倭國は本の倭奴國也。 自ら其の國日出ずる所に近きを以って、故に日本を以ちて名と爲す。 或いは云う、其の舊名を惡(にく)み之を改むる也と。

 其の地は東西南北各千里。 西南は海に至り、東北隅は大山を以って(隔)
(へだ)て、山外は即ち毛人國。 後漢より始めて朝貢し、魏・晋・宋・隋を歴(へ)て皆来貢す。 唐の永徽・顯慶・長安・開元・天寶・上元・貞元・元和・開成中、並びに使を遣して入朝す。

 雍熈元年、日本國の僧
(ちょうねん)、其の徒五・六人と海に浮かんで至り、銅器十事并びに本國『職員』【原文の「(今)」は誤り。正しくは「令」で『職員令』】・『王年代紀』各一卷を獻(献)ず。

雍熈元年 / 北宋(960〜1127)の年号。西暦984年、日本の永觀二年。六十五代花山天皇(かざんてんのう)即位の年(このとき十七歳)にあたる。
/ 三論宗(さんろんしゅう)の東大寺僧。平安京の西の愛宕山に伽藍を建立するため中国の天台山・五台山への巡礼を企図し、この前年、呉越の商人の陳仁爽 (ちんじんそう)・徐仁満(じょじんまん)の船に便乗し中国への渡海を果たした。時に四十七歳。
王年代紀 / 「古事記」は和銅五年(712)、「日本書紀」は養老四年(720)にすでに成立している。にもかかわらず、そのいずれとも異なる系譜を記すこの「年代紀」とはいったいどのようなものであったろうか。

 (ちょうねん)、衣は緑にして自ら云う、姓は藤原氏、父は真連と爲すと。 真連は其の國の五品官也。 然は隷書を善くすれども華言に通ぜず。 其の風土を問うに、但だ書を以って對(こた)えて云う、國中に五經の書及び佛經、『白居易集』七十卷有り、並びに中國より得たり。 土は五穀に宜(よろ)しく麥(麦)少し。 交易には銅錢を用い、文を「乾文大寶」と曰う。 畜に水牛・驢・羊有り犀・象多し。 蠶(糸蚕)を産し多く絹を織る。 薄緻愛す可し。 樂に國中・高麗の二部有り。 四時の寒暑は大いに中國に類す。 國の東境は海島に接し夷人の居する所なり。 身面皆毛有り。 東の奥州は黄金を産し、西の別島は白銀を出し以って貢賦と爲す。 國王は王を以って姓と爲し、傳襲して(今)王に至るに六十四世。 文武の僚吏は皆な官を世々にす。

 其の年代紀に記す所に云う。

 初めの主は天(御)中主と(号)す。 次は天村雲尊と曰い、其の後は皆な『尊』を以って(号)と爲す。 次は天八重雲尊。 次は天彌聞尊。 次は天忍勝尊。 次は贍波尊。 次は萬魂尊。 次は利利魂尊。 次は國狭槌尊。 次は角魂尊。 次は汲津丹尊。 次は面垂見尊。 次は國常立尊。 次は天鑑尊。 次は天萬尊。 次は沫名杵尊。 次は伊弉諾尊。 次は素戔烏尊。 次は天照大神尊。 次は正(哉)吾勝速日天押穂耳尊。 次は天彦尊。 次は炎尊。 次は彦瀲尊。 凡そ二十三世、並びに筑紫の日向宮に都す。

