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OISTRAKH CHRONOLOGICAL HISTORY


 以下は私(佐々木)があるメーリングリストに投稿した文書をもとに手直ししたものです。
投稿した順番が年代順ではなかったので、文章がつながらない部分もあります。参考文献は『奇跡の演奏家/オイストラフ』(毎日新聞社1968年刊)です。


 この本はオイストラフの来日に向けて翻訳されたようで、訳は優れていますが、年代や人名などの一部にわかりにくい箇所もあり、様々な出来事が入り組み、やや整理しきれないまま出版されたような感じです。(私も仕事が編集者なのでなんとなくわかるのですが、未整理のまま無理矢理来日に間に合わせたのではなく、むしろ記述は非常に正確で、調べたいやつは自分で勝手に調べろという頑固な不親切さに満ちた本だなぁと思います)。
 1908年9月30日に生まれたオイストラフですが、ひところLPのLinerNotesでは生年月日が分からなかったり、今とは違う日付けだったり、ヴァイオリンを始めた年齢などもまちまちでした。オイストラフが謎めいて見えた当時、本書は大きな役割を果たしたわけです。現在もオイストラフの資料は豊富とはいえず、本書の役割はますます重要になっていると思います。
 著者はI・M・ヤンポリスキーというモスクワ音楽院ヴァイオリン科の教授です。著者の叔父(または伯父?)もまたヴァイオリニストで、アラム・イリイチ・ヤンポリスキーといい、オイストラフとゆかりの深い人物です。(ピアニストのウラジーミル・ヤンポリスキーとは別人)。
 翻訳した加藤潔(きよし)さんも高名なヴァイオリニストで、第3回のチャイコフスキー・コンクールに審査員として招かれています。 
 以下はデビュー前のオイストラフを知るのに基本的な手がかりとなるエピソードを、本書やまた他の本から寄せ集めたものも含め紹介するものです。

オイストラフ/17歳以前

 17歳の春、オイストラフは「オデッサ音楽演劇専門学校」を卒業しました。オイストラフはこれ以降、どこの学校にも入学しません。師のスタリャルスキーにはさらに2年ほど学びますが、以後独学です。
 卒業試験はプロコフィエフの協奏曲1番、タルティーニの「悪魔のトリル」、ルビンシュテインの「ヴィオラ・ソナタ」の3曲でした。
 もちろんオイストラフはヴィオラも弾けました。4年制のこの学校で彼は3年間をスタリャルスキーのクラスで過ごしました。もっとも5歳の時から無料でスタリャルスキーに習っていたので、学校で彼に習うのも、まぁ当然の成りゆきだったのでしょう。学内オーケストラに参加したオイストラフはヴィオラにまわされました。これはスタリャルスキーの教育方針だったようです。推定13歳のオイストラフには、ヴィオラは大きすぎ、指が届かなかったようです。また「夢にアルト記号が出てきてうなされた」とオイストラフ自身、回想しています。
 1913年ごろ、5歳のオイストラフはスタリャルスキー校長の私立音楽学校に入学しました。これが無料だったのは1917年にロシア革命が起こる前夜だったため国中が貧困に満ちていたからです。革命後、スタリャルスキーの教育方針は革命政府に受け入れられ、地位が向上したようです。そのことをオイストラフは自分のことのように喜んだでしょう。とりもなおさずスタリャルスキー自身からそのような教育を受けていたからです。
 7歳の(???)オイストラフ自身の記憶によると、5月1日にスタリャルスキーは生徒たちを集めヴァイオリンに赤いリボンを結んで「ラ・マルセイエーズ」を演奏行進させました。朝の6時から、オデッサの街中を行進したそうです。まったく師匠の意のままに動く軍楽隊のようなものですね。(帝政時代『マルセイエーズ』は演奏禁止曲でした)。
 オイストラフの他にも先輩ミルシュテインなどがいたと考えられます。またリヒテルなど他のオデッサ出身の音楽家は似たような体験をしたかもしれません。後輩たち(ヴァイオリンのエリザベート・ギレリスElizabeth Gilelsやボリス・ゴリドシュテインなど)も少なからずスタリャルスキーの影響を受けました。
 自分たちも革命に参加したという意識が、この7〜9歳の時期のオイストラフに植え込まれたと考えられます。(ときどき勘定が合わない年齢表記が登場します。そういう箇所は「?」マークをつけています)。

