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ON RUSSIA

ソ連ユーモア文学の古典「12の椅子」について

出羽弘

   今年(2002年)のロシア語通訳協会の名作ロシア文学読書会では、11月16日から1月25日までの毎週土曜日スヴェトラーナ・名田先生のご指導のもとに、今もロシアの人々に愛されている名作イリフ・ペトロフの「12の椅子」 ≪Двенацать Стульев≫を読むことになった。読書会では原文で読むにしても,初心者にとってはこの小説は始めに日本語訳で読んでおいたほうが理解がしやすいほどの「手ごわい」相手であるので、参加者のために若干の紹介させていただくことにしよう。

 近代文学を有する世界の国々においては、国民的な誇りとして風刺・滑稽文学の名作が大切にされている。イギリスではスイフトの「ガリバー旅行記」、フランスにはモリエールのすばらしい戯曲があり、音楽やバレーにおいても世界的に愛されているのはスペインの「ドン・キホーテ」である。現代の日本人もユーモア感覚は鋭敏であり,最近は川柳が庶民の間に大流行であるが、歴史的な名作としては室町時代からの狂言とともに、近世では十返舎一九の「東海道中膝栗毛」などをあげてもいいだろう。ロシアについて言えば、風刺・滑稽文学の双璧をなすのは、ゴーゴリの「検察官」と、このイリフ・ペトロフの二つの作品「129の椅子」と「黄金の子牛」ということに落ち着くであろう。

   イリフ・ペトロフというのは、ペンネームがそれぞれИья Ильф(イリヤ・イリフ)とЕвгений Петров(エブゲニー・ペトロフ)という2人の作家を意味している。前者の本名はИлья Арнольдвич Файзильберг(1897〜1937)であり、後者はЕвгений Петрович Катаев(1903〜1942)である。作品は2人の共作である。「12の椅子」が雑誌に発表されたのは1927年、出版されたのはその翌年、つまりソビエト革命の10年後である。

   ソビエト文学の古典的名作とされながら、共産党員や革命家,反革命家さえ一人も登場しない。主要登場人物はしょぼくれた中年過ぎの男やもめボロビニヤノフと若くて元気な詐欺師オスタップ・ベンデルである。前者は革命前にはスタルゴロドという都市の貴族団長をつとめる名士であったが、今はN町に流れ着いて町役場の結婚と死亡の登記係をおとなしく務めている。ある日彼の義母が死去したが、臨終に当たって、莫大な額の宝石類を、以前に住んでいた邸宅の椅子の中に隠したことを告げる。椅子は全部で12脚あったが、おばあさんは、どの椅子に宝石を隠したかを告げる力もなく昇天してしまった。

   ここで若い読者のためにすこし注釈をいれておく。第1次大戦後のヨーロッパでは戦乱と革命が相次ぎ,ドイツもロシアも、国家の崩壊に伴って史上未曾有のインフレーションとなり、カネの価値もタダ同様になり、国債も株式も紙くずと化してしまった。こういう時期にカネも地位もある人たちが財産を保全する唯一の手段はピカピカ光る金や宝石類を隠匿することだけであった。ロシアに攻め込んだドイツ軍は財貨を手当たり次第に略奪し、その後政権をとった労農ソビエト政府もブルジュイ(金持ち)たちの邸宅を取り上げて家を失った庶民の集合住宅などに転用し、あるいは政府の官庁として使用した。国家的価値のある美術品や隠匿貴金属などは国家の経費をまかなうために政府が預り証を出して接収した。モスクワのトレチャコフ画廊もこのようにして国有財産とされたものである。内戦の戦場では兵隊たちが勝手に略奪を行った。

同じ時代を扱ったブルガーコフの小説「マステルとマルガリータ」にも寄席で司会者が観客に貴金属を国家に提供するように呼びかける場面が出てくる。もっともブルガーコフの小説のこの場面においては、出演者自体が得体の知れないインチキ師であって、客が司会者のアジテーションに乗って提供した宝石類は出演者たちが自分のふところにいれてズラカッてしまうという筋立てになっている。

   いずれにせよ、革命のときにおばあさんが椅子に宝石類を隠したのはきわめて当然の、そして十分現実的な行為であったということを理解しておかなければ、この小説の筋がはじめからわからなくなってしまう。

   さてここで主人公のボロビヤニノフは、革命の余波もおちついたことではあり、一念発起してこの宝石探しに旅立った。故郷のスタルゴロドの町へやってきてみると、自分の旧居は老人ホームになっている。ここで小説の第二の主人公、ネズミ小僧のようにすばしっこく気の利く28歳のオスタップ・ベンデルが偶然のきっかけから宝石探し事業に加わることとなり、2人で「共同利権会社」をつくる。

