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Top Oage
On Russia

 

 

ロシア人のシベリア征服

出羽

(原文書は1987年 雑誌「みずのわ」に連載)

(ここに掲載するのは、上記を抜粋・改訂したもの)

 

 

1.                   森のなかの「航海者」

 

 ロシアはヨーロッパとアジアの両大陸にわたる広大な国である。シベリアとは、どこからどこまでなのか、地理区分上の問題がソ連にも存在しているが、ウラルから太平洋までというのが庶民の感覚である。

 現在のロシアは人口約1億4700万人、うち西シベリア1511万人、東シベリア911万人、極東621万人で合計4554万人、ロシア連邦総人口の約31%である。 (ロシア東欧貿易会「ロシアビジネスガイド」、1998年、による)。

 上記のうち、極東・シベリアの原住民族は約4%で、歴史的にみれば、現在のシベリアが、事実上スラブ諸民族によって「開かれた」土地であることは明らかである。われわれは「ロシア人」たちとはお互いに引越しのできない隣人どうしであり、仲よく暮らしていくほかはないと言うことであろうが、北海道や日本海沿岸を除いては、今の日本人にはあまり「現実感」をもって受け入れられてはいないようである。

 これには、さまざまな理由があろうが、ロシア人たちがこの大きなユーラシャ大陸を横断して日本の北方にやってきた歴史的経過が案外われわれの考察の外に置かれてきた点も大きいように思われる。鎖国以来「隣人」として我々の近くに住みついたのは、ロシア人だけであろう。

 日本人は、シベリアといえばバイカル湖とアムール河を連想し、北海道の人々はウラジオストックとオホーツク海、ベーリング海、カムチャツカも思い浮かべる。

ロシアにおける行政区画としてのシベリアは、正確に言えば、シベリアは、遠くボルガ川流域の東を南北に走るウラル山脈のこちら側、レナ川流域からバイカル湖までであり、その東は、ロシア連邦領極東とよばれている。

 しかし実はヨーロッパ地域の普通のロシア人との会話の中では彼らの感覚もあいまいなもので、シベリアも日本も遠いところという感覚がつきまとう。ソ連のシベリア開発の初期に大きな役割を果たしたコロソフスキーという学者は「ポーランドとソ連の国境からモスクワまでは820キロメートルである。モスクワからオムスク(当時は西シベリアの交通の中心であった)までは2700キロメートル、オムスタからイルクーツクまでは2500キロメートル、さらにそこからウラジオストックまでは4500キロメートルである。」と書いている。いまでも多くのロシア人はイルクーツクからウラジオストックはあまり遠くはないだろうという感じでいる。念のために比較すれば、イルクーツクとウラジオストック間の距離は、米国の西海岸から東海岸までの距離に匹敵する。さらに、ウラジオストックからソ連の東の端チエコトカまでの距離は、オムスクからウラジオストックまでの距離にほぼ等しい。

 

 彼らがこの広いシベリアを通って日本の近くに住みついたばかりか、カリフォルニヤ近辺まで進出し、18世紀にはアラスカの広大な土地を領有するに至ったのは、いったいどうしてであろうか。「領土的進出欲」とか、「不凍港」を求めてとかいう「ソ連脅威論」的な答えをする人が多かろうか、1867年にわずか720万ドルでアラスカを米国に売り払った馬鹿な皇帝がいたことひとつを見てもこれでは説明にならない。もっともこのとき米国の連邦予算が3億7千万ドルであったにもかかわらず、米政府内部にも買収反対論がかなりあったということであるが、わずか13年後にはここに金鉱が発見されてゴールドラッシュの渦巻く土地となるのであるから、世の中は面白いものである。

 

 ユーラシャ大陸を東西にまたぐ大国家を建設するという野望を実現した民族は多くはない。しかも征服民族の多くはそれを維持することができず、短時日の間に崩壊している。騎馬民族特有の疾風迅雷のごときモンゴルの征服は、草原の終わるところで森林に阻まれて止まった。

 本来スラブ人たちの祖先は気候の良い東ヨーロッパにいたと言われる。六世紀のヴィザンチンの記録によれば、かれらはドナウ河からヴィスラ河にいたる広大な土地に分布していたが、ヴィザンチンと遊牧民族の圧迫のもとで、カルパチア山脈の斜面からドニエプル流域に移住した。 5世紀後半から6世紀の間に彼らはウクライナからロシアの平原に次第に都市国家を形成した。なかでもドニェプル河とその支流のロシ河の合流点、現在のキエフに都市国家を形成した一団があったことが、ロシアの古名ルーシの起源であるという。伝説によればキエフという名称はこの国家の最初の首長であったキー兄弟の名に因んだものである。彼らはこの都市の防衛を引き受けた「傭兵」のノルマン人、ロシア語でいうヴァリャーグ人の長であったとされている。現在のロシア語でも、頼まれてで外部から来た「助っ人」のことを比喩的に「ヴァリャーグ」と言う。

 いずれにせよ、スラブ人たちがこの土地でみいだしたものは、広大な森林と巨大な河川が形成する水路綱であった。この水路はバルト海、バイキングの国からヴィザンチンへの大陸横断の交易路であった。これはスラブ人達の政治的、文化的、経済的発展に有利な影響をもたらした。スラブ人たちは、森林の中に生活し、森林に守られ、かつノルマンの技術を得て船を作り、水路を利用して大陸を往来する能力を体得したのであった。

 ロシア人たちが何故シベリアを「征服」し、かつそれを「維持」することができたのか。これについては多くの条件が彼らに幸いしたというほかないが、筆者は、彼らが伝統的に「水と船」を自由に使いこなせる民族であった点をあげたいと思う。

 彼らはもともと巨大な船を建造して大洋を航海する民族ではないが、森になじみ、木を良く知り、どこでも木があれば適当な大きさの船を作り、川や沿岸を航海する術を心得た民族となった。