 彦瀲の第四子を神武天皇と(号)す。 筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す。 即位の元年甲寅は周の僖王の時に當る也。 次は綏靖天皇。 次は安寧天皇。 次は懿コ天皇。 次は孝昭天皇。 次は孝天皇。 次は孝靈天皇。 次は孝元天皇。 次は開化天皇。 次は崇神天皇。 次は垂仁天皇。 次は景行天皇。 次は成務天皇。 次は仲哀天皇、國人言う、(今)鎮國香椎大神と爲すと。 次は神功天皇、開化天皇の曽孫女、又た之を息長足姫天皇と謂い、國人言う、(今)太奈良良姫大神と爲すと。 次は應神天皇、甲辰の(歳)
(とし)始めて百濟に中國の文字を得、(今)八蕃菩薩と(号)す。 大臣有り紀武内と(号)し年は三百七(歳)。 次は仁コ天皇。 次は履中天皇。 次は反正天皇。 次は允恭天皇。 次は安康天皇。 次は雄略天皇。 次は清寧天皇。 次は顯宗天皇。 次は仁賢天皇。 次は武烈天皇。 次は繼體天皇。 次は安開天皇。 次は宣化天皇。 次は天國排開廣庭天皇、亦たの名を欽明天皇、即位の十一年壬申の(歳)、始めて佛法を百濟國より傳う。(此)の土の梁の承聖元年に當たる。 次は敏達天皇。 次は用明天皇。 子有り、聖コ太子と曰う。 年三(歳)にして十人の語を聞き同時に之を解す。 七(歳)にして佛法を悟り、菩提寺に于(お)いて聖鬘經を講ずるに、天、曼陀羅華を雨ふらす。 (此)の土の隋の開皇中に當たる。 使を遣わして海に泛(うか)び中國に至りて法華經を求む。 次は崇峻天皇。 次は推古天皇、欽明天皇の女也。 次は舒明天皇。 次は皇極天皇。 次は孝コ天皇。 白雉四年、律師道照、法を求めて中國に至り、三藏の僧玄奘に從いて經律論を受く。 (此)の土の唐の永徽四年に當たる也。 次は天豊財重日足姫天皇。 僧智通等をして入唐して大乗法相ヘを求めしむ。 顯慶三年に當たる。 次は天智天皇。 次は天武天皇。 次は持(総)天皇【原文の「持(総)天皇」は誤り。正しくは「持統天皇」】。 次は文武天皇。 大寶三年、長安元年に當たり粟田真人を遣わし入唐して書籍を求め、律師道慈に經を求めしむ。 次は阿閉天皇。 次は皈依天皇。 次は聖武天皇。 寶二年、僧正玄を遣わして入朝せしむ。 開元四年に當たる。 次は孝明天皇、聖武天皇の女也。 天平勝寶四年、天寶中に當たり、使及び僧を遣わして入唐し内外の經ヘを求めしめ及び戒を傳えしむ。 次は天炊天皇。 次は野姫天皇、聖武天皇の女也。 次は白天皇。 二十四年、二僧靈仙・行賀を遣し入唐して五臺山に禮し佛法を學ばしむ。 次は桓武天皇。 騰元(とうげん)【「藤原」を音読みしたもの】葛野と空海大師及び延歴寺の僧澄を遣し入唐して天台山に詣り智者の止觀義を傳えしむ。 元和元年に當たる也。 次は諾樂天皇。 次は嵯峨天皇。 次は淳和天皇。 次は仁明天皇。 開成・會昌中に當たり、僧を遣わして入唐し五臺に禮せしむ。 次は文コ天皇、大中年間に當たる。 次は清和天皇。 次は陽成天皇。 次は光孝天皇、僧宗を遣わして入唐しヘを傳えしむ。 光啓元年に當たる也。 次は仁和天皇。 (此)の土の梁の龍コ中に當たり、僧寛建等を遣わして入朝せしむ。 次は醍醐天皇。 次は天慶天皇。 次は封上天皇【原文の「封上天皇」は誤り。正しくは「村上天皇」】。 (此)の土の周の廣順の年に當たる也。 次は冷泉天皇。 (今)、太上天皇と爲す。 次は守平天皇、即ち(今)の王也。 凡そ六十四世。

守平天皇 / 円融天皇のこと。村上天皇の第五皇子で、冷泉天皇の同母弟。同母兄冷泉天皇が精神を患っていたため、十一歳の時に譲位され、即位した。 実権を握っていた藤原氏の内紛に巻き込まれ、永観二年(984)花山天皇に譲位した。 譲位後、朱雀院上皇と称され、寛和元年(985)出家。正暦二年(991)円融寺に崩じた。 神武から数えて六十三代であるが、この年代紀は神功皇后を天皇としているためか六十四世という。


