸(せきすん)の兵をも持つことを得ず。 諸郎中(ろうちゅう/郎中令に属す皇帝の警護役、兵を執(と)り、皆殿下に陳(じん)するも、詔(しょう/みことのり有りて召すに非(あら)ざれば上ることを得ず。 急の時に方(あた)り、下兵(かへい)を召すに及ばず。 以って故に荊軻乃ち秦王を逐(お)う。 而して卒(にわ)かに惶急(こうきゅう)にして、以って軻を擊つ無く、而して手を以って共にこれを搏(う)つ。 この時に侍醫の夏無且(かむしょ/人名、以ってその奉ずるところの藥囊(やくのう/クスリいれを荊軻に提(なげう)つ。 秦王、方(まさ)に柱を環(めぐ)りて走る。 卒(にわか)に惶急(こうきゅう)にして、爲すところを知らず。 左右、乃ち曰く、「王よ劍を負いたまえ」と。 劍を負い、遂に拔き以って荊軻を擊つ。 その左の股を斷つ。 荊軻、廢(たお)る。 乃ちその匕首を引き、以って秦王に擿(なげう)つ。 中(あた)らず。 桐柱銅の柱に中(あた)る。 秦王、また軻を擊つ。 軻、八創を被(こうむ)る。 軻、自ら事の就(な)らざるを知り、柱に倚(よ)りて笑い、箕踞(ききょ/両足をなげだしてすわりこむして以って罵り曰く、「事の成らざる所以(ゆえ)は、生きながらこれを劫(おび)やかし、必ず約契(やくきん/約束の言葉を得て、以って太子に報ぜんと欲するを以ってなり」と。(末尾の注1を参照) ここに、左右、既に前(すす)み軻を殺す。 秦王、怡(よろこ)ばざること良(やや)久し。 已(すで)にして功を論じ、群臣及び坐に當(あた)る者を賞し各(おのおの)差有り。 而して夏無且に黄金二百溢(いつ/重さの単位を賜い、曰く、「無且、我を愛し、乃ち藥囊を以って荊軻に提(なげう)つなり」と。

 ここにおいて秦王大いに怒り、益
(ますます)兵を發し趙に詣(いた)り、詔して王翦(おうせん)の軍に以って燕を伐たしむ。 十月にして薊城(けいじょう/燕の国都を拔く。燕王の喜・太子の丹等は盡(ことごと)くその精兵を率(ひき)い東の遼東に保つ。 秦將李信(りしん)、燕王を追擊すること急なり。 代王の嘉(か/もと趙国の公子。趙が秦に滅ぼされ国王がとらえられたあと、遺臣を引きつれ代の地方に逃れ、自立して王となった、乃ち燕王喜に書を遺し曰く、「秦の尤(もっと)も燕を追いて急なる所以(ゆえ)は、太子丹を以ってが故なり。今、王、誠に丹を殺しこれを秦王に獻ぜよ。秦王、必ず解(と)けて社稷(しゃしょく/「社」は土地の神、「稷」は穀物神。転じて王朝そのものをいう(さいわい)に血食(けっしょく/いけにえ。「社稷が血食を得る」とは王朝が存続する意を得ん」と。 その後に李信は丹を追い、丹は衍水(えんすい/今の遼寧省藩陽市近くの川。太子丹にちなみ、後に『太子河』と呼ばれたの中(うち)に匿(とく/隠れるす。 燕王、乃ち使をして太子丹を斬らしめ、これを秦に獻ぜんと欲す。 秦はまた兵を進めこれを攻む。 後五年、秦は卒(つい)に燕を滅ぼし、燕王の喜を虜とす。 その明年、秦は天下を并(あわ)せ、號を立てて皇帝と爲す。