オイストラフ/18歳

 たぶんオイストラフのちょっとしたデビューは1923年15歳のときのようです。これは発表会程度のものか、もう少し規模の大きいものだったようです。
 ひとつは「公開学生演奏会」なるもので、今一つは「オデッサの一般公開コンサート」です。

幼い頃、オイストラフはこのオデッサの劇場の舞台袖でオペラに
夢中になったそうです。母親がこの劇場のオペラ歌手だったこと
もあり、オデッサのオーケストラのヴァイオリニスト、スタリャ
ルスキーとは家族ぐるみのつきあいだったそうです。
上2点の写真は(c)石川顯法「写真で見るロシアと旧ソ連の国々」
より拝借しています。ロシア旅行を計画中の方、必見のサイト!
 

 初めての演奏はベートーヴェンのソナタ7番でした。このときの演奏について「音楽的対話の術を身につけ、モノローグの名手」であるとの評が残っています。
 また15〜16歳にかけてのレパートリーは、バッハの協奏曲1番、悪魔のトリル、サラサーテの「ジプシーの旋律」などで、16歳で「リサイタルを開きオデッサの人々に共感を持って迎えられた」という記録があります。チャイコフスキーやグラズノフの協奏曲もこのころレパートリーに加わりました。(以上は1924年以前のことで、彼が本格的なリサイタルをモスクワで初めて開いたのは1929年です)。
 1925年、専門学校の生徒たちは演奏旅行に出かけ、1日1ルーブルの小遣いをもらいました。17歳のオイストラフは全部アイスクリームに遣ってしまったそうです。
 このころ、オイストラフはプロコフィエフの六重奏曲を聞き、彼の音楽に接近します。当時ヴァイオリン協奏曲1番は、まだ遠くモスクワで初演された直後で、モスクワから来た演奏家たちの間で賛否両論があったそうです。録音もないままオイストラフは楽譜を取り寄せ、聞いたこともない曲を、卒業演奏のプログラムに決めたわけです。(けっこう新しもの好きですね)
 オイストラフ18歳、つまり1926年、作曲家プロコフィエフがオデッサでピアノ・リサイタルを開きました。「自分の音楽にはいかなる修飾も必要としない」とプロコフィエフは主張しているように、オイストラフには感じられたそうです。
 リサイタルの後、「学者の家」という場所で「祝賀晩餐会」が開かれました。「学者の家」というのはソ連邦らしい言い方で、つまり「サロン」にほかなりません。(オイストラフは後に、フランクのソナタを「サロン音楽だ」と発言し、リヒテルと対立したそうです)。
 オイストラフはプロコフィエフの協奏曲の中からスケルツォを弾きました。オデッサ社交界の花形たちの万雷の拍手を浴びましたが、貴賓席のプロコフィエフは拍手をしなかったそうです。彼は舞台に上がってピアニストの席に座り「君、君の弾き方は間違っている」と指摘しました。

Live On The Net Chess SitesOistrakh and Prokofiev
 
 それからおそらく10年以上後のこと、二人はチェス仲間としても親しくなっていたのですが、このときのことが二人の間でふと話題になりました。プロコフィエフはオデッサでのプログラムやアンコールの数までよく記憶していました。そして彼自身の言い方によれば「その晩、私にこっぴどくやっつけられた不幸な若者」がいたことも、プロコフィエフはよく覚えていたそうです。オイストラフは「それは私のことです」と告げました。プロコフィエフは「えっ、いったい、あなたは何をおっしゃる!」とあわてまくったそうです。
「弾き方が間違っている」とプロコフィエフから自分の音楽の特色を教わった、1926年はオイストラフにとってそのような年でした。そのような年があり、翌年、キエフのグラズノフの滞在するホテルまで訪ねて、公園でのデビューへと至るわけです。