 畿内に山城・大和・河内・和泉・攝津(摂津)の凡そ五州有り。 共に五十三郡を統(す)ぶる。 東海道に伊賀・伊勢・志摩・尾張・參河(三河)・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上(上総)・常陸の凡そ十四州有り。 共に一百一十六郡を統(す)ぶる。 東山道に通江【原文の「通江」は誤り。正しくは「近江」】・濃(美濃)・飛(飛騨)・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の凡そ八州有り。 共に一百二十二郡を統ぶる。 北陸道に若狹・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡の凡そ七州有り。 共に三十郡を統ぶる。 山(陰)道に丹波・丹彼【原文の「丹彼」は誤り。正しくは「丹後」】・徂馬【原文の「徂馬」は誤り。正しくは「但馬」】・因(因幡)・伯耆・出雲・石見・岐(隠岐)の凡そ八州有り。 共に五十二郡を統ぶる。 小陽道【原文の「小陽道」は誤り。正しくは「山陽道」】に(播磨)・作(美作)・備前・備中・備後・安(安芸)・周防・長門の凡そ八州有り。 共に六十九郡を統ぶる。 南海道に伊紀・淡路・河波・讃耆(讃岐)・伊豫・土佐の凡そ六州有り。 共に四十八郡を統ぶる。 西海道に筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩の凡そ九州有り。 共に九十三郡を統ぶる。 又、壹伎(壱岐)・對馬・多(たね?)の凡そ三島有り。 各々二郡を統ぶる。 是を五畿七道三島と謂う。 凡そ三千七百七十二都、四百一十四驛、八十八萬三千三百二十九課丁。 課丁の外は詳見する可からず。 皆然の記す所と云う。

 按ずるに隋の開皇二十年、倭王姓は阿毎、名は自多利思比孤、使を遣わして書を致す。 唐の永徽五年、使を遣わして琥珀・馬脳(瑪瑙)を(献)ず。 長安二年、其の朝臣真人を遣わして方物を貢ず。 開元の初め使を遣わして来朝す。 天寶十二年、又使を遣わして来貢す。 元和元年、階真人を遣わして来貢す。 開成四年、又使を遣わして来貢す。 (此)れ其の記す所と皆同じ。 大中・光啓・龍コ及び周の廣順中、皆な嘗
(かつ)て僧を遣わし中國に至るも唐書の中、『五代史』も其の傳を失う。 唐の咸亨中及び開元二十三年、大暦十二年、建中元年、皆な来りて朝貢するも其の記に載(の)せず。

 太宗、然を召見し之を存撫すること甚
(はなは)だ厚く、紫衣を賜い、太平興國寺に(館)せしむ。

太宗  / 北宋(960〜1127)の第二代皇帝、趙匡義(ちょうきょうぎ)。このとき即位八年、四十六歳。

 上、其の國王は一姓繼を傳え臣下も皆な官を世々にするを聞き、因(よ)って歎息して宰相に謂いて曰わく「(此)れ島夷のみ。 乃(すなわ)ち世祚遐久(せいそかきゅう)にして其の臣亦た繼襲(けいしゅう)して絶えず。 (此)れ蓋(けだ)し古(いにしえ)の道也。 中國は唐李の亂より(うけん)分裂し、梁・周の五代、歴を享(う)くること尤(もっと)も促(みじか)く、大臣の世冑(せちゅう)能く嗣續(しぞく)すること鮮(すくな)し。 朕、コは往聖に慙(は)ずと雖(いえど)も常に夙夜(しゅくや)(つつし)み畏(おそ)れ、治本を講求し、敢(あえ)て暇逸(かいつ)せず。 無窮の業を建て、可久の範を(垂)(た)れ、亦た以って子孫の計を爲し、大臣の後をして世々禄位を襲わしめるは(此)れ朕の心なり」と。