 ここに秦は太子丹・荊軻の客を逐
(お)う。 皆亡(に)ぐ。 高漸離(こうざんり/前出。荊軻と親しかった筑の名人は名姓を變じ人の庸保(ようほ/雇われ人と爲り、匿(かく)れて宋子(そうし/地名)に作(さく)す。 これ久しくして、作すること苦し。 その家の堂上に客の筑を擊つを聞き、傍(かたわら)を偟(さまよ)い去ること能(あた)わず。 毎(つね)に言を出だして曰く、「彼は善(よ)き有り、善(よ)からず有り」と。 從者、以ってその主に告げて曰く、「彼(か)の庸(よう/雇い人は乃ち音を知り、竊(ひそか)に是非を言う」と。 家の丈人(じょうじん/その家の老いた主人、召し前に筑を擊たしむ。 一坐、善しと稱し酒を賜う。 而して高漸離、久しく隱れ畏約(いやく/人目をさけてかくれるすること窮まる時の無きを念う。 乃ち退(しりぞ)き、その裝匣(そうこう/荷物いれの中の筑とその善衣(ぜんい/立派な着物を出し、容貌を更めて前(すす)む。 坐の客は舉(あ)げて皆驚く。 下りて抗禮(こうれい/礼を争う、すなわち上座・下座の席順をゆずりあうことし、以って上客と爲す。 筑を擊ちて歌わしむるに、客の流涕せずして去る者無し。 宋子、傳えてこれを客とす。 秦の始皇に聞こゆ。 秦の始皇、召して見(まみ)ゆるに、人の識る者有り。 乃ち曰く、「高漸離なり」と。 秦の皇帝、その善く筑を擊つを惜しみ、重んじてこれを赦(ゆる)し、乃ちその目を(かく/目をつぶして盲目とするす。 筑を擊たしめ、未だ嘗て善と稱(い)わざることなし。 稍(ようやく)(ますます)これを近づく。 高漸離、乃ち鉛を以って筑の中に置き、また進みて近づくを得、筑を舉(あ)げて秦の皇帝を朴(う)つ。 中(あた)らず。 ここに遂に高漸離を誅し、終身また諸侯の人を近づけず。

 魯句踐
(ろこうせん/前出。かつてスゴロク博打で争い、荊軻を大声で罵った人物、已(すで)に荊軻の秦王を刺すを聞き、私(ひそか)に曰く、「嗟乎(ああ)惜しき哉、その刺劍(しけん)の術を講ぜざるや。甚(はなはだ)しきかな、吾の人を知らざるや。曩者(さきに)吾、これを叱す。彼はすなわち我を以って人に非(あら)ずと爲すならん」と。



 太史公曰く。
 世、荊軻を言うに、その太子丹の命を稱
(しょう)すや、「天は粟(ぞく)を雨(ふ)らし、馬は角を生じたり」と。太いに過(あやま)ちなり。また言う、「荊軻は秦王を傷つく」と。皆非なり。始め公孫季功(こうそんきこう/人名だが伝未詳・董生(とうせい/人名。董仲舒のことではないかとされるが未詳、夏無且(かむしょ/前出の始皇帝の侍医と游(あそ)び、具(つぶさ)にその事を知り、余(よ・われ/文脈から司馬遷自身のことかと思われるが、そうではなく彼の父の司馬談のことであるらしいの爲にこれを道(い)うこと是(か)くの如し。曹沫(そうかい/人名)(末尾の注1を参照)より荊軻に至る五人、ここにその義は或いは成り、或いは成らず。然るにその意を立てること較然(こうぜん/しっかりとして明らかなさまとして、その志(こころざし)を欺(あざ)むかず。後世に名を垂(た)れたるは、豈(あ)に妄(もう)ならんや。




注1:曹沫(そうかい)の齊(せい)の桓公(かんこう)におけるが若(ごと)く…


 『史記』の刺客列伝は曹沫(そうかい)から荊軻(けいか)まで五人の刺客たちの、それぞれに壮烈な「生きざま・死にざま」を描いて余すところがない。 なかでも上に紹介した荊軻の物語は、その最後をかざる白眉ともいうべき感銘深い一編である。 さらに末尾の「太子公曰く…」という司馬遷の論評をもあわせ読み、また司馬遷自身の生涯にも思いをはせれば、「壯士一たび去りてまた還らず」 の名句とともに余韻が長く尾をひいて胸に響く。