 ロシアとシベリアの地図を開いて見るとわかることであるが、この地域の大部分は、北氷洋から南に千キロメートルから三千キロメートルまでの標高差が500メートル前後という平坦なところである。ここに世界でも有数の河川が「並行して」流れているように見える。しかしさらに良くみると、それらの河川は上流において大きな樹のように東西に支流を伸ばし、お互いの支流は入り組んでおり、その間の距馳はしばしば数十キロメートルに過ぎないことが多い。アジアとヨーロッパを隔てるウラル山脈の中にさえ、ボルガ河の支流カマ河からわかれたチユソヴァヤ河が深く東に入り込んでおり、その上流において、西シベリアの大平原を流れるオビ河の支流タギル河とのあいだの距離は約10キロメートルに過ぎない。しかもこの間の標高差はほとんどない。この地点ではウラル山脈の分水嶺の鞍部の標高は400メートルそこそこだからである。

              このように見ると、ロシアとシベリアは、森林のなかに分布した濃密な水路網という天然のインフラストラクチャーにより統合される可能性を秘めた土地であった。

 

2.                   毛皮と西欧市場

 

 もっとも、ロシア人たちが最初にウラルの東への交通路を開拓したのは、ウラル山脈の北を流れるペチョラ河から北極海に出て、オビ河の河口に達する北まわりの道であった。それは当時カマ河の通路がカザンのタタール人によって閉鎖されており、かつペチョラ河流城は良質の黒テンの毛皮を産したからであった。

 毛皮は当時のロシアの重要な輸出品であった。このきっかけとなったのは、1553年にイギリス人がロシアへの航路を開いたことであった。16世紀後半にはライプチッヒでロシア産毛皮の盛んな見本市がたち、英国の商人たちはロシアの奥地まで入り込んで毛皮を買いあさった。

 ロシアの側では、最も有力な毛皮商人となったのはストロガーノフ家であった。ウラルの西側の地域に大きな岩塩の産地を経営していたストロガーノフ家は、きわめて組織的にウラル以東、すなわちシベリアの毛皮入手のための探検隊を組織し、十六世紀70年代の末にオランダ人に北極海経由でオビ河河口に達する水路を開かせるとともに、1580年代にコサックの傭兵エルマックを隊長としてウラル越えの交通路を開拓する私兵集団を送り込んだ。エルマックはタタール人の支配していたシベリア汗国のクチュム汗の軍隊をうちやぶり、ロシア人によるシベリア支配の第一歩を開いた。その後クチュム汗は反撃してエルマックを敗死させたが、このあとモスクワ国家が自らシベリア征服にのりだし、トポリスクの砦を築いて押さえとした。

 ウラルを越えてからもロシア人達は、南方の草原地帯ではタタールの反撃に手を焼いた。しかし、オビ河の河口に向けての航行はロシア人たちのお手のものであり、とくにオビ下流のクロテンの産地はマンガゼヤの名でもって西欧にまで鳴りひびいた。

 オビ河からエニセイ河への移動は、上流の湿地帯で両河の支流が入り組んでいたから、きわめて簡単なことであったと言えよう。1629年にはすでに彼らはエニセイ河に砦を作り、1628年にはクラスノヤルスクの砦が築かれた.さらに彼らはエニセイ河をさかのぼり、1630年にイリムの土地に達した。イリムからレナ河までは指呼の間にあった。

 

 ロシア人たちの河川交通において重要なのは、「連水陸路」である。これはロシア語では「ヴォロク」というが、本来は「曳く」ということばから発したものである。文字どおり、舟を引いて一つの河川の水域から他の河川の水域に移るための道である。冬になると地面が凍る。その上を舟を曳いて移動したのであろう。ヴォロクはシベリアだけでなく、ヨーロッパロシアにも多数存在した。このようなヴォロクのそばには村落が発達した。たとえばモスクワのちかくにヴォロコラムスクという町があるのはその例である。ウラルを越える連水陸路はチュメニスキー・ヴォロク、イリムからレナ河に越えるものは、イリムスキー・ヴォロクと呼ばれた。イリムスキー・ヴォロクは、今日バム鉄道(第二シベリア鉄道)の路線が通っている。連水陸路は北極海沿岸においては入江をつなぐためにも作られた。 ロシア人たちは、新しい河に出会えばそこで舟を作って新しい「航海」を続けた。もちろん、これが定着すれば、連水陸路は舟曳きのためでなく、橇や馬車により利用された。もうひとつ重要なのは「冬営」である。これはロシア語では「ジモフカ」と呼ばれ、「冬」という意味の「ジマ」という言葉からきている。探検は数年にわたって続けられるから、適当な場所に食料その他を蓄積して越冬し、翌年の開氷をまってさらに前進する。そして冬営地が安定すると砦になり、村落になることも多い。これらの砦はオストログとよばれた。これは先をとがらせた丸太を隙間なく立てて、防壁として巡らせたもので、「とがった」という意味の「オーストルイ」という言葉が語源である。のちにシベリアが流刑地となったあと、囚人たちの宿泊のためにも同じ構造のものがつくられ、チュリマとよばれた。

 わが国のヨット設計の第一人者横山晃氏は、シーマンの必須条件として、木造船を自作できる能力をあげている。たとえ暴風でマストを折損しても、近くの島にたどりつけば、木材を切りだしてマストをつくり、再び帆走航海を続けることができる。また船大工は木の性質を良く知っていなければならない。こういう観点からみればロシア人は理想的な舟乗りであったといえよう。ずっとあとの話になるが、徳川幕府と開国交渉を続けていたプチヤーチンの乗船ディアナ号は安政大地震の津波により下田港で破損し、修理のため戸田に回航の途中沈没した。ロシア人たちは、幕府の援助のもとに80トンのスクーナーをわずか3ケ月という短時日のうちに完成した。このとき参加した船大工たちに命じて幕府は直ちに同型船を作らせ、これが日本における最初の洋式造船の一つとなった。後の石川島造船はこのときの船大工のひとりが創始したものである。

 

 このようにロシア人たちは、舟と森の民族であったが故に、ユーラシャ大陸を横断することができたのであるが、では、この土地を「維持」することのできた理由は何であろうか。すくなくとも19世紀はじめまでは、その理由は「毛皮」であった。ロシア人たちは、西欧において高く売れた毛皮をもとめて東へ東へと進んでいるうちに、太平洋に出てしまったというのが、実際のところであろう。