 其の國、多く中國典籍有り。 然の来たるや復た孝經一卷・越王の孝經新義第十五の一卷を得たり。 皆、金縷
(る)紅羅(ひょう)水晶を軸と爲す。 『孝經』は即ち鄭氏の注せる者、越王とは乃ち唐の太宗の子越王貞、新義とは記室參軍任希古等の撰也。 然、復た五臺に詣らんことを求む。 之を許し過ぐる所をして食を續(つ)がしむ。 又、印本大藏經を求め詔して亦た之を給す。
 二年、台州寧海縣の商人鄭仁コの船に随いて其の國に歸る。 後年にして仁コ還る。 然、其の弟子喜因を遣わして表を奉じて来り謝して曰く 「日本國東大寺の大朝法濟大師、賜紫の沙門然啓す。 傷鱗(夢)に入るも漢主の恩を忘れず。 枯(骨)歡を合するも、猶
(な)お魏氏の敵に亢(こう)す。 羊僧の拙なりと云え雖も、誰か鴻(こうはい)の誠に忍びんや。 然、誠惶誠恐、頓首頓首死罪。 然、商船の岸を離るるに附し、魏闕(ぎけつ)を生涯に期し、落日を望みて西行す。 十萬里の波濤盡(つく)し難し。 信風を顧みて東別す。 千里の山嶽過ぎ易し。 妄(みだ)りに下根の卑を以って、適々(たまたま)中華の盛に詣る。 是に於いて、宣旨頻(しき)りに降り、恣(ほしいまま)に荒外の跋渉を許し、宿心克くい、粗々(ほぼ)(うない)(かいき)を觀(み)たり。 いわんや金闕の暁後、尭雲を九禁の中に望み、巖(げんけい)の晴前、聖燈を五臺の上に拜するをや。 三藏に就きて學を禀げ、寺を巡りて優游し、遂に蓮華廻文の神筆をして北闕の北より出し、貝葉印字の佛詔を東海の東に傳えしむ。 重ねて宣恩を蒙(こうむ)り、忽ち来跡を(お)う。 季夏に台州の(ともづな)を觧(解)き、孟秋に本國の郊に達す。 ここに明春に逮(およ)び初めて舊邑に到る。 緇(し)素欣待し候伯慕迎す。 伏して惟(おも)んみるに陛下、恵は四溟(しめい)に溢れ、恩は五嶽よりく、世は黄軒の古に超え、人は金輪の新に直(あた)る。 然、空しく鳳凰の窟を辭し、更に螻蟻(ろうぎ)の封に還る。 彼に在り斯に在るも只だ皇コの盛を仰ぎ、山を越え海を越ゆるも敢て帝念の深きを忘れんや。 縦(たと)い百年の身を粉するも、何ぞ一日の恵に報いんや。 筆を染めては涙を拭い、紙を伸べては魂を揺がし、慕恩の至に勝(た)えず。 謹んで上足の弟子傳燈大法師位嘉因並びに大朝剃頭受戒僧祚乾等を差し表を拜して以聞す」と。 其の本國の永延二年(歳)次戊子二月八日と(称)す。 實に端拱(たんきょう)元年也。

 又別啓もて佛經を貢し、青木函に納む。 琥珀、青紅白水晶、紅黒木
(かん)子の念珠各一連、並びに螺鈿(らでん)花形平函に納む。 毛籠一、螺杯二口を納む。 葛籠(かつろう)一、法螺二口、染皮二十枚を納む。 金銀蒔繪(まきえ)(きょ)一合、髪鬘(はつまん)二頭を納む。 又一合、參(参)議正四位上滕(とう)佐理の手書二卷、及び進奉物一卷、表状一卷を納む。 又金銀蒔繪硯一筥一合、金硯一、鹿毛筆、松(煙)墨、金銅水瓶、鐵刀を納む。 又金銀蒔繪扇筥一合、檜扇二十枚、蝙蝠扇二枚を納む。 螺鈿の梳(そ)函一對、其の一は赤木梳二百七十を納め、其の一は龍骨十(けつ)を納む。 螺鈿の書案一、螺鈿の書几(しょき)一、金銀蒔繪の平筥一合、白細布五匹を納む。 鹿皮籠一、(ちきゅう)一領を納む。 螺鈿の鞍轡(あんぴ)一副、銅鐵鐙、紅(糸)鞦(しゅう)、泥障、倭畫屏風一雙、石流黄七百斤。