   これとは別に、N町の司祭が老婦人の臨終告白から宝石のことを知り、これも教会をおっぽり出して宝石探しを始める。

   さて、その12脚の椅子は、元ボロビニヤノフ家であるこの老人ホームにはすでに影も形もなかった。最初の探索の結果、2脚はこの町に残っていたが、宝石は入っておらず、残りの椅子はモスクワの家具博物館に送られたことが判明した。「会社」に必要なのはまず今後の探索のためのカネ。オスタップは御得意の結婚詐欺、老人のほうは元貴族団長の肩書きをダシにして市内の小金持ちなどをあつめて「保守政党」を結成して「設立資金」を拠出させたりしてモスクワへの旅費をかき集めた。稼いだカネは2人で200ルーブルずつ所持することとした。

   モスクワの家具博物館で彼らが知りえたのは、10脚の椅子は7年間の保管の後、「芸術的価値なし」ということで、昨日からセリ売りにかけられたということだった。1回目のセリでは椅子が落札されなかったことを知った2人は、翌日のセリに出席し、オスタップは10脚全部を手持ちの200ルーブルで競り落とす。 ところが椅子を受け取ろうというときに、セリの手数料30ルーブルを請求される。オスタップがボロビニヤノフに、持っているはずの200ルーブルから30ルーブルを出せというと、老人のポケットは空っぽ。実は元貴族団長は昨夜尻軽女に引っかかって全部むしりとられてしまったのだ。これで最初の椅子入手のチャンスはチャラとなる。

   翌日になると、競売人は10脚を一括してセリにかけることをあきらめ、個別に競売した。椅子は何人かの買い手に別々に落札されて,ロシア中の散らばっていきはじめた。こうして、宝石追跡者たちは執念深く1脚ずつ椅子の行方を追及していく羽目となった。

   他方,破戒僧のほうも椅子さがしをはじめている。ここから、2人組の「会社」と破戒僧の宝石探し競争,要するに宝石の入った一脚の椅子さがし競争がはじまる。      

   この経過を追うのがわが通訳協会の「読書会」のお楽しみとなるのだが、次から次へと10脚の椅子を追って主人公たちは市井の人々の生活に入り込み、巡歴していく。背景は,現在世界的に再評価が行われているソ連のネップ期である。崩れかけた「市場社会」とまだ五里霧中の「新社会」のあいだで暮らす人々のリアルな、しかし滑稽な生活絵図が,スリル満点のシーンの連続として展開される。10脚の椅子は、主人公たちが一つずつ見つけていって「腹を裂いて」みるが、目指す宝石は一向にでてこない。

   元貴族団長のボロビヤニノフはだんだんと気力を喪失していくが、詐欺師オスタップは「残っている椅子の数が減るほど、宝石の入った椅子にぶつかる確率は高くなっていく」という論理でますます元気になっていく。はじめ「社長」であったボロビヤニノフと元気なオスタップの「指導的地位」は次第に逆転していく。

   椅子を落札した相手のうちでも特に大口は、4脚まとめて舞台の小道具用に落札したコロンブス劇団である。こいつは絶対に全部調べなければならない。ところが劇団は、国営の宝くじ抽籤委員会との契約で、汽船スクリャビン号を借り切ってボルガ河の各都市を巡回公演することになる。これはロシア最大の観光コースである。芝居と宝くじの抽籤は船の甲板や埠頭で鳴り物入りで行われる。

「宝石追跡会社」の2人は欠員となっていた美術係を装って警戒厳重なこの船にもぐり込んだ。もちろん2人ともポスターさえ描いたことはない。

  最初の晩に1脚手に入れて「腹を開いて」みたがこれにも宝石ははいっていない。翌朝彼らは「ニセ絵描き」であることが暴露されて船から放り出されてしまう。

   一文なしの彼らはこの町で「チェスの名人」を装って人々を集めてカネを巻き上げて路銀を補給し、懲りずに椅子を追ってボルガを下っていく。

   途中で劇団は陸路カフカースに向かうことになる。彼らも、雲にまで達するカフカース山中の美しい観光道路をテクテクとあるいてこれを追う。観光地では人々は財布のヒモをゆるめるので、いとも簡単にカネはあつまる。ところがこの山の中で彼らはライバル「探索者」破戒僧と出会い、決闘となる。2人組は相手を絶壁の上にまで追い上げてしまう。夢中で岩を登った破戒僧が我に返ったとき、彼は絶壁に囲まれた岩の上に在り、下に降りる道はなく、天上に一人取り残されたことを悟り発狂してしまう。

   2人組の探索行は「地の果て」までに達した、クリミヤでいよいよ最後に残った劇団の椅子を手に入れた。宝石は見つからなかったが、椅子を開いた瞬間に有名なクリミヤ大地震が突発する。彼らは命からがらモスクワに逃げ帰る。ここで2人は仲間割れする結末となる。

   じつは、宝石の入った椅子モスクワに残されていた。この椅子を入手した鉄道員会館の守衛が偶然この宝石が椅子の裏の破れからザクザクと出てくるのを見つけ、仲間と館長を呼び集めた。みんなの協議の結果、この資金により、オンボロだった鉄道会館は、世にもすばらしい鉄道従業員たちのクラブに建て替えられていた。このことを、元貴族団長は,皮肉にも彼がいさかいの末に相棒のオスタップを刺殺してしまった翌朝に知る。

