奥州三観音だけではなく、この地方にある縁起には、奥浄瑠璃『田村三代記』の物語に類似した内容が特に色濃く残されている。
奥浄瑠璃とは、江戸時代から昭和の初めにかけて、ボサマとかジョウルリさんと呼ばれた盲目の琵琶法師たちにより、東北地方一帯で語られてきた浄瑠璃を指すという。
土地の訛りをもった言葉で語られ、人々の娯楽として普及して行った。なかでも伊達藩や津軽藩は、これら盲目の人たちを庇護したという。この伝統が、伊達藩には「仙台浄瑠璃」ともいわれる「奥浄瑠璃」を残し、津軽藩では「津軽三味線」につながる芸能を残した。
仙台叢書第十二巻に収録されている「田村三代記」の概要以下の通りである。
人皇五十四代仁明天皇の時、鈴鹿の山に天竺の魔王の娘・立烏帽子が篭り、日本国をくつがえそうとしていたという。日本にも立烏帽子に比肩する悪鬼がいて、両者が手を組んだら大変である。帝は刈田丸利光の子・田村丸利仁に立烏帽子征伐を命じた。 田村丸は仏神に祈りようやくにして立烏帽子に巡り合う。立烏帽子はなかなかの美人の上、剣達者で田村丸は殺されそうになる。その時、立烏帽子がいう。自分は日本をくつがえすために天下ったものだが、女の身の悲しさ、相応の夫を持たなければならない。奥州の大嶽丸にたびたび文を送っているのだが今だ返事がない。これからは改心して日本の悪鬼を鎮めることとするから、貴方の妻になりたい。嫌なら殺すと、せまられた田村丸は折を見て立烏帽子を討てばいいと、妹背となることを承諾する。 蜜月の三年が過ぎ、正林と名付けた姫も生まれた。 何とか都に戻った田村丸に、悪事の高丸を征伐せよとの命令が下る。田村丸は激闘したものの、高丸を鹿島の沖に取り逃がす。その後立烏帽子の加勢で、日本と唐の境界にある海の窟に篭った高丸一族を殺すことができた。 これを知った大嶽丸は、立烏帽子を捕らえ奥州に連れ去ろうとする。 自ら進んで捕らえられた立烏帽子の導きで、田村丸は達谷の窟に大嶽丸を攻めるが逃がしてしまう。ようやく箟峰山に追い詰めたが、今度ばかりは立烏帽子の神通力も通じないという。田村将軍が必死に観音に祈るうちに、立烏帽子の神剣である四つの剣が空を飛び、大嶽丸を四つ裂きにした。観音の加護であるという。 4・5日すると、立烏帽子は、今年25になった女は、10月5日を限りにこの世を去らなければならない定めになっているといって死んでしまう。 亡くなった立烏帽子を悲しんでいた田村丸は、夢か現か、閻魔大王に逢う。 女を返せと田村丸が迫る。閻魔大王は困って代わりの女を生き返させる。田村丸が急ぎ都に帰ると、近江国志賀の里に小松という女が生き返っていた。 この小松の前は田村丸の妻となり、113歳まで生きた。田村丸は96歳で大往生し、ともに鈴鹿山に行き田村大明神・清龍権現妹背の神となった。娘の正林は93歳で大往生し、奥州岩手郡に飛んで正林寺の地蔵菩薩となった。
長い抄録になってしまったが、原本は六巻に及ぶ物語である。一段ずつ休みを入れて、浄瑠璃はゆっくりと上演されたのであろう。
「田村三代記」は、この仙台叢書が底本としたもの以外に、幾つかのものがあるが、大筋においては似たようなものといえる。
例えば、鈴木幸龍本といわれるものがある。
この「田村三代記」は、八段で構成され、「立烏帽子」のかわりに九門長者の娘・悪玉御前が出てくる。伊達藩で最も多く語られたのはこの本によったものかも知れない。いたるところで「悪玉御前」にめぐり合える。鈴木幸龍本の七段目は、悪玉御前が田村麻呂をたずねて京に上る場面であるが、ここに語られているのは、その道々の名所案内である。
田村麻呂とそれぞれの土地の女の恋物語が残されていて、その記念として植えられたと伝承されるお手植えの桜が、東北各地に広く分布している。