シベリアの森林を遊牧していた原住民の多くは農業を知らなかった。ロシア人は、原住民の生活様式にも文化にも干渉せず、彼ら自身が農業から舟曳きまでを行った。要するに森林のなかではロシア人は原住民族と共存することができることが多かったのであろう。 かれらが森林を南に抜け出して遊牧騎馬民族と衝突したところでは、ほとんどといってもよいほど敗北を喫しているのは面白い。また中央政府からの強力な干渉はロシア人たち自身が好まなかった。かれらは自由を求めてシベリアに来たのである。ついでながらシベリアの原住民のなかには、水に入ったり、泳いだりする習慣をもたない民族が結構多いという。凍土地帯では、夏でも水は身を切るように冷いからであろう。

 

3.                   コサックと国家政策

 

 欲の皮のつっぱった毛皮商人たちを支えたのはコサックたちである。かれらはもともとロシアの農民で、地主の圧迫から自由を求めて逃げ出した人々である。日本でいうなれば「無宿人」というところであろうが、ロシアの政府は彼らが辺境の開発、防衛にあたることを条件として自由をあたえ、懐柔して国家機構に取り込んだのであった。

 ロシア人達のシベリア「征服」は16世紀末のエルマックのウラル越えをもって最初とすると書いたが、これはいわゆる「正史」であり、またその意味で「官製の俗説」である。

 ロシア人達は14世紀にはすでにシベリアにでかけて原住民と毛皮の交易を大規模におこなっていた。エルマックの進攻は、イワン雷帝による中央集権的なロシア帝国の確立の時期におこなわれたことにより歴史的な意義を持つことになったと言えよう。エルマックたちわずか500人のコサックは、毛皮商人ストロガノフ家の与えた銃器をはじめすぐれた装備を有していたが、かれらのうしろにあったものは、イワン雷帝がストロガノフ家に与えた東部国境を安堵せよとの詔勅であった。この進攻はストロガノフ家自体にとっても命運をかけた事業であった。

 一方エルマックは民族的英雄となっているが、彼ほどその前歴のはっきりしない英雄もロシア史上にいない。ただ彼の副官であったイワン・コリツォは、農民反乱の首謀者として絞首刑の宣告をうけ、逃げまわった末にエルマックの一団に加わったという「前科」が明らかにされている。エルマックも似たようなものであったろう。要するに、この「民族的英雄」は、「せまいロシアに住みつけない」で、地主の圧迫からのがれてシベリアに流れ込んでいた民衆のなかで、一番派手に振る舞うめぐりあわせになった連中である。シベリア汗国撃破の報告をもってモスクワに「錦をかざった」イワン・コリツォは、イワン雷帝のお覚えもめでたく、絞首刑を赦免され、エルマックヘ下賜のよろいを託された。シベリアにかえったコリツォはまもなく戦死し、また、エルマックはクチュム汗の夜襲から逃れて川に飛び込んだ時に、皇帝からの贈り物のよろいが重すぎて泳げず溺死したのは皮肉である。

              このようにして、シベリア開拓はイワン雷帝以来国家政策として進められた。征服者としてのロシア人たちは住民から年に一枚ずつの毛皮の貢納を求めた。これはヤサクと称され、毛皮税と訳されている。ヤサクを納める原住民はロシア国家の支配下におかれたものと見なされた。1637年「シビールスキー・プリカース」と呼ばれる政府機関が設立された。この官庁は、シベリアを担当して、ヤサクの徴収と国庫への納入を監督し、行政、軍事を掌握するとともに、外交上の機能も有する重要な官署であった。

 

エルマックがウラルを越えてクチュム汗を居城から敗走させたのが1582年といわれているが、これは日本でいえば本能寺の変があり、秀吉が日本の統一を一応なしとげた年である。ロシアでも日本でも、封建的割拠から中央集権的国家樹立への過程が終りに近づき、さらに対外膨張に目が向きはじめていた。わが国では朝鮮遠征は失敗に終ったが、ボルトガル、オランダ、英国などの船がひんばんにやってきて通商が盛んになり、日本人もまた海外に進出を始めた時期である。このときロシアは南と東でモンゴル系・チュルク系の諸汗国と戦うとともに、西と北からはリヴォニア騎士団、リトワニア、ポーランド、さらにはスウェーデンなど西方諸国の圧迫を排除してようやく国内の統一をなしとげた。その後ロシアの宮廷は一貫して西方諸国からの脅成を主要なものとみなし、これと対抗することに全力をあげた。

 シベリアへのロシア帝国の進出は、もっぱら毛皮を求めて歩いた「無宿者」のロシア人たちの浸透のあとについて、官兵たちが砦(オストルグ)を築いてゆくという形をとった。専門の官吏がヤサクを原住民から取り立て、またその取得の権利をめぐつてジユンガル汗国、キルギーズなどの遊牧国家、さらに後には清国と対立していたとは言え、これら一過性の遊牧民族の襲撃のさいには、オストルグに立てこもって「嵐の過ぎるのを待つ」ことが多かった。但し、守備隊長は各地の情勢や地理情報を集め、克明にモスクワに報告することを重要な任務としていた。

 これらのオストルグを守備する兵力は多くの場合五十人から百人であった。兵士たちは毛皮税収立てのためにやってくる徴収人にはかなり冷たかったと言われる。シベリアに移住したロシア人たちは、「グリヤーシテエ・リュージー」とよばれたが、これは「放浪者」という意味である。シベリアの原住民は、時には反乱を起こしたが、多くのばあい、その背後には「官側」による毛皮税の取立を好まないロシア人たちの扇動があった。これはとりもなおさず「民間」ロシア人たちが、原住民と交易して得る毛皮の減少を意味したからである。このような場合、徴税吏たちの一団はいともあっさりと原住民にやられてしまった。守備隊長は、徴税吏が個人的な貧欲を発揮したためという報告を送るのが常であった。

 いずれにせよ、このような「放浪」ロシア人たちのシベリア東進の速度は驚くほど早かった。特に大きな意味を持っているのはレナ河への進出である。東の方に大きな河があるという情報は早くからロシア人たちに知られていた。実際にエニセイ河の支流をさかのぼり、レナ河にはじめて出たのは、パンテレイ・ピヤンダという男である。かれは仲間を集め、1620年にエニセイスクを出発し、三年がかりでヤクーツクまで探検し、1623年に帰還した.結氷期の冬営を除いては、彼らは一日に50キロメートル以上もレナ河を航行した。途中エニセイ支流からレナ河に出る時には、約十二キロメートルの「連水陸路」の雪の上を船を曳いて進んだ。あとはすべて、河上の航行であった。