 咸平五年、建州の海賈
(かいこ)周世昌、風に遭い飄(ただよ)いて日本に至る。 凡そ七年にして還ることを得たり。 其の國人滕木吉と至る。 上、皆な之を召見す。 世昌、其の國人の唱和の詩を以って来上す。 詞は甚だ雕(ちょう)刻なれども膚淺(ひせん)にして取る所無し。 其の風俗を詢(と)うに云う「婦人は皆被髪して一衣に二・三(けん)を用う」と。 又記する所の州名、年(号)を陳(の)ぶ。 上、滕木吉をして所持せる木弓矢を以って挽射せしむ。 矢、遠きこと能わず。 其の故を詰(なじ)るに「國中、戰闘を習わず」と。 木吉に時装・錢を賜いて遣し還す。

 景コ元年、其の國の僧寂照等八人来朝す。 寂照は華言を暁
(さと)らざるも文字を識り繕寫甚だ妙なり。 凡そ問答には並びに筆札を以ってす。 詔して圓通大師と(号)せしめ、紫方袍を賜う。

 天聖四年十二月、明州言う「日本國大宰府、人を遣わして方物を貢ず。 しかも本國の表を持たず」と。 詔して之を(却)
(しりぞ)く。 其の後、亦た未だ朝貢を通ぜず。 南賈時に其の物貨を傳えて中國に至る者有り。

 熈寧五年、僧誠尋有り。 台州に至り天台の國清寺に止り、州に留まらんことを願い、以聞す。 詔して闕に赴かしむ。 誠尋、銀香爐・木子・白琉璃・五香・水精・紫檀・琥珀を飾る所の念珠、及び青色織物綾を(献)ず。 神宗、其の遠人にして戒業あるを以って、之を開寶寺に(処)
(お)らしめ、盡く同来の僧に紫方袍を賜う。 是後、連(しき)りに方物を貢して来る者は皆僧也。

 元豊元年、通事僧仲をして来たらしむ。 慕化懐コ大師と(号)を賜う。 明州又言う「其の國の大宰府の牒を得たり。 使人孫忠還るに因りて仲等を遣わし、
(し)二百匹、水銀五千兩を貢す。 孫忠乃ち海商たるを以って貢禮諸國と異る。 請う、自ら牒報を移して其の物直に答え、仲に付して東歸せしめんことを」と。 これに従う。 

 乾道九年、始めて明州の綱首に附し、方物を以って入貢す。

 淳熈二年、倭船の火兒滕太明、鄭作を毆
(う)ちて死せしむ。 詔して太明を械にし、其の綱首に付して歸り治するに其の國の法を以ってせしむ。

 三年、風泊の日本の舟、明州に至る。 衆、皆な食を得ず。 行乞して臨安府に至る者、復た百人。 詔して人ごとに日に錢五十文・米二升を給し、其の國の舟の至る日を俟
(ま)ちて遣わし歸す。

 十年、日本の七十三人、復た飄
(ただよ)いて秀州華縣に至る。 常平義倉の錢米を給し以って之を振(にぎ)わす。

 紹熈四年、泰州及び秀州の華縣に復た倭人の風の爲に泊せられて至る者有り。 詔して其の貨を取る勿
(なから)しめ、常平米を出し振給して之を遣わす。

 慶元六年、平江府に至る。

 嘉泰二年、定海縣に至る。 詔して並びに錢米を給し國に遣わし歸す。