   小説では最後に主人公たちが破滅することとなるが、それにもかかわらずこれは底抜けに滑稽で明るい作品である。何よりも過渡期の人々の戸惑いに満ちた生活を笑い飛ばす著者たちの筆の冴えが息もつかせず読者を最後まで導いていく。腐敗や不条理や、官僚主義や貴族主義の残りかすが暴露され、欲に目の眩んだ悪人や小心者どもが次々と失敗し、小才の利いたオスタップが絶対絶命の状況においてさえも奇策をひねり出して純真な人々からカネを巻き上げるが,いつも財布は瞬く間に空っぽになっていく。

   この「成功と失敗」の対照の滑稽さ,テンポと切れのよさ、思いがけない「落ち」が当時の人々に喜ばれたのは無理も無い。これはあらゆる滑稽・風刺小説にとって欠かせない重要な要素である。二人の著者は心憎いまでにこのテクニックを駆使して、騙されながらも負けずに反撃する庶民の生き様と過渡期の猥雑な社会相を描き出すのに成功している。

   小説は大当たりとなり、文章のなかの言葉やセリフはその後ロシアの社会で慣用句、アフォリズムとなって生きつづけ、現在までも庶民から作家までが愛用するところとなっている。

   しかし、この作品の意義はこれにとどまるものではない。この小説が出て2年後にはスターリンの圧制の始まりを象徴する事件である農業集団化が開始される。

   打ち続いた世界大戦と国内戦争のあと、スターリン時代の直前までの短いあいだに、ロシアの民衆にとっては一瞬の希望が燃え上がった時期があり、それをうけた希望と庶民的な明るさに満ちた文化がソ連では急速に開花した。アメリカから早々と伝わってきたジャズが一世を風靡し、ウチョーソフのスイングやシュリジェンコのブルースが人々に愛された。 クラシックではプロコフエフの「ペーチャと狼」が現れた。このイリフとペトペトロフの作品の出現は、まさにこの「底抜けに明るい」時代の文化を代表する最も重要な記念碑のひとつである。この「明るい時代」の文化については現在の「教科書」にはほとんど取り上げていない。たとえば川端香男里氏編の「ロシア文学史」にも、イリフ・ペトロフの名は1回だけ挙げられてはいるが、作品名さえ紹介されていないという「冷遇」ぶりである。しかし、実際に歌謡や映画の歴史をたどる時、あるいはロシアで生活してみると,このように希望に満ちた時期がかっては存在し、これらの創作が現在までも言い継がれ,歌い継がれ、ロシア文化の伝統に生きており、人々に「必読書」として愛されていることがわかるであろう。

   スターリン時代には、イリフ・ペトロフの作品は「社会主義にふさわしくないドタバタもの」として抑圧された。しかしこの「底抜けに明るい」文化の流れは,まさに暗い時代にこそ民衆に必要とされたゆえに,さまざまな形で間欠泉ように吹き上がって生き残ってきた。例をあげれば、日本では「ロシア民謡」とされている「カチューシャ」は同じくジャズ畑のブランデルの作曲である。映画においてはドゥナエフスキーの軽快なメロディに乗ってG.V.アレクサンドロフ監督の名作「ボルガ・ボルガ」(1938年)のような、やはり底抜けに明るい、しかし深い風刺を含んだ作品がヒットした。この映画は戦後(私が60年代にロシアに滞在していたころ)も繰り返し上映されていた。

   我々日本人は1931年開始された中国との戦争に始まり,最後に1945年の原子爆弾でおわる世界中を相手にした戦争にいたる暗い14年間の時期を知っている。しかしその直前にはわが国でもロシアと同じようにジャズも急速に普及し、いまだ日本人の心に残っている古賀メロディーのうちでも最も明るい「青い背広で心も軽く」や「東京行進曲」などがあらわれた。ソ連の「明るい時代」は日本のこの大正デモクラシーの時期と似ている点も多いといえよう。

   イリフ・ペトロフのユーモア小説は、このように「教科書的でない」ロシア文学の古典として,読者に新しい目を開かせるものである。同時に、この小説のロシア語の文体や言葉の点でも、この時代の庶民の言葉を研究する上で非常に得るもの大きいであろう。何しろイリフとペトロフの両人は、新聞「グドーク」を駆け出しに、後にプラウダの記者となった腕利きのジャーナリストでもあるからである。2人は記事までも一緒に書いていたという。

以上

(イリフ・ペトロフの作品の和訳は下記のようなものが日本で出ています。

『12の椅子』江川卓訳、『世界ユーモア文学全集6』に所収、筑摩書房、1961年/、広尾猛訳、ナウカ、1934年。江川卓訳、筑摩書房、1961年。『12の椅子』江川卓訳、集英社、1968年。『黄金の仔牛』上田進訳、『現代世界文学叢書』に所収、中央公論社、1940年/上・下、上田進訳、歴程社、1951年。『黄金の仔牛』上田進訳、創元社、1957年。----「群像社」のホームページより)。

2001年9月8日執筆