 大体当時シベリアを「放浪」していた人々には「故あって」本名を名のらなかった連中が多かったと思われる。従ってロシアの歴史にも、彼はレナ河の発見者として記録されていなかった。ただ伝説があっただけである。ソ連料学アカデミー1968年出版の「大シベリア史」にも彼の探検の記述はない。しかし1966年にポレボイという学者が古文書のなかから、このピヤンダの実在の動かせぬ証拠を発見した。これはピヤンダが1643年にヤクーツクで10ルーブルを友人から借りたという証文であった。結局かれはこの探検にもかかわらず、何の金もうけもできなかったものと見える。エルマックとは大きな違いである.どちらも民族的英雄であることは間違いないのだが。アムール河探検の英雄ハバーロフも、今日ハバロフスクという極東第一の都市の名になっているが、彼もどこでどのように最後を遂げたかは明らかでない。モスクワで乞食になっていたという話もある。

 いずれにせよ、このような「平民英雄」たちを駆使してシベリアは征服された。レナ河の支流アルグン河をさかのぼれば、オホーツク海のすぐ手前まで出ることができる。さらにレナ河の河口から、あるいはアルグン河に近いインヂギルカ河から北氷洋に出ることもできる。この地域は品質の良い毛皮獣が豊富であったから、ロシア人たちはむしろこの方向を選んで、北氷洋沿いに東へ進んだ。

 

4.                   遂に東の大洋へ         

 

 1648年ヤクーツクのコサック、セミョーン・デジニョフは仲間とともに二隻の船に分乗して北氷洋からベーリング海峡を南に通過し、アナドゥィリの海岸に漂着した。フェドート・ポポフの指揮する他の一隻は、嵐のために行方不明になった。これは、ベーリングがこの海峡を調査した1728年に先立つこと実に六十年であった。

 

 徳川幕府は1639年鎖国令を出して日本人の海外進出を禁止した。このころすでにロシア人たちは日本の北方に定着しつつあった。日本とロシアは時期的に前後して封建的割拠状態を克服し、いわば統一した中央集権国家へ発展する前提条件を作りだしていたが、その後の発展の経過はかくもちがったものとなったのであった。四面海にかこまれた日本は、海を天然の防壁として閉じこもったが、他方ロシア人たちは、陸地を流れる大河を航行することによって大きく東方に根をはった。同じ水に縁の深い民族でありながら、この二つの対応はきわだって見える。17世紀は世界的な「大航海時代」のあと本格的に世界中に帆船が活躍した、いわば、本当の意味での「船の時代」であった。ロシア人たちもそれなりの「大航海時代」を独自のやり方で経過したのである。

このころのロシア人たちの使用した船はどんな船であったろうか。もっとも大きなものは、コーチという長さ約20メートル、積載量約20トン程度、一層甲板の一本マストの浅喫水の船といわれるから、和船でいうなれば、二百石から五百石積み程度のものと思われる。もっとも江戸時代の和船は、甲板を有することを幕府により禁止されていたから、コーチのほうが航洋性はかなりすぐれていたものと思われる。他に河川ではストルーグとかシーチクとか名付けられる無甲板船も用いられた。ロシア人たちは斧使いの名人であった。かなり最近までレナ河でも、至る所で船が住民たちの手で自作されていたという。

 コサックたちはは毛皮獣の多いところ、人間のあまり住まない北方の森林中を進んで来た。しかしそのあと農民たちがやってきて、耕作のできるところに定着した。かれらは、次第に南に農地をもとめて広がり、遊牧民族と衝突するようになった。農地が広がれば遊牧の土地が無くなるから両者の衝突は必至であることを、司馬遼太郎氏が「ロシアについて」のなかで指摘している。

 ここで、はじめて帝制ロシアの武力が意味を持ってくる。定着した農民たちを遊牧民族が襲撃する。「自由な」人々が森林のなかを歩きまわっているかぎりは、農民の定着なくしては、そこは近代的な意味での国家の領土ではない。17世紀未、シベリアのロシア人のうち44パーセントが農民であった。農民を相手にするいろいろな職業の人々を勘定にいれれば、17世紀末にすでにシベリアは、「狩猟と毛皮」の土地から農民の定着によるロシアの「領土」にかわりつつあったと言えよう。農業を知らなかった原住民も、次第にロシア人の影響のもとに農業の発展に加わり、定着するようになる。これが、また未だに遊牧の習慣に固執する部族との衝突を呼ぶという、複雑な過程がはじまった。オストルグを根拠とするロシアの官兵たちは、これを鎮圧する任務をおびていたが、なにしろ先に述べたような兵力ではどうにもならない。まがりなりにも「住民保護」ができたのは、原住民自体が種族ごとに反目していたことと、南の強力なキルギーズやジユンガル国家よりもロシアのほうがより「文化的」であり、原住民にとって「よりまし」なものであったからである。ロシアの「守備隊長」たちは、たいていの場合住民のなかに敵とおなじだけかそれ以上の味方を得ることができた。特にジユンガル汗国が清によって滅ぼされたときには、多くの住民や豪族がみずから求めてロシアの保護下にはいり、その代償として毛皮税を支払った。こうしてエニセイ河の上流サヤンの地はロシア帝国のものになった。数年前筆者がサヤンを旅行したとき、ガイドが「住民たちは自発的にロシアへの編入を求めた」と語ったのを聞いて「まさか」という感じをうけたが、その後ジユンガルの歴史を調べてまんざらウソではないことを理解した次第である。

 

 われわれ日本人にとってバイカル湖はシベリアの象徴のようなものであるが、17世紀前半のロシア人たちはそのそばを素通りした。前述のピヤンダも、パイカル湖のすぐそばまで来ていながら、目もくれずにアンガラ河を北へ下っていった。彼らには東に数千キロメートルも流れるレナ河、そしてそのまわりの森林に住む毛皮獣たちのみが価値を持っていたのである。彼らがバイカル湖に進出するのは、その北側のイリムに農業が定着してからであり、そしてバイカル湖のまわりでの狩猟と遊牧に従事していたブリヤート人たちがロシア人の農業を受け入れるようになってからであった。イリムにロシアの砦(オストルグ)ができたのは、1630年であるが、そこから約500キロメートル南のバイカル湖の近くのイルクーツクにオストルグができたのは、三十年後の1661年である。ロシア人たちが太平洋沿岸の最初のオストルグであるオホーツクを1642年に築いたのにくらべても、かれらの「南進」ぶりがいかに遅かったかがわかる。