リヒテルのビデオ『謎』より


オイストラフ/19歳

 1927年の夏、スタリャルスキーの入念な指導を受けた後、オデッサからウクライナの首都キエフに向かいました。キエフのホテルに滞在していたグラズノフに招かれたのです。部屋に入るとき、オイストラフは足が震えたそうです。
 グラズノフのピアノ伴奏で彼のコンチェルトを2曲(!)弾き、数日後、作曲者の指揮で2曲の(!)協奏曲をキエフ市内の公園で多くの聴衆に披露したそうです。
 これがオイストラフのデビューといってよい最初のイベントのようです。
 この年、オイストラフはオデッサ交響楽団のコンサートマスターになっていて、なにかスタリャルスキーの関係する小さなコンサートに出ていたのだろうと、推測されます。これがキエフの著名なピアニストの目にとまり、グラズノフのもとへ招かれるきっかけになったそうです。(推測ですが、オデッサはキエフに比べてとても田舎だったようです)。
 座ったまま指揮をしたグラズノフは、オイストラフが考えたよりゆっくりしたテンポをとったそうです。オイストラフはこのテンポのとり方にかなり心を動かされたらしく、後にこの話を語り継いでいます。
 当然、最初の大きなイベントとして忘れがたかったのでしょう。オイストラフの、ゆっくりとしたというかゆったりしたテンポの作り方は、このグラズノフから学んだ結果のようです。
 キエフのオケは、このグラズノフの指揮で「速いパッセージでも歌って」いたと、オイストラフ自身が語っています。
 これはまるで、ハイフェッツと比べた場合のオイストラフの特徴そのものではないかと、私などは思ってしまいます。
 そのすぐ後、グラズノフとオイストラフはオデッサでも共演します。このとき協奏曲の1曲はM・ポリヤーキンが演奏しています。後にライバルとなった二人のおそらく最初の出会いのようです。ライバルといっても仲はよかったようで、後のモスクワでの騒ぎは周りが焚きつけたもののようです。


オイストラフとヌブー

 オイストラフのモスクワ・デビューは1929年です。この直前、モスクワ派とオデッサ派のヴァイオリンの優劣について「激しい」論議が沸騰していたそうです。これはオイストラフについてではなく、オデッサ派で少し先輩のフレールとザトゥロフスキーのモスクワでのリサイタルが話題の中心でした。モスクワ派がややアカデミックに偏った演奏をしていたのに対し、オデッサ派の二人のリサイタルはどちらかといえば自由奔放で、「むき出しの生の情感にあふれていた」とヤンポリスキーは書いています。
 オイストラフのモスクワ・デビューはそのような論議のさなかに開かれ、火に油を注ぐこととなったようです。
 その前に1928年レニングラード・デビューがあり、好評を博しています。この年、オイストラフはモスクワに移り住みます。19歳(たぶん)のオイストラフは、ボリショイ劇場オーケストラのコンサートマスターに推薦されますが、これを断ります。モスクワ音楽院で勉強を続けるよう忠告もされますが、これも断ります。
 この結果「スタリャルスキーに習い、その後だれの生徒にもならなかった」ということになったわけですね。オイストラフにとって重要な選択の年、それが1928年だったわけです。
「だれの生徒にもならない」ということは、単なる偶然ではなく、オイストラフにとっては強い確信でした。この年ウクライナで10回のリサイタルを開こうとしましたが、チケットは一枚も売れず、9回のリサイタルが中止になったそうです。理由は「事務所のアレンジが悪かった」とだけあります。しかし、たった1回だけ開かれたリサイタルの結果、ウクライナ人民教育委員(という人、なのか組織、なのか分かりませんが)と以後演奏契約を結んだそうです。
 モスクワで様々な誘いを断ったオイストラフは、ゲリツェルというバレリーナの伴奏をしました。また女性ポピュラー歌手の伴奏もしたそうです。
 余談ですが、私が見たソ連の民族音楽ビデオでは、ポピュラー歌手というのはたぶんロマ(ジプシー)の一座のようなものと推測されます。わざわざ「女性」ポピュラー歌手とあるので、この当時にどんなポピュラー歌手がいたか想像もつきませんが、ロマといえば女性歌手が歌い、後ろにヴァイオリンの伴奏がつくスタイルが多かったようです。私が見たビデオでは、歌詞は非常に女々しく扇情的で、女性歌手はたいてい真っ赤なドレス、けばけばしい口紅、そして黒髪、濃い眉毛といった感じでした。踊りはまるでフラメンコで、中央アジアから流れ来たジプシーがなぜ? という感じです。
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写真準備中(上のリンクはロシア語の検索サイト)
 
