3−1.達谷毘沙門堂


    (達谷毘沙門堂)

 岩手県平泉町にある達谷たっこく毘沙門堂は、延暦20年(801)の征夷の年、坂上田村麻呂が創建した「陸奥の清水寺」であるという。

 阿弖流為(アテルイ)等が田村麻呂に降伏し、河内国杜山で斬首される一年前である。

 中尊寺から毛通寺に南下し、さらに4kmほど西行すると道路脇に寺社がある。寺と神社がほぼ一体となった今では珍しい造りである。神仏が習合していた名残が見られ、明治初期の神仏分離令をうまく掻いくぐった苦労の跡がしのばれる。

 三つの赤い鳥居をくぐると、その奥に、絶壁に寄り添うようにして毘沙門堂がある。

 斜面に高く木造の橋桁を組み、その上に堂を造ったその姿は、確かに京都の清水寺に似ている。その堂の中に「毘沙門天」と慈覚大師作と伝える「吉祥天」が秘仏として納められている。

 その山門を入るとすぐの所に大きな建て看板があり、そこには次ぎのように記されていた。

 《東北古代史の英雄・坂上田村麻呂公を顕彰する。》と題して続く。

 この頃征夷大将軍坂上田村麻呂公を中央からの侵略者・悪路王こそそれに抗した郷土の英雄とする考えがあるが、これはおかしい。達谷に伝わる〈籠姫〉や〈姫待瀧〉〈鬘石〉等の伝説では、悪路王に苦しめられる民草を救うのが大将軍なのである。昔から苦しめられる側であった民草は救う人に心を寄せ、大将軍を毘沙門天王の化身として信仰して来たのだ。

大将軍創建の社寺、大将軍の伝説はこの東北に星の数程ある。当に大将軍こそ東北古代史の英雄であろう。達谷窟毘沙門堂は大将軍と悪路王伝説の発祥地であり、日夜心を込め〈南無田村大将軍〉と唱えている。云々。

 最後に、別当の名と花押がある。

 ここには三つの主張が隠されている。

 先ず、悪路王の限定的な定義である。〈民草を苦しめるもの〉が〈悪〉であると言う単純な定義である。大和朝廷に刃向う者としての〈悪〉ではない。

 次ぎの主張は込み入っている。悪路王即ち阿弖流為(アテルイ)であるとする最近の郷土史家に対する批判と、その阿弖流為を、これまでは歴史から抹殺され続けてきた郷土の英雄として顕彰しようとする人達への批判である。

 現に、二人が斬首された土地に比定される大阪府枚方市に、「阿弖流為」と「母礼」の顕彰碑を建立しようとした動きがあり、確証がないためそこでは建立を断られ、やむなく田村麻呂ゆかりの京都清水寺の境内に収めたという近年の事例がある。

 拙速はよくないと言う意味なら、重要な主張である。

 もう一つの主張は、「社寺にとって縁起とは思想ではなく信仰なのだ。」とする信念である。

 その縁起にいう。

 「およそ1200年の昔、悪路王・赤頭・高丸等の蝦夷がこの窟に塞を構え、良民を苦しめ女子供を掠める等乱暴な振舞い多く、国府もこれを抑える事が出来なくなった。

 そこで人皇五十代桓武天皇は坂上田村麻呂公を征夷大将軍に命じ、蝦夷征伐の勅を下された。対する悪路王等は達谷窟より3千余の賊徒を率い駿河国清見関まで進んだが、大将軍が京を発するの報を聞くと、武威を恐れ窟に引き返し守りを固めた。

 延暦20年(801)大将軍は窟に篭る蝦夷を激戦の末打ち破り、悪路王・赤頭・高丸の首を刎ね、遂に蝦夷を平定した。

 大将軍は、戦勝を毘沙門天の御加護と感じ、その御礼に京の清水の舞台を摸ねて、九間四面の精舎を建て、108躰の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所として達窟毘沙門堂(別名をいわや窟堂)と名付けた。

 そして延暦21年(802)には別当寺として達谷西光寺を創建し、奥眞上人を開基として東西30余里、南北20余里の広大な寺領を定めた。

 降って前九年後三年の役の折りには源頼義公・義家公が戦勝祈願の為寺領を寄進し、奥州藤原初代清衡公・二代基衡公が七堂伽藍を建立したと伝えられる。

 文治5年(1189)源頼朝公が奥州合戦の帰路、毘沙門堂に参詣され、その模様が『吾妻鏡』に記されている。云々」

 この縁起では、悪路王・赤頭・高丸等の蝦夷は良民を苦しめる蝦夷である。しかし、彼等に率いられた3千余の賊徒の集団が、蝦夷を代表したものなのか、その一部集団であったのかには触れていない。

 吾妻鏡の段を紐解いて見よう。

 文治5年(1189)9月28日、源頼朝が胆沢鎮守府八幡宮を訪ねた四日後である。

 (源頼朝は)途中にあった一青山を望み、その号する処を尋ねた。田谷窟という。これは田村麿利仁等将軍が綸命を賜り征夷の時、賊主悪路王並赤頭等が構寨した岩屋である。
 其巌洞の前途を北に行くこと十余日にして、外ヶ濱に至る。坂上将軍はこの窟前に九間四面精舎を建立し、鞍馬寺を摸して、多聞天像を安置し、西光寺と号した。
 その時寄付された水田は、東限を北上河、南限を岩井河、西限を象(寫)王岩屋、北限を牛木長峰とする、東西30余里、南北30(別本20)余里とある。云々。

 延暦20年(801)からほぼ400後のことである。既に田村麻呂と利仁が並列されていたり、清水寺というべき所を鞍馬寺と混同されていたりするが、趣旨は毘沙門堂縁起と同じである。


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