 極東でもっとも開けているアムール河にロシア人たちが進出するのは容易なことでなかった。ここに進出したのは、毛皮獣を求めて太平洋に達したかつての無政府主義的な「グリヤーシチエ・リュージー」ではなく、土地を求める本能に導かれた農民たちであった。そして、ここでは、本格的な清国との衝突が待ちかまえていた。これに対応することは、ピョートル大帝の改革を経た十人世紀のロシア帝国でなければできない事業であった。

 そして、このピョートル大帝の遺命にもとづいて、ロシア人たちは「北から来た黒船」として、鎖国日本の扉を叩くにいたるのである。

 

5.                   清国との衝突、アムール問題の発生

 

ロシア人たちは、17世紀後半アムール流域に進出するやいなや、ただちに当時新興の清朝の勢力と衝突しはじめた。これはかれらがシベリア征服を開始していらいはじめてぶつかった強力な相手であった。

 清囲との衝突はアムール河の航行権をめぐるものであり、いわばそれまでのロシア人のシベリア進出において有利に機能した「河をもって陸を制する」メカニズムを真正面からブロックしてしまうものであっただけに深刻であった。さらに18世紀から19世紀にかけて、アムール河の航行なくして.はオホーツク海沿岸からカムチャツカ、さらには北米のロシア領の維持も保障できないことが痛感されるようになり、ここにアムール河は200年間にわたりロシアにとって極東問題の焦点となるにいたった。

 

 1643年ベケートフによってヤクーツクの砦(オストルグ)が創設され、ロシアの極東進出の中心となった。1639年モスクヴィーチンを隊長とするコサックの探検隊はレナ河支流から山を越えてはじめてオホーツク海に出た。彼らは600キロメートルにわたってオホーツク海沿岸を探検し、そこにすむギリヤーク人たちから毛皮税(ヤサーク)を徴収して帰還した。

 1643年ヤクーツクの長官ゴロヴィンの命によりポヤルコフを隊長とするコサック兵130人からなる探検隊が南方に向かい、スタノヴォイ山脈を越えてゼーヤ河流域に入り、そこで大麦、燕麦、そばなどを栽培しているダウル人たちの集落を発見した。ロシア人たちが東シベリアに入って以来農業を営む住民とのはじめての出会いである。ポヤルコフ達は1644年にアムール本流に入り、沿岸にすむ住民から毛皮税を取り立てながらアムール河口に達した。

 ポヤルコフのあとをうけて、1650年ハバーロフを隊長とするコサックたちがアムールに向かった。ハバーロフ隊はアムールを下り、1652年三月ウスリー河との合流点の付近で「ボグダイ軍」の襲撃をうけた。これは清国の軍隊であったが、ロシア側ではその正体を誰も知らなかった。その後、「ボグダイ」が他ならぬ清国であることが判明してからは、ロシアでは清国皇帝は「ボグダイ汗」とよばれるようになった。

 他方、モスクワはこれとは別に17世紀中ごろから中国との外交関係樹立を計画しており、1654年北京にはじめて使者を送った。バイコフを大使とするキャラバンは二年かかかって北京に到着した。清国はモスクワの使者に叩頭の礼を要求したが、バイコフはこれを拒否し、これが障害となって遂に何の成果もなしに帰国する結果となった。このとき清国側は、「露国の皇帝は親善をもとめてきたが、他方でその軍隊は清国の領内に攻め入っているではないか」と詰問した。北京とアムールの地理関係さえよく知らなかったバイコフはこれに答えることができなかった。

 ハバーロフは、1654年にアムールを離れた。コサック達の反乱により追放されたとも、またモスクワに呼ばれて褒章を受けたとも伝えられるが不明である。ハバーロフの墓の所在も不明であり、その「発見」が伝えられるが論争の的となり、格好のニュース種となってソ連の新聞雑誌をにぎわすことが多い。その後アムールのコサック軍は1658年ウスリー河上で清軍により壊滅させられた。

 

 こうしてはじまったロシア人たちのアムール浸透はその後も粘り強く進められた。時あたかも清朝は第四代の康熙帝の治世であり大いに意気のあがった時期であった。これにたいしてロシア側の進出の主力となったのは政府権力ではなく、自由と土地を求める農民たちであった。片やロシア宮廷では、摂政ソフィアが外交一切を愛人ゴリーツィンに任せきりで、とてもシベリアまで手がまわらなかった。逃亡民達が中心になって形成されたアムール河畔のアルバジン砦は、1685年六月から87年八月まで清軍の包囲にあって英雄的に抵抗し、遂に清軍に包囲を解かせた。しかし1689年ネルチンスクで行われた外交交渉で、清国は戦場の敗北を交渉でとりもどそうと、上手に立ち回った。ロシア側からは宮内官ゴロヴィンが代表となったが、清朝は外交官ソンゴトウとともに数千の軍隊、数百隻の軍船を送った。会談がはじまるやいなや、三千の清国軍がネルチンスクを包囲した。他に多数の軍隊が周辺地域に布陣した。これにたいするロシアの守備軍は千五百であった。おまけに清国軍は周辺住民を買収して味方につけた。宮廷のかけひきしか知らないゴロヴィンはわずか二回の会談で腰くだけになり、清軍の威嚇に屈して、アムール河の放棄を定めたネルチンスク条約を調印した。北京では盛大な祝賀行事がおこなわれた。

 このあと清国はジュンガルの征服に力を注ぎ、アムール地域からは事実上撤退した。清国はこの地域を積極的に経営するのではなく、ロシアとの緩衝地帯として放置することを利益とした。ロシア政府は西ヨーロッパ正面と南方における戦争に追われて、清国を刺激することを避け、アムールに手を出そうとはしなかった。18世紀中葉までアムールは政治的には真空地帯となった。