 バレリーナに歌姫、なかなか華やかなことになってきました。しかし二十歳を迎えたその年の10月10日のレニングラード・デビューは大成功のうちに終わったそうです。
 翌1929年、モスクワで初のリサイタルが開かれました。ヘンデルやドヴォルザークなどの技巧的な小品が並ぶプログラムだったそうです。
 1930年、全ウクライナヴァイオリン・コンクールで優勝しました。審査員はコーガンという人で、たぶんレオニード・コーガンの父親かおじさんか親戚筋でしょう。このときコーガンの許に集っていた有能なヴァイオリニストにM・ポリヤーキンがいました。以前にグラズノフと公園で演奏した1927年より後、オデッサでポリヤーキンに会っています。このときグラズノフの2曲の協奏曲のうちの一曲を弾いたのが彼で、宿命のライバルとオイストラフはたぶんウクライナで再会したのだろうと思われます。(このへん年代の記録があいまいなもので…)
 つまりモスクワでの「モスクワ派」対「オデッサ派」の論議は、このころから「ポリヤーキン派」対「オイストラフ派」に様変わりしていったのかもしれません。
 コンクールの優勝後、オイストラフはモスクワでモスクワ音楽院の教授の何人かと親しくなり、その授業に出ています。つまりまるっきり師匠がスタリャルスキーひとりというわけではなく、何人かの教授に教わることもこの時期は多かったようです。
 なかでも話をコンクールということに限れば、アブラム・イリイチ・ヤンポリスキー教授は重要です。彼こそがオイストラフを世界のコンクールの舞台に引っぱりだした張本人だからです。(この本『奇跡のヴァイオリニスト・オイストラフ』の著者I・M・ヤンポリスキーのおじさんだそうです)
 ほかにツェイトリンやK・モストラスという教授の名前が見えます。特に、モストラスにこの当時のオイストラフを知る手がかりがあります。
 オイストラフは60年代半ばに、Mozartの協奏曲の楽譜を校訂・出版しています。このとき4番などのカデンツァは自作を採用していますが、1番の協奏曲にはモストラス教授のものを採用し、自らベルリン・フィルの指揮台に立っています。このときのオイストラフの楽器のピッチはA=451。もちろんBPOもこの高いピッチに引っぱられています。我が家でも試してみましたが、下手をすると弦が切れる高さです。楽器はギリギリと悲鳴をあげて締めつけられ、コマが倒れることもあります。
 オイストラフは、このときMozartにもっとも適した音律の追求をしていた、と私は考えています。そして、半音下げるぐらいなら上げてしまえ、と現代の古楽器奏者とは正反対の結論に至ったのだというのが、私の推論です。最晩年のオイストラフがコレッリの合奏協奏曲集を指揮し、そして半分しか録音できなかったのですが、このことも音律の問題への取組みと無関係とは思えないふしがあります。
 Mozartについてのとても深い理解が、1930年代のモスクワのモストラス教授に芽生えはじめていたのではないのか、オイストラフはそれを規範に自らのカデンツァ(協奏曲4番用)を書いたのではないか、そんなふうに私は考えてるんですよ。
 次にオイストラフは(たぶんモスクワのラジオ)番組でオーケストラ・バックの演奏会を定期的に放送するようになりました。(今気づいたのですが、たぶんこれがモスクワ・ラジオ放送交響楽団でしょう!)。曲目はMozart、メンデルスゾーン、チャイコフスキーの協奏曲などで、生中継(!…だと思う)でした。最初のモスクワ・デビューのような小品はもう取り上げなかったそうです。
 オイストラフの評価はこの番組で決定的となり、ソ連邦は「演奏様式の新しい特質が確立された」と自国の芸術水準を自画自賛するようになりました。これは当局のわけの分からん検閲の結果の文章かと思われましたが、もしかしたらオイストラフ自身の文章かも知れません。
 ややアカデミックな「モスクワ派」に対し、生の情感あふれる「オデッサ派」はどうにも凌いでしまったということを、もしかしたらオイストラフはポリヤーキンへの遠慮もこめて、わざわざわかりにくい言い回しをしたのかもしれないのです。
 1934年、ピアノ科のアレキサンドル・ゴリデンベイゼル(アレキサンダー・ゴールデンワイザー)教授は、25歳のオイストラフをモスクワ音楽院教授に推薦しました。オイストラフはフランス系ロシア人作曲家カトワールのソナタをゴリデンヴェイゼルと録音しました。昨年CDが出ました。(下写真。オイストラフの文字が小さくコレクターには見逃されやすいので注意)

