3−2.胆沢八幡神社


    (水沢市埋蔵文化調査センター)

 坂上田村麻呂の時代は、胆沢を中心とする北上川の中流域が征夷の主な舞台であった。

 延暦21年(802)、前年の征夷戦を制し、田村麻呂は胆沢に城を築く。

 今、その胆沢城跡が発掘され、その成果を展示する水沢市埋蔵文化財調査センターが近接して建てられている。

 「水陸万計の地」といわれた胆沢の平野部にある、白壁のこざっぱりとした二階建ての建物で、南面する玄関は、四本の朱塗りの柱で支えられている。

 胆沢城は、10世紀後半までの150年間ほど鎮守府として機能した。

 その外郭北門の近く、胆沢川畔に「鎮守府八幡宮」があり、吾妻鏡文治5年(1189)9月21日条に、源頼朝が参詣したと記されている。

 この八幡宮は、田村麻呂将軍が、東夷を征する為に下向した時、勧請し崇敬した霊廟である。無事征夷が終わり、田村麻呂は持っていた弓箭並びに鞭等をここに納め置いた。その品が宝蔵にある云々。

 『吾妻鏡』の語る「鎮守府八幡宮」の由来である。

 現在も田村麻呂が奉納したと伝わる剣・鏑矢などが保蔵されている。

 坂上田村麻呂が胆沢を制するまでには、幾多の戦闘があった。

 延暦8年(789)3月9日、「諸国の軍、陸奥多賀城に会す。道を分けて賊地に入る。」そして3月28日には「官軍、河を渡り営三処を置く。」と続日本紀にある。

 「河」とは、平泉町を東に流れ北上川に注ぐ衣川であり、胆沢の入り口である。

 この戦いを蝦夷(えみし)の梟帥として指揮したのが、阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)である。

 紀古佐美率いる征夷軍は大敗するが、蝦夷側も村を焼き尽くされて痛手を負う。

 延暦20年(801)に、征夷大将軍・坂上田村麻呂の軍がこの地を平定した。

 延暦21年(802)1月9日、田村麻呂は造陸奥国胆沢城使として派遣され、翌々日の11日には、坂東の10ヶ国に「浪人4,000人を胆沢城に配すべし。」という勅がくだる。

 4月15日、「大墓公阿弖利為、磐具公母礼等、種類500余人を率いて降る。」という報告が朝廷に届く。

 しかし、8月13日、二人は田村麻呂等の願いも空しく処刑された。

 考古学者伊藤博幸氏(「胆沢城と古代村落」・『日本史研究』)によると、胆沢盆地にある奈良時代につくられた自然村落は、ある時期一斉に姿を消し、平安時代には、計画的な村落になったという。

 胆沢は、延暦期の征夷軍により自然村落といえるものがことごとく焼き尽くされた。征夷戦で捕らえられた蝦夷(えみし)は、夷俘として各地に移配され、そこに何千人という朝廷側の移民が移されて胆沢開発が進められた。


  目次へ   NextPageへ  伝説探訪(TopPage)へ