 この間に、ロシア人たちはカムチャツカからアジアの最東端まで勢力を伸ばしていた。すでに1648年にはデジネフがアメリカ大陸とアジア大陸の間の海峡を北から南に通過していたが、このことはモスクワでは知られていなかった。モスクワの宮廷が当時関心を持っていたのはシベリアから国庫に納入される毛皮税のみであった。ネルチンスク条約で広大なアムールの土地を放棄したことも、それにより毛皮税の収入がどれだけ減るかという観点からしか評価きれなかった。

 

6.                   ピョートル大帝の大戦略

 

 18世紀初頭、ひとりピョートル大帝だけが飛び抜けた洞察力を発揮した。彼は1725年、その死の三週間前に寵臣のナルトフを呼び、カムチャツカで船を建造し、ロシアの東がアメリカとつながっているかどうか確認するようにという命令書を作成させた。そのあとアプラクシン海軍元帥を呼び寄せ、「長い間気にかかっていたことであるが、いままで忙しさに取り紛れて実行できなかったことがある。北氷洋を通って中国やインドに行ける航路があるかどうか調査しなければならない。このことは国防上も重要であるが、さらに文化と科学によりロシアの名声を高めることに寄与するであろう。アメリカを熱心に探検したイギリス人やオランデ人にロシア人が劣ることがあろうか」と言ったという。他の貴族たちが清国との関係さえ満足に理解できなかった時代に、ピョートル大帝の目は日本とアメリカに注がれていたのである。

 こうしてシベリアから極東地域、さらにはアメリカ大陸にまでおよぶ広大な地域と水域の科学的調査と探検が1743年まで断続的に続けられることになる。有名なベーリングを隊長とする第一次・第二次「カムチャツカ接検」を軸とする多くの探検や調査が行われた。シュパンベルグを指令官とするロシア艦隊がはじめて日本を訪れたことも、この巨大プロジェクトの一部である。

 この時代以後のシベリア・極東の探検の歴史は、日本との通商の途を開くことが、ロシア側の目標に入ってくるので、わが国でも割合よく紹介されている.ここで重複した叙述は避けることにするが、この時期の探検を考察するばあいの視点ともいうべきものを以下にあげておきたい。 第一は、これ以後の調査と探検は、ピョートル大帝の大戦略に基づき、近代的な国家の事業となったことである。

 次に、調査の重点が、ベーリング海峡の探査から北米への航路の開発、日本との通商関係樹立の可能性の調査、北氷洋航路の可能性の調査など極めて多方面にわたるものであったことに注目する必要がある。また各種の専門の多くの学者がシベリアを横断して極東に出掛けたため、シベリアの地理、民族、気候、文化、歴史などに関する知見がきわめて豊富になったことも非常に大きな収穫であった。このように大きな科学的調査が国家的事業として行われたことは当時の世界にも類を見ないものであると言えよう。

 第三に、以上のような規模にもかかわらず、アムール河に関してはその河口の調査が行われただけであった。これはロシア政府が清国を刺激することを非常に恐れたためである。同様の理由で、北米航路の開発をも含め、シベリアと極東に関しては、すべての学問的成果も探検記録も、対外的には公表きれなかった。

 

 そもそもロシアと清国の接触が開始されたときにおいては、双方とも領土に関する観念は極めて幼稚であった。ロシア側は基本的にヤサク(毛皮税)の課税でもって領土主権の指標としたのに対し、清図の側は「中華」概念を継承し、貢納をおさめる国を自国の属領とみなした。このような二つの国家がはじめて国境策定をおこなったネルチンスク条約は、両国の勢力の衝突点において境界を定めたのみであり、その他の広大な部分、例えばアムール下流の国境は未確定であった。

 

7.    ムラビヨフとネヴェリスコイ 

 

 1847年ニコライ・ムラビヨフが東シベリア総督に就任した。彼は出色の政治家で、就任した翌日から腐敗したシベリアの官僚たちを片端からクビにして行政に活をいれた。しかし彼の最大の事業は、150年間にわたって停滞していたロシアの極東政策を180度転換させ、実力でアムール問題を解決し、現在のロシア・ソ連の極東における領土の枠組みを確定したことであろう。

 18世紀に入って極東水域に西欧諸国の船舶が出現した.1776年から79年にかけてクック船長の指揮する英国艦隊が北米の太平洋沿岸を航海し、すでにロシア人が入植していた地域や島々の「発見」を宣言し、カムチャツカを「探検」した。1787年ラぺルーズのフランス艦隊が宗谷海峡からサハリン周辺を探検した。米国の捕鯨船はオホーツク海を絶好の漁場として荒らしまわりはじめた。

 西欧諸国は、対中貿易におけるロシアの独占を打破してしまった。それまで、中国との交易はキャフタを通じてのみ行われ、ロシアはこの利益を一人占めしていた。広東貿易の開始は、海路を利用する欧米諸国の競争力を大幅に強化した。さらに19世紀に入って、英国は武力で中国を侵略しはじめた。フランスはインドシナに進出した。

 これらすべては、従来ロシアと清国の二国間の関係に限られていたアムール問題に新しい要素を持ち込んだ。なによりもロシアの海軍力が劣勢であったため、極東から北米にかけてのロシア領に西欧諸国が攻撃をしかけた場合、これを守ることは極めて困難であった。アムール周辺の領土は清国との共有であったため、清国が欧米諸国に屈してこれを譲渡した場合、ロシアが非常に困難な立場におちいることは目に見えていた。

 

一方、ロシアはトルコとの関係を巡って英仏両国との対立が激化し、極東問題に関しては、外交をとりしきっていた宰相ネッセリローデは、旧態依然として清国を刺激しないことのみに汲々としていた。

 新任のムラビヨフは、極東のロシア領にたいする欧米諸国の側からの脅威を誰よりも良く理解していた。また清国が「張り子の虎」になってしまい、今度はロシア側が清国にたいして「実力外交」に出るべき順番がまわってきたことも洞察していた。彼は中央政府の意向に反して、アムール問題では積極策をとった。海軍大尉ネヴェリスコイが輸送艦「バイカル」をクロンシユタツトから極東に回航するにあたり、彼と語らって、カムチャツカへの輸送任務が終り次第アムール河口の調査をすることにした。ただしネッセリローデの同意を得ることは出航までには困難であったため、ムラビヨフが皇帝の勅許を得てネヴェリスコイに届けることになっていた。