 さて、ここにいう曹沫(そうかい)と齊(せい)の桓公(かんこう)の物語は同じく刺客列伝の冒頭にある物語で、概略以下の通りである。 原文と読み下しは(こちら)

 曹沫(そうかい)は魯(ろ)国の第十七代君主の荘公(そうこう)につかえた将軍である。 時に魯は名臣管仲(かんちゅう)の補佐を得た名君桓公(かんこう)ひきいる斉(せい)国と覇をあらそっていた。 曹沫は魯軍をひきいて斉と戦ったが、しかし三たび戦い、三たび敗れ、そのたびに魯は斉に領地を奪われていった。 事態を憂慮した荘公は、さらに領地の一部を差し出して斉と和睦をはかろうとしたが、敗軍の將たる曹沫の責任を一言も責めしようとはしなかったのである。
 これを深く恩義に感じた曹沫は、斉との和睦会議に主君の荘公と同席し、ひそかに隠し持った匕首で斉の桓公をとらえ、脅して魯からの撤兵とこれまで奪われた領地の返還をせまったのである。 桓公がやむなく同意すると、曹沫は桓公を離し、何事もなかったかのように平然と座に戻った。 怒った桓公が約束を撤回しようとしたところ、それを制止したのが宰相の管仲である。 「人の君主たる者はひとたび約したことを簡単にくつがえしてはなりません。そのようなふるまいをすればたちまちにして諸侯の信を失い、ついに国をうしないます」というのが理由であった。 かくして曹沫の決死の行動により、魯は斉との和睦を得て、以前の敗戦で失った領地もことごとく取り戻したのである。

 ひるがえって、本編中に太子丹が「曹沫が斉の桓公にしたように行い、それが無理なら秦王を刺殺する」と言ったり、荊軻が「秦王をとらえてその口から誓約を得ようとしたのが失敗だった」と死の息の下で述懐するのは以上の物語をふまえてのことであった。


注2:變徴(へんち)の聲/羽聲(うせい)

 当時中国音楽の音調は「宮」「商」「角」「変徴」「徴」「羽」「変宮」の七種があり、「変徴」は悲壮な調子、「羽」は激しく昂ぶった音調であるという。 このゆえに荊軻が「変徴」で歌うと聴く者はみな涙し、「羽」の声調で歌うとみな目をいからせ、頭髪が逆立って冠を突き上げるほどに興奮したのである。


注3:秦舞陽は色變じ振え恐る。群臣これを怪しむ。荊軻、顧みて舞陽を笑い…

 このあたり、下記の『日本書紀』皇極紀『藤氏家伝』の伝える「乙巳の変」の蘇我入鹿暗殺場面を彷彿とさせて興味深い。 なお本編では以下、文章を短く区切ってその緊迫した雰囲気をよくつたえている。 息をのむような司馬遷の筆致が見事である。


 ●『日本書紀』 皇極紀より

 倉山田麻呂臣、唱えし表文の將に盡きなんとするに、子麻呂等、來たらざるを恐れ、汗流れて身に浹(あまね)し。 聲亂れ手動く。 鞍作臣、怪しみて問いて曰く、「何の故にか掉(ふる)い戰(わなな)く」と。 山田麻呂、對えて曰く、「天皇に近きを恐れ、覺らず汗流る」と。

 ●『藤氏家伝』より

 山田臣、表文の將に盡きんとするに古麻呂等なおいまだ來たらざるを恐れ、汗流れ身に浹(あまね)し。 聲は亂れ、手は動(わなな)く。 鞍作、恠(あや)しみ問いて曰く、「何の故にか慄戰(おそれわなな)く」と。 山田臣、曰く、「御前に近く侍(はべ)るに、覺(さと)らずて汗流る」と。


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