2−2.黄金山神社


    (黄金山神社)

 黄金山神社は、箟峰寺の山をくだり、右に折れ、すぐのところにある。むしろ、箟嶽の南西の山麓といったほうが感覚的な位置である。

 社伝では「宝亀元年按察使紀能が勧請し、延暦18年坂上田村麻呂が修理を加えた。」とされる。

 しかし、最近では天平時代の「産金跡」としての歴史がしのばれている。

 天平21年(749)4月、陸奥国守,百済王敬福(くだらのこにしききょうふく)の使者が黄金900両を朝廷にとどけた。黄金900両は、12.65sである。

 聖武天皇は東大寺に大仏を造営中であったが、それを荘厳する黄金の不足に悩んでいた。天皇は歓喜し、年号をただちに改め、天平感宝とし関係者には厚く恩賞を与えた。

 当時、黄金は国内では産出されず、朝鮮半島に求めなければならないと思われていた。しかも、半島との関係はかならずしも良い状態ではなかった。この黄金の献上で、大仏は天平勝宝4年(752)完成し、盛大な開眼供養が営まれた。

 大伴家持は、黄金献上の報を聞き、ただちに天平感宝元年(749)5月12日、国守として逗留していた越中から「陸奥国より金(くがね)を出せる詔書をことほぐ歌」(万葉集・巻18)として、長歌一首と反歌三首を奏上している。

 「とり鶏が鳴く東の国の陸奥の、小田なる山にくがねありと申したまえり。」

   すめろぎの御世栄えむとあづまなるみちのくやまに くがね花咲く
    (家持の句碑)

 この前半にある長歌のなかには次の言葉が書かれている。

 「海行かば 水漬くかばね 山行かば 草生すかばね

   おおきみの辺にこそ死なめ 顧みはせじ」

 天皇を崇敬する気持ちの現れである。

 この部分は、明治天皇が「軍神を紫宸殿に祭る祭文」のなかにも引用された。このように高らかに忠誠を表明していたにもかかわらず、大伴家持の晩年は惨めであった。

 家持は、延暦3年(784)2月、陸奥按察使・征東将軍として陸奥国に赴任した。しかし、大伴家持は武家の家柄とはいえ文官としての経歴しかなく、しかも、高齢であった。副将軍として文室与企・鎮守権副将軍として阿倍墨縄など軍事と陸奥に詳しい部下を配したとしても、万全の態勢とは思えない。

 その翌年8月28日、家持は陸奥国で没した。65歳ではなかったかといわれる。

 しかし、皇位継承をめぐる藤原種継事件に関係した疑いで、没後になって官位を剥奪された。家持の子どもらの運動もあり、大同元年(806)になって汚名をそそぎ復権することができた。没後21年のことである。

 大伴家持の歌にある小田なる山はどこにあったのか。

 明治末までは、石巻湾の東端にある「金華山」ではないかといわれてきた。芭蕉の時代の歌枕はそのように伝えている。仙台藩士佐久間洞厳が江戸時代に書いた観蹟聞老志も「金華山」としている。新井白石もこの「歌枕」を信じて疑わなかった。

 その金華山にはいまも「黄金山神社」があり、小舟でわたることができる島全体が境内となっていて、参詣者が多いところである。大きな鹿が群れをなして、参詣者が手にする煎餅を襲ってくる。金華山の所在地は「牡鹿郡」牡鹿町である。延喜式内社には「小田郡」黄金山神社とあり、「牡鹿郡」には大小十座の神社が載せられているが、その中には「黄金山神社」と明記したものはない。

 文化7年(1810)に、伊勢国の国学者・沖安海が「陸奥国黄金山神社考」を発表し、産金に由来する神社は、現在の涌谷町にある「黄金山神社」であるとした。

 明治期には大槻文彦が「陸奥国遠田郡小田郡沿革考」でその説を発展させた。昭和32年、東北大学伊東信雄教授らにより発掘調査が行われ、奈良時代の建築物跡と屋根瓦が明らかになり、付近一帯は、黄金山産金遺跡として国指定史跡となった。

 江戸期末にはこの神社をかえりみる人も少なく荒廃していたという。現在の社殿は明治42年に建てられたものとされ、山裾にあるその神殿は、小振りでひっそりとたたずんでいる。

 最近、黄金山神社の入り口に天平ろまん館が建てられ、産金遺蹟の保存と展示が行われている。

 朱塗りの太い柱で囲まれた展示館は、町の観光スポットである。


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