 ムラビヨフはアムール地域の探検にたいする皇帝の許可をとりつけた。これはピョートル大帝のカムチャツカ探検以来の大がかりな極東の探検を組織する権限をムラビヨフに与えるものであった。ネヴェリスコイにたいしてはメンシコフ海軍大臣が命令書を発行した。ムラビヨフは1849年いままでの東シベリア総督の誰もやったことのない極東地方の視察の旅を行った。彼はこの時に自らカムチャツカのペトロバヴロフスクで命令書をネヴェリスコイに手渡そうとしたが、途中悪天候に阻まれて彼がカムチャツカに到着したのは七月の中旬であった。

 いっぽうネヴェリスコイはすでに五月の初めにペトロバヴロフスクに到着していた。北方の夏は短い。ムラビヨフと命令書を待っていたのでは探検は不可能になる恐れがある。ネヴェリスコイは艦内の士官全員の支持署名を得た上で独断で出航してしまった。これは海軍軍人としては通常なら許され得ない行為であったが、その結果彼はサハリンが従来考えられていたような半島ではなく、島であること、アムール河口は外洋船舶の航行が可能であることを確認した。

 ムラビヨフはペトロパヴロフスクの防備陣地の配置を指揮した上で、予定を変更してオホーツク海南部アムール河口にちかいアヤンに向かい、八月31日ようやくネヴェリスコイをつかまえ、命令書を渡すことができた。ネヴェリスコイのもたらした情報はムラビヨフにとって期待を上回る貴重なものであった。報告と地図はただちにペテルブルグのメンシコフに送られた。そしてその後のロシア帝国のアムール政策の基礎に据えられた。同時にこの発見は第一級の秘密とされた。

 ネヴェリスコイは独断行為の故をもって発見の功績にたいして与えられるべき終身年金を剥奪された。しかし同時に中佐に昇進した。そしてムラビヨフの推挙により、「中佐の肩章もつけないうちに」大佐に昇進した。ムラビヨフとネヴェリスコイは河口近くのアムール河上に1850年哨所を設け、皇帝の名前をとってエコラエフスクと名付けた。

 これらの行動は清国との関係悪化をおそれるネッセリローデの反対を呼んだ。ムラビヨフはペテルブルクへ上京してこれに対処しなければならなかった。ネツセリローデが議長となって開かれた特別委員会でムラビヨフは敗北し、ニコラエフスクの撤去とネヴェリスコイの罷免が決定された。ムラビヨフは皇帝に直訴して巻きかえしを図った。今度は皇太子アレクサンドルが議長となって開かれた委員会でこれらの決定はすべて取り消され、ムラビヨフの行動が承認された。皇帝ニコライはこのとき「一度朕の国旗が掲げられた土地からは、二度とそれを降ろしてはならない」と言ったという。宮廷工作ではムラビヨフは非常に有利な「つて」をもっていた。それは彼が15歳のとき皇帝の妹のエレナ・パヴロヴナの待従としてそのキヤりヤーを始めたことからきている。このムラビヨフの宮廷における強さはその後もたびたび発揮されることになる。

1853年にはじまったロシアと英仏両国の間のクリミア戦争は、極東のロシア領にとって最大の危機であったが、同時にムラビヨフが活躍する絶好のチャンスを与えた。彼は清国の同意を待たず多数の船舶にコサック兵を満載してアムール河の全流域を航行きせ、河口に軍事基地を建設した。きらにそこから日本海にのぞむデ・カストリとカムチャツカのペトロバヴロフスクに援軍を急派した。ムラビヨフはいまや清国にも、またネッセリローデにも拘束されず実力行使に出た。これもまた極東の防衛にたいする全権を皇帝から直接得ていたからであった。

 18548月英仏艦隊はペトロバヴロフスクに襲来したが、既に増援を得ていたロシア軍は上陸部隊を海に追い落とした。デ・カストリを攻撃した英仏艦隊もまた撃退された。勇猛をほこる英国ジブラルタル歩兵連隊の軍旗がペトロバヴロフスク守備隊によって奪いとられ、首都に送られた。負け戦つづきのクリミア戦争のなかで、この勝利はロシア朝野の熱狂を呼んだ。

 ムラビヨフはただちに各地の守備隊を増援し、翌年さらに勝利を重ねようとした。しかしここで思いがけない事件がおこる。彼がコンスタンチン大公からうけとったのは「ロシアの極東における軍事力は限られており、防衛の難しい拠点から撤退して、アムール河口に兵力を集中してはどうか」という丁重な勧告であった。これは同時にネヴェリスコイの意見でもあった。ネヴェリスコイとコンスタンチン大公とは、海軍兵学校で親しい関係にあった。

 英仏側は、ラぺルーズの誤った調査によりサハリンが大陸と陸続きであると考えていたために、宗谷海峡を封鎖してロシア艦隊の脱出を阻止しようとしたが、ロシア艦隊は間宮海峡を通過して無事アムール河口に撤退した。翌年再び英仏艦隊がデ・カストリを攻撃した時、そこはもぬけの殻であった。現地の地理に明るいロシア軍は、集中した戦力をもって戦略的に最も重要なアムールの防衛を全うした。軍事的にはネヴェリスコイが正しかったと言えよう。

 しかしこれはムラビヨフの気に入らなかった。世間では極東ロシア軍の成功は、撤退作戦まで含めてムラビヨフの功績にしていたが、ムラビヨフは、ネヴェリスコイを閑職に移し、間もなく極東の人事をすべて自分の思いどおりに動かせるイエスマンで固めていった。ムラビヨフもネヴェリスコイもともに自らの判断と情熱でアムール問題に取り組んできた同志ではあったが、所詮二人は並び立つことの出来ない存在であった。

 ロシア軍がアムール航行によって事実上この地域を制圧した事実をうけて、1855年九月からムラビヨフは清国との間に国境確定の交渉を開始した。

 

 1855年ニコライ一世が死去し、アレクサンドル二世が即位した。翌1856年ロシアの屈辱的敗北をもってクリミア戦争は終結した。責任をとってネツセリローデをはじめロシアの政府首脳は更迭し、ゴルチャコフが内閣を率いることになった。この政変はムラビヨフにとってはまさに追い風であった.アレタサンドル二世とゴルチヤコフはともにムラビヨフを支持して東方にたいして積極策をとった。

