3−3.悪路王伝説


   (水沢市の悪路王)

 悪路王あくろおうは、蝦夷(えみし)の首長であると伝承にいう。

 この当時、蝦夷は中央からどのように見られていたのであろうか。

 田村麻呂没後4年の弘仁6年(815)正月に、小野朝臣岑守が陸奥守に任じられた時、空海が彼に贈った歌がある。

 『野陸州に送る歌』(「遍照発揮性霊集」収録)と題された歌には、次のように書かれている。日本三筆といわれる空海の達筆で、リズムがある詩文を読めば、説得されてしまう。難しい言葉で書かれているが、そのリズム感を知るために、そのまま紹介しよう。

 日本の麗城三百の州、就中に陸奥最も柔(わら)げ難し。天皇、赫怒(かふど)し幾たびか剣を按(おさ)う。(中略)

 時々、人の里に来住して千万の人と牛とを殺食す。髻(もとどり)の中に毒箭(どくや)を挿し、手を上げる毎に刀と矛を執り、田(でん)せず、衣(い)せず。鹿やと麋(となかい)を逐う。馬を走らせ、刀を弄すること電撃の如く、弓を彎(ひ)き、箭(ゆみや)を飛ばす。誰か敢えて囚(とら)えん。

 「野」とは小野、「陸州」は陸奥である。

 この蝦夷観は、日本書紀景行天皇40年紀と少しも変わっていない。景行天皇紀の時代特定と内容には問題あるとしても、『日本書紀』が完成したのは養老4年(720)であるから、空海のこの歌より約百年前である。その間幾度となく蝦夷とは接触があったにもかかわらず、中央の蝦夷観は同じである。当時の智識層を代表し、しかも、嵯峨天皇の側にいた空海の歌である。これが当時の朝廷の認識を代弁しているといえる。

 「悪路王」とは何者なのか。大正時代この問に答えようとした人がいる。

 伊能嘉矩(かのり)という。彼は慶応3年(1867)岩手県遠野に生まれた遠野民俗学の先駆者であり、柳田国男に『遠野物語』を語った佐々木喜善は、同郷の後輩である。彼自身は人類学に傾倒し『台湾文化志』なる大著を残し、大正14年(1925)59歳で没するのであるが、遠野を中心とした民俗学的研究は柳田国男に多くの貢献をした。

 彼の著作に悪路王とは何ものぞ(『日本民俗文化資料集成』15・「遠野の民俗と歴史」・三一書房・所収)と直接的に題された小論がある。

 「悪路」「赤頭」「高丸」「大武丸」「大猛丸」「大滝丸」「岩武」の名が記された伝承類を収集し、更に関連する地名伝説にも触れ、「悪路王」を検証したものであり、「悪路王」伝説をたどるには格好の手引き書である。

 『吾妻鏡』にある達谷窟のことから始め、陸奥・出羽・常陸・信濃に広がって残された「悪路王」伝承を、丹念に集めているこの小論は、個々の例に面白味があり、伝承には地域固有の意味を付与されて伝えられたことがわかる。

 常陸国の入り口にある鹿島神宮の宝物殿に「悪路王」の首と首桶が祀られている。

 小さな宝物殿の片隅にさりげなく置かれた首像は、眉間から切られた傷跡とともに、かっと眼を見開いていて、激しい憤怒を込めている。胡粉や朱で彩色された顔面から、彩色が剥げ木地をむき出した大きな鼻が突き出し、唇は固く結ばれ赤く、血の色を思わせる。

 宝物館の説明には、平安時代、坂上田村麻呂将軍が奥州において征伐した悪路王(阿弖流為・アテルイ)の首を寛文年間・口伝により木製で復元奉納したもの。悪路王は、大陸系の漂着民族とみられるオロチョン族の首領で、悪路(オロ)の主(チョン)とみる人もいる。とある。

 説明の後半はともかくとして、悪路王即ち阿弖流為とすることに注目したい。寛文年間は徳川幕府四代将軍家綱の世である。この時代には既に二人の人物ではなく、同一人として一般化していたのであろうか。口伝の詳細は全く伝わっていない。

 その伝承が平泉町の達谷毘沙門堂や涌谷町の箟峯寺などとともに、田村麻呂の伝説 に登場する。


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