Alexandre Goldenweiserなおゴリデンヴェイゼルの貴重なピアノ録音(アレンスキーなど)は日本でのみの発売です→DML Classic :Catalog CD information

 1935年(あるいは34年)オイストラフは、第2回「全ソ連邦演奏家コンクール」で優勝しました。オイストラフにとってコンクールはこれで2回目でしょうか? ヤンポリスキー教授は当然、考えたでしょう。「演奏様式の新しい特質」が世界に通用するものかどうか? つまり、ソ連邦では、アカデミックなモスクワ派は今や下火になったのです。小野ヨーコのおば小野アンナ先生が日本に伝えたヴァイオリンの流派は、帝政時代の古いものと看做されるように、当のモスクワではなっていたわけですね。
 数カ月後、ヤンポリスキー教授は「演奏様式の新しい特質」を引っさげて、つまりオイストラフと若干12歳のボリス・ゴリドシュテインをワルシャワのウェニヤフスキー・コンクールに参加させたわけです。
 私の考えでは、ワルシャワはまだ「モスクワ派」の状態が勝ってたのではないでしょうか? 一位、ジネット・ヌブーの演奏は、ヨーロッパのヴァイオリンの世界がそれまで延々と受け継いできたものの集大成だったように思えます。
 2位に終わったオイストラフは、9回のリサイタルを中止せざるを得なかった1928年というあの年、すでに自分の信念を確信していました。「彼はまったく幸福だった」とI・M・ヤンポリスキー(甥の方)は書いています。
 ヌブーはパリからすぐにオイストラフ宛の手紙を書きました。「あなたがどれほど見事な才能をお持ちになっていられるかということを、あらゆる人に話しています」

 どのような採点法がなされたのかわかりませんが、オイストラフはヌブーに26ポイントも差をつけられたそうです。彼は若妻タマラ宛に次のような手紙を書き送りました。
「私は2位になれたことに十分、満足している。ヌブー嬢は信じられないほどの優しさと力強さで立派に演奏した。彼女が1位にならなかったら、それは不公平というものだよ」