 1857年、プチャーチンが清国との交渉の全権大使に任命された。これはロシア新政権の積極方針のあらわれではあったが、いままで対清関係の推進者を自任してきたムラビヨフは甚だ不満であった。ムラビヨフはペテルブルグに帰って東シベリア総督職の辞任を願いでた。これは彼一流の反撃の開始であった。予想のごとく皇帝は辞任を許さず、彼を侍従武官長に昇進させた。侍従武官長は、皇帝の口頭の意向を政府に伝える権限を持つものとされている高い地位である。皇帝の信任を背景にムラビヨフは対清国境交渉の権限を自分に与えるようゴルチヤコフに要求した。ゴルチャコフはこれを「黙認する」ことを承諾した。これ以後清国との交渉は、北京におけるプチヤーチンと極東現地におけるムラビヨフの二つのルートを通じる「二頭交渉」の形となった。

 

8.    アムール問題の解決から対日交渉へ

 

 1856年英国は清国に対し第二次アヘン戦争を開始し、フランスもこれに加わった。今度はこの戦争が英仏艦隊によるアムール攻撃の口実になる危険が生じた。ムラビヨフは、米国資本にたいしアムール地域を自由貿易区域として開放して英仏を牽制するとともに、国境確定交渉を急いだ。

 1858516日、わずか二十日間の交渉でムラビヨフが清国に呑ませた愛琿条約が調印された。これにより、アムール左岸はロシア領とし、アムール・ウスリー両河と太平洋の間の沿海地域は露清両国の共同所有とすることが合意された。一方のプチャーチンはこの事実を知らないで北京で交渉をつづけ、185861日天津条約を締結した。

 永年のアムール問題を有利に解決して、今度はロシア側が大々的に祝賀行事を行うこととなった。ムラビヨフの指揮するロシア艦隊は愛琿の対岸にあるロシアの拠点に意気掲々と引き上げ、この町をブラゴベシチェンスク(善き知らせの市)と改名し、大々的に祝賀ミサを行った。チタでもイルクーツクでも祝賀・祝宴が続いた。八月二十六日ムラビヨフにたいする皇帝の褒章がイルクーツクにとどいた。彼は伯爵を授与され、ムラビヨフ・アムールスキーという姓を賜わった。1859年清国におけるロシアの外交代表はイグナーチエフにかわった。ムラビヨフにとっては目ざわりな存在であったプチヤーチンとは違い、ムラビヨフとイグナーチエフの関係はきわめて良好であった。イグナーチエフが北京に赴任するときムラビヨフは彼をキヤフタまで見送った。1859年ムラビヨフは極東沿海地方の周航をおこない、この途中二度にわたり日本に来航してサハリンの境界交渉を行った。その間に彼は中国の天津付近にいたり、英仏軍の侵略状況を視察した。1860年英仏軍は北京を占領した。ロシアと米国は中立を保った。清朝の恭親王は占領軍との交渉仲介をロシアに依頼した.イグナーチエフは、ロシアの未解決の「正当な要求をかなえること」を条件として仲介を引き受けた。その結果186011月北京条約が締結され、その第一条にロシアによる沿海地域の領有が定められた。ムラビヨフはすでにそのときウラジオストツクの建設に着手していた。

 この条約により、半生をかけたアムール問題解決の事業を達成したムラビヨフ・アムールスキーは1861年退官して、余生をパリで送った。

 アムールをめぐる歴史は、ロシアの劣勢という条件のもとで始まった。ネルチンスク条約でロシアはアムールから締め出されたが、広大な地域の国境は未確定のまま残った。ロシア側は、力関係が逆転するまで150年にわたって待ち、その間、清国を刺激する行動を一切とらず、まさに「隠忍自重」の末、最後になって一気に自己の要求を貫徹した。しかもこれを欧米諸国にたいする軍事的劣勢のもとで行った。経営不可能な露領アメリカは放棄したが、極東においては、ムラビヨフの時代に作り上げた骨組みが、今日においてもそのまま残り、機能している。これは地図の上の領土の問題だけではない。極東の国際間題に対処するかれらの基本的な考え方もほぼこの時に確立されたものであるといってよかろう。

 

 ロシア人たちが清国の次に重視したのはアメリカと日本であった。シュパンベルグたちが最初に日本に到着したとき、かれらはこの国が今までシベリアで出会った諸民族や国家とは全くことなる高い文化経済水準を有する国であることを即座に理解し、そのことを報告した。その後彼らが北方に進出すればするほど、日本との交易が必要であることをかれらは痛感した。ロシア人たちが日本を征服の対象と考えたことは一度もなかった。ムラビヨフはサハリン全島をロシア領と認めるよう日本に要求したが、日本がこの土地にたいして請求権を有するという前提のもとに交渉を行った。このようなロシア側の基本的態度の線上に、のちに1875年(明治8年)に両国間に千島樺太交換条約が締結されるにいたる。

 ムラビヨフが来日中に、彼の艦隊のロシア士官が殺傷される事件が発生したが、彼は、当時日本在留の欧米人たちの「期待」に反して、日本側に対して報復行為にも出なければ賠償要求も行わなかった。彼は「ロシアは自国臣民の血を売らない」と声明して、偶発的事件と、両国間の重要問題をからませるつもりはないことを明らかにした。

これは、対清交渉ならびに欧米列強との対抗のためには日本との友好関係の確保がロシアにとって有利かつ必要であるとの彼らの基本的認識を物語るものである。

 

 ロシアがピョートル大帝の時代から日本を念頭において行動してきたのと同じように、日本もまたロシアとのかかわりを考えずして存在することはできない。日本人がロシア人を理解するカギのひとつは、アムール問題の歴史と現状の理解にあるように思われる。

 大陸を流れる水は、日本人の愛する「清流」ではない。「清濁併せ呑んだ」、濁った水である。多数の船舶が係留され、またさかんに行き交うハバーロフスクの河岸に立ち、河上のにぎわいを見るとき、この大きな河がロシア人たちの生活と、経済と、そしてその歴史にもつ大きな意義が理解できよう。いま、新潟からわずか2時間でジ土ツト機は観光客をハバーロフスクに運んでくれる。地平線まで広がったアムールの、雪解けの濁流をみながら歴史を考える余裕が、日本人には必要なのではなかろうか。